何故、魏は大国でありながら呉と蜀に苦戦したのか5 (602レス)
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403
(1): 2021/12/13(月)07:06 ID:pW1STQDJ0(1/10) AAS
>>402
姜維に一度も負けていないからいないとやばかったんじゃね
412: 2021/12/13(月)19:14 ID:pW1STQDJ0(2/10) AAS
トウガイは呉に亡命すべきだった
413: 2021/12/13(月)21:32 ID:pW1STQDJ0(3/10) AAS
魏王朝は、
皇太后、皇族、外戚、宦官のいずれも曹丕の意向で、
権力を握ることはできなかった。
414: 2021/12/13(月)21:52 ID:pW1STQDJ0(4/10) AAS
226年の5月に魏文帝曹丕は崩御した。
40歳であった。
後継者は曹叡である。魏明帝となる。
曹叡は皇太子ではなかった。
曹丕は本当は曹礼という曹叡の異母弟を後継者にしたかった。(「魏略」)
415: 2021/12/13(月)21:53 ID:pW1STQDJ0(5/10) AAS
理由は、
・曹叡は皇后甄氏の子であったからだ。
甄氏は221年に曹丕から賜死を受けて死去した。

しかしながら、曹礼を後継者にする段取りが整っていなかった。
そのため長子であった曹叡が選ばれたのである。
40歳という早すぎる死を前にして、
魏文帝曹丕は冷静であった。
416: 2021/12/13(月)21:53 ID:pW1STQDJ0(6/10) AAS
曹丕は曹叡とは疎遠で、平原王(今で言う、済南のそば)として現地に駐在していたため、
朝臣たちは曹叡の人柄などを全く知らなかった。

魏明帝曹叡は、
即位の翌年に、
陳羣以外を出鎮させる。
これは後々西晋における八王の乱の時も度々使われた手法である。
権力者を体良く追い払う手段なのだ。

曹叡は、親政を志向し、先帝の重臣を追い払った。
経緯からすればやむを得ない。
曹叡は、秘書(魏では中書)の劉放と孫資を重用し、今後親政を行う。
417: 2021/12/13(月)21:54 ID:pW1STQDJ0(7/10) AAS
魏晋期によく見られるのがこの
「録尚書事」という役職だ。

これに任じられると権力のトップに位置づけられる。

この録尚書事というのは、
尚書(漢の武帝のときに新設)を管理する。

尚書とは皇帝への上奏を取り扱う。

録尚書事の「録」は元々「領」であり、
「尚書」の「事」を「録(領)」する
という意味だ。
418: 2021/12/13(月)21:55 ID:pW1STQDJ0(8/10) AAS
つまり録尚書事を通さなければ、
皇帝へ上奏ができない。
録尚書事でなければ皇帝権へアクセスできない。
こういうと、秦始皇帝のときの宦官趙高を思い出す。

言い方は悪いが、
皇帝に上奏を上げるか上げないかは、
この録尚書事次第となる。
皇帝の意向ということで上奏を握りつぶすことも
騙ることもできる。
非常に大きな権限を握っている。
419: 2021/12/13(月)21:55 ID:pW1STQDJ0(9/10) AAS
魏王朝は、
皇太后、皇族、外戚、宦官のいずれも曹丕の意向で、
権力を握ることはできなかった。
魏文帝曹丕の時代の録尚書事は、
陳羣と司馬懿である。
曹丕の臨終の際に、共に遺詔を受けた、
曹真・曹休は、それぞれ関中と揚州に駐屯していた大将軍だったが、
上奏は、この録尚書事を通さないとできなかった。

だから、曹丕の治世では、曹真・曹休ではなく、
陳羣と司馬懿がトップであった。
省1
420: 2021/12/13(月)21:55 ID:pW1STQDJ0(10/10) AAS
曹丕の治世で皇帝の親政・側近政治はすでに始まっていた。
曹叡からではなかった。

※なお、この尚書と対になるのが中書である。
皇帝の詔勅を立案・起草する。
時代によって、役割・位置づけが異なる。
詳細は省く。これも漢の武帝の時に新設された。
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