【ぼざろSS】あなたの温度 (26レス)
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1: [sage saga] 2023/01/07(土)13:48 ID:FRtckmfc0(1/20) AAS
[人間 凍死する温度]

(……なんで、こんなの検索してるんだろ)

 霧のように細かな冷雨が髪を濡らす、冬の夜の下北沢。
 その街中を、ギターを背負って傘もささずにあてもなくさまよう後藤ひとりは、肩をすくめてマフラーの中に顔を隠しながら、震える手で絶望的なワードをスマホに打ち込んでいた。
 ずらずらと出てくる検索候補を死んだ魚のような目で流し見する。よくわからないが、とにかく人間は寒いところに居続けると死んでしまうらしい。あまりにも過酷な現在の気候と気温は、行き場を失った女子高生一人をあの世に連れていくことくらい造作もないだろう。
 ミストの粒に光を反射させる液晶画面を服でぬぐってポケットにしまい、貴重な体温が少しでも奪われないように身を縮めて、ひとりはまたとぼとぼ歩き出した。

 どうしてこんなことになってしまったのか。
 大事な本番を間近に控える中、スタジオ練習を終えた結束バンドの面々は、いつもどおりそれぞれの帰途についた。
 本日の合わせは練習は、はっきり言って満足のいく結果ではなかった。本番に向けて四人はモチベーションを高めていたが、弱みを克服しようと焦ってはりきった結果、今までできていた部分までもがぎこちなくなり、全体としての質が落ちてしまった。
「みんなここ最近の疲れが出てきちゃったのかもしれないから、今日はこのあたりで解散しよ? 次は絶対大丈夫だって!」……そう鼓舞する虹夏の声が少し不安気だったのを、リョウも郁代もひとりも肌で感じていた。
省2
2: [sage saga] 2023/01/07(土)13:51 ID:FRtckmfc0(2/20) AAS
 駅までもう少しというところで、ポケットのスマホが震えた。メッセージではなく着信だった。慌てて手に取ると、そこには父親からの着信であることを示す画面が。なるべく人の少ない静かな路地に小走りで逃げ込み、ひとりは電話に応じた。
「おっ、出た出た。もしもし、ひとり?」
「え……お父さん、どしたの」
「今どこだ?まだ電車乗ってないか?」
「うん……もう乗るとこだけど」
「ああ待って、まだ乗らない方がいいかもしれない。実はな……」
 ポケットの振動がメッセージではなく着信だとわかったときからなんとなく嫌な予感はしていたが、案の定だった。
 父親の話によると、妹のふたりが熱を出したらしい。

「朝はまだ元気だったんだけど、昼過ぎくらいに先生から電話があってな。明らかに熱っぽいってんで、今日は早引けしたんだ」
「そうなんだ……」
省10
3: [sage saga] 2023/01/07(土)13:52 ID:FRtckmfc0(3/20) AAS
「この前遊びに来てくれた子たちを見て思ったんだ。あの子たちとは、きっとそれくらい仲よくなれたんだろうなって。まだ練習終わったばかりなら、話もしやすいだろ?」
(無理無理無理……)
 ひとりの脳内に負のビジョンが思い浮かぶ。
「えっ、そんな急に言われても……」と戸惑う虹夏。「私、人を泊めたりするの無理なんで」ときっぱり断るリョウ。「うちもちょっと……ごめんなさいっ」と愛想笑いを浮かべる郁代。みんなから断られ、絶望に打ちひしがれるひとり。みんなと呼吸のあった演奏もできなくなり、本番は大失敗……結束バンドはこの不和をきっかけに解散……
「ひぃぃぃああぁぁぁぁ!!!」
「ひとり!? 大丈夫か!?」
「あっ、あぁえっと……なんだっけ……」
「だから、今日は誰かお友達のおうちに泊めてもらった方がいいんじゃないかって。今最優先なのは、結束バンドのみんなが本番を無事に迎えることだと思うからさ」
「うん……」
「大丈夫そうか? まあ難しいようなら、こっちに戻ってきてもいいけど……」
省10
4: [sage saga] 2023/01/07(土)13:55 ID:FRtckmfc0(4/20) AAS
(いや、待てよ……?)
 誰かに泊めてもらわなくても、要は一晩明かせればいいのだ。どうにかして明日の朝を迎えられれば、とりあえず学校が始まっていつもどおりの平日になる。これから約12時間、なんとかして時間がつぶせればいい。眠れなくても、一晩くらいなら徹夜したって平気だろう。無理に結束バンドの誰かにお願いして関係が険悪になるくらいなら、そっちの方が何倍もいい……後藤ひとりの思考回路は、そんな答えに辿り着いてしまった。
 だが問題はこの寒さだ。今日は今シーズン一番といってもいいほどに冷え込んでいる。しかも気づけばうっすらと霧雨まで降り出した。都内で雪が降るのは珍しいが、今夜の寒さは本当に雨が夜更け過ぎに雪へと変わりかねない。しかし、それなりに気合をいれなければコンビニすら入ることができないひとりにとって、どこかの店に避難するというのも敷居が高い。24時間営業の店はあるだろうが、そんなところに一人で入って知らない人に絡まれた日にはこの世の終わりだ。そもそも女子高生が深夜まで店にいたら、客だけでなく店員も気にするだろう。

 人がまったくいなくて、誰にも見られなくて、女子高生がいても違和感のない、雨風がしのげる暖かいところ。そんな実在しないユートピアを求めてあてもなく下北沢をさまようひとり。まず目に入ったのは小さな公園だった。とりあえず立っているだけで疲れてきたので、ベンチにそっと腰掛けてみる。
「ひっ!?」
 もっと状態をよく見てから座ればよかった。霧雨の粒をたっぷりまとったベンチに座った瞬間、ひとりの体温はその無機質な素材に一気に奪われ、思わず鳥肌がたった。こんなところに座るくらいなら立ち続けた方がまだマシだ。
 小走りで公園をあとにし、スカートの濡れた部分が肌に当たらないように気を付けながら、とぼとぼとあてもなく歩く。このままどこにも行くことができなければ、本当に朝になるまでに凍死するだろう。気づけばひとりはスマホで人間が凍死する条件を調べてしまっていた。低体温症どころじゃない、きっと翌朝には氷漬けになっているに違いない。
 そんなスマホのバッテリーも残り数十パーセントしかないことに気付き、慌てて画面をロックしてポケットにしまう。
 こんな調子でこまめに見ていてはすぐに電池切れになりかねない。さすがにこのスマホすら使えなくなってしまうと、いよいよもって「死」が見えてくる。誰かにメッセージを送るにしても、事前に誰に送るかを決めてからだ。
5: [sage saga] 2023/01/07(土)13:56 ID:FRtckmfc0(5/20) AAS
 「……」
 まったく知らない店や民家の横をゆっくりと通り過ぎながら、帰る家があるというのは本当にありがたいことなのだなあとひとりは痛感していた。今までは家にこもりっきりになる負のビジョンを妄想することが多々あったが、引きこもれる家があるだけマシなのだということに、ここに来て気づかされた。
 どうして親を相手に強がってしまったのだろう。どうして今日は傘をもってこなかったのだろう。様々な後悔が濁流のように押し寄せる。
 凍死なんてしたら流行り病にかかるよりよほど悲惨なことになるし、せいいっぱい勇気を出して、本当に誰かに泊めてもらえないか頼んでみようか。頼むとしたら誰がいいだろう。
(虹夏ちゃん……リョウさん……喜多ちゃん……)
 目蓋に浮かぶ「断られるビジョン」を、頭を振って一生懸命跳ねのけながら必死に考える。
 一番大丈夫そうな人は誰か。一番私を受け入れてくれそうな人は誰か。
(そんな人……いるわけないかもしれない……けど……)
 そろそろとスマホを取り出し、震える手で液晶画面をタップする。
(私を……助けてくれる人……っ)
省6
6: [sage saga] 2023/01/07(土)13:59 ID:FRtckmfc0(6/20) AAS
「どうしたの? 早く帰らないと電車なくなっちゃうんじゃ……」
「あっ、あぅぁぅ……」
「きゃっ、ひとりちゃん!?」
 突然目の前に現れた郁代のもとへ、ゾンビのようにふらふらと近づくひとり。リアルに凍死する未来が頭に浮かぶほど精神的にも肉体的にも追い詰められていたせいか、今のひとりにとっては救いの女神以外の何者でもなかった。
「ちょっと、すごい濡れちゃってる! ギターもあるんだから傘くらい差さないと!」
「わ、忘れちゃって……」
 刻一刻と濃さを増していた霧雨のおかげで、額に髪が張りつくほど身体中しとしとになっていたひとりを見かねて、郁代は急いでハンカチを取り出し、ぽんぽんと顔を優しく叩いた。
 ひとりはゾンビの体勢のまま、柔らかい布で顔を撫でられる。

「駅に行かなかったの? こっちでまだ用事でもあった?」
「いやっ、えっと……」
省12
7: [sage saga] 2023/01/07(土)14:00 ID:FRtckmfc0(7/20) AAS
「お父さんは、今夜はどうしなさいって?」
「……だ、誰かの家に……泊めてもらえばって……」
 とても申し訳なさそうに、目を伏せ気味にぽつぽつと話すひとり。頼るあてを見つけられず、こんな極寒の中で夜を明かせる場はないかとさまよっていたのだろうか。事実だとしてもそんな可能性は考えたくもないが、それより何より、こんなときでさえ頼ってもらうことができない自分に、郁代は歯噛みした。
「どうして頼ってくれないの?」「言ってよ、そんなことくらい!」……思わず口をついて出そうになる言葉は、どれもひとりの心を傷つけてしまいそうだ。
 今のひとりに、必要な言葉。

「……じゃあ、私の家に来て?」
「!」

「急に友達が泊まるくらい、うちは全然大丈夫だから。今夜は私の家に泊まって、明日は一緒に学校いきましょ?」
「い、いいんですかぁ……!」
 いいに決まってるじゃない、という言葉を飲み込み、郁代は寒さで赤くなっているひとりの頬をもう一度ハンカチでぽんと撫でた。
省12
8: [sage saga] 2023/01/07(土)14:01 ID:FRtckmfc0(8/20) AAS


 はじめて来る、郁代の家。
 そんな感慨に浸る間もなく家に引っ張り込まれたひとりは、玄関で荷物を全部下ろすよう言われ、部屋に案内されるよりも先に脱衣所に放り込まれた。
「とにかくまずは身体を温めないと! お風呂も沸かしてあるし、シャンプーも好きに使っていいから。ゆっくり浸かってね♪」
「わ、わかりました……」
 知らない家の、知らない浴室。追いつかない思考はそのままにそろそろと服を脱ぎ、ひとりはシャワーのバルブをひねった。
 ほどなくして熱いお湯が出てくる。指先で温度を確かめながら、足元から徐々に身体を温めていく。寒さでツンとしていた四肢の先端が、徐々に感覚を取り戻していく。

「……ぅぅ……」
 シャワーを頭に打ちつけながら、ひとりはまた泣きそうになっていた。ついさっきまで、本当に凍える夜を過ごすことになると恐れ慄いていた自分が、今はこうして温かいお湯に包まれている。
 両手で器を作って湯をため、たまった涙ごと顔を洗う。郁代の存在が、本当に、心からありがたかった。
省12
9: [sage saga] 2023/01/07(土)14:02 ID:FRtckmfc0(9/20) AAS
(もしかして陽キャの人ってこういうことするのが普通なの……!?)
「あっこのシャンプー! もう使った?」
「あっいえまだです」
「最近友達にすすめられて買ってみたんだけど結構いいのよ! イソスタでいつも見てるモデルさんとかもおすすめしててね〜。あっそうだ、よかったら今日は背中流してあげるわね♪」
(ひぇぇぇ……)
 桃色の髪を優しく手に取り、シャワーを当てていく郁代。ひとりは前傾姿勢で動けなくなってしまっており、浴槽に逃げることもできなかった。
「うわっ、ひとりちゃんってやっぱり大きいのね……!」
「あっ、あんまり見ないで……」
「きゃーっ、そうやってかがむともっと大きく見える!」
(身を縮めることすら許されない世界!?)
省26
10: [sage saga] 2023/01/07(土)14:04 ID:FRtckmfc0(10/20) AAS
 「明日の朝までには乾くようにしておくから」と、着てきた服をいつのまにかすべて洗濯されていたひとりは、郁代の私服を貸してもらうことになり、着せ替え人形としてさんざん弄ばれた。
 パシャパシャと写真を撮られながら、今日という日の感謝に比べればこれくらい耐えてしかるべきと何とかふんばっていたひとりだが、その後に開かれた夕餉の席では喜多家の全力のおもてなしを受け、「郁代がいつも話していたひとりちゃん」に興味津々なご家族による質問攻めに合い、最終的には喜多家の面々によるリクエストを受けて「もうどうにでもなれ」とヤケになりながらギター演奏まで披露してしまい、アットホームな拍手喝采を浴びた。
 上手く演奏できたかどうかもまったく記憶にないまま、この家で唯一の避難場所である郁代の部屋に逃げ込み、その隅にへたりこむ。凍死よりはマシ、凍死よりはマシと自分に言い聞かせ、深呼吸しながら緊張で縮み上がっていた心を少しずつ落ち着かせる。

 郁代に借りた充電器に繋いでおいた自分のスマートフォンを手に取る。いつの間にかすっかりフル充電されており、親からのメッセージも入っていた。
 ふたりの熱が一旦落ち着いて今は眠っていること、そして自分がちゃんと宿泊先にありつけたかを心配する文面を、ゆっくりとスクロールする。様々なイベントが短時間で一気に押し寄せ、ここ最近でもっとも目まぐるしく一日が過ぎていった気がするが、振り返ってみればある意味一番理想的な展開だったとも言える。少なくとも、親に対していい報告ができるのは確かだ。
 単純に、自分がこういったもてなしに慣れていないだけ、喜多家の圧倒的な「陽」のオーラに慣れていないだけであり、郁代の家族は本当に良い人たちだった。

 親に送るメッセージを打っていると部屋のドアが開き、両手に敷布団を抱えた郁代がのそのそと入ってきた。ひとりは慌てて立ち上がり、郁代のベッドのすぐ隣に敷くのを手伝う。
「ごめんなさいね、ひとりちゃん」
「へっ……? なにがですか」
「ひとりちゃんがああいうことに慣れてないの、わかってたんだけど……ちょっと私でもびっくりするくらい今日は盛り上がっちゃってたというか、勢いを止められなくて」
省12
11: [sage saga] 2023/01/07(土)14:06 ID:FRtckmfc0(11/20) AAS
 少しひんやりとする布団に身体をすべりこませ、頭まで毛布を持ち上げる。柔らかくて軽くて、どこか落ち着く匂いがする。すっと目を閉じると、ようやく張りつめていた身体が少しずつほぐれていく気がした。
「電気もう消す?」
「あっ、はい」
 ぱちりと明かりが落とされ、その暗さに安心感をおぼえる。ひとりを踏まないように気を付けながら、郁代はそろそろと自分のベッドに辿り着く。もそもそと布団の上を歩く音、ぱふっとベッドに倒れる音。ひとりは毛布から少しだけ顔を出して、郁代の方をちらっと見てから、また顔を覆った。まだ闇に慣れていない目は表情までとらえることはできないが、そのシルエットを見るだけでも、なんだかほほえましい気持ちになった。
(友達のおうちに、お泊まり……)
 心の中でずっと憧れていたイベントのひとつが叶ったことを、今更ながらに実感する。
 このまま眠って、朝になったら、郁代と一緒に登校できる。自分の家から遠く離れた高校を選んだひとりは、こんな出来事を迎えられる日が来るとは微塵も思っていなかった。
 だんだんと布団に自分の体温がこもりはじめ、温かくなっていく。縮こまっていた身体が、徐々に徐々に伸びていく。緊張で眠れるか心配だったが、想像以上に早くリラックスできていた。このぶんなら寝不足になることもないだろう。

「……」
 目を閉じながら耳を澄まし、郁代の気配を探る。まだ眠りに落ちてはいないだろうが、衣擦れの音がもぞりとも聞こえてこないのが少し不思議だった。ベッドに倒れこんだ体勢のまま完全に寝落ちしてしまったのだろうか。
12: [sage saga] 2023/01/07(土)14:07 ID:FRtckmfc0(12/20) AAS
 郁代がどんな寝顔をするのか、少しだけ見てみたい。ひとりは顔まで覆った毛布に手をかけ、少しだけまくって郁代の方を見てみた。
「……えっ」

「あ、ごめんなさい」
「なっ、ななななんでこっち見てるんですか……」
「いや……ひとりちゃんが、私の部屋にいるんだなーと思って」
「えぇぇ……?」
 ひとりが目を開けると、郁代はベッドの上にちんまりと座っていて、大きな目がベッドの上からじっとこちらを見下ろしていた。
 どうやら物音ひとつ立てずにずっとこちらを眺めていたらしい。恥ずかしくなって慌てて毛布の中に隠れると、「それじゃ寝づらくない?」と毛布をめくられてしまった。
 いたずらっぽく笑った郁代は大きな伸びをして寝転がり、ひとりと目が合うよう、ベッドのへりの部分ぎりぎりに横になる。ひとりも少し恥ずかしかったが、顔をそむけずにじっとこらえた。

「今日は楽しかったなぁ……ありがとね、ひとりちゃん」
省6
13: [sage saga] 2023/01/07(土)14:10 ID:FRtckmfc0(13/20) AAS
「今日の練習……本当にごめんなさいね」
「えっ」
「もうすぐ本番だっていうのに……みんなの足引っ張っちゃって……」
「いや、喜多ちゃんが悪いわけじゃあ……!」
「ううん、自分でも納得いってないの。ギターも歌も……本当にまだまだだなって感じる、最近」
「……」
 今日のスタジオ練習がうまくいかなかったのは事実だが、決して郁代だけのせいではないとひとりは感じていた。現に自分にも課題はたくさんある。郁代がこうも真剣に思い詰めているとは思わず、少し申し訳ない気持ちになった。
「スランプともちょっと違うっていうか……確かに昔に比べたらいろんなことができるようになったけど、ほかの人たちと比べたら、自分の実力なんてまだまだ全然低いところにあるんだなって……痛感してるの」
「それは……私も同じ、です……」
「でもこれって、一生懸命練習してるだけで乗り越えられる壁なのかしら……」
省11
14: [sage saga] 2023/01/07(土)14:11 ID:FRtckmfc0(14/20) AAS
「……今日本屋に寄ったのもね、実はそのあたりの迷いを払拭できるかなって思ってのことだったの」
「そういえば……どんな本を買ったんですか?」
「ううん……結局見つからなかった。たぶん古い本なのよね。新書ばかりの本屋さんにはないみたい」
「タイトルは……?」
 郁代が一呼吸おいて、そっと呟く。
「!」
 そのタイトルは……ひとりが数年前に学校の図書室で読んで感銘を受けた、古い小説の名前だった。

「実はね、リョウ先輩に聞いたの。ひとりちゃん、その本から得たインスピレーションを大事にして、今度の曲の歌詞を考えたんだよって」
「……!」
 その話は、リョウ以外の誰にもしていない。
省10
15: [sage saga] 2023/01/07(土)14:11 ID:FRtckmfc0(15/20) AAS
「ひとりちゃんが書く歌詞ね……」
(えっ……ダメ出しされる!?)
「ああ、ごめんなさい。けなすつもりじゃないの。本当にいいなって思うけど……」
「ほっ……」
「でも……私はひとりちゃんの想いとか伝えたいメッセージとか、ちゃんと聞いてくれる人に届けられてるのかなぁって……」
「……」
「ひとりちゃんの歌詞に、感情が載せきれていないんじゃないかって……最近すごく不安なの……」
 いつになく弱気な声で、悩みを打ち明ける郁代。
 郁代のこんな声を、ひとりははじめて聞いた。

「私とひとりちゃんって、やっぱり性格とか……違うでしょ。それは仕方ないことだと思うし、みんながみんな似た者同士である必要はないと思う……でも、ひとりちゃんが必死に考え出した歌詞を、何も考えずに歌っちゃう私って、なんなんだろうって……」
省11
16: [sage saga] 2023/01/07(土)14:12 ID:FRtckmfc0(16/20) AAS
「私……ひとりちゃんの気持ち、もっとわかりたい」
「……」
「ひとりちゃんがどんなことを考えてるのか……どんなことを思いながら生きてるのか……ちゃんと理解したい」
(喜多ちゃん……)
「本当に、一日だけでもいいから、ひとりちゃんと入れ替われたらいいのにね」
「……そう、ですね」
 郁代の指が、ひとりの指に絡まる。
 恋人同士のように、ぴったりと重ね合わせられる。
 どき、どきと、高鳴る鼓動を感じるひとり。
 こちらがその手を少し握れば、向こうも少しだけ握り返してくれる。
省13
17: [sage saga] 2023/01/07(土)14:13 ID:FRtckmfc0(17/20) AAS
 ひとりが黙ってぷにぷにし続けていると、驚くべきことが起こった。
「手だけじゃ……だめかな」
「?」
「えい」
「ぐえっ!」
 ただひたすらぷにぷにされ続けていた郁代は、するっと手をひっこめたかと思うと、ベッドから転がり落ちるようにして、布団で寝ているひとりの上にばふっと覆い被さった。
「ちょちょちょ、喜多ちゃん!?」
「ん〜……このあたりかしら」
 毛布をめくって中に入り、溺れるようにあたふたしているひとりを抱き込む郁代。
 どうやら心臓と心臓を密着させたいらしく、もぞもぞと位置を確かめている。
省22
18: [sage saga] 2023/01/07(土)14:14 ID:FRtckmfc0(18/20) AAS
「……」
「……」
 何を言えばいいかわからない。
 いくら言葉を探しても見つからない。
 でも、郁代に伝えたい気持ちは、いっぱいいっぱいある。
 感謝も、好意も、尊敬も、信頼も。溢れるほどに。

(……伝わってほしい)
「!」
 強く強く願ううち、ひとりも自然と郁代の背中に手を回し、きゅっと抱き寄せていた。
 胸の鼓動は恥ずかしいくらいにうるさいけど、郁代の心に少しでも自分の気持ちが通じるなら、構わない。
省18
19: [sage saga] 2023/01/07(土)14:15 ID:FRtckmfc0(19/20) AAS
 あの夜の、それから先のことを、ひとりはあまり覚えていない。
 抱き合うような格好のまま眠りに落ち、気付いたら朝になっていて、でも二人分の暖かさに包まれていたおかげか、二人ともまったく目覚める気配がなかったと、郁代の母親にあとで言われた。
 結局遅刻ギリギリの時間に家を出ることになってしまい、二人きりでの登校というイベントも慌ただしく終わってしまった。
 いつも通りの学校。いつも通りの授業。
 しかし、郁代との距離はものすごく縮まった気がしていて、それだけで学校が少しだけ楽しいと思えるほどだった。
 ふたりも結局陰性だったそうで、翌日からはきちんと家に帰ることができた。
 なんとか無事に、本番を迎えられそうだ。

「あれー!? なんか今日の演奏、前よりもすっごいよくなってる気がするんだけど気のせい!?」
 本番前最後のスタジオ練習、一回目の合わせを終え、虹夏は嬉しそうにはしゃいだ。
「郁代、なんか歌い方変わった。前よりもいいと思う。ぼっちもちょっと変わったかも」
省8
20: [sage saga] 2023/01/07(土)14:16 ID:FRtckmfc0(20/20) AAS
「すごいじゃん喜多ちゃん〜! なんか今日は情感こもってるっていうか、いつもの何倍も心にくるものがあったよ! 何度も練習している曲なのにびっくり!」
「そうですか〜?」
「うんうんっ、もしかして何かあったの?」
「!」
「前よりも明らかに何かが違う気がするんだよね〜。ひょっとして誰かに恋しちゃったとか!?」
「なっ、ななな……なんにもしてないですよ!?」
「……え?」
 虹夏のさりげない質問を受け、郁代ではなくひとりが、ついつい反射的にそう答えてしまった。
 ぴしっと場の空気が凍り、気まずい沈黙が流れる。

「えっ……喜多ちゃんに聞いたんだけど、なんでぼっちっちゃんが答えるの……?」
省13
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ぬこの手 ぬこTOP 0.116s*