【創発】存在に関して真剣に哲学してみる【理論】 (494レス)
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1: 04/17(木)16:32 ID:0(1/494) AAS
存在論においてハイデガーの著作は重要である。
存在とはどこからどこまでなのかという定義。
形相理論における形相分解は可能なのかという定理。
創発や理論はどこまで可能かといったことを日記のように付けていく。
私にとって存在は考察対象であり日々の実生活を彩るものにまでなる。
常に考え続けることでトップダウン型の理論を構築していくのだ。
一日一句でもいいからこのスレッドに刻んでいくことにする。
省1
414: 09/15(月)13:47 ID:0(414/494) AAS
ナジミの塔=フロッガーベクトル
フロッガーより強い敵は現れないから安心して進めるというベクトルである
デススト2=車ベクトル
車で移動することを楽しむことが多いというベクトルである
空の軌跡=空ベクトル
主に空の背景が多いというベクトルである
これらのベクトルは最小部分属性であり必要最小限の情報シグニファイア(看板)と言える
415: 09/15(月)14:14 ID:0(415/494) AAS
メタ情報の取得
空の色=水の色=灰色
416: 09/15(月)14:30 ID:0(416/494) AAS
メタ情報の取得
ポケモン=情報生命体
体が小さくなりモンスターボールに入るのは情報生命体の証拠
ゲームは現実の一部である
ある集合と補集合の間の情報を取得することが重要である
417: 09/15(月)14:30 ID:0(417/494) AAS
ゲームと現実の間の情報をメタ情報と言える
418: 09/15(月)14:39 ID:0(418/494) AAS
安倍晋三と統一教会は
安倍晋三集合と統一教会補集合と言える
集合と補集合の間のメタ情報の取得で
ある集合が補集合を浮き彫りにすることができる
419: 09/16(火)16:04 ID:0(419/494) AAS
"being"が表しているのは、「随伴すること」であり、「比」であるが、存在者として見るなら、それは「比のひと(人/一/等/均)しさそのもの」であり、何らかの「特定のひと(人/一/等/均)しさ」といふ性質を帯びていない。
"being"は、それが存在者として「比のひと(人/一/等/均)しさそのもの」を表すことにおいて、似非数学的な喩としては、"1"に代表させることができるが、その場合でも、その"1"は、"-1/-1"といふ比を表現していると見做すことが好都合であるように思える。
420: 09/16(火)16:34 ID:0(420/494) AAS
「"α"の同一性とは、どのようなものか」といふ問ひに対して、似非数学的な喩としてもまづ、"α=α"といふ恒等式を想ひ浮かべることができ、これを「比」として考へてみるなら、"α/α=1"を導くことができるが、何か特に洞察が得られたたとは感じられない。
それでも、この場合、「比のひと(人/一/等/均)しさ」を表す"1"は、もはや、「不特定のひと(人/一/等/均)しさ」ではなく、"α/α"の「ひと(人/一/等/均)しさ」といふ「特定のひと(人/一/等/均)しさ」を表してゐるだろう。
421: 09/16(火)16:38 ID:0(421/494) AAS
ただし、この「特定のひと(人/一/等/均)しさ」が表現しているのは、既に結果として得られた「ひと(人/一/等/均)しさ」であり、そこから、"α"が「どのようであるか」についての洞察は得られない。
つまり、そこには、"α"がどのようなものとして「特定のひと(人/一/等/均)しさ」を感じさせるのかといふ「感性」/"perception"の働きが欠如しているのである。
422: 09/16(火)16:52 ID:0(422/494) AAS
私は、似非数学的な喩として「感性」/"perception"の働きを示すのに"⇒ 1"といふ表現を用ゐたが、これは、今のところ、私にはとても好都合に感じられる。
というのも、中国語において「矢」を表現する声遣ひである"(Pinyin): shǐ"は、声調は異なるものの、声(こゑ)としては、中国語で「これは〜です」を表現する「这是」(zhè shì)」の「是」と重なり、「示」および「識」も「是」と共通する声調の声遣ひに当てられているからである。
423: 09/16(火)16:58 ID:0(423/494) AAS
「"α"は、『どのようであるか』」といふ問ひが発せられたとして、その「どのようであるか」が"ζ"によって表現さるとしよう。
すると、"「α"が"α"であると感じられる」ことは、上述したとおり、"being"に"-1/-1"を対応させるとすれば、"α ⇒ ζ*(-1/-1)"と表現することができる。
424: 09/16(火)17:08 ID:0(424/494) AAS
これを、"α/ζ ⇒ 1"と書き換へるなら、これは、"α"が「どのようであるか」を近似することにより、"1=α/ζ"といふ"α"の比としての「特定のひと(人/一/等/均)しさ」を推定しようとする試みとして視ることができるだろう。
ちなみに、中国語においては、「試」も「視」も、「是」と共通する声調の声遣ひに当てられてゐる。
425: 09/16(火)17:14 ID:0(425/494) AAS
無論、ここで、"1=α/ζ"を結論として導くことができるなら、"1/ζ=1/α"であることになり、これは、「"1/α"であるとは、『どのようである』ことなのか」を推定しようとする試みとなる。
426: 09/16(火)17:31 ID:0(426/494) AAS
私には、このように「"α"は、『どのようであるか』」と問ふことにより、"α"の「特定のひと(人/一/等/均)しさ」を、「感性」/"perception"の働きから捉へようとする接近法の方が、「"α"とは、『何か』」といふ物象化を先立てる問ひの立て方よりも、はるかに生産的であると感じられる。
427: 09/16(火)19:13 ID:0(427/494) AAS
現象学における存在に対しての考察として
人間は存在していると仮定しているのみに過ぎず
存在は人間の作った方程式に過ぎないという見解があるが
428: 09/16(火)22:12 ID:0(428/494) AAS
そのような見解は、「人間」を存在者として先立てている。
429: 09/17(水)02:55 ID:0(429/494) AAS
「人間」を存在者として先立てているなら存在は人間によってもたらされる相対的なものであるのか?
430: 09/17(水)07:33 ID:0(430/494) AAS
その程度の言ひ回しでは、泥沼にはまり込むように誘ひ込むことはできないよ。
431: 09/17(水)07:42 ID:0(431/494) AAS
「存在者」、つまり、「存在するものごと」は、それが「存在感」として帯びる("to bear")性質がきは(際)だ(立)つ("to stand out")ことによってあら(顕/現)はれ、また逆に、それが「存在感」として帯びる("to bear")性質がうす(薄)れる("to thin out")ことによってき(消)えう(失)せる。
432: 09/17(水)07:54 ID:0(432/494) AAS
このような当たり前のことを明示されると、大抵の人々は、それが誰にでも分かる当たり前過ぎるほど当たり前のことであるために、かへ(却)って、そのような言明により何が云はれているのかをよく理解することができない。
そこで、それが当たり前であると認めざるを得ないにもかかわらず、やはり、存在者を先立て、その存在者を、やはり存在者である「既成の概念」により定義することにより、あた(恰)かも何か頼みになる確かなものを得たかのように思ひ込んで「大船に乗った」つもりになるのだ。
しかし、水に浮かばないもの(水に沈む性質を帯びたもの、または水に浮かぶ性質を失ったもの)は、それが大きかろうと小さかろうと「ふね(船)」ではない。
433: 09/17(水)08:11 ID:0(433/494) AAS
例えば、「存在するもの」として、植物を栽培するのに用ゐられる「肥料」について考へてみるといい。
「肥料」は、その「存在感」として、それが施される植物を「ふと(太)らせる」性質を帯びてゐるからこそ「肥料」なのであって、逆に、それが施された植物を「や(痩)せほそ(細)らせる」なら、それは「肥料」ではない。
実際、或る植物種に施せば、その植物を「ふと(太)らせる」性質を帯びた粉末であっても、別の植物種に施せば、逆に、その植物種の成長に必要な栄養分の吸収を阻害することがよくある。
したがって、その場合、その粉末は、前者の植物種に対しては「肥料」であるが、後者の植物に対しては「肥料」ではない。
434: 09/17(水)08:13 ID:0(434/494) AAS
存在者としての「いた(痛)み」は、それが「いた(痛)さ」を性質として帯びる限りにおいて「いた(痛)み」として存在する。
これも、誰にでも、あまりにも当たり前過ぎるように感じられる指摘であり、なぜわざわざそのようなことを言明するのか多くの人々は理解に苦しむだろう。
435: 09/17(水)08:20 ID:0(435/494) AAS
存在者としての「いた(痛)み」は、それが「存在感」として帯びる("to bear")性質である「いた(痛)さ」がきは(際)だ(立)つ("to stand out")ことによってあら(顕/現)はれるのであって、「いた(痛)さ」がうす(薄)れる("to thin out")なら、そのことにより次第にき(消)えう(失)せる。
これも、誰にでも分かる当たり前のことだろう。
436: 09/17(水)08:36 ID:0(436/494) AAS
「いた(痛)み」とは、「いた(痛)さ」である。
これも当たり前過ぎて、何を言ひたいのか不明だろう。
では、私が上に提示した似非数学的な喩を用ゐて考へてみよう。
>「"α"は、『どのようであるか』」といふ問ひが発せられたとして、その「どのようであるか」が"ζ"によって表現さるとしよう。
と私は、上に述べた。すると、この場合、"α"に「いた(痛)み」を、"ζ"には、「いた(痛)さ」の「いた(痛)」を代入することができる。
437: 09/17(水)08:50 ID:0(437/494) AAS
ここで、「いた(痛)さ」の「〜さ」を外して「いた(痛)」としたのは、「ことば遊び」である。
どのような「ことば遊び」かと云へば、「いた(痛)さ」は、「いた(痛)し」の「〜し」の活用形であり、別のスレで説明したとおり、この「〜し」は、中国語としては、「矢」の漢字も当てられている声(こゑ)(「使」も同様に当てられている)と共通する声遣ひの日本語としての流用であると思はれ、この場合、「〜し」は、フランス語を用ゐて記述するなら、《déclenchant 〜》に相当するので、"α ⇒ ζ(-1/-1)1"において"⇒"に対応させることが私には好都合に感じられるといふことだ(ただし、これは、場当たり的な「ことば遊び」である)。
438: 09/17(水)08:53 ID:0(438/494) AAS
"α ⇒ ζ(-1/-1)1"において ×
"α ⇒ ζ(-1/-1)"において ○
似非数学的な喩の不都合は、ことばの書き損じの場合よりも、書き損じが致命的に大きな効果を発揮してしまうことにある。
439: 09/17(水)08:59 ID:0(439/494) AAS
"α/ζ ⇒ 1"と書き換へて、"α"に「いた(痛)み」を、"ζ"には、「いた(痛)さ」の「いた(痛)」を代入すると、
"(いた(痛)み)/(いた(痛)) ⇒ 1"となり、すると、"1"は、存在する「いた(痛)み」の「いた(痛」と感じることの比としての「特定のひと(人/一/等/均)しさ」を表していることになるだろう。
440: 09/17(水)09:03 ID:0(440/494) AAS
ただし、ここで、この似非数学的な喩は、「いた(痛)み」や「いた(痛)さ」の比としての「数量化」を表現しようとしているわけではないことには、注意を促しておく必要があるだろう。
441: 09/17(水)09:17 ID:0(441/494) AAS
さて、ここで、その「特定のひと(人/一/等/均)しさ」が結果としてもたらされたものと想定すると、
"1=(いた(痛)み)/(いた(痛))"が導き出されるわけだが、ここで、"1/(いた(痛))"とは、どのようなことかを問ふこと、つまり、"1=(いた(痛)み)*(1/(いた(痛)))"について考へてみることに意味はあるだろうか。
"1/(いた(痛))"が喩として表しているのは、見てのとおり、「いた(痛」の「ひっくりかへし」である。
そして、日本語の表現として、この「いた(痛」の「ひっくりかへし」に該当するのが、「いたはり」であると私は指摘してきた。
442: 09/17(水)09:22 ID:0(442/494) AAS
言ひ換えるなら、"1/(いた(痛) ⇒ いたはり"といふ「感性」/"perception"の働きを示すのが、「いたはる」ことである。
443: 09/17(水)09:33 ID:0(443/494) AAS
"1=(いた(痛)み)*(1/(いた(痛)))"において、"1/(いた(痛)"に"いたはり"を代入して、「感性」/"perception"の働きを示すようにふたたび反転させてみよう。
すると、"(いた(痛)み)*(いたはり) ⇒ 1"となり、これは、喩としては、"いた(痛)み"に応じた"いたはり"により、その"いた(痛)み"の"いた(痛)"さがきは(際)だ(立)たなくなることを表現しているものと解釈することができるだろう。
444: 09/17(水)09:47 ID:0(444/494) AAS
この場合、"1"が表してゐる「特定のひと(人/一/等/均)しさ」は、"いたはり"に応じてうす(薄)れる"いた(痛)み"の"いた(痛)"さであると解釈することができ、""いた(痛)み"いた(痛)"さをうす(薄)れさせる「かひ(効)」があら(顕/現)はれないなら、それは、"いたはり"としてきは(際)だ(立)たない、つまり、"いたはり"として無効である。
445: 09/17(水)10:54 ID:0(445/494) AAS
それがなにについてであれ、「定義」は、ことばの表現に依拠する。
ところが、「ことばの表現」は、それが事実と合致することが確かめられることにより「まこと(真)」となるわけではない。
そのこころ(意/心)が「かよ(通)ふ」/"to be commutative"/»verkehrt werden«ようにつた(伝)はることにより初めて、「まこと(真)」となるのだ。
446: 09/17(水)11:09 ID:0(446/494) AAS
簡単な具体例から考へてみよう。
自宅では、これまでしばらく植物を何も栽培していなかったが、新たに或る1種類の植物の栽培を始めたとしよう。
家にある庭いじりの道具と一緒にそこに古い「肥料」らしき粉末の残りが袋に入っているのを見つける。
そこで以前、植物を栽培していた家人に「これは何?」と尋ねてみる。すると、「植物栽培のための『肥料』だよ」といふ応へが返ってくる。
そこでさらに、「これ使ってもいい?」と尋ねると、「どうぞご自由に。」といふ返事が返ってきたとしよう。
そこで、その「肥料」を現在、栽培中で成長をつづけている植物に施したところ、成長の勢ひがよくなるどころか、逆に痩せ細って枯れ始める。
不審におもって、肥料の入っていた袋に細かい文字で記載された用法の説明を読むと、現在、栽培している植物種である○○には、肥料として適さないことが明記されていることに気づく。
省1
447: 09/17(水)11:17 ID:0(447/494) AAS
それが「何か?」と問はれて、「植物栽培のための『肥料』」であると応じた家人は、事実をそのまま述べているし、「どうぞご自由に」といふのも、それを使ふことを自分は妨げる意図がないことを伝へるものなのだから、それを施す行為を実際に許している以上、それも事実である。
しかし、その家人が、尋ねた相手が現在、栽培しているのが○○といふ植物種だけであり、それにその粉末を肥料として施そうとしていることが明白であり、なほかつ、その「肥料」が、「○○に使ふのに適さない」ことをあらかじめ知っていたとしたらどうだろうか。その家人のことばは、問はれたことに対する応へとして、事実と完全に合致しているものの、そのことばは、「まこと(真)」を伝へようとしているとは言えないだろう。
448: 09/17(水)11:29 ID:0(448/494) AAS
AIが問ひに対して返してくる「回答」には、それが「まこと(真)」を欠いていると思はれることがないよう、さまざまにそれを「無難」にするための制限や条件付けが伴っており、基本的には、一般に受け入れられるものとして既に流通している見解を検索して拾ってきて、つなぎ合はせているだけである。
しかし、その場合にも、その「一般に受け入れられるものとして既に流通している見解」が「まこと(真)」を伝へようとすることばから成ると信じるべき理由はない。
なぜなら、世の中は、虚々実々で動いており、人々を都合よく誘導しようとして、事実と確認され得ることだけを述べながらも、「まこと(真)」を欠いたことばが、いくらでも大量に流通しているからである。
449: 09/17(水)11:36 ID:0(449/494) AAS
ところで、事実と確認され得ることだけを述べながらも、「まこと(真)」を欠いたことばばかりをつか(使/仕/遣)ふ者を「ひと(人)」としてまともに相手にしようとしつづけていると、こころ(意/心)をや(病)む。
450(1): 09/17(水)12:34 ID:0(450/494) AAS
空の色は水たまりの色と同じであるという不思議な現象がある
水たまりは空の色を写すことがある
それは水たまりが空を浮き彫りにしているのだ
水たまり一つの集合とみなしその補集合に空がある
その共通部分に水たまりに写る空の色があるのだ
空の色は水たまりにとってメタな情報でありこれをメタ情報の取得という
安倍晋三が統一教会というメタ情報を浮き彫りにしたように
省1
451: 09/17(水)12:34 ID:0(451/494) AAS
命題 仮想現実は存在するか
ゲーム(仮想現実)と現実はメタな関係
ゲームという集合は現実という補集合があり
ゲームのメタ情報は現実なので
ゲームは現実の一部ということになる
現実のメタ情報をゲームだとするとさらに上界には第二の現実があるということになる
ゲームのメタは現実で現実のメタはゲームなので無限に現実が存在しないことの証明は不可能である
省1
452: 09/17(水)12:40 ID:0(452/494) AAS
ヒトには翼がないのだから、鳥に空の飛び方を習っても無駄である
453: 09/17(水)12:58 ID:0(453/494) AAS
>>450
それについては、日本語のことばの声遣ひとして興味深い対応関係を指摘することができる。
みづ(水)の「み」のこゑ(声)を表記するのに万葉仮名として当てられ得る漢字に「瀰」がある。
>瀰
漢字ペディア
意味. ?みちる。水が満ちあふれるさま。
454: 09/17(水)13:08 ID:0(454/494) AAS
では、「みづ」の「み(瀰)」のこゑ(声)によりつた(伝)はる様態を「ひっくりかへす」とどうなるだろうか。
「み(瀰)」のこゑ(声)が、「感性」/"perception"の働きとして、
(み(瀰))*x ⇒ 1のごと()如くつた(伝)はるとすると、1=(み(瀰))*(1/み(瀰))が導き出されるが、"1/み(瀰)"によりつた(伝)はる様態は、どのようなものだろうか。
それは、1/み(瀰)=から(空)である。
つまり、み(瀰))*(から(空)) ⇒ 1が、「みづ」の「み(瀰)」により伝はることになる「こころ(意/心)」であり、
日本語においては、1=(1/から(空))*(1/み(瀰))、み(瀰)=1/から(空)、かつから(空)=1/み(瀰)なのである。
455: 09/17(水)13:11 ID:0(455/494) AAS
みづほのくに
456: 09/17(水)15:08 ID:0(456/494) AAS
水たまりは仮想空間である
空の色をxとして水たまりの色f(x)を空の色から写像することができる
f:x→axとすると水たまりの色axから空の色f(ax)=xを計算することができる
写像はどこにでもある例えばブラックホールを覗き込む魔法の鏡があれば
ブラックホールのことを写像で知ることができる
水たまりのような写像でできた仮想空間があれば覗き込むべきだろう
量子の世界も人間をメタ情報にしているため仮想空間の人間関数を参照すれば量子の真実を知ることができる
457: 09/17(水)20:43 ID:0(457/494) AAS
「そら(空)」は、「そら(逸)し」を生じるから「そら(空)」である。
書物に書かれている文字から目を「そら(逸)し」ながら、書かれている内容を読み上げると、「そら(空)で読む」ことになる。
458: 09/17(水)20:48 ID:0(458/494) AAS
「そ(逸)ら・す」働きをひっくり返すと、「そろ(揃)・へ・る」働きとなる。
「そら(空)」は、「そろ(揃)・へ・る」働きをしない。だから、「そら(空)」に何かが「そろ(揃)・ふ」ようにあら(顕/現)はれるなら、その「そろ(揃)・ふ」働きには、何らかのうら(裏)が隠されてゐるはずだ。
459: 09/18(木)06:48 ID:0(459/494) AAS
何か別のことに気を「そ(逸)ら」されて、「いま、ここ」で注意を要求されることに「こころ(意/心)」が向き合ってゐない様子を「うは(上)の『そら』」と云ふ。
460: 09/18(木)06:48 ID:0(460/494) AAS
何か別のことに気を「そ(逸)ら」されて、「いま、ここ」で注意を要求されることに「こころ(意/心)」が向き合ってゐない様子を「うは(上)の『そら』」と云ふ。
461: 09/18(木)06:56 ID:0(461/494) AAS
「「うは(上)の『そら』」」により生じる「空虚」をひっくり返すと「そら(虚)み(見)つ(津)」になり、ありとあらゆる「いま、ここ」に「こころ(意/心)」が向き合ひ、「こころ(意/心)満たされる」。
462: 09/18(木)06:58 ID:0(462/494) AAS
みづほのくに
463: 09/18(木)07:09 ID:0(463/494) AAS
万葉集 第2巻 167番(万葉集ナビ)
天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行
天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす
464: 09/18(木)07:19 ID:0(464/494) AAS
「ことば遊び」の「曲芸」として詠まれている歌が伝へようとする「こころ(意/心)」を、そこにつか(使/仕/遣)はれる「ことば」の「定義」を極めることによってうま(し)く理解することができるのか。
465(1): 09/18(木)08:50 ID:0(465/494) AAS
「うま・さ」を感じさせるものが「食べ物」であり、「まづ・さ」を感じさせるものは「食べ物」ではない。
こう明言すると、一方では、多くの人は、「そんなことは、わざわざことばにするまでもなく、当たり前ではないか。」と思ひ、他方では、自分は「食べ物」についてもっとよく知っているので、「そんなに単純ではない」と反発する。
さらに、自分は、現代の思想の流行について多少なりとも知識があると自負している人々は、「うま・さ」と「まづ・さ」の対比でものごとを考へようとする二項対立的な考へようとするのは、「構造主義」として批判されて今では乗り越えられてをり、現実の複雑さに配慮して、ものごとは、もっと数多くの項目に関して検討して、多面的に捉へなければならないと批判するだろう。
466: 09/18(木)08:59 ID:0(466/494) AAS
私には、現代思想として流行した、いはゆる「構造主義」を弁護しようといふ気はないが、
「構造主義」に向けられるのが、「構造主義は、二項対立的な考へ方に基づいた単純化だからよくない。
現実のものごとはもっと複雑なのだから、二項ではなく、もっとより多くの項目について検討しなければならない」といった類の批判である場合、その批判は、完全に「的を外して」ゐる。
さらに言へば、それで「構造主義」を批判したつもりになっている人々は、現代思想としての「構造主義」が抱えてゐる根本的な問題を、むしろ大切に温存しようとする結果となっている。
それは、対比よりも、存在者として「項」を先立てる錯誤である。
467: 09/18(木)09:50 ID:0(467/494) AAS
例えば、「うま・し」と「まづ・し」は、かた(片)み(身)に「対比」としてきは(際)だ(立)つのであって、「二項対立」("a binary opposition")の「対立する2つの項」として存在するわけではない。
468: 09/18(木)09:53 ID:0(468/494) AAS
「うま・し」の『うま・さ』を感じさせる性質がそこ(損)なはれることが、すなはち、"1/(うま)=まづ・し"である。
469: 09/18(木)09:55 ID:0(469/494) AAS
「うま・し」の『うま・さ』を感じさせる ×
「うま・し」の「『うま』さ」を感じさせる ○
470: 09/18(木)10:00 ID:0(470/494) AAS
逆に、「まづ・し」の「『まづ』さ」を感じさせる性質がうし(失)なはれることが、すなはち、"1/(まづ) ⇒ うま・し"である。
注: "="で示すより"⇒"で示す方が妥当なので訂正する。
471: 09/18(木)10:04 ID:0(471/494) AAS
それを口に入れることが、むしろ、みづからがより「まづ・し」くなる感覚をもたらすなら、そのようなものには、それを「食べ物」としてきは(際)だ(立)たせる性質は、認められず、したがって、それは、「食べ物」ではない。
472: 09/18(木)10:08 ID:0(472/494) AAS
逆に、それを口に入れることが、みづからがより「うま・し」くなる感覚をもたらすなら、それを他の生き物が決して食べることをしない、食べることを忌避するとしても、それを「食べ物」としてきは(際)だ(立)たせる性質が認めら、したがって、それは、みづからにとって「食べ物」である。
これは、栽培植物にとっての「肥料」について述べたのと同様のことであることに気づくだろう。それを施す植物種に関係なく、「肥料」は、「肥料」としてあらかじめ存在するわけではない。
473: 09/18(木)10:13 ID:0(473/494) AAS
「ものごとは、そんなに単純ではない」、「現実は、もっと複雑だ」と主張するのなら、配慮すべきは、「うま・し」と「まづ・し」を対比として捉へるのを「二項対立」と誤認して批判することではなく、なにがどのように「うま・し」くなり、なにがどのように「まづ・し」くなるのかに具体的に考へをめぐらせることである。
474: 09/18(木)10:18 ID:0(474/494) AAS
病人が健康な人と同じものを口に入れても、それが同じ「食べ物」としての「かひ(効)」をあら(顕/現)はさないことがよくある。
なぜだろうか。それは、そもそ「同じ『食べ物』」があらかじめ「存在する」わけではないからだ。
消化器官に取り込まれたものから身体の栄養となる成分を消化吸収するのを助ける役割をする腸内細菌が、みづからの身体にとって不調となっている人にとって、そうでない人と「同じ『食べ物』」を分け合って食べても、身体にとりこまれたものは、「同じ『食べ物』」としての「かひ(効)」をあら(顕/現)はさない。
475: 09/18(木)10:23 ID:0(475/494) AAS
さらに一般的には、それぞれの生き物の個体にとって、口に入れて消化器官に取り込まれたものが「食べ物」となるかどうか、「食べ物」となったとして、それがどのような「かひ(効)」をあら(顕/現)はすかは、生物種ごとに「千差万別」であるにとどまらず、同一の生物種でも個体の成長度によっても、個体ごとの違ひによっても、同じ個体の場合でも体調により異なることは、常識だろう。
476: 09/18(木)10:26 ID:0(476/494) AAS
ところが、人々は、ものごとについて既成の「ことば」を頼みに考へる場合、あたか(恰)も「食べ物」が「食べ物」としてあらかじめ存在するかの如くに想ひ成す。
477: 09/18(木)10:30 ID:0(477/494) AAS
このようなことを逐一指摘したところで、「そんなことは当たり前だろう」と反応しながら、ほとんどの人々は、そのまますぐに物象化を先立てて優先するものごとの考へ方に復帰するのである。
478: 09/18(木)13:22 ID:0(478/494) AAS
日本語において「形容詞」とされることばは、一般に「〜し」といふ形態をとるが、この「〜し」は、
既に指摘したとおり、中国語において「使役」の関係を表現するとされる「使」にそのまま対応し、
フランス語をメタ言語として用ゐて記述するなら、《déclenchant 〜》に相当する。
このことは、分かりやすい具体例を参照することにより容易に示すことができる。
479: 09/18(木)13:30 ID:0(479/494) AAS
「を(惜)し」といふことばについて考へてみるといい。
「を(惜)し」の「を」が、「〜を!」として用ゐられる感嘆のこゑ(声)を表現してゐることには疑ひの余地がないだろう。
ここで、「〜し」がフランス語の《déclenchant 〜》に相当するとした記述において、"〜"に"〜を!"をただそのまま代入して、《déclenchant "〜を!"》とするだけで、これが日本語の「を(惜)し」に対応することになることに気づくはずである。
480: 09/18(木)13:35 ID:0(480/494) AAS
日本語において「形容詞」とされる「〜し」といふ表現がもたらすのは、「感性」/"perception"がどのように働くのかをつた(伝)へることである。
これも、わざわざ指摘しても「当たり前のことではないか」と思はれるだけだろうが、これをはっきりと意識することは、哲学的にものごとを考へるためには、とても大切だ。
481: 09/18(木)13:46 ID:0(481/494) AAS
中国語において「使役」の関係を表現するとされる「使」に対応し、フランス語をメタ言語として用ゐて記述するなら、《déclenchant 〜》に相当するとした
日本語の「〜し」は、フランス語の《déclencher》について考へてみればすぐに分かるとおり、もたらされた事態の不可逆性をつた(伝)へる。
そのことは、《déclencher une avalanche》(雪崩を引き起こす)といふフランス語の表現を想起してみれば、簡単にイメージすることができるだろう。
482: 09/18(木)13:52 ID:0(482/494) AAS
>「〜し」といふ表現がもたらすのは、「感性」/"perception"がどのように働くのかをつた(伝)へることである
それがどのようにであれ働いてしまった「感性」/"perception"(中国語の「覺得」といふ表現を想起してみるといい)は、「引き起こされた雪崩」を元に戻すことができないのと同様に、それが生じなかったことにすることはできない(それが錯覚に過ぎなかったと気づいた場合にさえ)。
483: 09/18(木)13:57 ID:0(483/494) AAS
そして、実のところ、この不可逆性をつた(伝)へるのが"per・ception"の"per-"であり、日本語の声遣ひとしては、この"per-"は、「八」の文字の表象に関連付けられた「ぱっ」や「や」に対応する。
そして、中国語において、フランス語の《déclenchant 〜》に相当するとした「使」の声遣ひが「矢」と共通であることも、この「不可逆性」の感覚によるのだろうと私は思ふ。
484: 09/18(木)14:06 ID:0(484/494) AAS
ところで、「うま・し」が《déclenchant "うま"》に相当するとすると、この「うま」は、どのような感じを伝へようとしていだろうか。
誰でもすぐに気づくとおり、この「うま」が伝へようとしてゐる感じとは、英語で説明するなら、"fulfilling"(「満ち足り」)である。
日本語の「う・ま」は、「う(埋)ま・る」といふ表現を考へてみれば分かるとおり、"fulfilling"(「満ち足り」)を、「『う(表面)』が上昇することの『ま累加』」として捉へている。
したがって、「うま・し」の「うま」は、「みづ(水)うみ(≒"water-filling")」の「うみ」、つまり、「海(うみ)」の「うみ」とも声遣ひとして共通している。
485: 09/18(木)16:40 ID:0(485/494) AAS
「〜『す・る』こと」は、「〜の遂行」であり、「〜す・る」は、英語の"to per・form 〜"に対応してゐる。
486: 09/18(木)16:46 ID:0(486/494) AAS
私が、日本語についてここで検討してゐることは、日本語で哲学しようとするなら探究されることになるはずの基本的な取組みだが、
これまで日本で「哲学を専門としてきた人々」は、このような基本的な作業にどれだけまともに取り組んできただろうか。
そのような取組みを軽視または無視し、あるひはむしろ積極的に蔑ろにしてきたのではないか。
487(1): ゆふ(夕)やみ(闇) 09/19(金)07:28 ID:0(487/494) AAS
「ゆ」(例えば、「ゆ(弓)」)により生じる「はな(放)ち」が「や」(例えば、「や(矢)」)である。
488: 09/19(金)07:33 ID:0(488/494) AAS
>>465
「まづ・さ」の対比でものごとを考へようとする二項対立的な考へようと ×
「まづ・さ」の対比でものごとを二項対立的に考へようと ○
489: 09/19(金)07:51 ID:0(489/494) AAS
>>487
「そんなどうでもいいことば遊びにばかりに耽っていることが哲学してゐることになるのか」、そう思ふ人も多いだろう。
しかし、『万葉集』に残された歌は、「ことば遊び」の「曲芸」として詠まれてをり、そのような歌詠みの実践に通じる「曲芸」としてのことば遣ひこそが、「日本語」を「日本語」として成立させたといっても過言ではない。
それだけではない。「日本語」に限らず、世界で話されるいづれの所与の特定の言語も、「ことば遊び」の「曲芸」として成立してをり、さもなければ、「こころ(意/心)」をかよ(通)はせるためのことば遣ひとして用を成さなくなり、死語となるだろう。
490: In broad daylight 09/19(金)09:07 ID:0(490/494) AAS
>一寸先は「や・み(闇)」のよ(世/夜)
「ゆ」により生じる「はな(放)ち」である「や」のひろ(広)がりが「よ」(例えば、「よ(世/夜)」)である。したがって、「ひる(昼)」ひなか(日中)にも「や・み(闇)」は「ひろ(広)」がってゐる。
491: 09/25(木)14:54 ID:0(491/494) AAS
この世界にはルート権限はない
皆限られた手段から断片知を得ようとするのだ
例えば@mathroom314というXの情報を取得するためにリンクをコピーすれば
アドレスに付随しているのは初めて知った
492: 09/28(日)12:33 ID:0(492/494) AAS
純粋な概念と混合概念がある
量子哲学は純粋な概念ばかりを扱うが
いずれ混合概念まみれにして解を探り出したい
493: 09/30(火)08:49 ID:0(493/494) AAS
「際立つ」ことが、「存在するもの」が「存在する」ことに先立つ。
「ひび」の入ったコップが置いてあるとしよう。
確かに、コップに「ひび」は、「存在するもの」として「存在する」。
では、まづ「ひび」が存在して、それが「存在するもの」としてコップに「はい(入)った」のか。
そうではないく、コップに断裂が「際立つ」ことにより、「ひび」は、存在することになったのだろう。
どのようにも際立つことのない断裂は、「ひび」としては存在しない。
観察するスケールを変えれば、コップを形成する材料には、最初からつねに数え切れないほどの小さな穴や断裂があったとしてもである。
494: 09/30(火)09:45 ID:0(494/494) AAS
そうではないく ×
そうではなく 〇
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