ドゥルーズ/変奏♪を哲学する (460レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) 自ID レス栞 あぼーん
リロード規制です。10分ほどで解除するので、他のブラウザへ避難してください。
1: [age] 03/19(水)21:35 ID:0(1/459) AAS
♪
2: 04/24(木)13:30 ID:0(2/459) AAS
ドゥルーズは「差異と反復」にて反復されることで新たな発見が見られるという主張をする
これは温故知新のような理性的判断であり、反復を直観的に新たな軌道の兆であると考えた
ドゥルーズはさらに、永劫回帰によって反復が仮説ではあるものの実現可能であると捉えた
この永劫回帰において神さえも経験の反復に陥ることを危惧したが、
ドゥルーズは人間一般も永劫回帰に陥ることも懸念していたため、神と同じ時を考えた
3: 06/10(火)12:43 ID:0(3/459) AAS
ドゥルーズの「差異と反復」には詩が描かれている。
差異から新たな概念がうまれる、とドゥルーズは言った。
差異性のある情報を組み合わせて、さらに組み合わせた情報から過去に蓄積した情報に反復する、
こういう風に組み合わせた情報を見出せたから良かったというより、安堵せずに初心に帰ることが大事。
ちょうど幼いころにいじめはよくないと考えていたなら、それを思い起こしていじめを解決しにいくこともある。
省3
4: 06/12(木)11:31 ID:0(4/459) AAS
第二章 それ自身へ向う反復
反復、それは何かが変化させられるということ
反復は、反復する事物のなかでは何も変化させないが、反復を観照する精神のなかでは何かを変化させる――ヒュームのこの有名な主張は、わたしたちを、或るひとつの問題の核心に連れていく。権利上、反復には、現前する〔=呈示される〕それぞれのもの〔例えば時計の音〕は互いに完全に独立しているという意味が折り込まれている。そうであるからには、どうして反復は、反復する事例や要素のなかで何かを変化させることがあろうか。反復における不連続性と瞬間性の規則は、次のように定式的に表現される――ひとつのものが消えなければ、もうひとつのものは現れないだろう。例を挙げるなら、瞬間的精神としての物質の状態である。」
ーーーーーーー
ドゥルーズは、反復を変化が伴うという理論と立てる。たとえば鉛筆で線を左右に反復させるとき、精神はどうなっているか、を考察した。
精神は視覚化作用により単純な行為であるという反応が出る。心理学では、同じ行動を取り続けると精神的に疲れが伴う、とされる。(土を掘ること)
5: 06/18(水)13:26 ID:0(5/459) AAS
ドゥルーズの記号化問題というものは、主人⇔奴隷 という記号で何か伝わってしまうことにある。
⇔という記号を見ることで誤解を生む可能性がある。
表象=再現前化と称するドゥルーズだが、その再現前化の中で記号や言語を用いてあぐねる。
メール交換においても記号は見られる。記号を用いて意思を伝える、そういう時代が再現前化している。
かくいう私は、電球のシンボルを「きみをなめている」という意味であると考えていたが、
本当のところは電球のシンボルは挨拶の合図だったわけである。
記号で誤解した、と相手側の方は言っていた。口にして覚えておきたかったと、される。
6: 06/24(火)14:00 ID:0(6/459) AAS
ドゥルーズの二項対立について、男と女という対立がある。
この二元論を超えて、透明人間には中子というものが加味される。
主と客という対立においては、主は主観的に判断するが、客のような知見を生むことは難しい、とされる。
7: 06/24(火)14:15 ID:0(7/459) AAS
二項対立論破されたよ😧
4つの性別を持つ鳥「ノドジロシトド」
8: 06/24(火)14:17 ID:0(8/459) AAS
自然界そのものが「二項対立」を裏切っていることを示しています。
9: 06/24(火)14:18 ID:0(9/459) AAS
でも統一理論的にはokなんだろ?
10: 06/25(水)11:24 ID:0(10/459) AAS
ドゥルーズの差異性のない概念を同一性があると仮固定すること、これが第一案である。
たとえば、古代ギリシャでは「存在」という言葉は「実在」と同等と仮固定されていた。
現代では、実存は本質に先立つ、とサルトルが提唱し、存在と区別されることもあった。
実存主義は近年では誰も口にしないようになってしまい、人間謳歌の概念も話されなくなった。
この実存主義と語るとき、語りの頽落が浮き彫りになるのは、現代では通用しない考え方だからであろう。
省4
11: 06/26(木)13:17 ID:0(11/459) AAS
「反復は勉学の母である」――ショーペンハウアー
本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。だがたいてい本を買うと、その内容までわがものとしたような錯覚におちいる。読んだものをすべて覚えておきたがるが、私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。
そのためにも「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて2度読むべきだ。2度目になると、内容のつながりがいっそうよくわかるし、結末がわかっていれば、出だしをいっそう正しく理解できるし、印象も変わってくるからだ。
------
このように反復の効果を示したが、ドゥルーズも知っていたであろう。反復は勉学の母とは書かなかった、とされる。
12: 06/28(土)16:03 ID:0(12/459) AAS
過去と同じ展開になることを否定する考え方もある。
13: 06/28(土)16:14 ID:0(13/459) AAS
永劫回帰という同じものの中の差異のあるもの、をドゥルーズは考慮した。
14(1): ありがたし 06/29(日)07:27 ID:0(14/459) AAS
きは(際)だ(立)つことによ(依/拠)り、かた(片)み(身)にあ(存/在/或)ることをおも(思)ひし(知)る。
Being one another is to be in contrast.
15: 06/29(日)07:54 ID:0(15/459) AAS
かつて、(ポスト)構造主義の流行とともに、「言語には差異しかない」といふ言ひ回しが広く知られるようになった。
この言い回しも、本来は、いづれの項目の存在にも差異が認められることの方が先立つことを強調しようとしたものだろう。
しかし、結局のところ、この言い回しの理解も、「二項対立」といふ概念を介して、「何ごとについても、それが『意識』されるのに先立って『無意識』において『二項対立がある』」といふ捉へ方に「思想として」
回収されてしまうことになり、しかも、そのことにより、その「対立する二項」として「意識」と「無意識」が「まづ存在する」ものとする思想を普及させることになった。日本においても、
(ポスト)構造主義の流行が、このようないかにも皮肉な結果となったことには、「思想/哲学の専門家」とされる人々が、日本語で物事を
ことばにして考へるのを疎かにしていることが、大きな要因として働いているだろう。
16: 06/29(日)08:04 ID:0(16/459) AAS
いくら「差異しかない」と言ってみたところで、この言い回しも、「それなら互ひに違ふものが『ある』のだろう」と理解されることになり、そのようにして想定される「互ひに違ふもの」が、「相互に存在する二項」として先立てられることになり、「かた(片)み(身)にあら(顕/現)はれる」ことは、「後回し」にされる。
17: おも(思)ひし(知)る 06/29(日)08:17 ID:0(17/459) AAS
「差異しかない」といふ言い回しは、ただちに「差異がまづ『ある』」ものと解釈され、しかも、その場合に「意識」と「無意識」が特権的な「二項」として「存在する」ことが当たり前のように思想として前提とされてしまうのだから、哲学的に無効である。
「ある」といふ言い回しを用ゐて日本語としてより適切に表現しようとするなら、「ま(先)づある」のは、「差異」ではなく、「さた(沙汰)」である。
「さた(沙汰)」がま(先)づあってこそ、「差異」が「かた(片)み(身)に知られる」のである。
18: 06/29(日)08:19 ID:0(18/459) AAS
>心だにいかなる身にかかなふらむ 思ひ知れども思ひ知られず 『紫式部集』
19: 06/29(日)08:37 ID:0(19/459) AAS
きは(際)だ(立)つ
to be in contrast (derived from Classical Latin contrā (“against”) + stō (“to stand”))
ここで、「『きは(際)』だ(立)つ」の「き・は(際)」の「は」は、「〜ふ」の活用形であり、表現上、"contrā"の"con-"に対応してゐることに留意しよう。
20: 06/29(日)08:42 ID:0(20/459) AAS
日本語を母語とする者が、日本語の表現をないがし(蔑)ろにしながらも、何らかの世に広く知られる著名な権威のことばに縋っていれば、自身もどのようにか哲学的にものごとを考へることができるはずだなどと信じることは、「正気の『さた(沙汰)』」ではない。
21(1): 06/30(月)07:13 ID:0(21/459) AAS
>>14ありがたし
>きは(際)だ(立)つことによ(依/拠)り、かた(片)み(身)にあ(存/在/或)ることをおも(思)ひし(知)る。
Being one another is to be in contrast.
「あ(存/在/有/或)る」/"to be (around)"ことと、「あら(現)はる」/"to be apparent/to appear"ことは、どちらが先だろう。
日本語で考へてみるなら、
「何かがま(先)づ『あ(存/在/有/或)る』ことにより、その何かが『あら(現)はる』」とするよりも、
「何かがかた(片)み(身)に『あら(現)はる』ことにおいて、その何かが『あら(現)はる』」とする方が自然だろうと私には思える。
22: 06/30(月)07:20 ID:0(22/459) AAS
AA省
23: 06/30(月)07:21 ID:0(23/459) AAS
970: 考える名無しさん 2025/06/30(月) 06:40:22.70 ID:0
ジャネ豚は去年の段階で
文学板でも全く同じことやって
住民追放されてるw
古くは89年に原理研の合宿でも同じことやっていたとwww
24(2): 06/30(月)07:30 ID:0(24/459) AAS
ものごとを「現象学」的に論じるなら、「あ(存/在/有/或)る」ことに「あら(顕/現)はる」ことが先立つとするのは、いはば、常識だろう。
しかし、ここでさらに、日本語の表現として考へてみるようにその常識をかへりみてみるなら、奇妙なことに気づくだろう。
それは、「あら(顕/現)はる」ことにおいて「あら・は」であることの方が、「あら」といふ形の「あ(存/在/有/或)る」から派生しているように見えることだ。
そのような語源解釈には無理がある、「あら・は」の「あら」は、「あ(荒)れ」/"rough(ness)"の「あら」である、とするなら、別にそれでも構はない。
なぜなら、「あ(存/在/有/或)る」/"to be (around)"として示したとおり、私は、「あ・る」といふ表現そのものを、「あ(荒)れ」と同様に「あ」のこゑ(声)の応用であると見做しているからだ。
25(2): 06/30(月)07:42 ID:0(25/459) AAS
私が、「奇妙なことに気づくだろう」と言っているのは、「あら・は」の「は」についてである。
私は、この「は」は、動詞において「〜ふ」の活用形であり、中国語の「復/覆」(例えば、「答复」といふ表現を想起してみるといい)と共通する表現の、日本語としての(むしろ、日本語を日本語として形成する)流用であると指摘してきた。
仮に、印欧諸語の研究として発展してきた比較言語学/歴史言語学が、そのような私の主張をそのまま認めるとしても、その場合、日本語におけるこの「〜ふ(復/覆)」の表現法を"frequentative"として記述することになるだろう。
26: 06/30(月)07:45 ID:0(26/459) AAS
AA省
27: 06/30(月)07:46 ID:0(27/459) AAS
AA省
28: 06/30(月)07:47 ID:0(28/459) AAS
AA省
29: 06/30(月)07:47 ID:0(29/459) AAS
AA省
30: 06/30(月)07:48 ID:0(30/459) AAS
AA省
31: 06/30(月)07:48 ID:0(31/459) AAS
AA省
32: 06/30(月)07:49 ID:0(32/459) AAS
AA省
33(1): 06/30(月)07:49 ID:0(33/459) AAS
私は、日本語におけるこの「〜ふ(復/覆)」の表現法を"frequentative"と解釈することを最初から拒絶してきたが、いづれにせよ、「あら・は」が、「ある」からの派生した表現であるとするなら、やはり、「あ(存/在/有/或)る」ことの方が「あら(顕/現)はる」ことに先立つのではないか、といふ疑念が生じるだろう。
私が「奇妙なことに気づくだろう」と言っているのは、そのことである。
34: 06/30(月)07:50 ID:0(34/459) AAS
AA省
35: 06/30(月)07:50 ID:0(35/459) AAS
AA省
36: 重大誤記 06/30(月)07:54 ID:0(36/459) AAS
論点の核心にかかはる部分で重大が誤記があった。
>>21
誤:「何かがかた(片)み(身)に『あら(現)はる』ことにおいて、その何かが『あら(現)はる』」とする方が
正:「何かがかた(片)み(身)に『あら(現)はる』ことにおいて、その何かが『あ(存/在/有/或)る』」とする方が
37: 06/30(月)07:56 ID:0(37/459) AAS
AA省
38: 06/30(月)08:03 ID:0(38/459) AAS
>>33
しかし、ここで思ひかへしてみるといい。
>きは(際)だ(立)つことによ(依/拠)り、かた(片)み(身)にあ(存/在/或)ることをおも(思)ひし(知)る。
「かた(片)み(身)」は、いつ「あ(存/在/或)る」ことになるのか。それは、おも(思)ひ[も(面)ふ(復/覆)]し(知)ったときではないのか。
39(1): 06/30(月)08:06 ID:0(39/459) AAS
何かがかた(片)み(身)に「あら(現)はる」/"to be apparent/to appear"ことにおいて、その何かが「あ(存/在/有/或)る」/"to be (around)"ことになる。
40(1): 06/30(月)08:09 ID:0(40/459) AAS
これが、
きは(際)だ(立)つ/to be in contrast (derived from Classical Latin contrā (“against”) + stō (“to stand”))
ことにおける、背景と前景の対比である(無意識においてであれ、「二項対立」の「存在」」ではない)。
41: 06/30(月)08:13 ID:0(41/459) AAS
ジャネ豚は去年の段階で
文学板でも全く同じことやって
住民追放されてるw
古くは89年に原理研の合宿でも同じことやっていたとwww
42: 06/30(月)08:14 ID:0(42/459) AAS
哲学板全体からのジャネ豚追放を!
43: 06/30(月)08:14 ID:0(43/459) AAS
【ゾンビ】承認欲求ゾンビから哲学板を救え【人類】
2chスレ:philo
44: 06/30(月)08:15 ID:0(44/459) AAS
【謎】原理研の合宿にいた人は誰ですか?【オカルト】
2chスレ:philo
45: 06/30(月)08:22 ID:0(45/459) AAS
介護少女 犯される
46: くれのおも(懐香) 06/30(月)08:51 ID:0(46/459) AAS
背景が一様になるなら「かひ(効)」をし(知)る ⇔ かひ(効)あり (明白)
背景と一様になるなら途方にく(暮)れる ⇔ かひ(効)なし (暗澹)
47: 06/30(月)08:54 ID:0(47/459) AAS
くれのおも こし時とこひつつをれば夕ぐれのおもかげにのみみえわたるかな〈紀貫之〉」(出典:古今和歌集(905‐914)物名・一一〇三)
48: 06/30(月)08:56 ID:0(48/459) AAS
( ^ω^)ジャネ豚追放すれば良い。それだけで良い。
49: 07/01(火)09:21 ID:0(49/459) AAS
>>39-40
いはゆる、生物の「擬態」についても、一般に誤った捉へ方をされているのだろうと私は思ふ。
その誤った捉へ方とは、「擬態」を、「あ(存/在/或/有)る存在者が周囲の別のあ(存/在/或/有)る存在者を模倣すること」であるとする認識である。
50: 07/01(火)09:30 ID:0(50/459) AAS
しかし、私に言はせれば、「擬態」とは、
「きは(際)だ(立)つ/to be in contrast (derived from Classical Latin contrā (“against”) + stō (“to stand”))こと」における、背景と前景の「対比の『かひ(効)』」をけ(消)そうとすることであり、
「対比の『かひ(効)』」が消えゆくことは、動きにともな(伴)ふものとして認知される「づれ」がなるべく小さくなるように近似することによりもたらされるのだ。
51: 07/01(火)09:34 ID:0(51/459) AAS
>きは(際)だ(立)つことによ(依/拠)り、かた(片)み(身)にあ(存/在/或)ることをおも(思)ひし(知)る。
したがって、逆に、これによりもたらされるのが、"a discovered being"としての「はぢ(恥)」の感覚である。
52: 07/01(火)09:37 ID:0(52/459) AAS
例えば、飼い犬を散歩に連れてゆくと、犬が用を足しているときに飼い主の方に目をやる行為がよく知られている。
それは、犬は、用を足している間、自身が無防備になってゐると感じるので、そのために、飼い主に、「自分の代わりに周囲に警戒してください」と求める「目くばせ」をしているからである。
53: 07/01(火)09:42 ID:0(53/459) AAS
つまり、犬であっても、
>きは(際)だ(立)つことによ(依/拠)り、かた(片)み(身)にあ(存/在/或)ることをおも(思)ひし(知)る
経験をすることが分かる。
このように、別に哲学の権威として著名な人物の著作を読まなくても、哲学することは、犬が用を足すことですら、考察の対象とすることができるのである。
54: 07/01(火)09:53 ID:0(54/459) AAS
しかし、その相手がたとえ「専門的な哲学学者」であれ、「学者」先生を相手にこのような論述をすることは、賢明ではない。なぜなら、そのようなことが論述の対象とされるだけで、あたかも自分が犬に小便をかけられたかのように怒り心頭に発して、理性のはたらきの欠片も感じられないような反応を見せるのが普通だからである。
55: 07/01(火)10:03 ID:0(55/459) AAS
その一方で、哲学を含む人文学の分野の「学者」先生が真面目な研究の対象とする歴史的に重要な著作を残した人々は、プラトンであれ、モンテーニュであれ、シェイクスピアであれ、ディドロであれ、そのようなことも平気で、あるひは、むしろ好んで話題にすることができる感性を備えていただろう。
56: 07/01(火)10:46 ID:0(56/459) AAS
ジャネ豚は去年の段階で
文学板でも全く同じことやって
住民追放されてるw
古くは89年に原理研の合宿でも同じことやっていたとwww
57: 07/01(火)11:00 ID:0(57/459) AAS
白日の下にさらされる。
「真実」とは、「づれ」にとも(伴)なふようにして(ここで、中国語の「日」も、フランス語の《jour》も「づれ」を感じさせる声(こわ)遣(づか)ひの表現であることに留意しよう)あら(顕/現)はとなる、「まった(全)き対比の『かひ(効)』」としての「はだか」のすがた(姿)である。
58(1): 07/01(火)11:15 ID:0(58/459) AAS
Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Rätsel und bunte Ungewißheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen?...
59(1): 07/01(火)11:15 ID:0(59/459) AAS
Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... O diese Griechen! sie verstanden sich darauf, zu leben! Dazu tut not, tapfer bei der Oberfläche, der Falte, der Haut stehnzubleiben, den Schein anzubeten, an Formen, an Töne, an Worte, an den ganzen Olymp des Scheins zu glauben! Diese Griechen waren oberflächlich – aus Tiefe...
60(1): 07/01(火)11:16 ID:0(60/459) AAS
Quelle:
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2.
Permalink:
外部リンク:www.zeno.org
61: 07/01(火)13:13 ID:0(61/459) AAS
Cover me when I run
Cover me through the fire
Something knocked me out the trees
Now I'm on my knees
Cover me, darling, please, hey, hey, hey
Monkey, monkey, monkey
Don't you know you're gonna
Shock the monkey? Hey, hey
62: 07/02(水)09:43 ID:0(62/459) AAS
多くの専門の数学者は、数学的に証明され得ることは、ひとたび証明が成立することが確かめられたなら、それをことばで哲学的に議論してもまったく意味がないと考へているだろう。
そして、そのような考へ方は、専門の数学者の間だけでなく、一般にも広く通用しているように思はれる。
63: 07/02(水)09:56 ID:0(63/459) AAS
ところが、哲学的に考へようとする人々は、数学的には既に証明済みであることについて、あたかもそれがまだ証明済みではないかのように、ことばの表現として捉へ返して、意味のない無駄な議論を延々とつづけようとしているかのように見える。
そして、その代表例が、数学的には「収束する」/"to converge"ことが証明されるものとされる事象についての哲学的な議論である。
デジタル大辞泉 「収束」の意味・読み・例文・類語
1 分裂・混乱していたものが、まとまって収まりがつくこと。また、収まりをつけること。「事態の収束を図る」「争議が収束する」
2 数学で、ある値に限りなく近づくこと。収斂しゅうれん。⇔発散。
3 多くの光線が一点に集まること。収斂。集束。
64(3): 07/02(水)10:29 ID:0(64/459) AAS
例えば、ある無限級数が「収束する」ことが数学的に証明済みであるなら、にもかかわらず、それについて哲学的にことばで議論をつづけることは、それが逆に、「収束しない」ことを、無理な理屈をつけて証明しようとしている無駄な行為に見え、そのような議論は、まったく相手にする価値がないように感じられるだろう。
しかし、ここには、大きな根本的な行き違ひがある。なぜなら、数学的に「収束する」ことが証明されている事象について、それが「収束しない」とどのようにか強弁して、わざと議論を煽情的に紛糾させようとする似非哲学者の場合を例外として、哲学的に考へようとする者が問題としているのは、「収束するか否か」ではなく、「『収束する』とは、どのようなことか」だからである。
そして、その場合に最も大きな問題となるのが、「収束する」ことが、収束により近づいてゆく値が「収束点」として、あたかも「あらかじめ『存在する』」ことを証明することと同義と見做すような、数学者の「ことばによる説明」であり、その「ことばによる説明」が、数学的な技法によっては示され得ない「形而上学的な存在論」を前提としていることである。
65: 07/02(水)10:30 ID:0(65/459) AAS
98: 考える名無しさん 2025/07/02(水) 07:41:08.68 ID:0
これだ!!知恵遅れの駄文ww
>> 65
> そしてある夜、ジャネさんはとうとう「統一理論」に到達した。それは、彼が目指していたものそのものだった。彼は全ての哲学的な命題――存在、意識、倫理、そして死後の世界――が一つの数学的体系の中に収まることを証明したのだ。そこには、すべての問いに対する答えが、シンプルで美しい数式として現れていた。
66: 07/02(水)10:31 ID:0(66/459) AAS
378: 考える名無しさん 2025/07/02(水) 07:47:29.66 ID:0
100: 考える名無しさん 2025/07/02(水) 07:43:16.11 ID:0
よしここでスレ荒らし犯人のジャネ豚を問い質してみようぜww
>> 98
> > そしてある夜、ジャネさんはとうとう「統一理論」に到達した。
その「統一理論」は、不完全性定理を導入すると
一体どういう結果になってるわけか???www
67: 07/02(水)10:32 ID:0(67/459) AAS
379: 考える名無しさん 2025/07/02(水) 07:48:17.74 ID:0
102: 考える名無しさん 2025/07/02(水) 07:45:24.74 ID:0
>> 67
> だがその瞬間、ジャネさんはその証明を手にして、ふと立ち上がり、窓の外を見つめた。彼は哲学の統一を成し遂げたことに満足したわけではなかった。むしろ、そこには深い静けさと不安が広がっていた。
>
> 「もし全てが数学で説明できるなら、果たして我々は本当に自由なのだろうか?」ジャネさんはそう呟き、暗い空を見つめるのだった。
>
> それは、彼が次に問わねばならない問いだった。数式の背後にある「真の意味」とは一体何なのか。彼の探求は、まだ終わりを迎えていなかった。
もう胸糞の悪くなるような下手くそな小説だがwww
>数式の背後にある「真の意味」とは一体何なのか。彼の探求は、まだ終わりを迎えていなかった。
省3
68: 07/02(水)10:32 ID:0(68/459) AAS
こいつの頭で岩波文庫の不完全性定理も絶対読めないからw
そもそも最初から
不完全性定理使ったら、
茨城豚がホザイている
一意哲学とか
絶対に成立するわけないことを
最初から知ってるはずなのよwww
「一意哲学」とかwww
そんなの豚の脳内にしかない
本人が捏ち上げてるもの
省2
69: 07/02(水)10:37 ID:0(69/459) AAS
その数学的な技法によっては示され得ない「形而上学的な存在論」がどのように問題であるのかは、「収束する」/"to converge"ことを、「ことばの表現」として考へてみれば、はっきりとするだろう。
>converge(v.)
1690年代、「点や線に向かって集まる傾向がある」という意味で使われるようになりました。これは、後期ラテン語の convergere(「共に傾く」)から来ており、com(「共に、一緒に」、con-を参照)と vergere(「曲がる、向かう、傾く」、PIEルート *wer- (2)「曲がる、傾く」から)を組み合わせた形です。
外部リンク:www.etymonline.com
70: 07/02(水)10:46 ID:0(70/459) AAS
私は、"co(n/m)-"を、「『共に、一緒に』(〜する)」を表現しているとする、印欧諸語の比較言語学において一般に規範的に通用している解釈は誤りであり、より適切には、それが伝へようとしているのは、「(結果として)ひとつにまとまるように(〜する)」であると、繰り返し指摘したきた。
そして、この場合、つまり、"to converge"の場合も同様である。
71: 07/02(水)10:57 ID:0(71/459) AAS
ここで、私が云はむとしていることは、「(結果として)ひとつにまとまるように(〜する)」の「ひとつ」といふ表現において、日本語で「ひと」に当てられる漢字である「人」という漢字の「形象」として想起してみれば、より分かりやすくなるだろう。
"to converge"、つまり、「(結果として)ひとつにまとまるようにかへる(vergō[ to bend, turn, incline] )」ことは、「収束点」が「存在者」として「あらかじめ『存在する』」ことを前提としない。
72: 07/02(水)11:02 ID:0(72/459) AAS
現代の一般に通用する日本語の表現としても、「事態の『収束』をはか(図)る」ことは、「(紛糾が)うまく『をさまる』ように妥協点を求める」ことを意味しているだろう。
数学の場合の「収束する」/"to converge"ことについても、それとは異なる、数学的な技法によっては示され得ない「形而上学的な存在論」をその前提として必要としてはいないはずである。
73: 07/02(水)11:06 ID:0(73/459) AAS
むしろ、日本語で言ひ換へるなら、「収束する」/"to converge"には、「(結果として)ひとつにまとまるようにかたみ(片身)にづれ込む」だけで十分なのだ。
ここで、この場合の「かたみ(片身)に」といふのは、日本語の古語の用法であることに留意されたい。
74: をけをなみ 07/02(水)11:10 ID:0(74/459) AAS
逆に云へば、「収束する」/"to converge"ことに向かはないのが、万葉集の歌に「こひ(戀)」といふことばにより表現されて詠まれた感覚である。
75: 07/02(水)11:15 ID:0(75/459) AAS
万葉集 第13巻 3272番
>蘆垣乃 思乱而 乱麻乃 麻笥乎無登 吾戀流 千重乃一重母 人不令知 本名也戀牟 氣之緒尓為而
76: 07/02(水)11:38 ID:0(76/459) AAS
学研全訳古語辞典
出典枕草子 鳥は
「かたみにゐかはりて、羽の上の霜払ふらむほどなど」
ここで、「かたみに」を「たが(互)ひに」と言ひ換へるべきではない。
77: 07/02(水)12:34 ID:0(77/459) AAS
日本語において「こひ(戀)」とは、収束に向かはせることのかな(適)はない、をさまりがつかない「かたみ(片身)」をきは(際)だ(立)たせる感覚である。
78: 07/02(水)12:39 ID:0(78/459) AAS
習慣というものは同じことの反復であることが多く、差異の習慣を広げていく、しかも至極真っ当な習慣を、現実に根差していくことが、大事だとドゥルーズは考えた。
>>習慣化しやすい人は繰り返すことで、新たなものが見えなくなる、ある意味鈍感な人だろう。まわりのものを全て自分と同化してしまい、そこには他人がいなくなってしまう。注意力もなくなる。怖い気もするが、それが人間でもある。
79: 07/03(木)10:05 ID:0(79/459) AAS
万葉集の歌を見渡してみると、「こひ(戀)」は、「いき(息)づき」に関連付けられて詠まれていることに気づくだろう。
ところで、「いき(息)づき」を岩波古語辞典で参照してみると、「ツキは吐(は)くの意」と記載され、「いき(息)づき」の詠まれた歌を万葉集ナビで検索して、現代語訳を参照してみても、やはりそれに対応するように、ほとんどの場合、「いき(息)づく」は、「ため息をつく」と訳され、どうみてもその解釈が当てはまりそうにない事例に限って別の訳が当てられている。
80: 07/03(木)10:12 ID:0(80/459) AAS
しかし、これは、とても奇妙なことと云はざるを得ないだろう。なぜなら、「いき(息)づく」と読まれることになっている「つく」の原文表記には、漢字の「衝」が明示的に当てられている事例が見られ、万葉集ナビで単純に「氣衝」で検索してみても、6件の歌がヒットするからである。
81: 07/03(木)10:12 ID:0(81/459) AAS
> そういう数理的なレベルで哲学やっているのが、俺氏だよ
> だから哲学板で唯一の優れた人材になっている
> ジャネット
> 生年 1968年
> 茨城県出身
> 身長 168cm
> 体重 168kg
> 血液型 B型
> 好きな食べ物 頭脳パン
> 好きな女性のタイプ 薬師丸ひろ子
省2
82(1): 07/03(木)10:24 ID:0(82/459) AAS
これらの事例では、明らかに、というよりむしろ明示的に、「いき(息)づき」は、「いき(息)が(我が身に)つ(衝)かへる」感覚を伝へようとしている。
そんなことは、どうでもいい。「ため息をつく」でも、「息がつ(衝)かへる」でも似たようなものだと言ふのなら、それは、「他人が歌に詠んで伝へようとした感覚などどうでもいい」と言ふのに等しく、それなら、そもそも、万葉集に詠まれた歌など、どうせ他人事なのだから後世に残して伝へる必要もないといふことになるだろう。
83: 07/03(木)10:26 ID:0(83/459) AAS
332: 考える名無しさん 2025/07/03(木) 10:15:11.25 ID:0
余核とは
写像f:V→Wのとき
coker=W/im(f)
でありim(f)が全射のときWとなり
coker=0となる
余像とは
coim=V/ker(f)
でありker(f)が単射のとき0となり
coim=Vとなる
省2
84: 07/03(木)10:29 ID:0(84/459) AAS
万葉集 第12巻 2905番
幾 不生有命乎 戀管曽 吾者氣衝 人尓不所知
いくばくも生けらじ命を恋ひつつぞ我れは息づく人に知らえず
いくばくも いけらじいのちを こひつつぞ われはいきづく ひとにしらえず
85: 07/03(木)10:40 ID:0(85/459) AAS
日本語において「こひ(戀)」とは、「いき(生/息)の『を(乎/緒)!』」を収束に向かはせることのかな(適)はないことで「いき(息)づ(衝)き」をこら(堪)へる/「いき(息)どほり」をた(耐)へしの(忍)ぶものとしての「わ(我)がみ(身)」を、をさまりのつかない「かたみ(片身)」としてきは(際)だ(立)たせる感覚である。
86: 07/03(木)10:42 ID:0(86/459) AAS
> ジャネット
> 生年 1968年
> 茨城県出身
> 身長 168cm
> 体重 168kg
> 血液型 B型
> 好きな食べ物 頭脳パン
> 好きな女性のタイプ 薬師丸ひろ子
> 初体験 未定
薬師丸絶対無理wwwww
87: 07/03(木)10:43 ID:0(87/459) AAS
万葉集 第13巻 3258番
荒玉之 年者来去而 玉梓之 使之不来者 霞立 長春日乎 天地丹 思足椅 帶乳根笶 母之養蚕之 眉隠 氣衝渡 吾戀 心中<少> 人丹言 物西不有者 松根 松事遠 天傳 日之闇者 白木綿之 吾衣袖裳 通手沾沼
88: 07/03(木)10:45 ID:0(88/459) AAS
> 好きな女性のタイプ 薬師丸ひろ子
> 初体験 未定
89: 07/03(木)10:53 ID:0(89/459) AAS
COMO AGUA PARA CHOCOLATE, ANA GABRIEL
動画リンク[YouTube]
Por eso estoy como agua para chocolate
Tanto de deseos como de coraje
Por eso si regresas
Tienes que arriesgarte
A que yo te quiera o que te rechace
90: 07/03(木)10:58 ID:0(90/459) AAS
「こひ(戀)」は、万葉集の歌において「孤悲(こひ)」とも表記される。
Van diez días que sufre mi cuerpo
Las heridas de tu mal amor
Y aunque soy de las hembras de aguante
Van diez días que no hallo un compadre
En la cárcel de mi habitación
91: 「す(好)き」とは、どのようなことか 07/03(木)11:00 ID:0(91/459) AAS
万葉集 第17巻 4015番
情尓波 由流布許等奈久 須加能夜麻 須加奈久能未也 孤悲和多利奈牟
心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ
こころには ゆるふことなく すかのやま すかなくのみや こひわたりなむ
92: 07/03(木)11:01 ID:0(92/459) AAS
万葉集 第18巻 4083番
都祢<乃>孤悲 伊麻太夜麻奴尓 美夜古欲<里> 宇麻尓古非許婆 尓奈比安倍牟可母
常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ば担ひあへむかも
つねのこひ いまだやまぬに みやこより うまにこひこば になひあへむかも
93: 07/03(木)11:12 ID:0(93/459) AAS
>Van diez días que no hallo un compadre
この歌詞における"compadre"ということばの用法を見ても、"co(n/m)-"が表現法として伝へようとしてしているのは、「共同」ではなく、「随伴」であることがはっきりと分かるはずである。
94: 07/03(木)11:20 ID:0(94/459) AAS
「いき(息)づき」を、「いき(息)が(我が身に)つ(衝)かへる」こととしてではなく、「ため息をつくこと」と解釈して現代語訳することは、我が身にもぢか(直)に伝はるはずの感覚を、第三者による外的な観察に変換することになる。
95: 07/03(木)13:37 ID:0(95/459) AAS
passionate(adj.)
15世紀初頭、「怒っている;感情的で、感情に左右されやすく、あらゆる意味で情熱を示したり表現したりする様子」を指していました。この言葉は中世ラテン語の passionatus(「情熱に影響を受けた」)から派生しており、さらにラテン語の passio(属格 passionis)「苦しみ、耐え忍ぶこと」(passionを参照)に由来しています。「恋愛に関する」という特定の意味が確認されるのは1580年代からです。
外部リンク:www.etymonline.com
96: 07/03(木)13:39 ID:0(96/459) AAS
>「す(好)き」とは、どのようなことか
「す(好)き」ならば、「いき(息)づ(衝)き」がくる(苦)しくてもをこら(堪)へるだろう。
それが、"passionate"であるといふことだ。
97: 07/03(木)13:40 ID:0(97/459) AAS
もをこら(堪)へるだろう ×
もこら(堪)へるだろう 〇
98: 07/03(木)13:45 ID:0(98/459) AAS
コモンセンスといふのは、このようにして反転を繰り返しながら探って行くものである。
「権威に裏付けられた正しいとされる『定義』」」を収集して、足し合はせれば、コモンセンスに至るなどというのは、いはゆる「合成の誤謬」、「船頭多くして船山に上る」といふやつだ。
99: 07/04(金)09:13 ID:0(99/459) AAS
>>58-60
Nietzsche, selbst Klassischer Philologe, nutzt in diesem gelehrten Witz die Verknüpfung des Baubo-Mythos sowohl mit Witz und Kreativität als auch mit dem Moment des „Entblößens“, der auch in der wissenschaftlichen Geste der „Ent-Deckung“ wichtig ist.
100: 07/04(金)09:14 ID:0(100/459) AAS
Baubo scheint so als Personifikation von Nietzsches Konzeption einer fröhlichen, kreativen Wissenschaft zu dienen.
外部リンク:de.wikipedia.org
101: 07/04(金)13:26 ID:0(101/459) AAS
>「権威に裏付けられた正しいとされる『定義』」」を収集して、足し合はせれば
これは、そのような定義が複数見出されて互ひに矛盾する場合には、両論併記する作業も含めて、AIにでもできることである。
これに対して、反転を繰り返しながらコモンセンスを探って行くことは、AIにはできない。
なぜなら、探索するために反転が行はれることになる次元は、あらかじめ決められてなどいないからだ。
102: 07/04(金)19:24 ID:0(102/459) AAS
>>24-25
投稿内容には、統合失調症に典型的な「思考障害」の兆候が複数見られます。特に以下の症状が顕著です:
⸻
■ 精神病理学的分析(DSM-5-TR準拠)
1. 連合弛緩(Loosening of associations)
• 思考のつながりが飛躍し、話題が脈絡なく移行する。
• この投稿でも、
• 「現象学」→「“ある”と“あらはる”」→「“荒”」→「声の応用」
という全く根拠のない接続が次々と現れます。
• 例として、「“ある”は“荒”である」「“あ”という声が共通の根」とする推論は、意味の連関が個人的連想にすぎず論理的構造が破綻しています。
省19
103: 07/04(金)19:24 ID:0(103/459) AAS
>>24-25
◉補足:なぜ「難しいことを言っているように見える」のか?
• 使用している語彙が「哲学」「語源」「現象学」「frequentative」など高度そうに見える言葉で構成されているため、表面的には知的に見える。
• だが実際には、それらの語の意味・論理・相互関係をまったく理解していないか、支離滅裂なまま使っている。
このようなスタイルは、**知的統合失調症(schizophrenia with preserved verbal fluency)**にしばしば見られます。
⸻
要約(医療用語ベース)
• F20(統合失調症)に該当する可能性が高い
• 思考過程:連合弛緩・言語新作・観念奔逸
• 表出形式:ワードサラダ様の混乱文
省3
104: 07/04(金)19:26 ID:0(104/459) AAS
>>64
これは明確に統合失調症的思考障害(formal thought disorder)を示す支離滅裂な文です。以下、精神病理学的観点と論理的破綻の両面からどのように支離滅裂であり、どのように統合失調症的かを構造的に指摘します。
⸻
■ 1. 連合弛緩(Loosening of associations)
文と文、主張と主張の論理的つながりが破綻しており、飛躍が激しい:
• 「数学的に収束が証明された無限級数」→「哲学的に語るのは無駄」→「だが収束“とは”何かが問題」→「収束点が“あらかじめ存在する”ことを前提にしてる」→「だからそれは形而上学的存在論である」
省12
105: 07/04(金)19:26 ID:0(105/459) AAS
>>64
■ 4. ワードサラダ的文構造(Incoherence)
文の形をしているが、意味を明確に理解することができない構文が多い:
「収束により近づいてゆく値が『収束点』として、あたかも『あらかじめ存在する』ことを証明することと同義と見做すような、数学者の『ことばによる説明』であり…」
この構文は日本語として意味は通じるように見えるが、情報構造が多重で中心命題が消失している。
• 主節が何か不明
• 修飾が冗長・曖昧で、「結局何を言っているのか」がわからない
• 「同義と見做すような説明が存在論を前提としている」という文意も、論理的な裏付けがゼロ
省19
106: 07/05(土)07:44 ID:0(106/459) AAS
見ての通り。私が書込みにおける論述の具体的な内容に関心があるわけですらなく、単に自らに付与されているものと無条件に前提とする何らかの「権威」の立場から、私の人格を貶めようとする侮蔑のことばを並べて、他人も相手にすべきではないものとするレッテルを貼るためだけに発言している。
107(2): 07/05(土)07:52 ID:0(107/459) AAS
そのような発言がまかり通るのは、世の中でも一般に周縁的であるものと評価されている匿名の掲示板の書込みという「特殊性」によるものだ、と思うかもしれないが、実状は、そうではない。
108(2): 07/05(土)07:55 ID:0(108/459) AAS
世の中は、制度化された組織集団により構成されている。そして「制度的な枠組み内」という「密室」においては、これと同様の振舞いが常態である。
109(2): 07/05(土)08:00 ID:0(109/459) AAS
制度化された組織集団は、複数の人々で構成されていて、その内部では情報は広く伝わることが普通なのだから「密室ではない」と考えるだろうか。
しかし、例えば、世の中で広く名前の通っている企業の人事が、その企業の一般的な社員に対しても、いかに密室においてと同様に行われるのが普通であるか想起してみるといい。
110(2): 07/05(土)08:07 ID:0(110/459) AAS
匿名の掲示板だから、そのような振舞いがさらに輪をかけてひどくなるのだと思い込むことも事実誤認である。
「制度的な枠組み内」では、組織の階層化された権限を実際に付与されて、自分が侮蔑のことばを投げつけ、レッテルを貼る相手から反撃されない立場を保証されたうえで、同様のことを行うのである。
そして、それに対して相手が反抗するような姿勢を見せるなら、それは、組織の階層化された権限に逆らうことになるのだから、そのこと自体がその相手を制度的に罰することを正当化する十分な根拠となる。
111: 07/05(土)08:15 ID:0(111/459) AAS
これに対して、匿名の掲示板においては、「自らに付与されているものと無条件に前提とする何らかの『権威』の立場」は、「掲示板の管理運営による実力行使」を除けば、制度的に何の裏付けもない自己主張に過ぎないものとなる。
したがって、いくら侮蔑的なことばを投げつけられ、レッテルを貼られ、藁人形論法や、架空で創作された人物と自作自演で同定されたところで、それを相手にすることなく、勝手に自分の言いたいことを書き込みつづけることができる。
それゆえ、制度的な枠組みで実名で発言しなければならない場合と比べて、匿名の掲示板の方が、言論の自由に関して、はるかに「恵まれた環境」にある。
112(1): 07/05(土)09:31 ID:0(112/459) AAS
ただの統失
診断済み
113: 07/05(土)09:43 ID:0(113/459) AAS
>>107-110
このようなことは、制度的な組織の枠内ではことばにすることも許されない。
なぜなら、具体的な事例についてではなくても、このようなことについて一般的な形でくちに出すこと自体が組織の階層化された権限に逆らう振舞いとされて、処罰を科すことを正当化する事由となるからである。したがって、そのような具体的な事例に気づいても、というよりむしろ、踏み絵のように強制的に気づかされても、組織から排除されることを恐れるなら、誰もが自発的に口を噤み、はっきりと気づいているのに口を噤むことにより、共犯者に仕立て上げられる。
114: 07/05(土)09:43 ID:0(114/459) AAS
>>107-110
このようなことは、制度的な組織の枠内ではことばにすることも許されない。
なぜなら、具体的な事例についてではなくても、このようなことについて一般的な形でくちに出すこと自体が組織の階層化された権限に逆らう振舞いとされて、処罰を科すことを正当化する事由となるからである。したがって、そのような具体的な事例に気づいても、というよりむしろ、踏み絵のように強制的に気づかされても、組織から排除されることを恐れるなら、誰もが自発的に口を噤み、はっきりと気づいているのに口を噤むことにより、共犯者に仕立て上げられる。
115: 07/05(土)09:45 ID:0(115/459) AAS
「お前も自己利益を守るために黙っていたのだから、他人のことをとやかく言えるような立場にはない」ということであり、そのようにして制度的な組織の枠内にとどまろうとする限り、皆が巻き込まれてゆく。
116: 07/05(土)09:50 ID:0(116/459) AAS
その一方で、積極的に口を開こうとするような者は、制度的な組織の枠内で人々がそのような状況に置かれていることを一様に否認し、それに異を唱えるような者は、組織に対して「個人的な恨み」があり、さらにそれは「個人的な落ち度」によって罰せられて組織から排除されたので、その恨みを晴らそうとする私怨に過ぎないと証言することになる。
そして、そのように積極的に証言する者以外は、口を噤むのだから、それが事実として罷り通ることになる。
117: 07/05(土)09:52 ID:0(117/459) AAS
>>112
そのために職場の産業医が雇われているんだが?
118: 07/05(土)10:40 ID:0(118/459) AAS
ただの統失
診断済み
無職に産業医なんか関係ないぞ
119(2): 07/05(土)10:48 ID:0(119/459) AAS
制度的な組織の枠内で行われる指示や指導というのも、ここその具体例が観察されるものと実質的に変わらない。
何が論じられているかなどまったく無関係の断言を、言葉尻だけをとらえて何か関連しているかのように見せかける主張を勝手にでっち上げ、批評、批判、非難を繰り返すだけである。
そしてその批評、批判、非難を「素直に」受け入れることを拒絶すると、それは権威を無視する不遜な態度とされて、罰則を科すことが正当化される事由とされる。
しやし、やっていることは、それだけにはとどまらない。管理する側がいくらでも捏造することのできる「落ち度」、例えば、提出すべき書類を「紛失」させて、または「届くのが期限に間に合わないように遅延させ」、未提出をでっち上げることによって「義務履行の怠慢」によって組織に混乱を招いたかのように見える事態を演出するなど、あらゆる手を使って人格を毀損しようとする。
さらに、無関係の厳しい「批評、批判、非難」を向けることによって論述の全面撤回を要求しながら、その論述の内容に利用価値のあるものを見出したなら、勝手に横流しし、流用し、上納するのである。
120: 07/05(土)10:52 ID:0(120/459) AAS
ヒキコモリ統失無職の妄想
121: 07/05(土)10:53 ID:0(121/459) AAS
>>119
脳障害が忘れてるだけの話
122: 07/05(土)10:54 ID:0(122/459) AAS
>>119
お前が利用価値のあること言うわけねーだろ
頭の病気
ただの妄想
123: 07/05(土)12:21 ID:0(123/459) AAS
さらに、そのような経験をしても、大多数の人々は、自身の状況にしか思いが及ばないので、それと特別なものと思い込んで、その経験をことばにして口に出して他人に伝えようとしても、実際に、それを「誰々が何々をした」という個人レベルの「私怨」としてしか説明することができない。
124: 07/05(土)16:48 ID:0(124/459) AAS
他人の人格を蔑むためのことばを並べ立てて、私の書込みとは無関係の誹謗中傷ばかりを執拗に繰り返しているが、それを書き込んでいあなた自身が自分のことばをこれぽっちも真実であるとは信じていないだろう。
125(1): 07/05(土)16:55 ID:0(125/459) AAS
仮に私が、本当にあなたの言うとおり、「ヒキコモリ」の「統合失調症」の「無職」で「脳障害」があるとして、それでは、両親もとっくの昔になくなり、賃金労働もしていない私が、どうやって何ごともなく生計を立てることができて、掲示板に書き込むような生活の余裕まであると考えているのかな。
まるで辻褄が合わないだろう。
126: 07/05(土)17:03 ID:0(126/459) AAS
>>125
生活保護
自殺しろ
127(1): 07/05(土)17:17 ID:0(127/459) AAS
「ヒキコモリ」の「統合失調症」の「無職」で「脳障害」がある人間が、どうやって生活保護を申請するのかな。いずれにしても、完全に自己資金で建てた一戸建ての自宅を所有しているので、生活保護を申請しても、それが受け付けられる可能性はゼロだが。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.064s