【テレビ、新聞、雑誌、書籍報道レポート】Part4 (516レス)
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(3): ホ−リ− 2010/09/10(金)20:53 AAS
「入院当初は極度の興奮、混乱状態にありました。怒り、地獄などを表現した鬼気迫る作品は正直、見ていて怖かった。恐竜の化石、口を開けたワニの頭とも見える不気味なオブジェでしたが、ムンクの『叫び』より迫力があると僕には思えた。彼は創作に没頭し、精神的な危機から脱皮しようとしたのです。当時の作品はどれも強烈で非凡。美術として価値があったと僕は評価していました。しかし、成長した結果、その強烈な毒気や個性はきれいに消え、彼は普通の青年になりましたね」

杉本氏が院長として率いた“チーム少年A”(精神科医3人、統括専門官、担任、寮主任ら)は、特別治療教育課程を実施。それは医師、教官が“模擬家族”を演じ、Aを「赤ちゃん」から育て直すという徹底したものだった。
「事件当時、彼は人間関係をその瞬間と部分のみでしかつながれない“部分対象関係”しか構築できない状態にあった。
自分の思い通りになれば、いい人。そうでなければ、悪い人。
善か、無かの極端な思考しかできず、『人間が野菜に見える』のはその典型でした。
これは乳児期から母親との関係がうまく醸されなかったことを意味します。それを矯正するため、人と恒常的な信頼を積み上げる訓練をした。
そして彼は人間関係を『行き違いがあっても、慈しんでくれる』などトータルな目線でみられる“全体対象関係”を築き上げられるようになりました」(杉本氏)

その経過を同少年院が関東地方更生保護委員会などへ報告した内部資料がここにある。
入所時から仮退院までを7段階に色分けし、まとめた記録には次のように記されていた。

1<緊張期(ブルー・グレー・97年10月〜98年5月)一階の独房。自殺の予防と観察。目線を下げ、笑顔を見せない。日記数行。「人間は野菜と同じ」という鎧を維持。緊張のはけ口のように粘土細工に取り組む>
2<危機期(ピンク・99年8月〜9月)「顔が溶ける」などの異常体験。保護室(自殺防止のため)に収容3日間。その後、担当女医Bらに対し、「気持ちを吐き出したい。心の便秘です」と内面を語る。「B先生は僕にとって理想の母」とも言う。同9月、他の院生に唾を吐きかけられたが、「これが世間一般の考え方。人が人を殺すなんて悲しみしか生まなかった」とも言う>
3<再構築期(イエロー・99年10月〜00年3月)99年12月、全体朝礼に初参加。ラジオ体操を指揮、クラブに参加するなど意欲を見せる。被害者に対する服喪日課を課す。法要で動揺し、涙を流す。両親の面会を受け入れる。院内で1人だけ監視カメラ、グランドに出られないなど特別扱いされることを「差別」と不満を言う。教官が面接すると、「つい、甘えが出た」と泣く>
4<成長期1(ブルー・00年4月〜01年11月)00年4月、避難訓練、観桜会などでグランドに出る。「ここに来て初めて日焼けした」と。同5月、監視カメラのない部屋へ。同10月、両親と面接。「親が一緒に暮らそうと言ってくれたのは嬉しいが、弟たちの将来を考えると難しい」とおもんばかる。希望して被害者遺族の本とAの両親の手記を再読し、内省の文を書く>
5<(01年11月〜02年11月)東北少年院にて対人関係と職能訓練。痩せて、アトピーが出るほど緊張。努力を重ねた>
6<成長期2(パープル・01年11月〜03年4月)母親との関係を現実的にとらえるようになる。「どうしても理解してもらえない部分はあるが、生んでくれた母として大切にしたい」と。贖罪意識が深まり、「許していただくことは望むべくもありませんが、どうか生き抜かせてください、生涯を費やして償いたい」と言う>
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