[過去ログ] 会津若松 (115レス)
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15: 2021/07/31(土)16:19 AAS
庄内からも嫌われる会津

「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
省11
16: 2021/07/31(土)16:19 AAS
米沢の総督もブチギレる会津

「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)

会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
省7
17: 2021/07/31(土)16:20 AAS
味方から嫌われまくりの会津

新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿)
18: 2021/07/31(土)16:20 AAS
外国人が見た悲惨な会津領民

英国公使館員の維新戦争見聞記

■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
省4
19: 2021/07/31(土)16:20 AAS
外国人が見た残虐な会津

英国公使館員の維新戦争見聞記

会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。

そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
省6
20: 2021/07/31(土)16:21 AAS
斗南強制連行は嘘だった

会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の
一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと
言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
省3
21: 2021/07/31(土)16:21 AAS
京でも会津は嫌われ者

禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
22: 2021/07/31(土)16:21 AAS
長州人捕虜を虐殺して笑う残虐な会津

寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ
23: 2021/07/31(土)16:22 AAS
会津は売国奴

会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。

ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
省5
24: 2021/07/31(土)16:22 AAS
白河似北一山百文と差別されてたのは嘘

白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
省7
25: 2021/07/31(土)16:22 AAS
会津は放火魔

会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。

松楓楼松屋の歴史
26: 2021/07/31(土)16:22 AAS
嫌われる放火魔会津

会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。

たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。

彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
省15
27: 2021/07/31(土)16:23 AAS
外国人が見た会津の酷い有り様

駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書

・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った
28: 2021/07/31(土)16:23 AAS
原発も会津絡み

福島原発が作られた当時の東電社長も福島人

東電関係者の解説 渡部氏は、東電の“中興の祖”といわれる
故・木川田一隆元会長と駝懇の仲だったのです。
渡部氏が一年生議員のころ、当時社長だった
木川田氏が福島出身だったので後援会長就任を打診したほどです。
また、福島第一原発を作ったのは木川田氏が社長の時代でもありました。
正確には原発を福島に誘致したのは、福島が木村王国と呼ばれていた頃
当時県知事の「木村守江」が福島第一、第二の原発を誘致した。
当時の東電社長 木川田一隆と親交が深く雇用対策として誘致した。
29: 2021/07/31(土)16:23 AAS
領民からも嫌われる会津

会津世直し一揆

かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。

9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
省14
30: 2021/07/31(土)16:23 AAS
放火がやめれない会津

・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。

・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。

・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。

・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
省1
31: 2021/07/31(土)16:24 AAS
まともな福島県民のコメント

>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
省11
32: 2021/07/31(土)16:24 AAS
>明治8年生まれの祖母に
>薩長を許してはならないと
>常に言われて育った。
>この会津人の誇りが
>私の信念に結びついている。
>薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。

みやぎ會津会での公演で
幸楽苑の社長が言った言葉だよ。
みやぎ會津会のHPからの抜粋です。
ただしこの内容が某掲示板に
省4
33: 2021/07/31(土)16:24 AAS
>突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」

会津新撰組まつりに参加した
阿吽記というブログから抜粋しました。
この記事は2007年のもののようですが
会津若松市では毎年やってる祭りみたいですね。
34: 2021/07/31(土)16:25 AAS
>会津という神話—二つの戦後をめぐる死者の政治学 
>田中悟[著]
>神戸大学助教(政治学)
>[掲載]2010年4月25日 
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。

政治学者である田中教授が
会津で調査した事をまとめた調査書です。

>「いまだに長州への怨念を抱いている」
省4
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