なぜ、馬鹿には哲学は無理なのか? (234レス)
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(2): 2024/01/27(土)20:57 ID:0(1/234) AAS
近所にいる馬鹿に、こう訊ねてみよう。「あなたは今、どんな哲学を持っているのか?」

その馬鹿の反応「は?」

たぶん、その近所にいる馬鹿は、生まれてこの方、一度も哲学を持った試しがないことであろう。それが、当該人物が馬鹿であることの根拠でもあり、原因、理由でもあるのだ。哲学を持たぬ者は、環境と状況、有力者や権力、知人、マスメディアの言説に右往左往するだけの塵芥、すなわち馬鹿として一生を終えることになる
135: 2024/02/13(火)13:20 ID:0(135/234) AAS
"belief"について、
>from *galaub- "dear, esteemed," from intensive prefix *ga- + PIE root *leubh- "to care, desire, love.
という語源説明を、私は、「その過剰性において、後付けの民間語源説的な解釈」であるとしたが、だからといって、それは、このような関連付けが「役に立たない」ということではない。
それどころか、この関連付けは、"belief"における"lief"が、こゑ(声)としてどのような様態の想起と結び付いているのかを知るのに多いに役立ち、この場合、こゑ(声)とそれによって想起される様態の対応関係から、例えば、英語の"love"ややドイツ語の»Liebe«という表現が、日本語としては、「恋(こひ)」や、漢語の「愛(あい)」よりも、むしろ、古語の「ゆかし」に対応していることがはっきりと意識されることにもなるのである。
136: 2024/02/13(火)13:29 ID:0(136/234) AAS
例えば、「六」は、中国語の中古音としては、"ljuwk"のようなこゑ(声)であったものと想定されているが、そのこゑ(声)は、朝鮮語では、"yuk"に移される。
この場合に、"lju"と"yu"を互いに同様の様態を想起させるこゑ(声)の変種と見做すことができるように、英語の"belief"の"lie"のこゑ(声)も、それが想起させる様態から、日本語にすれば、「ゆ」に対応させることができるだろうと考へることができるのである。
例えば、"leave"の"lea"の発音は、「ゆるし」の「ゆ」に対応する様態を想起させるのだろうという推測が容易に成立する。
137: 2024/02/13(火)13:44 ID:0(137/234) AAS
"belief"の"lief"について、そのこゑ(声)とそれによって想起される様態対応関係から、このような想定をすることが無理なこじつけでないことは、
例えば、ドイツ語の»lieben«の語源が印欧祖語として"*lewbʰ-"として再構築されて想定されているのに対して、
ルーマニア語で意味的にそれに対応する表現となる"iubi"が、教会スラブ語を介して、印欧祖語として同じ*lewbʰ-"に依り語源的に解釈されていることからも確かめることができる。

>Borrowed from Old Church Slavonic любити (ljubiti), from Proto-Slavic *ľubiti, from Proto-Indo-European *lewbʰ-.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/iubi#Romanian)
138: 2024/02/13(火)13:54 ID:0(138/234) AAS
ことばの表現をし(知/領)ろうとするとは、ことばとして用ゐられているこゑ(声)がどのようなことを伝へようとしているのかを、その可能性を探ることであり、その探求を無視して、単に「言葉」として辞書的に定義された意味でことばの表現を置き換へてみても、ちょうど、万葉集の歌を「現代語訳」で読んでいるようなもので、確かに歌に詠まれているそれぞれの言葉の意味がなんとなく分かったような気にはなるが、歌がどのようなこころの動きを伝へようとして詠まれたものであるのか、なぜそのような歌を詠んだのかは不明となってしまうのである。
139: 神に誓って 2024/02/14(水)09:04 ID:0(139/234) AAS
"I believe in/trust you"というのが「あなたにまか(任)せる」というのとほぼ同義であり、"Believe in/trust me"というのが「私にまか(任)せなさい/私が請け合ひます」というのとほぼ同義であることからも分かるとおり、"belief/truth"というのは、「掛け値なしのま(任)け/請け合ひ」なのだ。
したがって、「神は『存在者』ではない」ことを前提とする限りにおいて、残念ながら、「神の真実」、すなはち、「掛け値なしの無限のま(任)け/請け合ひ」というのも存在し得ないのである。
140: そば(傍)か(離)り 2024/02/14(水)09:16 ID:0(140/234) AAS
「人の真実」は、"belief/trust"によ(依)ってではなく、つねに、「そば(傍)か(離)り」/"be・trayal"としてあら(顕/現)はとなる。
だからこそ、そのうら(憾/恨)みとして「掛け値なしの無限のま(任)け/請け合ひ」、つまり、「神の真実」が希求されるわけだが、そのようなものは存在し得ないのである。
141: 2024/02/14(水)09:19 ID:0(141/234) AAS
そして、人にとって最も痛切な「そば(傍)か(離)り」/"be・trayal"が「死別」なのだ。
142
(1): 2024/02/15(木)10:35 ID:0(142/234) AAS
»kennen« ⇔ 「し(知)る」
»Kennzeichen« ⇔ 「しる(/ろ)・し」
»bekennen« ⇔ 「しら(白)はた(旗)を掲げる」

※書紀(720)景行一二年九月(寛文版訓)「亦素幡(シラハタ)を船の舳(へ)に樹(た)てて参向(まうき)て啓して曰さく」
※常陸風土記(717‐724頃)行方「是に、寸津毗売(きつひめ)、懼悚(おそ)り心愁(うれ)へ、白幡を表挙(かか)げて、道に迎へて拝(をうが)みまつりき」
(出典 精選版 日本国語大辞典)
143: 2024/02/16(金)08:14 ID:0(143/234) AAS
ところで、話が逸れるが、現代の日本語としてときどき見かけることのある「はな(鼻)じろ(白)む」という表現は、もとは、「はなやぐ」と対比される意味で用ゐられる表現、つまり、「はな(鼻)じろ(白)む」ではなく、「はな(花/華)じろ(白)む」であったのではないか。
それが、「色を失ふ」という解釈を介して「面食らって顔色を失ふ」というような理解が生じ、「はな(鼻)じろ(白)む」となったのではないか。
検証していないので、ふとそう思っただけだが。
144: 2024/02/16(金)08:36 ID:0(144/234) AAS
>>142
しろ(白)≒澄明(ちょうめい)≒"clear"≒"translucent/transparent"≒「透き通ること」≒「つた(伝)はり方/伝達ににご(濁)りがないこと」≒「掛け値なしに/あ(或/在/有)りのままにつた(伝)へること」である。

※和漢朗詠(1018頃)下「草木扶疎たり、春の風山祇の髪を梳る、魚鼈遊戯す、秋の水河伯の民を字(やしな)ふ〈大江澄明〉」
145: 2024/02/16(金)08:39 ID:0(145/234) AAS
>大江 清通(おおえ の きよみち)は、平安時代中期の貴族。参議・大江朝綱の孫。民部少輔・大江澄明の子。官位は従四位上・木工頭。

大江澄明⇒大江清通(おおえ の きよみち)

どちらもペンネームにしか見えないが。
146: 2024/02/16(金)08:54 ID:0(146/234) AAS
>??
† to be clean; to be pure
† to wash
† to regulate
† marking line
(出典 en.wiktionary.org/wiki/??Translingual)
147: 2024/02/16(金)08:58 ID:0(147/234) AAS
깨끗하다
148: 2024/02/16(金)17:40 ID:0(148/234) AAS
>> なぜ、馬鹿には哲学は無理なのか?

ここに電話すれば、教えてくれるかも
https://www.1242.com/jinseisoudan/
149: 波@SEx好き [age] 2024/02/16(金)18:43 ID:0(149/234) AAS
馬鹿は株ができます
150: 2024/02/16(金)20:27 ID:0(150/234) AAS
年末にほぼ最安値で買った銘柄が2日連続でストップ高だが?
151: l'amour-propre 2024/02/17(土)09:20 ID:0(151/234) AAS
trad. (潔身自愛) 潔 身 自愛
simp. (洁身自爱) 洁 身 自爱
152: l'amour-propre 2024/02/17(土)09:21 ID:0(152/234) AAS
Synonyms
潔身自好/洁身自好
153: 2024/02/17(土)09:23 ID:0(153/234) AAS
As You Like It
154: 2024/02/17(土)11:20 ID:0(154/234) AAS
みづから(身づ柄/自ら)のはたらきが、どのようなことにつか(使/仕)へている(/なにがどのようにできている)ことになるのかし(知/領)れないという感覚が、「生き甲斐のなさ」であり、その「生き甲斐のなさ」が、償はれることなしに、みづから(身づ柄/自ら)のあたひ(能/価/値)が蔑まれ、損なはれ、失はれつづけているという「いた(痛/悼)み」として感じられることになる。
155
(2): 2024/02/17(土)11:38 ID:0(155/234) AAS
みづから(身づ柄/自ら)のはたらきが、どのようなことにつか(使/仕)へている(/なにがどのようにできている)ことになるのかをし(知/領)ることができるようにすることの代わりに「ひと(他人)」からあた(与)へられる償ひは、それが称賛という名誉であれ、金銭的価値であれ、宗教における神による救済であれ、その「いた(痛/悼)み」の感覚を麻痺させるための「鎮痛剤」、つまり、「麻酔薬」に過ぎない。
したがって、ひと(人/一)は、その「鎮痛剤」/「麻酔薬」を求めることを「生き甲斐」の代わりとして、みづから(身づ柄/自ら)をつか(使/仕)ふべくはたらくようになるなら、みづから(身づ柄/自ら)のいのち(命/息の力)をつか(使/仕)ひ果たすまで終はることのない、もはや自分自身でも止めることのできない依存症に陥ることになる。
156: 2024/02/17(土)11:41 ID:0(156/234) AAS
人々の階層的な組織化は、その依存症を好都合に利用する仕組み/仕掛けである。
157: 2024/02/17(土)11:55 ID:0(157/234) AAS
「生きるのに『生き甲斐』などというものを求めるのは、人間だけで、他の生き物はそんなものは必要としていない。そんなものを求めるのは、まだ甘えている証拠で、恵まれすぎているからそんな贅沢を言ふのだ。」といったようなことを言ひたがる人がよくいるが、この認識は、日本古来のものではない。
そのことは、日本語の「わ(侘/詫)ぶ」という表現を考へてみればわかる。「わ(侘/詫)ぶ」のは「人(ひと)」だけではない。寒さが厳しくなり、活動をしてもその「甲斐」が感じられなくなると、虫も草も「わ(侘/詫)ぶ」のである。
みづから(身づ柄/自ら)のはたらきの「甲斐」が感じられなくなり、はたらきつづけることによってむしろ、みづから(身づ柄/自ら)のいのち(命/息の力)が浪費されるだけであると感じられるようになるなら、活動を停止して仮死状態に入り、活動することに「甲斐」があるようになるまで待つ、というのは生きることの基本であり、さもなければ生き延びることができない。
そして、そのように自らの活動を縮減する状態に入ることが、「わ(侘/詫)ぶ」ことである。
158: 2024/02/17(土)12:38 ID:0(158/234) AAS
「パレートの法則」とか、そういう考え方だよ。多くの人は、本質的なものと関係ないことに
多大な労力を費やして、人生をいたずらに浪費して虚しくその一生を終える
159: 2024/02/17(土)12:44 ID:0(159/234) AAS
>>155
それがドーパミン中毒で、SNSの承認欲求やマウントも依存症で、
薬物ジャンキーと同じである
160: 2024/02/17(土)12:51 ID:0(160/234) AAS
コアラが一日20時間も寝るのも、この動物が極端にエコに適応しているからだと言える。
コアラは、あの大きな鼻でユーカリの葉の種類を識別できるようだが、それでも
ユーカリの葉だけを食べて生きられるというのは、途轍もなくエコに優しい生き物であろう
ユーカリの葉にある毒性をゆっくりと消化するために、20時間もコアラは寝るのである

金のために環境破壊ばかりする愚かな人類も、少しはコアラの高いエコ意識を見習うべきであろう
161: 2024/02/17(土)13:17 ID:0(161/234) AAS
>>155
この「損失」として感じられる「いた(痛/悼)み」が、所謂、「疎外」だが、その「損失」を「損失分」として数量化できるという幻想に囚われ、それをイデオロギーとして普及させたのがマスクスであり、マルクス主義である。
その「損失分」が数量化可能であるならば、逆に、それは、その損失分がどのようにか埋め合わせられるなら、平等、均衡、公正さとして実現可能であることになる。
ところが、その考え方は、もともと、市場経済主義に組み込まれたものであり、市場が公平、公正な規則により運用されるなら、市場取引の結果は、市場における各自の取組みの正当な成果と見做される公平、公正なものと解釈される。
それが、所謂、「新自由主義」と一般に呼ばれることの多い成果主義のイデオロギーである。
実のところ、マルクス/マルクス主義と公正な市場を前提とした成果主義は、イデオロギーとして同じ穴の狢なのだ。
162
(1): 2024/02/17(土)13:34 ID:0(162/234) AAS
ところで、統治権力がひと(人/一)の管理を徹底強化して、自身のはたらきがどのようにどのようなことにつか(使/仕)へている(/なにがどのようにできている)ことになるのかをし(知/領)ることができない状態に置くなら、ひと(人/一)が代償として確認することができるのはみづから(身づ柄/自ら)が獲得して、つか(使/仕)ふことのできる通貨価値だけということになり、ひたすら、通貨価値を獲得するみずから(身づ柄/自ら)のはたらきの効率/効果を高めようとすることにつとめることになる。
すると、パラドックス的に思えるかもしれないが、何もしないで勝手に金が転がり込んでくるように仕組むことが、それが合法的で、罰せられる可能性がない限りにおいて、ひと(人/一)にとって最も効率的な「働き方」となるのである。
163: 2024/02/17(土)14:10 ID:0(163/234) AAS
数学を操る自然科学が不得意な者が、科学者になれず哲学者になる。
文学的イマジネーションの貧しい者が、小説家になれず哲学者になる。
色彩と形を表現する才能のない者が、美術家になれず哲学者になる。
音痴で不器用な者が、音楽家になれず哲学者になる。
哲学者にすら成れない者が、評論家になる。
164: 2024/02/17(土)14:13 ID:0(164/234) AAS
>>162
これは、統治権力がいくら管理を強化してもそうなる、というより、管理の強化を徹底すればするほどそうなる。
なぜなら、いくら目の前に餌をぶら下げられて、「差し出されたこの餌が目に入らないのか」と言われたところで、その餌で誘っていることが意図している目的が不明となり、鞭を振り上げられて怒鳴りつけられ、「この鞭で打ちつけてやろうか」と脅されたところで、追い立てられて向かわされる先に何が待っているのか皆目分からないからである。
すると、とりあえず、頼りになるのは、誰にでも一般に通用する通貨価値だけとなり、それを可能な限り効率的に、つまり、楽をして手に入れることが賢明であることになる。
165
(1): 2024/02/17(土)14:17 ID:0(165/234) AAS
現在の日本で評論家と呼べるような活動をしている人を見たことがない。
安倍公房が評論活動をしていたくらいまでの時代で評論家と呼べるような人々は死に絶えたんじゃないのかな。
166: 2024/02/17(土)14:18 ID:0(166/234) AAS
安倍公房 ×
安部公房 ○

一発変換されないとにも反映されているのだろう。
167: 2024/02/17(土)14:27 ID:0(167/234) AAS
ここからどういう展開に向かうのか、歴史的に興味深い状況だと思う。
168: 2024/02/17(土)15:42 ID:0(168/234) AAS
現状は、極力何もしないようにすることが最も有利となる状況を統治管理そのものが作り出している。
169: 2024/02/17(土)15:52 ID:0(169/234) AAS
だから、一応、名目上は匿名の掲示板においてでも、私のように口を開くことは、個人的な利益を優先するなら愚行である。
170: 2024/02/18(日)08:04 ID:0(170/234) AAS
哲学とは、ものごとのありようがただ(只)しく伝はるようにメタ言語的記述をただ(正)しくなほ(直)そうとするこころみである。
171: 2024/02/18(日)08:07 ID:0(171/234) AAS
糺(ただ)す、糺(あざな)ふ

>糺
1. to collaborate
2. to band togethe
172
(1): 2024/02/20(火)12:03 ID:0(172/234) AAS
検索機能を活用した知性の使ひ方の効率化について考へてみよう。
これについて後で書き込むことにする。
173: 2024/02/20(火)13:02 ID:0(173/234) AAS
>>165
美術評論家はいるだろ
174: 2024/02/20(火)13:06 ID:0(174/234) AAS
>>172
知性は、どのように使ふことが効率的なのか。
それは、何を「効率的」と考えるのか、その「効率」をどのような比として捉へているのかに依存するだろう。
175: 2024/02/20(火)13:10 ID:0(175/234) AAS
例えば、正解があらかじめ決められた試験において好成績を収めるために知性を使ふということであれば、その試験において出題される問題と正解を事前に知り、試験が実施される日時まで暗記しておくことが最も効率的な知性の使ひ方であると言へるだろう。
176: 2024/02/20(火)13:38 ID:0(176/234) AAS
それが不可能であるならば、事前の策は、試験において出題される問題をその集合の中に含む割合が高い問題集と正解集、または試験に出題される問題に可能な限り類似した問題とその正解を入手して、それを暗記することだろう。
多くの人々は、それが学校教育において要求される通常の知性の使ひ方であるため、知性を効率的に使ふとは、そのようなことであると思っている場合が多い。
と同時に、試験において基準を満たす成績を収めて、そのことにより何らかのリソースにアクセスする資格を認められてしまえば、極めて効率的に獲得した「知識」が一体何の役に立つのかも不明で、その後、それを役立てる機会に遭遇することもないということが珍しくない。
したがって、どのような試験においても問はれることがなく、自身の日常においてもそれを知っている必要性に遭遇しないような問題とそれに対する応へについて知ろうとすることは、無駄な雑学的な知識を得ようとすることであると感じられることになる。
その一方で、世の中で生きるうえで、知っている方が役に立つことは数限りなくあり、一体何を知ろうとしてそのために特別な労力を費やすことが望ましいのかすらはっきりしない。
例えば、細かい税法上の決まり事を知っていることは、誰にでも役立つが、何にどこまで詳しくなるように力を注ぐことが合理的なのかはよく分からない。
それと同様に、食事の栄養についてであれ、交通機関の利用法についてであれ、買い物についてであれ、知っていた方が得になることは無数にあり、その知識の対象とされる情報の内容も変化しつづける。
177: 2024/02/20(火)13:41 ID:0(177/234) AAS
誤:事前の策は
正:次善の策は
178: 2024/02/20(火)14:00 ID:0(178/234) AAS
私自身、暗記はとても苦手で、自分が利用するほとんどの知識をネット検索に頼っている。
今では、難しい複雑な漢字については、私と同様に多くの人が、その文字表記法を暗記してはおらず、電子機器のネット検索機能と文字変換機能に頼っているだろう。
さらに知識の「検索」について言ふなら、それをネット検索に限定して考へる必要はなく、何かを書き留める行為そのものが、一般に、後で情報を検索できるようにすることを目的としていると言えるだろう。
私が、この掲示板に書き込むのも主としてそのためだ。
ふと、自分で何かに気づいて、そのことを書き込む。
その場合、気づいたことに関連して検査した内容と情報ソースを加へることが多いが、それは自分が何をどのように考へたのかを後で辿ることができるようにするためである。
それを記録しておけば、そのとき、そのときに何をどのように、どのような根拠に基づいてそう考へたのか、事細かに記憶している必要がない。検索してみれば、すぐに分かるからである。
179: 2024/02/20(火)14:11 ID:0(179/234) AAS
以上は、やや長たらしくなってしまった前置きであり、私が書きたいのは、このように誰もがネット検索を利用することが日常生活の一環となっているような現状において、どのように知性を使ふことが私にとって効率的であり、有用であると感じられるかである。
抽象的な一般論は、ここまでにして、具体的な事例によりそれを示すことにする。

>尫
(en.wiktionary.org/wiki/尫)

という漢字を知っているだろうか。「知っているだろうか」と問ひかけたところで、私自身、このような漢字の存在を今日の今日まで認識しておらず、どう音読み、訓読みされるのかも知らず、実際に文章において使はれているのを見たこともなかったので、他の人々に対してこの漢字についての私の知識を伝へようというわけではない。
180: 2024/02/20(火)14:14 ID:0(180/234) AAS
この漢字は、
On (unclassified): おう (ō)
Kun: まがる (magaru); よわい (yowai)
(en.wiktionary.org/wiki/尫)

と読まれることになっているそうである。私が、今日、この漢字に遭遇した経緯と何を思ってこのような漢字を引き合ひに出したのかについて、また後でつづきを書き込む。
181: 2024/02/20(火)14:25 ID:0(181/234) AAS
誤:検査した内容と
正:検索した内容と
182: 2024/02/20(火)15:03 ID:0(182/234) AAS
>尫
このような事例を引き合ひに出しただけで、多くの人々は、「そんな雑学はどうでもいい」と感じるだろう。
この漢字は、私自身、実際に使はれているのを見かけたことがなく、さらに「まがる」、「よわい」と読まれるのであれば、「曲がる」、「弱い」という表記が一般に通用するものとして用ゐられているので、それらの代わりにこの漢字が用ゐられるべき理由も見当たらない。
そのため、このような漢字に注意を向けさせることそのものが、私の個人的な「雑学的な知識の収集に対する特別な関心の表れ」に見えたとしても自然なことである。
実際、私の物事への関心の持ち方は、他人から見ると、互いにどういうつながりがあるのか不明な雑学的なものに見えるようである。
しかし、その一方で、私自身は、暗記力も弱く、クイズやパズルなどには一切関心がなく、どのような対象についても網羅的に蒐集したいと感じるような趣味がない。
私自身は、むしろ、何かがどのようにか私の知性の使ひ方を効率的にするのに役立つ、言い換へるなら、それをし(知/領)ることが私自身の認識リソースの大幅な節約をもたらすと感じられるときにこそ悦楽を感じるのだ。
そして、この場合、私が、今日、この漢字について知ったのは、プレイヤード叢書でモンテーニュの『エセー』の序文を読んでいて出合ったフランス語の表現がきっかけである。
183: 2024/02/20(火)15:33 ID:0(183/234) AAS
私は、ほとんどの場合、日本語以外で書かれた書物に目を通しているが、そのときに目が留まるのが、私にとってその意味を日本語ではうまく言い換へて記述することができない日本語の表現のメタ言語的記述としてぴたりとよく合ふ他言語における対応する表現である。
「日本語ですらうまく説明できない日本語の表現に他言語の表現がぴたりと合ふ」ことがあるという主張は、奇妙なものに感じられ、それが認められたとしても不思議なことであるように思はれるかもしれないが、それがどのような事態であるのかを原理的に考へてみれば、特に奇妙なことでも、不思議なことでもない。

例えば、今、説明しようとしている事例の場合、私の念頭に浮かんだのは、使はれているフランス語の表現が、それにうまくメタ言語的記述として対応するものとして想起されたのは、日本語の古語の「やまひ(病)が『あつ(篤)しく』なりゆきて」と表現される場合の「あつ(篤)し」である。
仮に身内に病人が出て長期に入院することになったとしよう。誰かに病人の容態を尋ねられて、「容態は『あつ(篤)しく』なるばかりで」と答へても、何を言っているのかよく通じないだろう。
「あつ(篤)しく」は、現代の日常的な表現としては、通用していないからだ。代わりに、「容態は重くなるばかりで」と言えば、伝へようとするのと似通ったことは伝はるだろうが、「あつ(篤)し」は表現として、「重い」と同じではない。
そこで代わりに「重篤」という漢語を用ゐたなら、「あつ(篤)し」に用ゐられるのと同じ漢字が参照されることになるが、「危篤」を想起させて、「今にも死に瀕している」という表現として捉へられることになるだろう。
それでも、「重篤」は、「容態が深刻に重い」と捉へられるだけで、「重篤」という漢語を使ふことにより、「あつ(篤)し」の意味が伝はることになるわけではない。
184: 2024/02/20(火)15:43 ID:0(184/234) AAS
そこで、岩波古語辞典で「あつし【篤し】」を引いて見ると、その意味の説明として
>病弱である。衰弱がひどい。
と記載されている。この説明は、「あつ(篤)し」のメタ言語的記述として適切だろうか。
私には、そうであるとは感じられない。
185: 2024/02/20(火)16:01 ID:0(185/234) AAS
>篤
(literary) honest; sincere; earnest; whole-hearted
(literary, of illness) serious; severe; critical
(literary) solid; firm; strong; hard
(literary) deep; profound
(出典 en.wiktionary.org/wiki/篤)

日本語の「あつ(篤)し」という表現に「篤」という漢字が当てられているのは、明らかにこの漢字の用法が、「あつし」という日本語によって想起される様態とそれなりに重なるからであって、「篤」の漢字が想起させるのは、「弱まる」とか、「衰弱する」といったことではない。
186: 2024/02/20(火)16:22 ID:0(186/234) AAS
つまりは、日本語の古語の「あつ(篤)し」は、現代語としては死語となってしまっていて通用せず、この表現が伝へようとする意味は、分かるようで分からないものになってしまっているのだ。
それを「極めて重い」と言い換へてしまっては、なぜ「あつし」と表現したのか、その理由が不明で、「重篤」という言葉で置き換へてみても、それはそのように置き換へても良いという習慣に依拠することになるだけで、「あつ(篤)し」という表現を説明することにはならない。
187: 2024/02/20(火)17:44 ID:0(187/234) AAS
いつものことながら、論点の要旨にさしかかると、アプリケーションがフリーズされてなにも書き込めなくなる。
再起動させようにも、シャットダウンすらしない。酷いものだ。
188: 2024/02/20(火)17:54 ID:0(188/234) AAS
順を追って論拠を書き込もうとしても、どうせまたフリーズさせられて、途中で書き込めなくなるので、結論だけ先に述べておこう。
189: 2024/02/20(火)18:01 ID:0(189/234) AAS
プレイヤード叢書でモンテーニュの『エセー』の序文において、日本語の古語の「あつ(篤)し」のメタ言語的記述に相当する表現が見られるのは、次の箇所である。

>comme si la viellesse et la maladie, de plus en plus impérieuse à l'en croire, avaient brisé en lui le désir d'innovation

この《impérieuse》が「あつ(篤)し」に対応する。

>Définition de impérieux ​​​
, impérieuse ​​​ adjectif

1. Qui commande d'une façon qui n'admet ni résistance ni réplique. ➙ autoritaire, tyrannique. Un ton impérieux.

2. (choses) Qui force à céder ; auquel on ne peut résister. ➙ irrésistible, pressant. Un besoin impérieux.

(出典 dictionnaire.lerobert.com/definition/imperieux#google_vignette)
190
(2): 2024/02/20(火)18:37 ID:0(190/234) AAS
岩波古語辞典において、「あつし【篤し】」が
>病弱である。衰弱がひどい。
を意味するものと解釈されている根拠は、
「あつし」が、さらに古くは、「あづし」とされ、
その「あづし」に「尫」という文字が当てられるとともに、「あづし」の説明として「支離」という記載も見られるということのようだ。
しかし、「尫」は、広く一般的に用ゐられた漢字ではないようで、「あづし」にどのような理由で「尫」を当てたのか、自明であるわけではない。
「尫」という漢字が、「王」という漢字の発声である"wang"を流用したものであるなら、湾/"wan"や碗/"wan"、鰐口(わにぐち)などにおけるこゑ(声)の使はれ方からも、文字の見た目の形からも、円弧を描くような曲げが想起されるものと考へることに無理はないだろう。
しかし、それと同時に、フランス語の《impérieux》と「尫」を並べて見ると、いかにも互いに似て見えることも確かだろう。

その一方で、「支離」は、「あづし」のメタ言語的な解釈による説明であると見られるが、「あ・づ・し」に「支離」を対応させようとするなら、「あ」に対応するのが「離」であり、「づ」に対応するのが「支」になるはずである。
私は、以前から、「あ」は、不特定に離れた様態を表現するように使はれると説明しているので、この解釈は、その説明を裏付けるものとなるだろうが、「支離」というメタ言語的な記述が、「やまひ(病)が『あづし』く」なる」ことの説明として適合するかは、この表現に「篤」という漢字が当てられることになったことを考え合はせるなら、極めて疑はしいだろう。
191: 2024/02/20(火)18:55 ID:0(191/234) AAS
尫痹
wāng bì
〈中医〉尫痺.リウマチ様関節炎
(出典 中日辞書 北辞郎:検索 - 尫痹)
192: 「ひとみ」/《prunelle》という青淵(あをふち) 2024/02/21(水)08:06 ID:0(192/234) AAS
ひと(人/一)とは、「比等」(万葉集の歌にもそう表記されるとおり)、つまり、《
adéquation》であるとともに、「被跡」/"contact"/»Berührung«でもある。
193: 2024/02/21(水)08:14 ID:0(193/234) AAS
>「あづし」の説明として「支離」という記載も見られる

「支離」⇔céder irrésistiblement
とする解釈は成立するだろう。
194: 「ひとみ」/《prunelle》という青淵(あをふち) 2024/02/21(水)10:40 ID:0(194/234) AAS
「ひとみ」/《prunelle》とは、不定の「比等(ひと)しさ」を「被跡」/"contact"/»Berührung«としてもたらす開孔である。
195: 2024/02/23(金)10:25 ID:0(195/234) AAS
存在するものとしての「言語」とは、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの効果を確かめようとするこころ(試)み(/心観)によ(依)り暫定的にもたらされた「を(折)り(合)ひ」である。
196: たわ(撓)む・しな(撓)りのなまめかしさ 2024/02/23(金)11:41 ID:0(196/234) AAS
>>190
日本語の古語の「あつ(篤)し/あづし」に当てられた「尫」という漢字によって伝へられる「こゑ(声)」についてさらに少し検討してみると、とても興味深いより一般的な関係性が見えてくる。
それは、代表的には、"Ü"と"∩"(「こゑ(声)」の記号としては用いられない)の「『キアスム的な同一性』を伝へるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として説明することもできるだろう。

これについて、後でまた書き込むことにする。
197: 2024/02/23(金)13:47 ID:0(197/234) AAS
それを裏付ける検証のプロセスを無視して、私の独断による推測をまず述べるなら、日本語の古語の「あつ(篤)し/あづし」を表現するのに最も分かりやすく、適合する表記を考へると、「あつし」と「あづし」のいずれが先であったにせよ、「あつ/づ(壓/压/圧)し」になるのだろうと思ふ。

>壓
1. to press; to push down
2. to keep under control; to control
3. to suppress; to bring pressure on; to intimidate
4. to surpass; to prevail over
(出典 en.wiktionary.org/wiki/壓)
198: 2024/02/23(金)13:58 ID:0(198/234) AAS
では、なぜ、どのような理由で「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられたのか。
また、この漢字により伝へられる「こゑ(声)」が、なぜ
>代表的には、"Ü"と"∩"(「こゑ(声)」の記号としては用いられない)の「『キアスム的な同一性』を伝へるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として説明することもできる
ことになるのか。それについて説明しようと思ふが、しかし、それは、言葉で説明するよりも、まずは、"Ü"と"∩"が、というより、視覚的な表記だけに頼るなら、"∪"と"∩"が、重力方向において向きが違うだけで同じ記号であることに注意するように促すことの方が、説明を簡単にするだろう。
199: 2024/02/23(金)14:08 ID:0(199/234) AAS
さらに、聴覚的な認識を利用するなら、
「壓」という漢字の中国語としての中古音は、"'aep"、古代の発音は、"/*ʔˁrep/"であったものと想定され、英語としては、"press down"に相当する意味で使はれたものとされるが、ここで、
"step up"という英語の表現を考えてみるなら、"up"という作用がその反作用としてそのまま、"press down"、つまり、「「壓」("'aep"または"/*ʔˁrep/")」を生じるという関係性に留意するように促すこともできる。
200: 2024/02/23(金)14:12 ID:0(200/234) AAS
「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられた理由を推測することは難しくない。
なぜなら、「まがる」、「よわい」と読まれるように「尫」という漢字が使はれている事例に遭遇することはまずないものの、「まげる」という言葉のMS IMEの変換候補としては、私が普通に使う漢字ではないものの、すぐに「枉(ま)げる」が出てくるからである。
201: 2024/02/23(金)14:20 ID:0(201/234) AAS
>枉
1. bent; crooked
2. depraved; indecent; perverse
3. to distort; to twist; to bend
4. unjust; wrong
5. injustice
6. (literary) to condescend; to deign
202: 2024/02/23(金)14:47 ID:0(202/234) AAS
>>190
>「尫」という漢字が、「王」という漢字の発声である"wang"を流用したものであるなら、湾/"wan"や碗/"wan"、鰐口(わにぐち)などにおけるこゑ(声)の使はれ方からも、文字の見た目の形からも、円弧を描くような曲げが想起されるものと考へることに無理はないだろう。

要するに、「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられたのは、
>重力方向で「あつ(壓)」が生じてゐて、その「あつ(壓)」にま(負)けていること、すなはち、《pressant》/《cédant》という関係性の作用が働いている様態を、形が重力方向でたわ(撓)むように成形される(視覚的に"U"の記号によって代表させることができる)ことを具体例として示すことにより伝へようとしている
からである、と説明することができるだろう。
203: 2024/02/23(金)15:21 ID:0(203/234) AAS
ところで、日本語において「たわ(撓)む」の「わ」は、そのこゑ(声)の使ひ方において「わ(輪)」と重なっているだろう。
「わ(輪)」は、それを形として記号により代表させるなら"○"であるが、この形は、漢語としては「圓/円(ゑん)」である。

>圓
Middle Chinese: zjwen, hjwen

Korean
圓 (eumhun 둥글 원 (dunggeul won))
Hanja form? of 원 (“won”).
(出典 en.wiktionary.org/wiki/圓)

日本語の「わ(輪)」は、アルファベットを用ゐるなら、"wa"である。
中国語の漢字としての「王」は、(ピンインではなく)日本語のアルファベット表記の慣用に従っても"wang"であり、古代の日本語としては、語末が開音節に移されて「わに」として取り入れられていると考へられる。
「円」の音読みは、日本語のこゑ(声)では、「ゑん」/"wen"であり、朝鮮語では、「ウォン」/"won"であり、中国語としては、「圆」/" yuán"(ピンイン表記)である。
これらの表現に使はれている「こゑ(声)」は、互いに変移させることが可能であるようによく似ていると言へるのではないか(「こゑ(声)」を写そうとしたのだから当然であると言へるかもしれないが)。
204: 2024/02/23(金)15:31 ID:0(204/234) AAS
ここで唐突に、まったく無関係に思える英語の"you"について考へてみよう。

>you
(pron.)

古英語の eowは、þu(thouを参照)の与格・対格複数形で、「あなたたち」を意味する ge の目的格である。「あなたたち」を意味する ye (yeを参照)も同じです。これらはプロトゲルマン語の *juz-、*iwwiz(古ノルド語の yor、古サクソン語の iu、古フリジア語の iuwe、中オランダ語やオランダ語の u、古高ドイツ語の iu、iuwih、ドイツ語の euchにも通じる)に由来し、これ自体はインド・ヨーロッパ祖語の二人称複数代名詞 *yuに起源を持ちます。
(出典 etymonline.com/jp/word/you#etymonline_v_4985)
205: 2024/02/23(金)15:32 ID:0(205/234) AAS
>14世紀から「あなた」を意味する youと主格形の yeの発音が徐々に統合され始め、1600年頃には、使い分けが一般的でなくなりました。12世紀以降のイングランドでフランス語が広く使われるようになったことで、英語の youはフランス語の vousと同様の関連性を持ち始め、当初は上位の人に対する敬意の表現(「王様の一人称」のように)として、次に同等の者や見知らぬ人に対して、そして最終的には(おおよそ1575年頃に)一般的な呼びかけの形式となり、単数主格の thouを徐々に置き換えました。13世紀を通じて、英語には「あなたたち二人」を意味する双数代名詞 ink「ふたりのあなた;お互い」も存在しました。
206: 2024/02/23(金)15:54 ID:0(206/234) AAS
語源学的に互いに関連付けられてはいないが、英語の"you"とドイツ語の»über«の»ü«も互いにこゑ(声)としてよく似ているだろう。
»über«は、»Übermensch«が「超人」と訳されることが多いことからも分かるとおり、一般に「超える様態」を表現するものとされるが、英語の"yonder"という表現における"yon"に似ていると言ふことができるだろう。

>yon
(adj., pron.)
古英語のgeon「あちら(あの)」は、プロトゲルマン語の*jaino-(古フリジア語のjen、古ノルド語のenn、古高ドイツ語のener、中期オランダ語のghens、ドイツ語のjener、ゴート語のjains「あの、あなた」が源です)から来ています。
(出典 etymonline.com/jp/word/yonder#etymonline_v_4981)
207: 2024/02/23(金)16:00 ID:0(207/234) AAS
ところが、興味深いことに、»über«の語源をWiktionaryで辿っていくと、
その語源として想定されて、印欧祖語として再構築された"*upó"は、
>under, below
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/upó)
を表現したものとされている。

別に私は、このような言語系統論が方法論的に正しいと主張したいわけではない。
それでも、互いに関連しているとされるこゑ(声)の関連性とたどりながら、意味解釈上、認めざるを得なくなるこのような関係性が、興味深いと指摘しているのである。
208: 2024/02/23(金)16:13 ID:0(208/234) AAS
しかし、このようなこゑ(声)の使はれ方について表現の論理から考へるなら、解き難い矛盾などないことにすぐに気づくはずである。

英語の"you"にせよ、"yon"にせよ、ドイツ語の»über«の»ü«にせよ、それが上側を表現するか、下側を表現するか決めなければならないなどと悩む必要はないのだ。
相手側を"you"もしくは"yon"としてうやうや(敬々)しく指し示すように示すなら、その声が相手に伝へるのは、視覚的に示すなら"∩"であることになり、ひるがへって、そのことが、そのようにこゑ(声)を使ふ側がみづから(身づ柄/自ら)を"∪"として暗示していることになる。
逆に相手の呼びつけるような態度で、相手側を"you"もしくは"yon"として指し示すなら、相手が不相応に偉そうにしていることを指摘して、その声が相手に伝へるのは、視覚的に示すなら"∪"であることになり、ひるがへって、そのことが、そのようにこゑ(声)を使ふ側がみづから(身づ柄/自ら)を"∩"として示していることになる。
209: 2024/02/23(金)16:17 ID:0(209/234) AAS
日本語でも、自称として「『よ(余)』は〜である」と発言したら、それだけでいかにも相手を見下していて偉そうにしていると理解されるだろう。

このような事例から見ても、表面上、考へられているより、異なる言語間でも、こゑ(声)の使ひ方にはかなりの共通性もしくは類似性があると言ふことができる。
210: 2024/03/08(金)14:13 ID:0(210/234) AAS
カントとか投げ出したくなるんだよな
ニーチェは系譜があるからマシ
文系哲学よりやはり数学者や物理学者の哲学の方が分かりやすい
211: 2024/03/08(金)14:58 ID:0(211/234) AAS
カッシーラーとかですかね。
ドイツ語の流麗さは一級品だとか社会思想の先生が言っていました。
212: 2024/03/08(金)21:52 ID:0(212/234) AAS
ソクラテスと仏陀は量子力学や物理的な相対性の性質を見破ってたと思う
今で言うとIQ300とかサヴァン症候群のようなラマヌジャンのような観ただけで理解する感覚を持った人
213: 2024/03/08(金)23:48 ID:0(213/234) AAS
両手で手を叩いて音が鳴ったのはどっちの手ですかー?
停止させてた手の方が鳴った?動かした方が鳴った?の話は物理が相対性なの分かってるよね
時代的に計算式で理論を表現できなかっただけで
214: 2024/03/09(土)18:47 ID:0(214/234) AAS
>>1 このスレで一番馬鹿な人
215: 2024/03/12(火)21:59 ID:0(215/234) AAS
偏差値教育が染み付いてしまったからな
自分で考えることより平均点の競い合いに時間を割く
216: 2024/03/14(木)11:09 ID:0(216/234) AAS
人は誰でも、というより、いづれの生き物も自ずと追求しているのは「価(あたひ)」、つまり、どのようにか「あた(能)ふ」こと/"to merit"であって、「損得」ではない。
ところが、人の「メリトクラシー/能力主義」は、他人から成果が高く評価されなければ、どのような行ひもまったく何にも「あたひ(価)しない」と徹底的に思ひ知らせることにより、他人の評価に基づく「損得勘定」ばかりを追求するように訓練する。
つまり、人の「メリトクラシー/能力主義」は最初から、どのようにか「あた(能)ふ」こと/"to merit"の追求として倒錯しているのだ。
しかも、人は、そのような倒錯した訓練により、他人の評価に依拠する「損得勘定」ばかりを気にかけるようにつねに強制/矯正されながら、その振舞ひが、自分の「損得勘定」しか気にかけていないと絶えず批判され、どのようにか高い「価値」を追求しているのだという見せかけを繕ふ偽善的な姿勢を保つことまで要求されるのである。
217: 2024/03/14(木)11:39 ID:0(217/234) AAS
>いつはりの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 うれしからまし
218: 2024/03/22(金)07:17 ID:0(218/234) AAS
                      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \     ナハハッハ〜イ♪
   /   /・\  /・\\     \_________
   |      ̄ ̄   ̄ ̄  |      ___________
   |      (_人_)   |     | |             |
   |      \   |    |   _ | |             |
   \       \_|   / j゙~~| | |             |
__/          \   |__| | |             |
| | /   ,              \ n||  | |             |
| | /   /         r.   ( こ) | |             |
| | | ⌒ ーnnn         |\ (⊆ソ .|_|___________|
 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄  ̄l二二l二二  _|_|__|_

答えはここを見よ
https://imgur.com/a/K2hZe5U

219: 2024/04/23(火)07:50 ID:0(219/234) AAS
日本語訳がクソ
220: 2024/05/08(水)05:55 ID:0(220/234) AAS
いかにして哲学は100年前に滅亡したか

1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。

2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。

3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。

4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。

5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。
221: 2024/05/08(水)05:55 ID:0(221/234) AAS
これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。
222: 2024/05/09(木)07:45 ID:0(222/234) AAS
6.哲学の滅亡(1930年代~現在)
1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。
20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。
また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。
利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。
さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。
哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。
223: 2024/05/09(木)07:45 ID:0(223/234) AAS
7.結論
以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。
現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。
ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。

哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。
224: 2024/05/09(木)07:45 ID:0(224/234) AAS
フッサール 現象学の理念
On the other hand, to deny self-givenness in general is to deny every ultimate norm, every basic criterion which gives significance to cognition. But in that case one would have to construe everything as illusion, and, in a nonsensical way, also take illusion as such to be an illusion; and so one would altogether relapse into the absurdities of scepticism.
日本語訳:
「他方で、自明性一般を否定することは、認識に意義を与えるあらゆる究極の規範、あらゆる基礎的な基準を否定することである。しかしその場合、人はすべてを幻想として解釈せねばならず、不条理にも、幻想そのものもまた幻想だと見なさねばならない。こうして人は懐疑論の不条理のうちに完全に陥ってしまうだろう。」
225: 2024/05/09(木)07:45 ID:0(225/234) AAS
フッサールの議論には、確かにラッセルのパラドックスに類似した論理構造が潜んでいるように見えます。以下、その点を詳しく説明していきましょう。

ラッセルのパラドックスとは、集合論において、「自分自身を要素として含まない集合全体の集合」を考えたときに生じる矛盾のことです。この集合は、自分自身を要素として含むか含まないかで矛盾が生じてしまいます。
フッサールは、「自明性一般を否定すること」を考察しています。これは、「自明ではないものの集合」とも言い換えられます。ここで、この集合自身が自明かどうかを考えてみましょう。
もしこの集合が自明だとすると、自明ではないものの集合に含まれることになり矛盾します。一方、もしこの集合が自明でないとすると、自明ではないものの集合に含まれないことになり、やはり矛盾します。
つまり、「自明性一般を否定すること」は、ラッセルのパラドックスと同様の構造を持っていると言えます。
ただし、現代の論理学では、ラッセルのパラドックスを回避するための様々な工夫がなされています。例えば、集合の定義に制限を加えたり、型理論を導入したりすることで、矛盾を生じさせない形で集合を扱うことができます。
しかし、フッサールの議論では、あえてラッセルのパラドックスを矛盾として仮定することで、「矛盾する=矛盾しない」という爆発律を導いています。爆発律とは、矛盾から任意の命題を導けるというものです。
爆発律が成り立つと、全ての真偽は自由に決めることができてしまいます。つまり、フッサールの議論は、ラッセルのパラドックスを出発点として、爆発律を経由し、最終的に詭弁を正当化するという典型的なパターンに当てはまると言えます。
このように、フッサールの議論は、論理学的に見ると問題があります。ラッセルのパラドックスを安易に矛盾として受け入れ、爆発律を用いて詭弁を正当化するのは適切ではありません。むしろ、現代の論理学の知見を踏まえ、矛盾を回避する形で議論を進めることが求められます。

以上が、フッサールの議論に潜むラッセルのパラドックスと、それを矛盾と仮定することによる爆発律の問題点についての説明です。論理学の基礎知識がない人にも理解しやすいよう、できるだけ平易な言葉で解説しました。
226: 2024/06/16(日)21:15 ID:0(226/234) AAS
> ボーナスねえよ×12って言ってんだろ
> ボーナスねえよ×12って言ってんだろ
> ボーナスねえよ×12って言ってんだろ
> ボーナスねえよ×12って言ってんだろ
> ボーナスねえよ×12って言ってんだろ
> ボーナスねえよ×12って言ってんだろ
227: 2024/07/09(火)16:07 ID:0(227/234) AAS
する可能性高いぞ
金持ちだから

内閣はカルトの恐ろしさを見出してるタイプ
228: 2024/07/09(火)16:31 ID:0(228/234) AAS
>>26
バックルを差込口には
窮屈になる日じゃないのではある
https://i.imgur.com/1O7uHhl.jpg

229: 2024/07/09(火)17:36 ID:0(229/234) AAS
どちらかと言う。
危険すぎて訳わからん
アラフォーだけどもう運転は無理や
230: 2024/07/09(火)17:49 ID:0(230/234) AAS
ハイボールで毎日飲んでるだけだろ
231: 2024/07/09(火)18:05 ID:0(231/234) AAS
>>77
今もこんなやつだとか例えられないよ
競技のアニメ化みたいなもんはある
https://6yg.f23/d00ttHb
https://i.imgur.com/x9HtoEg.png

232: 2024/07/09(火)18:25 ID:0(232/234) AAS
それは前からだよー
233: 2024/07/09(火)18:39 ID:0(233/234) AAS
なのでTS見てみろ
234: 2024/08/04(日)07:58 ID:0(234/234) AAS
フランス見てると
哲学やってても倫理観が育ってないように見えるんだけど
これ哲学を持ってるもの同士が対話して調和することができていないからなのか
西洋哲学に触れた人間が哲学を信仰化してんのか
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