SS「半透明な恋をした」 (247レス)
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1: ◆jkwYf2kqc. 2022/12/25(日)22:50 ID:+0YS1G0z0(1/16) AAS
 人は誰しも、思い出を抱えて生きている。
 
 一分一秒と命を燃やし続ける限り、側頭葉には続々と長期記憶が蓄積される。その際受け取った印象が鮮烈であればあるほど、記憶は顕在意識として深く刻み込まれる。
思い出の在庫というものは、各個人によって多い少ないの差はあれども、長い道のりを征く中で一方的に増え続けていくことになる。
 
 思い出の抱え方は人それぞれだ。
 
 地にめり込むほどに思い出を引き摺り回す人もいれば、スノーボードみたく軽々と思い出を乗り回す人もいる。そこには正解も不正解もない。正義に明確な答えがないことと同じなのだろう。
 
『われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である。』
省15
2: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)22:58 ID:+0YS1G0z0(2/16) AAS
 この世界に生を授かって二十年と少し、僕も多くの例に漏れず、山のように思い出を連れ歩いていた。ふと足を止め、振り返りその一つ一つを眺めてみる。
 しかし、その大部分は一度も思い起こされることのなかった記憶たちだ。彼らは最早脳の検索が上手く行かないほどに重く埃を被っていた。
 そんな腐るほどある灰被りの思い出の中に、一つ、宝石のようにきれいに磨き上げられた思い出が目に映る。改めて手に取ってみると、それは異様なほどに光り輝いていた。ともすれば限界以上に丁寧に磨き上げたせいか、もう元の輪郭が捉えられないようにも見えた。
 しかしそれは、この思い出だけが何度となく楽園として機能したゆるぎない間接証拠とも言える。結局のところ、記憶に難色を示す僕もまた、所詮は立派な思い出廃人の一人だった。その果てに待ち受ける結末は必ずこの胸奥を切り裂くことになる。だのに性懲りもなく刹那的な快楽に身を浸してしまう。僕はそういう人間なのだ。

 少し、集中力が切れてしまっただろうか。ジャン・パウル作 『目に見えぬ会話』の一節を読み終えると、僕は何気なく窓枠の向こうへ目をやった。
 真昼の衛星都市は右から左へと早々に流れていく。僕は何を見るでもなく、茫然とその街並みを眺めていた。列車は単調な律動で上下に揺れている。揺動に合わせて、風鈴が軽やかに音を響かせる。
 その穏やかなメトロノームが、自然な流れで僕を遠くの日々へ運びゆく。先程拾い上げた思い出が忘れられず、僕はまた輝きの中を覗き込もうとするのだ。
 楽園の誘惑に抗えないことは重々承知していた。大人しく手元の古い書物を閉ざすと、僕は回送列車みたいに頭を空っぽにして、かつての回想に身を投じた。
 
 今から僕が逃げ込む一生の楽園は、十一歳から十二歳までの約一年間だ。
省2
3: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:04 ID:+0YS1G0z0(3/16) AAS
♦♦♦

 名も知れぬ雑草を踏みしめ、左手でひび割れた樹皮を力強く掴む。片脚で力いっぱい踏ん張り、やっとのことで急勾配を登り切る。大きく息を吐き出す。それからすぐ空気を吸い込み、足りない酸素を補う。額から零れる汗が目に入らぬよう袖で拭った。
 苦労して登り詰めた上り坂の先には、しかし特別な景色が広がっているわけではない。これまでと変わらない雑多な緑が生え広がっているだけであった。それでも、労力を掛けた分だけ見える世界は美しく見える。眼前に広がる光景を独り占めしようとするも、視界の端には先客が一人、僕の姿を認めていた。
 一足早くゴールに到達した褐色の少年に向けて、僕は牽制するように軽く睨みを利かせた。
 
 「今日も俺の勝ちだな」自慢げな面持ちで彼は言った。
 「…うるさいな、日向」「たったの三秒差じゃないか。そんなので僕に勝った気でいるのか」僕は言い訳がましく言葉を返した。
 日向、と呼ばれた色黒の少年は、僕が幼少期から仲良くやって来ている友達の一人だった。僕よりも頭一つ分背が高くて、肩幅も大きい。子供ながら体格に優れた奴だった。勉強はてんで駄目だったが、そんなものは当時の僕らに必要とされているものではなかった。
 
 「なんだよ、負け惜しみか?」僕の意図を読み取ったらしい日向は、今度は憎たらしい笑顔で言った。
省6
4: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:10 ID:+0YS1G0z0(4/16) AAS
 「じゃ、そろそろ戻ろうぜ」
 
 飽きるほどの緑と土色の世界を眺め終えると、日向が肩を回しながら言った。僕ら三人もそれに同調し、今度は木々を足場として活用しながら急傾斜を下っていった。
 来たときは汚れ一つなかった衣類は土で台無しになって、或いは枝に引っ掛けて破れてしまったりと、帰る頃には大目玉な状態と化していた。でもそれはいつものことだから、母さんも何も言わずにいてくれるだろう。
 噂に聞くと、都会の子供たちは公園やテーマパークなんて場所でよく遊ぶらしい。一方、時代に取り残されつつある山間部の田舎町に生まれた子供にとって、男女隔たりのない一番の遊び場は山だった。
 山には川があって、花が咲いて、木の実が落ちて、生き物が溢れている。その大自然の一つ一つが天然の遊び道具で、性別問わずあらゆる子供たちを魅了しているのだ。かくいう僕も同様に、山の虜になっている少年だったというわけだ。
 平坦な地形の場所まで戻って来ると、そのまま真っ直ぐ進めば森の出口はすぐそこだった。森と田舎の境目で三人と解散すると、僕は家に帰ることなく、皆に悟られないよう気配を消してもう一度森の方へと向かった。
 動機は至って単純だ。次の山登り対決で一等賞を取る為の特訓をしてやろうと思ったわけだ。いつも日向にはあと一歩及ばないのだから、明日こそはあいつを負かしてやりたかったのだ。
5: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:14 ID:+0YS1G0z0(5/16) AAS
 そんな子供らしい対抗心を燃やしながら、早く移動することだけを念頭に僕は奥へ奥へと森を突き進んでいった。毎日のように入り浸っている森林なのだから、多少の土地勘は持っている、などと過信したのが間違いだった。
 もう練習は充分か、と思って後ろを振り返ると、そこはどうにも見覚えのない場所だった。右へ左へと首を振っても、何か記憶に残っている目印が見える訳でもない。目に映るのは、足元に草木が茂り、疎らに雑木が立ち並んでいる光景だけであった。おろおろと変わり映えのない周囲を見回しているうちに、段々とどちらが北で東なのかも分からなくなり始める。そうして方向感覚が失われ、辿って来た道のりさえあやふやになったところで、ようやく背筋には一滴の冷や汗が流れ落ちた。
 
 ──山で迷子になったのだ。
 
 幼いながらもそれを認識するには充分過ぎる要素が揃っていた。こうなってくると、山地という場所の持つ意味合いが一転する。身体を伝う嫌な汗と同じように、心の淵からじわじわと何か畏れのような感情が浮かび上がってくる。
 右へ行こうか左へ行こうか。その場で立ち往生している間にも日は傾き、緑の地面の上で小さな影法師が縦に伸びていった。迷っても仕方がない、と適当に一歩足を進めた時には、見上げる木々の隙間から薄い橙の色が伺えた。
 もう日没までに時間がないと思った。山は上空が林冠で覆われているせいで日照時間が短くなりがちで、実際外はまだ夕方初めであることに、当時の僕が気が付けるはずもなかった。
 一人で山を下りるとなると、途端に途方もない孤独感が襲い来る。誰かが傍に居てくれると心地良く感じる森林は、打って変わって凍てつくような空気を醸し出していた。身体中を外側からも内側からも押さえつけられている気分で、日向の鼻につくような笑顔も今は恋しかった。
6: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:17 ID:+0YS1G0z0(6/16) AAS
 心細い時に限って、蝉しぐれはやけにうるさく聞こえる。しかしその鳴き声は僕を勇気づけることはなく、寧ろ僕こそが世界の異物であると言わんばかりに、彼らは執拗に人間を責め立てていた。
 その爆音が心身の圧迫に拍車をかけた。森の出口を目指す足取りは急激に速まる。心臓は大きく乱れ打ち、呼吸が浅くなっていく。しかしいつまで経っても木々の終わりが見える様子もない。言い表せない恐怖に心が屈し、喉から堪え切れない悲鳴が飛び出す寸前のことだった。
 そこは、一際大きな古木の聳え立っている場所だった。いつもならその偉大な姿を見上げる余裕があったろうが、僕は無視してそこを通り抜けようとした。
 ちょうど大樹から三歩ほど進んだところで、背後から何か物音が聞こえた。
 音の大きさからして、小動物や虫が飛び出したわけではなかった。明らかに大自然の規則から外れた音色を、己の聴覚が鋭く捉えたのだ。
 たったそれだけのことで蒸れた体温が一つ分下がり、僕の身体は金縛りにあったように強張った。足が杭に打ち付けられたように動かない。その間にも動悸は尋常じゃない速度で激しさを増していく。是が非でもこの場から逃げ出すべく、頭の中では緊急サイレンの唸り声が響き渡った。
 とうとう過度に力の伝わった両足が震え、身体は一目散に前へと飛び出そうとした。だが相反するように、背後の謎を確かめるべく頭はそちらに振り返ろうとした。結果、僕は左脚を前に踏み出したまま顔を背後に向けるという、なんとも中途半端な体勢で音の正体を突き止めようとした。
 
 眼球が捉えたのは、全身が黒に染まり切った細長い人型の『何か』だった。
7: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:20 ID:+0YS1G0z0(7/16) AAS
 思考は遠くへ放り投げられた。僕は愕然としたままに地面に映ったそれを凝視していた。
 数秒その状態が続くと、ゆっくりと黒のシルエットがこちらに向かって動き出した。思い出したように顔を上向け、しかし僕はまた固まった。認識した光景が、にわかに信じ難いものだったから。
 そこに居たのは、僕と歳が変わらないであろう少女であった。
 ベージュっぽくもあり白っぽくもあり、いわゆるアイボリーカラーの薄っぺらいワンピースをその少女は身に付けていた。サンダルか草履か、日焼けを知らないように真っ白な肌は素足にまで露出している。肩に掛かるか掛からないかの長さの黒髪は日差しを飲み込むかの如く光沢のある艶やかさを誇っており、つぶらな瞳は大きく丸々としていて、僕は思わず吸い込まれるように両目を見つめてしまった。まるで彼女が世界の中心であるかと言わんばかりだった。
 少女の影が細長く見えたのは、橙色に輝く斜陽のせいばかりではない。背は僕と同じかそれより低いぐらいだが、その柔らかなラインを描く体つきには女性特有の華奢さが秘められていた。その整った小顔にしろ流れる睫毛にしろ、彼女はまさしく、黄金比の体現者であった。
 いま目の前にいる彼女は、一言で言い表すのならば、可憐な少女であった。
 しかし同時に、僕は彼女にある種の違和感を覚えていた。それはまるで地底で星空を眺めるように、薄暗い路地裏で深窓の令嬢と出会うように、この少女には山という空間がまるで似合っていなかったからだ。
 色素が抜け落ちたみたいに透き通った肌をしている清純な少女は、とてもじゃないが森林に入り浸り山を駆け回るような人間には思えなかった。場違いで奇妙で、何処か歯車が一つ分ズレているようで、しかしその全てが彼女のために存在しているような、言わば必然的なシンクロニシティがその場に演出されていた。
8: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:25 ID:+0YS1G0z0(8/16) AAS
 たっぷり数秒の間、僕は黙りこくって少女に視線を送り続けていたわけだが、対して少女もまた、ただでさえ丸っこい目をより一層丸めてこちらを眺め続けていた。
 先に沈黙を破ったのは少女の方であった。ほんのりと桃色に染まった薄い唇が柔らかい動きを見せた。
 
 「どうして君は、こんな場所に居るの?」
 
 周囲にひしめくアブラゼミの鳴き声が、力んだ弓で演奏される擦弦楽器であるとするのならば、こちらは微風に揺られた風鈴の奏でる淡い響きであったとでも言えばよいのだろうか。細く、柔らかく、小さな声量であったが、その声には雑音にかき消されない芯のある張りが感じられた。
 それが単なる音の調べである以上に、少女から発せられた言葉であったということを認識するまでにやや間を必要とした。ようやく脳髄に彼女の言葉を反響させた頃に、僕は反射的に答えていた。
 
 「なんでって、山で遊んでたからだよ」
 
省3
9: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:28 ID:+0YS1G0z0(9/16) AAS
「そっちだって、その口だろ?」と今度は僕が何気なく問い掛けた。
 「んー、どうだろうね?」少女はのらりくらりと質問をかわした。彼女は人差し指を立てながら続けざまに言った。
 
 「ね、このあたりから山を下りる近道、君は知ってたりする?」
 
 「いや、知らないな」
 
 今一番欲している情報の手がかりをつかんだ僕は、しかしそれを悟られないよう努めて冷静に言い返した。だがどういう訳だろう。僕が彼女から視線を逸らしているうちに、辺りには鈴を転がすような笑声が木霊した。
 「じゃあ、折角だし教えてあげる」「このまま真っすぐ進んで行ったら、森の切れ目が見えてくるはずだよ」くすくすと上品な笑い声を抑えた彼女はあちらに手を向けた。
 彼女が指差す方角を忘れぬよう目に焼き付け、「ありがとう。助かった」と僕は短く言葉を返した。少女は間を置くことなく「どーいたしまして」と上機嫌に言った。
省1
10: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:32 ID:+0YS1G0z0(10/16) AAS
 助言を皮切りに、僕は彼女に背を向けた。そして草地を一歩踏み出したその時だった。
 
 「あっ」
 
 後方六メートルあたりから、先程の良く澄んだ声が響いた。後ろ髪を引かれるように振り返ると、少女は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
 
 「えっと、君は山でよく遊ぶんだよね?」

 僕がその言葉にすぐ首肯すると、「じゃあ、明日もこの場所に来てくれるの?」と彼女は興味深そうにまた尋ねた。
 しかし、今度は二つ返事とはいかなかった。闇雲に山を駆け巡った挙句辿り着いたこの場所に、明日もやって来れるのかと問われると、無責任な約束は出来なかった。
 
省7
11: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:36 ID:+0YS1G0z0(11/16) AAS
 了承を受けた少女は、太陽が雲の切れ目から覗いたみたいに表情を輝かせた。その単純な様子を前に、僕は思わず相好を崩していた。緊迫していた神経が僅かに緩み、残りの道中を恐れる微かな気持ちは何処かへ吹き飛んでしまった。「本当!?楽しみにしてるね!じゃ、また明日!」彼女は僕に向けて無邪気に手を振る。同じように手を振り返し、僕は彼女の指差した先を歩いた。
 緩やかな山道を下っていくと、やがて森の端が伺えた。その先には懐かしい灰色のアスファルトが垣間見え、それを目にした瞬間、我慢ならなかった僕は飛ぶようにように出口に駆けて行った。
 茂った植物を身体ごと突き抜けると、なだらかなカーブの坂道が僕を待ち受けていた。車体で何度も擦られたガードレールは傷だらけになっており、くすんだカーブミラーが西日を反射していた。
 やっとのことで人間様がのさばる世界に戻って来たのだ。見慣れた人工物を拝むや否や、身体は一気に脱力した。思わずその場で膝をつきそうになったが、僕はそれを堪えてゆっくりと坂道を下り始めた。
 折角山から抜け出せたのに、そこはまた見知らぬ土地だった、などと言うことは起きまい。そのまま道に沿って慣れ親しんだ農道を通り抜けると、僕はまもなく帰路へと着いた。
12: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:41 ID:+0YS1G0z0(12/16) AAS
 暗く閉ざした瞼の向こうで、眩い朝日が差し込んでいる気がした。眠っているとも起きているともつかない、不明瞭ないつもの寝覚めだ。身体に先立って意識だけが覚醒の手順を辿り始める。身体がそれに追いつくように何度か寝返りを繰り返した。ようやく神経系が起床を把握したところで、僕はゆっくりと寝床で目覚めた。
 薄い掛布団を払い除け、蒸れた両足で藺草を踏む。窓に向かって身体をほぐしながら、ぼうっと外の世界の様子を確かめる。
 照りつける白い太陽、眼下に広がる青い畑、遠い蝉の声。今日も今日とて、世界は青空に覆われている。
 それらを形式的に認識すると、僕は目を擦りながら洗面所に向かった。ぬるい水で顔を濡らし、程よい爽やかさを感じる。床鳴りが激しい階段を降りると、風に運ばれた香ばしさが胃袋を刺激した。
 
 「おはよう。ちゃっちゃと食べちゃって」

 匂いに惹かれて居間に辿り着くと、こちらに気が付いた母さんが僕に挨拶を投げ掛けた。もう化粧は完璧に済ませているようで、今は朝の準備に追われているようだ。
 一方急ぐ必要のない僕は同じような言葉を返し、食卓にて合掌。天気予報を横目に朝食を食べ進めていくと、徐々に頭が糖分を取り込んでいった。
13: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:46 ID:+0YS1G0z0(13/16) AAS
 ふと昨日のことを思い出した。というのは、今日はあの少女と遊ぶ約束を交わしたことだ。と同時に、その約束に一つの重大な欠点を発見する。僕は彼女と待ち合わせる時間を決め忘れていたのだ。
 一見なんともなさそうに思えることだが、これは深刻な問題だ。いつもの面子で集まるのならば身内での不文律が通用する一方で、昨日であったばかりの少女とはそうもいくまい。メモに残すなどの成文律が必要とまでは言わないが、何かしらの口約束はしておくべきだったろう。幸い集合場所は判明しているが、遊ぶ時間が分からなければ、それだけですれ違いの生じる恐れがあるのだ。
 とは言ったものの、では昨日と同じ時間に向かったとして、あれでは日暮れ前で遊ぶ時間が皆無であることは簡単に想像のつくことだ。となると、朝ご飯を食べたらすぐに向かうべきだろうか?いや普通に考えて、お昼頃からなのだろうか?
 
 「食欲ないの?」
 
 形式的な確認の声掛けが、僕を思考の海から釣り上げた。どうやらすっかり箸が止まっていたらしい。時間のない母さんに急かされ、僕は慌てて汁ものを飲み干した。
14: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:50 ID:+0YS1G0z0(14/16) AAS
 

 連日晴天が続いており、お天道さまは今日も遮蔽物のない田圃道をこれでもかと照らし出している。数歩足を進めるごとに、路肩の小さな茂みから蛙が飛び退いた。干乾びないよう水田に逃げ込んだ彼らは、残念ながらそこに安息を見出すことはできない。白鷺にとって格好の獲物になることだろう。
 あれから少し経った今、僕は昨日辿った細い農道をたどたどしく逆行していた。当然その理由は、彼女との約束を守る為だった。
 色々と考えた結果、お昼過ぎというのが一番無難ではないかという結論に落ち着いた。もちろん、遊ぶ時間を示し合わせることを忘れた以上、彼女との約束をなかったことにしてしまうという選択肢もあるにはあった。日向達との遊びであれば、そうする可能性も大いにあり得ただろう。
 だが、昨日の独りぼっちな少女の様子を見た身としては、そういう訳にもいかなかった。ようやく一緒に遊べる人が見つかったというのに、期待のその人にまで無視されるなんてことがあれば、いくらなんでもあの少女が可哀想ではないか。誰かを傷付けると解っている上でその行動を選べるほどに、僕は温かくない人間ではないのだ。
15: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:54 ID:+0YS1G0z0(15/16) AAS
 森の入り口に辿り着いた頃には、シャツはびっしりと汗を吸っていた。太陽熱を直に受ける頭は暑くて敵わない。帽子でも持ってこれば良かった、と思いつつも僕は木陰の多い山に忍び込んだ。
 自然のさざめきに包まれながら、妙に覚え易かった山道を登っていく。案外迷うことなく突き進んでいくと、目印の大樹が伺えた。昨日の見間違えだったというわけではないらしい。それは周囲の木々と比べても一段と背が高く、両手を広げても到底抱えられないような太さの幹を持った巨木だった。
 しかし、そこに肝心の少女の姿は見えなかった。場所を間違えたとは思えないし、大方彼女は来なかったという結果なのだろう。少しも残念でなかったと言えば噓になるが、その事実に特段何を思うこともなく、僕は踵を返そうとした。

 「あっ、来てくれたんだ」

 何処からともなく澄んだ声が聞こえてきたかと思ったら、大樹の裏から小さな影が飛び出した。昨日と同じ白いワンピースを身に着けた彼女は手振りを交えながら挨拶すると、昨日と変わらない様子でこちらに笑い掛けてくれた。彼女も今し方来たところなのか、或いは過剰な灼熱から逃れるために古木の日陰で休んでいたのかもしれない。
16: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/25(日)23:58 ID:+0YS1G0z0(16/16) AAS
 「こっちだよ」と手招きされた僕は、彼女と同じように木陰の恩恵に預かった。少女は僕のすぐ隣で幹に背を預け、当たり障りのない会話を切り出した。
 
 「随分早かったね〜」

 「…まぁ、遊ぶ時間がなくなったらあれだしさ」

 その旧友に喋り掛けるような軽い調子を前に、僕は少々言葉に詰まってしまった。目の焦点をあちらこちらに動かしながら、頭を掻いて言葉を返す羽目になった。
 何も自慢できるようなことではないが、僕には特別仲の良い女の子はいない。普段行動を共にしている日向達が女子の大グループと対立しているものだから、当然のように僕も彼女らと親身にする機会がないのだ。
 だから客観的なことを言えるわけではないし、これは僕の気にし過ぎなのかもしれない。しかしそれを加味しても彼女は物理的にも精神的にも距離が近いと言うか、だがまぁ、一緒に遊ぶ約束をした手前もう友達みたいなものなのかもしれない。
 適当な所でそれを割り切った、若しくは自己解決したことにした僕は、そこからは目の前の彼女が日向達であるように振舞った。

 「そんじゃ、今から何して遊ぶんだ?」

 第一声とは打って変わって、僕が少女の目を見てハキハキと問い掛けた。対して彼女は入れ替わるように視線を下向け、「ん〜…ん〜…」と悩ましそうな唸り声を上げた。それを十数秒続けた後になって、彼女はようやくこちらに目を向けた。
17: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/26(月)00:02 ID:R2psYaIn0(1/12) AAS
 「君はいつも、何して遊んでるの?」

 もしかしたら、彼女もこういう場所で男の子と遊ぶのは初めてなのかもしれないな。質問返しをされた僕は少女に一種の共感を得つつも、何気ない日々の記憶を辿った。

 「僕、か。そうだな…僕は普段、虫を捕まえに行ったり、何気なく山の中を巡ったり…後は、最近だと山登りの勝負とか──」
 
 「それ!それにしようよ!」
 
 日向達との下らない時間を言葉にしていると、突如として彼女が大きな声をあげた。僕はびっくりして口を閉ざした。僅かな沈黙が訪れると、少女はそれがさも不思議でならなそうに首を傾げた。
 
 「虫取り?」

 恐らく、少女はこちらの言葉を待っている。それに気が付いた僕がそう訊ねると、彼女は小さく首を横に振った。女子は虫が苦手な子も多い。そんな固定観念に僕は落ち着いた。
省11
18: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/26(月)00:07 ID:R2psYaIn0(2/12) AAS
 「じゃあ、ここのてっぺんまで先に着いた方が勝ちだからね?まぁ、私は負けないだろうけど」

 実力を下に見られたのが余程腹立たしかったのだろう。さっきから少々ご機嫌斜めな彼女は隠すことなくこちらに敵視をぶつけ、威勢よく言った。
 その言葉に軽く頷き返すと、僕はすぐに勝負のコースへと視線を移した。あの木々を支えにして、そこの岩を取っ掛かりにしようか。といった具合にレースを勝ち抜くためのルートを模索し終えた僕は、準備完了の意を示した。少女も作戦を練り終えたのか、ゴールに視線を固定させながら大きく言った。

 「よーいどん!」

 せめてカウントダウンぐらい取ってくれ。心の中でそんな悪態をつきながらも、僕はゴール目掛けて勢いよく駆け出した。目星を付けておいた岩を蹴り上げ、左手で太い枝を掴む。似たような動きを何度か続けたところで、目標地点までは後どれくらいだろうか、と僕は視線を上向けた。
 今度は自分の目を疑った。何せ、ついさっきまで隣に居たはずの彼女が既に二歩も三歩も僕の先を行っていたのだから。余りの驚愕に足はそれ以上動かず、僕は彼女の動きに釘付けとなった。
 一体、あのか細い身体の何処にそんな力が隠されていたのだろうか。彼女は流れるように木々を掴み、平地を走るのと変わらない調子で斜面をトップスピードで駆け続けていた。
 圧巻であった。もしや彼女の背中には翅が生えているのかと錯覚するぐらいに、その動きはこの上なく洗礼されていた。その華麗なる舞踊に目を奪われている内に、彼女は瞬く間にゴールへと辿り着いてしまった。
 井の中の蛙大海を知らず。当時の僕がそんな言葉を知っている訳もなかったが、知識ではなく実体験としてそれを思い知ることになった。田圃で王者を気取っていた蛙が、大空からやって来た鳥たちに悠々と喰われてしまったみたいだった。
 彼女と比べると随分遅れてゴールに到着した僕は、その急こう配に息絶え絶えだった。一方彼女はと言えば息を切らした様子もない。一から十まで彼女の独壇場であったことを痛感し、天狗の鼻をへし折られた僕は何も言えなかった。対する彼女は勝ち誇った笑顔で、こちらに勝利のvサインを見せつけてくれた。
19: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/26(月)00:11 ID:R2psYaIn0(3/12) AAS
 如何にもわざとらしい様子で煽り文句を頂戴されたわけだが、こうにまでも完膚なきまで打ちのめされては、いつものように負け惜しみをすることさえ憚れた。嫌味のない素直な拍手を送ってやると、彼女は満足そうに頷いてくれた。
 山登りで急上昇した心拍数を整えている間、僕はいつもの如く呆然と周囲を俯瞰した。草が伸びて木々が生え渡り、それを蔦植物が覆い隠している。林冠で遮られた太陽光がまばらに差し込み、幾つもの透明なカーテンを作り出している。耳を澄ませば小鳥の羽ばたく音色が反復していて、そのどれもがいつもと変わらない森中であった。
 だけど、いつもと一点違っていることがある。普段は聞こえないはずの柔らかな声が、すぐ隣から僕の耳奥を擽るのだ。

 「ね。君はさ、この植物が何か分かる?」

 透き通った音色と共に、彼女はすぐ足元を指差した。そちらに視線を向けるも、そこに何か目ぼしい草木が見えることはなかった。僕が目配せで疑問を呈示すると、彼女は身を屈めてその植物に触れた。
 
 「ほら、よく見てよ。君も見覚えあるんじゃない?」
20: ◆jkwYf2kqc. [sage saga] 2022/12/26(月)00:14 ID:R2psYaIn0(4/12) AAS
 彼女が優しく撫でた植物は、大きな丸い葉が特徴的な、だがどこにでもありそうな背の低い野草であった。それも凛々しく一本咲き誇っている特別なものという訳でもなく、向こうの方にまで群生しているもののうちの一つだ。
 再び少女へと視線を向けてみると、彼女は今にもため息を吐き出しそうな表情を作った。「蕗だよ、蕗。ほら、蕗の薹とか聞いたことない?」
 ようやく聞き覚えのある名前を耳にした僕は、謎の植物の正体に得心した。「あぁ、フキノトウだったのか。でも、全然見た目が違うんだな」
 確かに、フキノトウは頻繁に食卓に並んでいる気がするが、目の前の野草は僕の見知った姿とは似ても似つかなかったわけだ。こちらの疑問の本質を見抜いたのか、彼女は意気揚々とその口を動かした。
 
 「だって、蕗の薹は春の野草だからね。蕗は今みたいな暑い時期に採れるんだよ?あっ、蕗の薹って言うのは、蕾の部分を食べるんだけどさ、蕗は葉っぱの部分も食べられるから、言ってしまえばこの子は二度美味しい山菜で──」

 それからも少女は間欠泉のように止めどなく蕗の魅力を語り続けた。僕は適当な相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾けていた。それはいつまでも聞いていられそうな語り口だったけれど、ある時、「あっ」と彼女は小さな声をあげた。
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