[過去ログ] マハシゴエンカパオ☆ヴィパッサナー瞑想法Part.13 (1001レス)
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169(1): 2014/08/10(日) 21:21:52.87 ID:6GYaL8HN(13/27)調 AAS
仏教もヨガも同じものです。
山の麓にいる人間は別の道に見えるものも
頂点に近い高度に達する登山家には、全ての道が山の頂上の一点に
集まる道であることを悟ることと似ています。
悟りには主語や目的語がありません
誰が、何を「悟る」のか、瞑想を実践しないものには
理解できないのです。
自分も他人もない
すべての現象が一つのソースから発生していることを
理解する「悟り」に、誰が、何を「悟った」のか
もはや主語や目的語は必要なくなるからです。
174(2): 2014/08/10(日) 23:00:16.94 ID:oIJNPzv0(10/15)調 AAS
>>169
それはサマディの状態のことでしょ。
ヨガではサマディの状態のことを悟りとしているのだから、
ヨガにおける悟りを語ることは「悟りの状態」について語ることを意味する。
サマディが深まってくると、認識から主語は消える。
意識は肉体の制約から離れて広がり、自分と他人の区別がなくなる。
光に包まれたり、尋常ならざる強さで清らかな気持ちが湧いてきたりもする。
サマディの境地を色界と言うが、そこに生じる心は、普段我々が生活している
この欲界には生じない種類のものだから、瞑想してサマディを経験していない
人には、そういう感情があることを言っても分からない。
その意味では、言葉で表現できない。
(アビダンマでは、色界善心として言葉による定義もしているが、それは瞑想者
同士には分かるが、そうでない人にはただの言葉、ただの知識にしかならい。
それは確かに言える。)
一方、仏教が定義する悟りとは、サマディの状態のことを指しているのではない。
一切の事物に対する洞察力と、その洞察からくる認識の転換のことを意味しているはず。
ここに話の食い違う原因がある。
(しかし何度目だ。永遠に続くFAQとは分かっているが。)
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