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【仏教】悟りを開いた人のスレ671【天空寺】 (1002レス)
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鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
2023/05/16(火) 12:41:05.58
ID:Ab/p7WZP(4/4)
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332: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe [sage] 2023/05/16(火) 12:41:05.58 ID:Ab/p7WZP カッチャーヤナ(迦旃延) 南伝 相応部経典 一二、一五、迦旃延氏/ 漢訳 雑阿含経 一二、一九、迦旃延 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。 その時、尊者カッチャーヤナ(迦旃延)は、世尊のましますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。 その傍らに坐した尊者カッチャーヤナは、世尊に申しあげた。 「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」 「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。 カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。 カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。 だが、聖なる弟子たるものは、その心の依処に取著し、振りまわされて、〈これがわたしの我なのだ〉ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。 カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。 カッチャーヤナよ、〈すべては有である〉という。これは一つの極端である。 また、〈すべては無である〉という。これももう一つの極端である。 カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1684037490/332
カッチャーヤナ迦延 南伝 相応部経典 一二一五迦延氏 漢訳 雑阿含経 一二一九迦延 かようにわたしは聞いた ある時世尊はサーヴァッティー舎衛城のジェータ祇陀林なるアナータピンディカ給孤独の園にましました その時尊者カッチャーヤナ迦延は世尊のましますところにいたり世尊を礼拝してその傍らに坐した その傍らに坐した尊者カッチャーヤナは世尊に申しあげた 大徳よ正見正見と申しますが大徳よ正見とはいったいどういうことでございましょうか カッチャーヤナよこの世間の人はたいてい有か無かの二つの極端に片寄っている カッチャーヤナよ正しい智慧によってあるがままにこの世間に生起するものをみるものにはこの世間には無というものはないまたカッチャーヤナよ正しい智慧によってあるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものにはこの世間には有というものはない カッチャーヤナよこの世間の人はたいていその愛執するところやその所見に取著しこだわりとらわれている だが聖なる弟子たるものはその心の依処に取著し振りまわされてこれがわたしの我なのだととらわれ執著しこだわるところがなくただ苦が生ずれば苦が生じたと見苦が滅すれば苦が滅したと見て惑わず疑わず他に依ることがないここに智が生ずる カッチャーヤナよかくのごときが正見なのである カッチャーヤナよすべては有であるというこれは一つの極端である またすべては無であるというこれももう一つの極端である カッチャーヤナよ如来はこれら二つの極端を離れて中によって法を説くのである
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