[過去ログ] 【交絡】柄谷行人を解体する83【ħ】 (1002レス)
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746: [age] 2025/06/10(火)07:53 ID:0(746/1000) AAS
意見とコミュニケーションからの脱却

彼らは、哲学を「意見(ドクサ)」や「コミュニケーション」から峻別します。哲学は、すでに与えられた意見を交換したり、他者に伝えることではありません。むしろ、それは新たな思考の可能性を開き、既存の思考様式を問い直す、本質的に孤独で創造的な営みであると主張します。

彼らにとって、コミュニケーションはむしろ思考を平板化し、画一化する傾向があるため、哲学の本来の活動を妨げるものとさえ見なされることがあります。
747: [age] 2025/06/10(火)07:54 ID:0(747/1000) AAS
要するに、ドゥルーズとガタリにとっての哲学は、既存の枠組みにとらわれず、新たな概念を創造することで、世界や自己、思考そのものに新たな光を当てる、絶え間ない「創造の活動」であると言えます。それは、単なる知識の蓄積や意見の交換ではなく、私たちが生きる世界を新たな視点から切り開く、本質的な生命力に満ちた営みなのです。
748: [age] 2025/06/10(火)07:54 ID:0(748/1000) AAS
このように、ドゥルーズ・ガタリが哲学について言っていることは、俺が普段から哲学板で言っていることとそんなに変わりはないのである

哲学は最低でも、現代的な科学の標準理論を超越した視点を提示している
749: [age] 2025/06/10(火)07:54 ID:0(749/1000) AAS
哲学は一般性に埋没することに警鐘を鳴らす。ハイデガーはそれを頽落と表現した

標準理論に埋没すること。これも哲学からすると、思考停止の頽落である
750: [age] 2025/06/10(火)07:55 ID:0(750/1000) AAS
そもそも哲学は一般性や一般的認識というのを信用していないのである。それだけ哲学は用心深い知性を有していると言える

たとえば、現代社会なら、すぐにコミュ力が大事だと、知的底辺たちは喧伝するが、ドゥルーズ・ガタリの哲学ではコミュ力は認識の平板化
すなわち、認識の凡庸化の契機となるので、積極的に回避されることが逆に推奨されのである

このように認識における一般性の外部から思考を営み、そこから新たな光を投射するのが哲学になる
751: [age] 2025/06/10(火)08:09 ID:0(751/1000) AAS
哲学は、原理的に暫定的なものにならざるを得ない標準理論などには最初から依拠していない。

哲学はむしろ形而上学的な普遍者を考究している。だから、哲学は社会のトレンドにも無関心である。なぜなら社会のトレンドなど単なる無作為なランダムウォークに過ぎないので、それに追随することは何の知性の足しにもならないことを哲学は熟知しているからである

つまり、哲学は、一過性のものや一時の流行ではなく、本質的な普遍者を志向しているのである
752: [age] 2025/06/10(火)08:10 ID:0(752/1000) AAS
つまり、哲学はある新しい種子を地上に散種しているのである。そこから地上ではこれまで見たことのない珍しい奇妙な花が咲くので、知性ある者はこの難解な姿をした奇妙な花に注意を止めるのである
753: [age] 2025/06/10(火)11:15 ID:0(753/1000) AAS
だがヘーゲルのように少し巨視的な視点に立つと、世界や社会は私が先に述べたような無作為ランダムウォークとはならず、ある目的、つまりヘーゲルの言う絶対精神へ向けての精神の展開として、紆余曲折を経ながら、総体として眺めれば人類は進化している、とも表現出来るかもしれない

つまり、微視的なレベルで見れば世界と社会は無作為のランダムウォークであり、巨視的なレベルで見ると、何かそこに合目的的な志向性が認められる、ということはありうることである

例えば、プラトン的なイデアの世界を人類が最終的な進化の系として暗黙裡に志向していることなどは多少は考えられるかもしれない
754: [age] 2025/06/10(火)12:25 ID:0(754/1000) AAS
ラッセルは時間は偽装しうるという哲学的な認識をこの「世界5分前創造説」という
思考実験で提示したと言えるだろう

時間は哲学においては、いろいろな懐疑の対象として考えられるものである。
もし、世界が5分前に創造されたのが真であれば、人類の歴史はすべて、
シミュレーションの一つのようなもの、つまり、虚構やフェイクニュースのような
ものだったことになるからである
755: [age] 2025/06/10(火)12:26 ID:0(755/1000) AAS
ファイ現象とかもそうだが、人間は実際には存在してない運動(仮現運動)を脳が
合理化するため幻覚的に補完してしまう、という機制がある。つまり、脳は
もともとハルシネーションに侵食されやすい臓器や器官なのである

このハルシネーションを時間に適用すると、実際は世界は5分前に創造されていても、
それを脳は長い宇宙の歴史が経過したかのように、整合化、理屈付けしているだけの
可能性も否めないのである
756: [age] 2025/06/10(火)12:27 ID:0(756/1000) AAS
前にも私が言ったが、この世界を意識の付与されたアニメーション世界の構造で理解すると、こうした時間の可変性がイメージしやすくなる。
我々は、そのアニメーション世界の中にいる登場人物のようなものである

アニメーション世界なら、一時停止させたり、早送りしたり、巻き戻したり、タイパ重視で
飛び飛びにアニメーションのあらすじだけを適当に追ったり、アニメーションとしての
時間の始まりと終わりをウロボロスのように、コマやセルとして繋げることも出来る。
つまり、アニメーション世界ゆえに多様な時間のベクトルを生み出せるので、たとえ
仮に世界がラッセルが言うように5分前に創造されても時間には困らないのである。

つまり、時の経過という錯覚を意識を付与されたアニメーション世界の住人に
知覚させられればいいだけのことになるので、たとえ5分前に世界が出来てても
整合しうる世界を構築することは可能態としては存在することであろう
757: [age] 2025/06/10(火)12:28 ID:0(757/1000) AAS
そもそも時間の経過とは、どのように知覚されるのであろうか。時計の時刻表示などは、
いくらでも出鱈目に作れるので時計は時間経過の真実としては当てならない

ならば、変化ならどうだろうか。胎児、赤子が子供になり、やがて、少年になり、
次は青年、壮年、老年となって、最期に死を迎えると、時間が経過しているように
知覚されるのだろう。だが、死んだ人間にとって、かつて時間が経過していたという
知覚はないであろうから、そもそも時間の持続性の認知も十全ではない。例えば、
君は自分が胎児や赤子の時の時間の経過やその時間感覚を今でも記憶している
だろうか。それはまるで存在していない時間や無ではないだろうか

また、意識を付与されたアニメーション世界の住人ならば、一切、齢を取る必要もなく、
永遠に少年、少女のままでいられるので、そこではまるで時間が流れていないかの
省3
758: [age] 2025/06/10(火)12:29 ID:0(758/1000) AAS
このように哲学は思考の解放系のモデルの一つになっている。思考のコペルニクス的転回を可能にするのが哲学である
759: 2025/06/10(火)15:03 ID:0(759/1000) AAS
哲学は創造ではなく真理の発見だったのでは
760: 2025/06/10(火)15:04 ID:0(760/1000) AAS
ニーチェのように真理の存在を認めない哲学者もいる
761: [age] 2025/06/11(水)00:09 ID:0(761/1000) AAS
哲学は主観だから、哲学に証明含めて、数学のような客観性や厳密性を
求めるのは筋違いである。だから、フッサールも数学は厳密な学として、
哲学における学とは区別した

だが、主観的であれば即無価値というものでもないだろう
哲学は、ある思考のモデルや思考の型を提示しているので、
哲学は思考そのものに寄与、もしくは、作用していると考えられるからである

たとえば、ある哲学αの内容が人口に膾炙したり、多くの人々の思考に
作用や影響をもたらしたとしよう。そのとき、その社会は哲学αの作用を
受けて、βとして変容するはずである。
762: [age] 2025/06/11(水)15:14 ID:0(762/1000) AAS
哲学をする上で、己の思考の傾向性を知ることは大事に
なるであろう。哲学においては大まかに言って、
「唯物論的」傾向と「観念論的」な傾向に分類される
であろう。もちろん、この両項の間にはグラデーションが
あるので完全にこのような二項対立が存在するわけでは
ないが、それでも己の思考や哲学の傾向性を知る観点で
は意味のある分類となることであろう

たとえば、ヘーゲルが観念論的であるのに対して、
マルクスは唯物論的である、というような分類法である。

プラトン、カント、バークリー、ゲーデルや数学実在論のメイヤスー、
省3
763: [age] 2025/06/11(水)15:15 ID:0(763/1000) AAS
これをもっと分かりやすくいうと、無神論の傾向性が高いものが
唯物論的であり、神や理念、イデア的なものへの志向が高いもの
が観念論であると言える。よって、形而上学は観念論的であり、
科学は唯物論的となる。

現代社会は資本主義の価値観を人々が盲信しているため、一見
すると唯物論的な思考に支配されているようにも映るが、人々が
大勢初詣に出掛けたり、様々な縁起をかつぐ行為を目撃すると、
観念論的な傾向も同時に持ち合わせているのかもしれない
柄谷行人のように貨幣には霊が宿り、そこには物神(フェティッシュ)
が介在しているという考察もあるので、資本主義が端的に唯物論
省3
764: [age] 2025/06/11(水)15:15 ID:0(764/1000) AAS
チャーマーズはサーモスタットにも微弱な意識が宿っていると
考えているので、これには汎心論的なニュアンスがあるので、
観念論の方に近い立場であろう

また、ピタゴラスのように「数」を実在とみなすような立場も
観念論の方に近い立場に分類されて良いであろう。

つまり、物事を抽象構造やモデルで捉えていくアプローチが
観念論的であり、検証や実証など具体的に定量化しうるモデル
で捉えるアプローチが唯物論的なものとなる。前者は定性的で
あるのに対して、後者は定量的である。

ベンサムの功利主義も功利計算として快の量を定量化出来ると
省1
765: [age] 2025/06/11(水)15:16 ID:0(765/1000) AAS
ベルクソンの定義によると、多性の概念は以下のようになる

・外界で観察できるような量的多数性。これは量的であるがゆえに、
物理学など科学がその対象領域とするものである。

・意識体験や心的事象において感じられる質的多様性。これは量に還元できない
質的な体験や現象になるため定量化が必要な科学では原理的に扱えないものである

哲学的ゾンビには、この後者の意識体験が無いということだから、ある意味、
物理学が扱える外在的な対象となるだろうが、定量化に依存する科学では、
この哲学的なゾンビと我々意識体験を持つ人間を区別することも、また同時に
不可能になることであろう。
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