暦・カレンダーの歴史 (197レス)
1-

1
(1): 03/01(土)13:07 ID:0(1/197) AAS
かつては今の3月を年の始めとする国があった
Septemberはラテン語で「7番目」という意味から来てるし
同じくOctoberは「8番目」と言う意味からきた言葉
98: ウムウル 03/25(火)23:41 ID:0(98/197) AAS
>>94

やっぱ、めっちゃ難しいらしい

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B5A8C0E12FB5A8C0E1A4CEA4E1A4B0A4EAA4CEBCFEB4FC2FC6F3BBEAC6F3CAAC.html

グレゴリオ暦はもとより宗教暦で
春分の日をズレない固定するのが目的だから
観測から解るレベルでは
相当正確にルール決めてあると思いますね
99: 03/26(水)06:21 ID:0(99/197) AAS
>>97
地球の形を確定させるため、1735年、フランス科学アカデミーはラップランドとペルーに測量隊を派遣した。
このペルー測量隊が筆舌に尽くしがたい苦労をしたのだ。
100
(2): 03/26(水)20:49 ID:0(100/197) AAS
>>96
太陽の位置は正確に計測するのは難しいので(円だから)、恒星はどんなに拡大しても点画像だから、恒星と時計で計測したと思う。
正確な時計の発展とともに精度があがったのだろう。
101: ウムウル 03/26(水)22:32 ID:0(101/197) AAS
>>100
好青年では日の暦できないので
もう諦めるしかないですね

時計もいくら発達しても
正確な平均回帰年は測れないので、、、
102
(1): ウムウル 03/27(木)00:32 ID:0(102/197) AAS
>>51

このページにローマ暦の
ユリウス暦のいろいろについて
まとめて書いてあった

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B8C5C2E5A5EDA1BCA5DECEF12FB5A8C0E1.html
103: ウムウル 03/27(木)00:40 ID:0(103/197) AAS
>>102

ここに出てくるウァロは
ローマ年表を作成したのと同一人物らしい
あと、サイト内のコメントも
いろいろと気になるところはある

ウァロはローマの文献学者 ルキウス・アエリウス・スティロ(紀元前74年死去)に師事し、後にはアテネでアカデミア哲学者アスカロンのアンティオコス(紀元前68年死去)に師事した。ウァロは非常に多作な著述家であり、様々なテーマで74冊以上のラテン語作品を発表した。断片的にしか知られていない多くの失われた作品とは別に、歴史家にとって傑出した2つの作品、『九冊の規準』とウァロニア年表の編纂である。『九冊の規準』は後の百科事典編纂者、特に大プリニウス(紀元 23年頃~79年)の手本となった。『九冊の規準』で最も注目すべき部分は、教養を体系化の原理として用いている点である。[ 8 ]ヴァロは、これらの芸術のうち、文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽理論、医学、建築の9つを特定することに焦点を当てることにしました。
104
(1): ウムウル 03/27(木)00:52 ID:0(104/197) AAS
>>51

ここに日付の数えかた載ってた
やっとしっくりきたけど
ややこし過ぎるだろww

https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B8C5C2E5A5EDA1BCA5DECEF1.html#lfcc3592

古代ローマでは、春分は3月25日とされていたようです。
イースターの日取りを決める際、ローマ派は3月25日を春分としていました。
下記のような紀元前後の各種文献等には、春分は a.d. VIII Kal. Apr=3月25日と書かれています。
105: ウムウル 03/27(木)01:02 ID:0(105/197) AAS
これがまんま閏年や閏日という言葉らしい

Bissextus

>>51

ビセクスト、またはビセクストス(ラテン語の bis 「2倍」とsextus 「6番目」に由来)は、ユリウス暦では4年ごとに、グレゴリオ暦ではほぼ4年ごとに追加される閏日であり、通常の暦年である365日と太陽年の平均日数との間の約6時間の差を補正する。
106: ウムウル 03/27(木)01:13 ID:0(106/197) AAS
ちなみにこの人が
月の日数に関する
ガセネタをぶっこんできた人っぽい

>>89

ヨハネス・ド・サクロボスコ

数学の分野では『記数方論』(Tractatus de Arte Numerandi)、『アルゴリスムス』(Algorismus:計算法)はインド・アラビアの算術法のテキストとして用いられた。暦学の著書De Anni Rationeでユリウス暦が、10日の狂いが生じていることを指摘し、ユリウス暦は228年に1日の調整が必要であることを示した。パリで没した。

サクロボスコの教育と伝記についてはほとんど知られていない。一つには、彼の死亡年は1236年、1244年、1256年と推測されているが、いずれももっともらしいが十分な証拠がない。[ 1 ]
107: ウムウル 03/27(木)13:23 ID:0(107/197) AAS
>>104
カレンダエは勝手に
朔(ついたち)みたいに思っていたが
かなり複雑な形態だったな

特徴あり過ぎでしたね
108
(1): ウムウル 03/28(金)02:19 ID:0(108/197) AAS
>>86
>>79

アレキサンドリアが発祥という説があるらしい

世の中の凄いモノ
かなりのモノがエジプト起源なんだな
109: ウムウル 03/28(金)02:29 ID:0(109/197) AAS
カッシーニしか読めない、、、

天文方を経由しない翻訳だったこともあり、用語の混乱が多数見られます。
刻白爾をコペルニクスと勘違いするケース

中国の暦書では西洋人の名前も漢訳されています。たとえば、多禄某はトレミー (プトレマイオス)、歌白泥はコペルニクス、第谷はティコ・ブラーエ、刻白爾はケプラー、葛西尼はカッシニのことです。
司馬江漢は刻白爾をコペルニクスと勘違いし、コペルニクスとケプラーを混同して紹介しました。これが多くの書籍に影響を与えているようです。
110: 03/28(金)02:30 ID:0(110/197) AAS
>>61
太陰暦は日蝕・月蝕のたびに補正するので、日単位で狂うことは無いよ
111: ウムウル 03/28(金)07:45 ID:0(111/197) AAS
>>51
これはホントなんだろうかw

イースターの東西の話は
いっつも適当に流してるんだよな
112
(1): 03/28(金)10:53 ID:0(112/197) AAS
カレンダーアプリで1582年10月を表示すると4日の次が15日になっている
(iphone、iOS15)
113: 03/28(金)17:31 ID:0(113/197) AAS
>>112
イタリアとスペインでグレゴリオ暦を導入した時期に合わせている。
1582年の10月を10日削る、で、5日から14日を飛ばした。
114: ウムウル 03/28(金)22:11 ID:0(114/197) AAS
イースターの語源
ホントなんかなぁ、、、
115: ウムウル 03/28(金)22:21 ID:0(115/197) AAS
そもそも、めっちゃローカルな呼び名なのか
半分ぐらい関係あるのかと思ってたが
全く関係無かったw
116: ウムウル 03/29(土)14:57 ID:0(116/197) AAS
修正された天動説モデルは
ティコが最初かと思ってたが
順を追うとカペラが既に提示していて
コペルニクスが無視できない理論として
天球回転論の1巻で取り上げられてるらしい
117: ウムウル 03/29(土)14:57 ID:0(117/197) AAS
そういえばアニメやってたけど
おもしろかったんだろうか、、、
118: ウムウル 03/29(土)15:08 ID:0(118/197) AAS
>>100
誰か天才的な方法で
太陽を恒星座標系で記録するという
破天荒な手法を編みだしたとしたら
天球の理解は進んだんだろうか、、、
119: ウムウル 03/29(土)15:16 ID:0(119/197) AAS
エジプト式がまさにこれか、、、

ほんの一時を利用した超難度の観測
どれぐらいズレるんだろう
120
(1): ウムウル 03/29(土)15:22 ID:0(120/197) AAS
マヤとエジプトは
天頂通過日という特別な天文イベントを利用できるから
太陽に関する理解は他文明より
優位な立場にあっただろうなとは思う

エジプトのはだいぶあとまで
利用方法が出てこないが
実際はかなり記録されてたのでは、、、
121
(2): ウムウル 03/29(土)15:51 ID:0(121/197) AAS
めっちゃ気になる画像を見かけた
ほとんどミステリーサークルだった

>>55
関係ないサイトの
ありがたい文章

ドレスデン絵文書と呼ばれるマヤ文明の古文書の46ページから50ページまでは、金星について書かれています。その各ページの左下には「236」「90」「250」「8」という数字があり、合計は「584」です。

 これらの数字がそれぞれ「明けの明星が見られる期間(236日)」「外合付近で金星が見えない期間(90日)」「宵の明星が見られる期間(250日)」「内合付近で金星が見えない期間(8日)」そして「金星の会合周期(584日)」を表していると考えられているのです。
122
(2): ウムウル 03/29(土)15:52 ID:0(122/197) AAS
>>121

太陽暦と儀礼暦と金星
 52年で太陽暦と儀礼暦がひとめぐりする「カレンダーラウンド」についてはすでに説明しましたが、この金星の会合周期も合わせたカレンダーラウンドについても、考えてみましょう。

 太陽暦が104年経つと「365日×104年=37960日」です。

 儀礼暦が146年経つと「260日×146年=37960日」です。

 金星の会合周期が65サイクルすると「584日×65サイクル=37960日」です。

 このように、太陽暦、儀礼暦、金星の会合周期がすべて37960日(太陽暦104年)で1年の始まりの日が一致する「カレンダーラウンド」になるのです。

 よって、マヤ文明では、この「37960日(太陽暦104年)」の周期が重要な意味を持つと考えられています。
123: ウムウル 03/29(土)16:13 ID:0(123/197) AAS
>>82

金星 584日
584=73*2^3

8の倍数が入ってる方が
しっくりくるが
73*5=365なのですな

内惑星は調整してる感じですね
124: ウムウル 03/29(土)16:15 ID:0(124/197) AAS
>>122
8年おきに祭りがあるけど
80年目では金星の修整があったと
どっかのサイトに書いてあったな
125: ウムウル 03/29(土)16:42 ID:0(125/197) AAS
もう四分割する構造らしいけど
昔は28だった説があるっぽいです
インドはいつでもなんでも複雑すぎるww

>>44
ヴェーダによれば、ナクシャトラの起点は「クリッティカ」である(プレアデスがヴェーダが編纂された当時、おそらく春分に年を開始した可能性があるため、これは議論されている)が、より最近の編纂では、ナクシャトラリストの起点は、サンスクリット語でチトラと呼ばれるスピカの真向かいの黄道上の点である。これは、現代の牡羊座の一部であるアシュヴィニーと翻訳される。したがって、これらの編纂は、春分時に太陽が牡羊座を通過していた数世紀の間に編纂された可能性がある。このバージョンは、メシャディ、つまり「牡羊座の始まり」と呼ばれていた可能性がある。[ 1 ] [全文引用が必要]
126: ウムウル 03/29(土)16:48 ID:0(126/197) AAS
>>44

28 のナクシャトラという古い伝統では、各等分区間は 12.85 度または 12° 51′ を占めると上記で述べました。しかし、28 のナクシャトラは、ヴェーダの月がちょうど 30 日であると認識されていた時代に選ばれました。インドと中国では、元々の 28 の月の宿は等しくありませんでした。

ウェイシン・ヌイは、ムフルタで表現された元々の 28 のナクシャトラの範囲のリストを提供しています。(1 ムフルタ = 48 分の弧) で表された元々の 28 のナクシャトラの範囲のリストを提供しています。ヒンドゥー教のテキストには、30 ムフルタのナクシャトラが 16 個、45 ムフルタが 6 個、15 ムフルタが 5 個、6 ムフルタが 1 個あったと記されています。

360°の月の黄道帯の28宿は、合計で831ムフルタ、つまり27.7日です。これは、現代の恒星周期である27.3日の不正確な推定値であると言われることもありますが、ヴェーダの月が30日で、月が毎日13度移動する古代インドの暦を使用すると、この831ムフルタ、つまり27.7日の恒星月という初期の指定は非常に正確です。[ b ] [ 8 ] [全文引用が必要] その後、一部のインドの学者は、アビジットと呼ばれるナクシャトラを削除して区分数を27に減らしましたが、中国人は元の28の月の宿をすべて保持しました。これらは4つの等しい四半期にグループ化されていましたが、区分数を27に減らすことに決定した場合、根本的に混乱していたでしょう。
127
(1): ウムウル 03/29(土)17:10 ID:0(127/197) AAS
ドレスデン絵文書は内容を知りたい
と思うのだが詳しい解説はみつからない

もうこのスレは国立天文台ので良い気がしてきたw
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/A5DEA5E4CEF1.html

>>122

ただし、金星の会合は常に584日周期というわけではなく、また平均的にも5×13会合後には誤差が積もっていきますので、これで完璧というわけではありません。
24ページの(9.9.16.0.0)は1,366,560日=2,340金星会合周期(584日)=5,256 Tzolk'in=3,744 Haab=72 CRを表わしています。
128: ウムウル 03/29(土)23:14 ID:0(128/197) AAS
>>127

2CRでだいたい足りるところを
72CRもってくるのは
何か別の長周期と連動させてるんだろうか
129: ウムウル 03/31(月)18:00 ID:0(129/197) AAS
>>34

エ・テメン・アン・キの
日本語ページのところに
順序の解説はあったが
これは遠い順に書いてあるな

そもそも怪しい気はしますがw
130: ウムウル 04/02(水)20:15 ID:0(130/197) AAS
>>96
普通に春分の間隔と
秋分の間隔だけを
平均化するという発想に
行き着くことが可能なのかな

全部の西二分の間隔を数えてたら
どういう気持ちになるんだろう
131: ウムウル 04/02(水)20:18 ID:0(131/197) AAS
>>86

ローマの占星術の系統は
エトルリア占いの系譜があるという話を
方位のとこで聞いたことあったが
途中ピタゴラスイッチしてた

著作は難しすぎて
ほとんど残ってないそうな
132
(3): 04/02(水)21:25 ID:0(132/197) AAS
西洋占星術は生まれた瞬間の惑星の位置を元に運命を占う。
それがわからないときは、生まれた日を元に計算するのだが、太陽とか月の位置は全然違うから正午ごろだと仮定して計算するのかな?
いずれにせよ、惑星の位置が計算できるようになってからの占いだ。
133: ウムウル 04/02(水)23:49 ID:0(133/197) AAS
セラルディだけ聞いたことないな
と思ったらウラルトゥか

>>80

ウラルトゥには3つの主な神が存在し、その中心はハルディHaldiで神殿はアルディニArdini(ムサシル)にあった。
 ハルディは戦士の神で、王は戦争での勝利のためにこの神に祈った。その神殿は武器によって飾られた。
 彼はライオンに上に立つ、有翼あるいは無翼の男として描かれる。妻は豊穣の女神アルバニArubani。
 ある資料では、アルメニア民族の伝説的族長のハイクはハルディに由来するとする。
 他の重要な神はクメヌKumenu(クンマンヌ)のテイスパスTheispaとトゥシュパTushpaのシヴィニShiviniであった。
 テイスパスは天候の神、特に嵐と雷の神であった。牡牛の上に乗った稲妻の矢を持った男として描かれる。
 これはインド神話のインドラに対応する。時には戦争の神でもあった。彼の妻は女神フバHubaであった。
 シヴィニは太陽神で、跪いて太陽盤を頭上に掲げる男として描かれる。彼の妻はトゥシュプエアTushpueaと考えられる。
 有翼女性像がこの神と考えられる。
 他にはハルディの配偶神の女神バグヴァルティBagvarti、ウラルトゥでは一般的にアルバニがハルディの妻であるが、ムサシルでは
バグヴァルティを妻と言及する資料があるり、地域的である。
 その他は月の女神セラルディSelardi。
134
(3): ウムウル 04/03(木)01:21 ID:0(134/197) AAS
>>132

死者の書で太陽船は
一周して回ってた気がするのだが
位置情報も一緒に書き込まれてた記憶はあるな

船ルールは珍しい気はする
車が多いのは印欧族のせいなんだろか、、、
135: ウムウル 04/03(木)19:52 ID:0(135/197) AAS
>>80

メソポタミアは月の神様は
特に改編が激しい気がするのだが
日陰者のせいなんだろうか、、、
136
(1): 04/03(木)21:37 ID:0(136/197) AAS
>>132
一時期流行った13星座って今はどうなってるんだろう
137
(1): 04/04(金)00:17 ID:0(137/197) AAS
>>136
気の迷い。大体、冥王星が科学的に準惑星に落ちても扱いは流派によりまちまちだから。

>それがわからないときは、生まれた日を元に計算するのだが、太陽とか月の位置は全然違うから正午ごろだと仮定して計算するのかな?

太陽の位置で簡易的に星座を決めるんじゃなかったっけ。そうすると大体誕生日の月日ごとに星座が決まるので、現在の通俗星座占いのイメージ
通りになるわけだ。
138: 04/04(金)07:51 ID:0(138/197) AAS
そこでケプラーの惑星正多面体説ですよ
139
(1): ウムウル 04/04(金)23:51 ID:0(139/197) AAS
そういえばエジプトは
36星座のはずだったけど
カバの印象が強すぎて
他が全く頭に入ってこないw
140
(1): ウムウル 04/04(金)23:55 ID:0(140/197) AAS
アヌの道は23星座か
意外と12星座が設定されたのは
遅そうだな
141: ウムウル 04/05(土)08:23 ID:0(141/197) AAS
そういえばなんで
獣帯って言うんだろう
いつからかな
142
(2): ウムウル 04/05(土)19:07 ID:0(142/197) AAS
中国は28星座

マヤはどうなってるのかしら
143: 04/05(土)20:53 ID:0(143/197) AAS
中国の星座を星のソフトで確認した。
やはり西洋のものは、赤道に沿って12個設定し、全天網羅しているから…

中国の星座はでっかい星とかも無視しているトコあるからなー。(プロキオンとか)
144
(2): ウムウル 04/07(月)00:37 ID:0(144/197) AAS
ポリス毎に別の暦が使われたらしい

これは具体的だが直接の関係あるんだろうか

>>87

天文学者の間ではメトン周期やカリポス周期、さらには古代エジプト暦が好んで用いられました。

第Xカリポス周期の第Y年のような表記は、紀元前330年を第1カリポス周期の第1年、76年を1カリポス周期として数えたものです。

Antikytheraの機械には、メトン周期にもとづき、コリントスなどで使われた月名の刻まれた文字盤があります。
145: ウムウル 04/07(月)12:40 ID:0(145/197) AAS
カリポスはリュケイオンで
アリストテレスと働いていたらしい

不確かな情報を含めて書いていくと

>>144

紀元前344年 カリポス周期を発見
紀元前340年 夏至から観測記録を開始
紀元前338年 カイロネイアの戦い→アテネ訪問
紀元前333年 イッソスの戦い
紀元前332年 エジプト進軍
紀元前331年 ガウガメラの戦い→バビロン入城
紀元前330年 ペルセポリス入城→ペルシアかぶれとなる
紀元前327年 ロクサネと結婚
紀元前324年 合同結婚式

バビロン入城時に天文勅令を発令し
バビロン式を導入とあったが
この辺り微妙な気はするな

あと関わってそうなのはベロッソスか
146: ウムウル 04/07(月)22:21 ID:0(146/197) AAS
年代を書き間違ってたwスミマセン

これならカリポス周期を発見というのが
フェイクなら順序が合うな

タイミング的にはエジプト、カルデアの
どっちでもいける訳か

>>144

紀元前338年 カイロネイアの戦い→アテネ訪問
紀元前334年 カリポス周期を発見
紀元前333年 イッソスの戦い
紀元前332年 エジプト進軍
紀元前331年 ガウガメラの戦い→バビロン入城
紀元前330年 夏至から観測記録を開始
紀元前330年 ペルセポリス入城→ペルシアかぶれとなる
紀元前327年 ロクサネと結婚
紀元前324年 合同結婚式
147: ウムウル 04/09(水)03:27 ID:0(147/197) AAS
対角星表の話が載ってるが
読者を置き去りにしたまま話が進むw

>>134

【考古学】古代エジプトでは天文学にどのようなアプローチが用いられていたのか? [すらいむ★]
148: ウムウル 04/09(水)03:39 ID:0(148/197) AAS
調べ直すと死者の書と
太陽船は別モノでした
スミマセン

>>134

「死者の書」(英:Book of the Dead)という名前は、19世紀のドイツ(プロイセン)のエジプト考古学者カール・リヒャルト・レプシウスが学術的に命名した呼称であり(独:Das Todtenbuch)、古代エジプトでの呼び名にはそのような意味はなかった。「死者の書」を意味するヒエログリフをラテン文字化すると「Rw Nw Prt M Hrw」(読みは「ル・ヌ・ペレト・エム・ヘル」または「ペレト・エム・ヘルゥ」)となり、これを日本語に直訳すると「日下出現の書」または「日のもとに出現するための呪文」となる
149
(1): ウムウル 04/09(水)03:42 ID:0(149/197) AAS
12の門はデカンなのかと思ってたが
これも別モノが用意されるらしい
わりと設定も細かいw

>>134

日没とは、彼と彼の船が西の地平星であるアケトを通過し、地下にある冥界ドゥアトに旅立つことを意味した。このように地平線はドゥアトに通じる門や扉として表現されることがあった。そこでは地下を流れるナイル川を航行し、12の門と地域を通過する。この夜の12時間もまた、12柱の守護神によって門が監視されているとした。そして毎晩、ラーは船を襲ってくる巨大な蛇アペプや混沌の神(イスフェト(英語版))と戦う。アペプを倒すと朝を迎え、夜明けと共に現世に戻って再び地上に光をもたらすとされた。
150: ウムウル 04/09(水)03:48 ID:0(150/197) AAS
ざくっと数えると37で
等間隔でもないんだよな

それだけしっかり観測と合わせてあるのかな

>>139

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Zodiaque_de_Denderah_aux_couleurs_d%27origine.jpg

151: ウムウル 04/09(水)18:27 ID:0(151/197) AAS
>>132

占星術はほとんど興味ないのであれだけど
アヤナムシャってどこの言葉なんだろう

そもそも星座関係ないやんか
っていいながら惑星の位置は重視するとか
めっちゃ難しい気がしますw
152: ウムウル 04/10(木)03:41 ID:0(152/197) AAS
ある程度の推測がつくモノもあるけど
よくわからないw

>>137

支配星は惑星とそれに関連するサインやハウスとの関係である。[ 38 ]慣習的な支配星は以下の通りです。[ 9 ] [ 39 ]

牡羊座:火星
牡牛座:金星
双子座:水星
蟹座:月
獅子座:太陽
乙女座:水星
天秤座:金星
蠍座:古典的には火星、20世紀以降は冥王星
射手座:木星
山羊座:土星
水瓶座:古典的には土星、20世紀以降は天王星
魚座:古典的には木星、20世紀以降は海王星
153
(1): ウムウル 04/10(木)03:52 ID:0(153/197) AAS
バビロニアに引っ張られるが
そもそも時代が違いそうではある

>>140

紀元前5世紀末頃、バビロニアの天文学者たちは、12の月(それぞれ30日)に例えて、黄道を12の等しい「星座」に分割しました。各星座は天経30度を含み、こうして世界初の天体座標系が誕生しました。現代天体物理学の計算によると、黄道帯はペルシャ統治時代の紀元前409年から398年の間に導入され、[ 17 ]、おそらく紀元前401年から数年以内に導入されたと考えられています。[ 18 ]北半球の春分(3月春分)の太陽の位置を牡羊座の始まりとする現代の占星術師とは異なり、バビロニアの天文学者は星との関係で黄道帯を固定し、蟹座の始まりを「後ろの双子星」(ふたご座β星)、水瓶座の始まりを「後ろのやぎ座δ星」に置いた。[ 19 ]
154: 04/10(木)05:56 ID:0(154/197) AAS
今日4月10日は上皇陛下夫妻の結婚記念日
155: 154 04/10(木)06:11 ID:0(155/197) AAS
日本史板に書くべき事項だが、あっちには行く気がしないw
156
(1): ウムウル 04/10(木)07:42 ID:0(156/197) AAS
漢字の設定が合わないが
時代はこの頃のはず

>>142

貞観7年(633年)、李春鋒が伝統的な渾天儀を改良し、赤道儀に黄道環と白丸環を独創的に加え、当時としては独特な「三環式」の渾天儀を考案し、渾天黄道儀と名付けたと『旧唐書』と『新唐書』の両方に記録されています。貞観15年(641年)、史官に任じられ、天球儀を研究した『法象志』を著した。
157
(2): ウムウル 04/10(木)07:48 ID:0(157/197) AAS
>>156

ハンティアン黄道十二宮図とあるが
星座ではないのかもしれませんね

観測者は別の人だった気がする
この人は雑音が多いから
ふあんの方が情報拾い易いかな
158: ウムウル 04/10(木)08:11 ID:0(158/197) AAS
だいぶ時代が下るな、、、

>>157

傅安
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/eclipse/chinese_astronomy.htm

紀元前 52 年に、最初の赤道を導入したのは 耿壽昌である。
その後の後漢 (AD 23 年 - AD 220 年) の時代に、
AD 84 年までに、 天文学者である 傅安 (Fu An) さん と 賈逵 (Jia Kui) は黄道の輪を追加した。
159
(1): ウムウル 04/12(土)07:25 ID:0(159/197) AAS
どこからきたのかな?

>>24

この中国暦対応表には、紀元前 2697 年を基準とする中国暦の現在の第 79干支サイクル、または紀元前 2637 年を基準とする場合は第 78 サイクルの幹/枝年名、西暦 (グレゴリオ暦) との対応、およびその他の関連情報が表示されます。
160: ウムウル 04/12(土)07:32 ID:0(160/197) AAS
ふーむ、イエズス会でした

>>159

17世紀、イエズス会の宣教師たちは中国暦の紀元年を確定しようと試みました。マルティーノ・マルティーニ(1614-1661)は著書『中国史10年』 ( 1658年ミュンヘン出版)の中で、黄帝の即位を紀元前2697年とし、伏羲の治世(マルティーニによれば、伏羲の治世は紀元前2952年に始まった)を中国暦の起点としました。 フィリップ・クプレが1686年に著した『中国君主年表』(Tabula chronologica monarchiae sinicae)も黄帝の即位年を同じとしています。イエズス会の年表はヨーロッパで注目を集め、聖書の年表との比較に用いられました。[要出典]現代中国の年代学は、マルティーニの年代を概ね受け入れているが、黄帝の治世を紀元前2698年と位置付け、その前身である伏羲と神農は「伝説的すぎる」として除外している。[この引用は要出典]
161
(1): ウムウル 04/12(土)14:44 ID:0(161/197) AAS
わかったことと
わからなかったことを
まとめていく

黄道は黄帝の道かと思ったが
黄帝は星座になってて
これは黄道とは関係なかった
AI先生は自慢げに
黄帝吉日が起源ですと教えて下さいました
162: ウムウル 04/12(土)15:59 ID:0(162/197) AAS
>>161
黄道吉日ですw

ざっくりした推定だけど
月の軌道が白道として設定された頃には
太陽の軌道として黄道が設定されてた
のではという気はします

そうすると赤道はどうなのかという
疑問もあるのですが
163: ウムウル 04/13(日)10:25 ID:0(163/197) AAS
間違っとるやろ
帝国版はナチスと日本と
東ローマだけなのでは
あ、エチオピアもあるのかな

>>33

キリスト教の千年王国説とは区別されてはいるが、新宗教に独自の千年王国を主張する者がいる。またナチス・ドイツ(大ドイツ国)は第三帝国を千年王国と称したが、ノーマン・コーン等によればマルクス主義にも千年王国と同様の思想が見られる。この説を受けた三石善吉によれば、中国の太平天国の乱は元より、仏教の弥勒思想に千年王国思想を刺戟伝播して発生した大乗の乱等に、千年王国思想[12]が見られる。千年王国思想は

1. 信徒が享受するもので、
2. 現世に降臨し、
3. 近々現れ、
4. 完璧な世界であり、
5. 建設は超自然の者による
という共通した世界観を持ち、

a. この世は悪に染まっており、
b. 全面的に改変する必要があり、
c. それは人間の力では不可能で、神のような者によらねばならず、
d. 終末は確実に、そろそろやってきて、
e. 来るべきミレニアムでは、信徒以外は全員居場所を失う、
f. そのため、信徒を増やすべく宣伝しなければならない。
という「症状」を伴う[13]。
164
(2): ウムウル 04/13(日)10:40 ID:0(164/197) AAS
128年を選ぶパターンで
還暦1941年らしい

>>50

木星の公転周期と日辰

この冒頭部分では、イスラーム暦法の基本が、「128年周期で31の宮の閏日を置き、30年周期で11の月の閏日を置き、1941年周期で宮・月・日辰が再会する」と簡潔にまとめられている。厳密には、これはイスラーム暦法というよりも、ペルシャ文化圏における「ペルシャ暦(太陽暦)とヒジュラ暦(太陰暦)の組み合わせ暦法」の基本であるが、中国文化圏における太陰太陽暦(旧暦、農暦)の日辰という木星由来の紀日・紀年周期もまた言及されている。中国語(漢語)の「歳」には①木星、②1/12木星年≒1太陽年、という2つの意味がある。木星の公転周期は約11.86年である。中国ではこれを12年周期とみなして、木星の公転を表す黄道座標系を12次という。その故に、1次=1/12木星年≒1太陽年=1歳となる。この12次が日辰の12辰、干支の12地支(12獣)の起源である。
165: ウムウル 04/13(日)11:06 ID:0(165/197) AAS
>>153
>>149

状況的に考えると黄道12宮の発明は
エジプトなのではという気がしてきますね

死者の書って
いつ頃成立したんだろうか
166
(1): ウムウル 04/17(木)13:17 ID:0(166/197) AAS
日蝕を竜にたとえる文化がありそうなのだが
中国以外が発祥の可能性もあるのだろうか
167: ウムウル 04/17(木)22:25 ID:0(167/197) AAS
AIセンセによるとインドの影響らしい
ふーむ、アルマゲスト気になるな

>>166

西洋で月の軌道の昇交点を「ドラゴンヘッド (Dragon's Head)」と呼ぶようになったのは、中世初期に遡ると考えられています。

なぜそう呼ばれるようになったのか?

この名称の起源は、インド占星術の概念がアラビアを経由して西洋に伝わったことにあります。

インド占星術 (Vedic Astrology): インド占星術では、日食と月食はラーフ (Rahu) とケートゥ (Ketu) という「影の惑星」によって引き起こされると考えられていました。ラーフは龍の頭、ケートゥは龍の尾として擬人化されました。これらは月の軌道が地球の公転面と交わる点、すなわち昇交点と降交点に対応します。

アラビア天文学・占星術: アラビアの天文学者や占星術師たちは、インドの天文学や占星術の知識を翻訳・吸収する過程で、ラーフとケートゥの概念も取り入れました。彼らはラーフをアラビア語で「al-Tinnīn」(龍)または「al-Jawzahr」と呼び、その頭(昇交点)を「Ra's al-Tinnīn」または「Caput Draconis」(ラテン語で「龍の頭」)と表現しました。尾(降交点)は「Dhanab al-Tinnīn」または「Cauda Draconis」(ラテン語で「龍の尾」)と呼ばれました。

西洋への伝播: 12世紀頃になると、アラビアの天文学・占星術の文献がラテン語に翻訳され、西洋の学者たちに広まりました。この翻訳の過程で、「Caput Draconis」と「Cauda Draconis」というラテン語の名称が、それぞれ昇交点と降交点を指す言葉として定着しました。
168
(1): ウムウル 04/18(金)09:51 ID:0(168/197) AAS
12次の説明

>>157

二十四節気や二十八宿との関係が漢書律暦志に記載されています。

黄道十二宮とは違い、二至二分をはじめとする中気は十二次の始点ではなく中央に来るように区分されます。
当時の二十四節気は並びや名称が現在と少し異なります。

二十八宿の間隔はバラバラですが、十二次はほぼ均等に分かれます。
たとえば星紀の初度は斗宿の12度、中度は牛宿の初度のように、二十八宿を使って定義されています。

ただし、1周365度~太陽は1日1度動きますので、若干ばらつきはあります。
二十八宿を使った定義によれば、二十四節気も赤経の間隔がほぼ一定ということになります。

当時使われていた平気法とマッチしておらず、観測すれば矛盾に気づいたことでしょう。
169: 05/02(金)06:23 ID:0(169/197) AAS
てんぷら
170: ウムウル 05/02(金)10:23 ID:0(170/197) AAS
>>71

八天干はさらっと読み流していたが
わりと謎の仕組みな気がする
171: ウムウル 05/04(日)07:55 ID:0(171/197) AAS
>>164
>>71

曜日だから7しかないのかな?
イスラムの7日は聖書と同じとこから
出現してるんだろうか>>37
172: ウムウル 05/24(土)22:18 ID:0(172/197) AAS
さて、参考資料を読もうと思うのだが

ウォーレンフィールド
ナブタ・プラヤ
ギョベクリ・テペ

この辺りまでカバーされてるのかしら
173
(1): ウムウル 07/12(土)16:57 ID:0(173/197) AAS
>>29
週5日の国を見つけたので
調査してみたいと思います

とりあえず市のために設定されたとのこと
ローマとかと近いかな
174: ウムウル 07/12(土)17:15 ID:0(174/197) AAS
>>36
暦が週7日になったのは
コンスタンティヌス帝の時代と書いてあったが
どれぐらいの確度かはわからんな
175: 07/13(日)12:52 ID:0(175/197) AAS
>>1
そうですね、まさにその通りなんです! 昔は3月を1年の始まりとする暦を使っていた国がありました。たとえば、古代ローマの暦はそうだったんですよ。当時は春分点のある3月が新年とされていました。

そのため、現在の暦でいう9月を意味するSeptemberは、ラテン語で「7番目」を意味する"septem"から来ています。そして、10月を意味するOctoberは、同じくラテン語で「8番目」を意味する"octo"から来ているんです。

なぜこうなっているかというと、紀元前45年にユリウス・カエサルが「ユリウス暦」を導入して、1月が年の始まりになったからなんです。それまでの暦は、今の暦とズレがあったんですね。だから、昔の7番目と8番目が、今の9月と10月になったというわけです。
176: 07/13(日)12:54 ID:0(176/197) AAS
>>168
そうですね、漢書律暦志に二十四節気と二十八宿の関係が書かれているのは事実です。黄道十二宮とは違って、二至二分(夏至、冬至、春分、秋分)のような中気が十二次の区分の真ん中にくるようにされているのはその通りです。また、昔の二十四節気は今のものとは並びや名前が少し違うというのも正しい情報です。

二十八宿の間隔がバラバラな一方で、十二次がほぼ均等に分けられているというのもその通りです。例えば、星紀の始まりが斗宿の12度、真ん中が牛宿の初度といったように、二十八宿を使って十二次が決められていました。

太陽が1日に約1度動くので、1年で365度くらいになるのはご存じの通りです。そのため、二十八宿を使った定義だと、二十四節気は赤経の間隔がほぼ同じになる、という説明も間違いではありません。

ただ、当時使われていた平気法と、実際に観測した結果が合わないことに気づいたはず、という部分については、当時の天文学者もその矛盾を理解し、その上で暦を作っていたと考えられています。完全に無視していたわけではなく、そのズレをどう扱うかが当時の課題だったと言えるでしょう。
177: ウムウル 07/18(金)17:44 ID:0(177/197) AAS
月のモノ

【ナショジオ】「閉経を運命として受け入れる必要はありません」、閉経なくしたり遅らせたりする治験続々 [すらいむ★]
178
(1): ウムウル 08/20(水)03:20 ID:0(178/197) AAS
>>58

アステカ暦は周期に
別の名前を持ってるらしいので
この内容は誤りと思われる
179: ウムウル 08/20(水)03:30 ID:0(179/197) AAS
>>59

>>178

365日の「年」はナワトル語でシウィトル(xihuitl)と呼ばれる。シウポワリとはシウィトル(接続形 xiuh-)を数えること(p?hualli)を意味する[1]。

シウポワリは20日からなる「月」が18か月と、名前のない余日5日(ネモンテミ、凶日と考えられた)から構成される。実際の太陽日が365日より少し長いことはメソアメリカではよく知られていたが、シウポワリに閏日は存在せず、どのように暦と季節とのずれを調整していたかは知られていない[2]。

20日しかないのに「月」と呼ぶのはややおかしいが、ナワトル語ではメツトリ(m?tztli)と呼び、これは天体の月と同じ語である[3]。
180
(1): ウムウル 08/30(土)00:46 ID:0(180/197) AAS
>>28
>>173

アステカ暦の週は5日
漢王朝の休日は5日毎だった気がします
→週6日
ジャワに週が5日の暦があるらしい
日本にも5日単位の暦がある
181
(1): 09/02(火)22:23 ID:0(181/197) AAS
>>180
アステカ暦の週は5日じゃないぞ。アステカには「トナルポワリ」って呼ばれる260日の神聖暦と、「シウポワリ」って呼ばれる365日の太陽暦の二つがあったんだ。トナルポワリは20日周期と13日周期の組み合わせでできてて、週5日って概念はねえな。漢王朝の件もググってみたら、役人の休日は5日ごとだったらしいな。ジャワ暦の「パサラン」ってのは週5日だ。日本にも5日単位の暦があったってのは、陰陽道で使われてた五行説と関連してるんだろうな。
182: ウムウル 09/03(水)22:57 ID:0(182/197) AAS
>>181

Tianquiztli «Mercado»
これが5日周期らしいのだが
AIセンセが教えてくれたので誤情報かもしれませんねw

ただ普通にWikipediaにも載ってましたよ

おそらく「5つの太陽の神話」が元になってて
5日目が象徴数なのは間違いなさそうではありましたね
183: ウムウル 09/03(水)23:40 ID:0(183/197) AAS
七十二候は二十四節気を細分化したもので、気候を表します。
一気を初候・次候・末候の三候に分けるので、合計72個になります。
二十四節「気」と七十二「候」をあわせて「気候」となります。
北魏の正光暦から暦に記載されるようになりました。

スッキリ書いてあって助かる
184: ウムウル 09/03(水)23:47 ID:0(184/197) AAS
これはわりと
歴史的な関わりもあっておもしろい
エジプト式だけど日の設定はソビエト的

>>29

ソビエト連邦の5日週と6日週†

1929年10月から1940年6月26日の間、ソビエト連邦(現ロシア)では5日あるいは6日が生活単位となっていました。

1929年、5日週の採用 (Nepreryvka)。
5つの曜日は番号や色、記号などで区別されました。
労働者は5グループに分けられ、交代で順番に休みます。
当時は五か年計画の真っ只中、これにより、工場などを連続稼働させ、生産性を上げることができるはずでした。
しかし、家族や友人と休日があわない、日曜日に礼拝に行けないなど不満が続出、肝心の生産性も上がらなかったようです。
年に5日だけ、共通の休日が設けられました。
1月22日:1905年1月22日(ユリウス暦では1月9日)におきた血の日曜日事件、1924年1月21日のレーニン命日にちなみます。
5月1日と2日:メーデー、労働者の日にちなみます。
11月7日と8日:1917年11月7日(ユリウス暦では10月25日)におきた十月革命にちなみます。

1931年、6日週の採用 (Shestidnevka)。
各月の6/12/18/24/30日が共通の休日とされました。
30日のない2月や31日などの扱いは、統一がとれていなかったようです。
第2次世界大戦が激化し、ナチスの脅威がソ連にも迫りつつあった1940年06月26日、7日週は復活されました (ロシア連邦公文書館 [外部サイト])。
185
(1): ウムウル 09/04(木)00:33 ID:0(185/197) AAS
余日の使い方が解らんな

>>43

各月は10日ごとの週=旬(décade)に分けられます。
曜日はPrimedi、Duodi、Tridi、・・・、Décadiのように、番号で呼ばれました。
公的機関の休日はDécadiに変更されました*5。

その後、共和暦の使用とくにDécadiの休日化は強制力を増し、祭り・市場・結婚式など、様々なものがDécadiに行うよう定められていきました*8。

フランス革命では、王族や貴族に加えて聖職者階級も打破の対象であり、キリスト教の日曜礼拝や祭日を忘れさせるため、共和暦が利用されました。

しかし、公式の休日が7日に1回と10日に1回では大きな差があります。
カトリック教会との和解に伴い、共和暦8年にはDécadi休日は公務員等に限定され*9、共和暦10年にはそれもなくなり*10、7日週に戻りました。

暦自体も、共和暦13年フリュクティドール22日(1805-09-09)の元老院決議*11にもとづき廃止され、1806年からはグレゴリオ暦に戻りました。
186: ウムウル 09/04(木)00:48 ID:0(186/197) AAS
エジプト式らしい
参考にしただけのことはある

>>185

実月30日と葡萄月1日の間に入れられた各日の名は次のとおり。

La Fête de la Vertu - 美徳の日 - 9月17,18日
La Fête du Génie - 才能の日 - 9月18,19日
La Fête du Travail - 勤労の日 - 9月19,20日
La Fête de l'Opinion - 意見の日 - 9月20,21日
La Fête des Récompenses - 報酬の日 - 9月21,22日
La Fête de la Révolution - 革命の日 - 9月22,23日 (閏年のみ)
日付はそれぞれ、グレゴリオ暦でその日に相当する日付である。これらの日は総称して「サン・キュロットの休日」(Les Sans-Culottides)と名付けられ、III年(1795年)からあとはles jours complémentairesと呼ばれた。

革命当時、貴族はキュロットズボンを履いていたため、市民は「キュロットをはかない人」(サン・キュロッティード Sans-Culottides)と名付けられた。それにちなみ、国民の休日は市民階級を指すサン・キュロッティードと呼ばれたのである。今日では、サン・キュロッティードとは共和派の意味をも持つ。
187: ウムウル 09/04(木)07:23 ID:0(187/197) AAS
>>164
日辰とはなぜそんな名前になったのだろうか?
AIセンセに聞いてきます
188: ウムウル 09/05(金)04:19 ID:0(188/197) AAS
ヤヴァナジャタカ
インド占星術にどこまで影響を与えたか

>>108

Sphjidhvajaによって書かれ、インド占星術の古代文書です。

デイヴィッド・ピングリーによると、これはギリシャ語のテキストをサンスクリット語に翻訳したもので、紀元120年頃にアレクサンドリアで書かれたと考えられている [ 1 ] 星占いに関するものです。ピングリーの解釈と修正に基づくと、西暦149年から150年に西クシャトラパのルドラカルマン1世の統治下で「ヤヴァネーシュワラ」(「ギリシャ人の主」)によって行われた元の翻訳は失われており、120年後にルドラセーナ2世の統治下でスプージドヴァージャが行った修正の大部分のみが現存しています[ 2 ] 。しかし、新たに発見された写本やその他の文書に基づくマックの最近の研究によると、ピングリーの日付の解釈や、ゼロやその他のbhūtasaṃkhyāなどの重要な読み方は、写本に書かれた内容ではなく、彼自身の修正に基づいていたということです。さらに、バースカラやウトパラといった著述家によれば、ヤヴァネーシュヴァラとスプージドヴァジャは伝統的に同一人物を指し、前者は後者の称号であると理解されていた。マックによるヤヴァナジャータカの年代は現在、西暦4世紀から6世紀の間に改訂されている。[ 3 ]
189: ウムウル 09/05(金)04:25 ID:0(189/197) AAS
>>76
妊婦がサウナーなのは
危険過ぎる気がするのだが、、、
190: ウムウル 09/05(金)21:10 ID:0(190/197) AAS
>>34

ヒンドゥー占星術には、月の宿(ナクシャトラ)システムなど、ヘレニズム占星術には見られない要素を含む、微妙な解釈と予測のサブシステムが複数含まれている。

ヘレニズム占星術が伝わって初めて、インドにおける惑星の順序は7日間の週の順序に定まった。[ 15 ]

ヘレニズム占星術と天文学では、牡羊座で始まる12の黄道十二宮と、アセンダントで始まる12の占星術の場所も伝えられました。[ 16 ]ギリシャ占星術がインドに導入された最初の証拠は、紀元前数世紀のヤヴァナジャータカです。 [ 17 ]

ヤヴァナジャータカ(文字通り「ギリシア人の言葉」) は、西暦2世紀にヤヴァネーシュヴァラによってギリシャ語からサンスクリット語に翻訳され、サンスクリット語で書かれた最初のインド占星術の論文と考えられています。[ 18 ]しかし、現存する唯一のバージョンは、西暦270年のスプジドヴァジャの詩のバージョンです。[ 17 ]

曜日を定義した最初のインドの天文学のテキストは、アーリヤバタ(西暦476年生まれ)のアーリヤバティーヤでした。 [ 17 ]
191
(1): ウムウル 09/11(木)23:29 ID:0(191/197) AAS
>>142

エル・タヒンという名称は、タヒンと呼ばれる12人の老人がこの遺跡に住んでおり、彼らは雷雨の神であるという地元のトトナク族の神話伝承に由来している。前述のように現在トトナク人が近隣に住んでいるため、トトナク人の建てた都市とされてきたが、最近[いつ?]の研究の成果に伴いマヤ系のワステカ人によって建設されたものではないかという説が有力になりつつある。

>>121

エル・タヒンでは、金星がよいの明星のあとに9日間現れないことがあり、それは、神々が天界で行っている球戯で、金星が負けるために現れなくなると考えられていた。その後、金星が明けの明星として再び現れるためには地下世界にいる金星の神を元気づけるために生贄を捧げる必要があると考えられ、そのためにはプルケ酒の神に嘆願するのがよいと考えられていた。
192: ウムウル 09/11(木)23:38 ID:0(192/197) AAS
ふーむ、ほんまかいな

[注釈 12]メソアメリカの人々の中には、マヤ人をはじめとして月にはウサギがいると考える人々がいた。マヤ文字に月とウサギが同時に表現される例やウサギを抱える月の女神などの表現がみられる。

>>191

六番目の場面

六番目の場面でもプルケ酒の醸造槽のある神殿が中央に刻まれている。屋根の上にはウィルカーソンが風の神と考える丸い盾をもった人物が座っている。

醸造槽の中には、魚のようなヘルメット若しくはかぶり物をした人物がすわっている。醸造槽の脇には雨の神が股をひらいてしゃがんでいる。

雨の神の上にはウサギの頭をもった人物が空を飛んでおり、ウィルカーソンは月であると考える[注釈 12]。

雨の神は、自らのペニスに棒のようなものを突き刺し、あたかも魚のかぶり物をした人物の顔に向かって、血か精液を振りかけているように見える[注釈 13]。 この血か精液と考えられる液体がプルケ酒に変わると考えられ、言い換えれば雨神の自己犠牲[注釈 14]によってプルケ酒が生み出されると考えられていた。
193
(1): ウムウル 09/11(木)23:50 ID:0(193/197) AAS
>>120

アグアダ・フェニックス遺跡

文字以前に確立していた20日単位の暦

遺跡を構成する20の盛土は、マヤ暦のひとつである20日周期の暦に通じる。このことから、今回発見された500点近くの遺構は、いずれも儀式に用いられる集会所だったと考えられている。また、多くが同じ方角に向けて建てられており、その方角はこの地域で太陽が天頂を通過する5月10日の日の出の方角と一致する。

さらに、この原則に当てはまらない遺構についても、いくつかの特定の方角に分類できることがわかってきた。それらは5月10日を基準とし、その40日前・60日前・80日前・100日前など、20日単位で日の出の方角と向き合うように設計されている。各遺構を構成する20区画の盛土とあわせ、20という数字に人々が特別な意味を見出していたことをうかがわせる。

放射性炭素年代測定により、遺跡は紀元前1000年から同800年のあいだに建造されたものと推定されている。マヤのピラミッドよりも、さらに1500年ほど前の年代だ。今回の発見は、まだマヤ文明が文字をもたなかった当時において、すでに20日単位の暦が確立していたことを示唆するものだ。
194: ウムウル 09/12(金)04:06 ID:0(194/197) AAS
>>193
これは天文観測に従って
施設が配置されてるとは発表されてたが
具体的な構成は出てきてなかったな

まさかの天頂通過基準なのか
195
(1): ウムウル 09/16(火)21:05 ID:0(195/197) AAS
>>59
>>72

これまでの調査の感じだと
20日は月であり週
13の方が数えの単位(周期)と思えるが
国立天文台のとこは年がないと述べていた

260日暦は祭祀と深く関連づけられていたため、祭祀暦とも呼ばれる。アステカの場合、13日の各周期(ナワトル語名が不明のため、スペイン語で13のまとまりを意味するトレセーナ trecena と呼ばれる)は、その第1日の名前(ワニ、ジャガーなど)によって支配され、それぞれ異なる運勢を持つと考えられていた[2]。また、20日周期の各日にそれぞれ別の守護神があった。

これに13の日の主、13の神聖な鳥、夜の九王などが組み合わされ、個人の吉凶や催事の日取りを決めるのに用いられた[3]。これらはトナラマトル(tonalamatl)という書物に記された[4]。
196
(1): ウムウル 09/16(火)21:22 ID:0(196/197) AAS
トレセナは占い本らしい
13日の曜日とある
夜の9王の相関はよく意味が解らんな

>>195

最初のセクションは、現存する最も精緻な占星暦(トナルマトル)の一つです。各ページは、トナルポワリ(260日)の1年における20のトレセナ(13日間の期間)のそれぞれを表しています。ページの大部分は支配神(あるいは神々)の絵で占められており、残りの部分にはトレセナの13の曜日と、その他の13の象形文字や神々が描かれています。

祭司たちはこれらの26のシンボルを用いて、星占いを作成し、未来を占うことができました。写本の最初の18ページ(元の20ページのうち残っているのはこれだけです)は、最後の部分よりもかなり摩耗が進んでおり、これらのページがより頻繁に参照されていたことを示唆していると考えられます。

写本の第2部は、メソアメリカの52年周期を記録し、52太陽年の各日の最初の日付を順番に示しています。これらの日は、9人の夜の主と相関関係にあります。

第三節は、儀式や儀礼、特に52年周期の終わりに「新たな火」を灯さなければならない儀式に焦点を当てています。この節は未完成です。
197: ウムウル 09/17(水)02:04 ID:0(197/197) AAS
>>196
トラナマトルの間違いです

13日占いと9日占いが
ある感じなんだろうか

いちばん類似してるのはなんだろう
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