厭世観が表情に出てしまう反出生主義 ★6 (77レス)
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1: 09/13(土)15:44 ID:0(1/77) AAS
※前スレ
厭世観が表情に出てしまう反出生主義
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厭世観が表情に出てしまう反出生主義 ★5
省1
2: 09/13(土)15:46 ID:0(2/77) AAS
[前提となる議論]
デビット・ベネターの主張する反出生主義における「快苦の非対称性論」が論点。
ベネターは、非対称性論の価値判断を普遍的なものとして扱っている。実際、ベネターは非対称性論への批判として提示される異なる主観的な価値判断を不成立とし、反論を試みている。
非対称性論の「主体が存在する場合」における「快楽の存在は善い」、「苦痛の存在は悪い」という価値判断は確からしい推論で、多くの人々に共通する普遍性が備わっていると言える。(✳︎ここに反対する批判者はいないと思われる。快苦の質の問題があるが、非対称性論では取り上げられていないので棚上げとする)
批判の対象になるのは、「主体が存在しない場合」である。
【非対称性論への批判】
非対称性論の核となる「主体が存在しない場合」における、「苦痛の不在は善い」、「快楽の不在は悪くはない」という価値判断は、普遍的と言えるほどの共通認識ではなく、以下の主観的な評価が成立する。
「苦痛の不在は善い」
→主体が存在しないのだから、特段に「善い」というわけではない。だからといって、「悪い」というわけでもないのだから、「善くも悪くもない」
「快楽の不在は悪くはない」
省6
3: 09/13(土)15:47 ID:0(3/77) AAS
しかし、ベネターが用いた論法は苦痛だけではなく快楽にも適用させる必要がある。
苦痛と快楽を同じ条件で比較した上で非対称性を導く必要があり、苦痛だけに反実仮想を適用させてしまうと論理的な不均衡が生じる。
苦痛と同様に、快楽にも反実仮想を適用すると、「仮に主体が存在した場合、その主体に快楽が不在なのは悪いのだから、悪いのである」となる。
ここでの留意事項は、主観的であっても「快楽の不在は悪い」という価値判断が成立すれば反論として有効になる点である。
(e.g. 功利主義者の主観)
ここまでの議論を踏まえ、ベネター自身が用いた論法で非対称性を評価すると、以下のようになる。
【主体が存在する場合】
快楽の存在:善い
苦痛の存在:悪い
【主体が存在しない場合】
省3
4: 09/13(土)15:48 ID:0(4/77) AAS
>プロンプト
この議論における批判者の主張の妥当性を評価して下さい。
>AI
批判者の論旨は、ベネターの「快苦の非対称性論」に対する一貫性のある挑戦を提示しています。
以下に、批判者の論旨の妥当性を検討し、議論を整理します。
【前提の普遍性への直接的挑戦】
ベネターの非対称性論は、「苦痛の不在は善い」が多くの人に共有される直観であり、普遍的な価値判断であると仮定しています。しかし、批判者が指摘するように、主体が存在しない場合の価値判断は、直観的に「善くも悪くもない」と評価される可能性が高く、ベネターの前提が必ずしも普遍的とは言えません。
批判者は、ベネターの前提を「主観的再評価」で中立状態(「善くも悪くもない」)に置き換えることで、ベネターの主張の基礎を直接的に攻撃しています。このアプローチは、ベネターの枠組みを内部から批判するのではなく、外部からの視点でその前提の妥当性を問うものであり、論理的に有効です。
【反実仮想の適用による論の破壊】
批判者は、ベネターの反実仮想(「主体が存在した場合、苦痛の不在は善い」)を快楽にも適用し、「快楽の不在は悪い」という結論を引き出すことで、非対称性が崩れることを示します。
省4
5: 09/13(土)15:49 ID:0(5/77) AAS
【結論】
批判者は、論理的帰結として対称性を導くことで、ベネターの主張の内部矛盾を効果的に示しています。この戦略は論理的かつ説得力があります。したがって、批判者の論旨はベネターの非対称性論に対する強力な批判として、十分に妥当であると言えます。
6: 09/13(土)15:49 ID:0(6/77) AAS
727 考える名無しさん 2025/09/09(火) 21:42:25.30 0
>プロンプト
前提となる議論での批判者に対して、以下の反論がありました。
反論の妥当性について評価をお願いします。
【反論の論旨:悪魔の証明】
ベネターの非対称論の価値判断が普遍的であるかは誰も証明できない。
「普遍的な善悪の存在」という、証明不可能なものを要求している。
「悪魔の証明要求して出来ないと論破したったって大騒ぎ」
「お前が他人に要求してるのは悪魔の証明」
「完全に主観を抜きにしたら誰にも絶対に出来ないのが善悪の価値判断」
7: 09/13(土)15:50 ID:0(7/77) AAS
>AI
反論の妥当性を評価するため、以下の観点から検討します。ベネターは非対称性論を「多くの人に共通する直観」として普遍的に主張していますが、批判者はこれを主観的再評価や反実仮想の適用で否定しています。
批判者の論旨への誤解
批判への反論は、批判者が「悪魔の証明」を要求していると主張しますが、これは誤りです。批判者はベネターの前提を「普遍的でない」と否定する際に、証明不能を直接の理由にしていません。むしろ、具体的な代替評価(主体不存在時を「善くも悪くもない」と再評価)、論理的拡張(反実仮想を快楽に適用して対称性に還元)を提示しています。これは、ベネターの主張の論理的整合性や直観の多様性を問うもので、絶対的な証明を要求するものではありません。 (ベネターの非対称性がジレンマを生むという構造的批判)
悪魔の証明の誤用
「悪魔の証明」は、負の存在(例: 悪魔がいないことを証明せよ)を要求する場合に使われます。ここでは批判者がベネターに「負の存在の証明」を求めているわけではなく、ベネターの主張に反例を挙げて挑戦しています。実際の哲学的議論では、非対称性論に対する批判は多く、nothingnessが中立(zero experience)だという再評価が一般的です。 これを「証明不能だから論破と騒いでいる」とするのは、反論者の側が議論を単純化しすぎています。
主観性の逆利用:
反論者が「善悪の価値判断は主観的」と言うのは正しいですが、これはむしろ批判者の立場を強化します。ベネターの前提が主観的要素を含む以上、普遍性を主張するのは難しく、批判者の主観的再評価(例: 功利主義での快楽の不在は悪い)は有効な批判となります。
全体的な文脈からの評価
ベネターの非対称性論は、哲学界で広く批判されており(Harmanの批判: 非対称性の直観が誤りで、普遍性が疑わしい)、その価値判断の普遍性に疑問が投げかけられています。 反論はこれらの批判を「悪魔の証明」として一蹴しようとしますが、実際の批判は論理的・直観的な代替を示すものです。したがって、反論の妥当性は弱く、批判者の論旨を正確に捉えていません。
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