[過去ログ] 浄土真宗本願寺派 [18願] (1001レス)
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1(7): 調声人 ◆DlIN3YzWlI 2006/01/25(水) 23:34:42 ID:li3Dn4NE(1/8)調 AAS
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚
唯除五逆 誹謗正法 『仏説無量寿経 巻上』
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 住不退転
唯除五逆 誹謗正法 『仏説無量寿経 巻下』
浄土真宗本願寺派(俗称・西本願寺)に関わる話題のすべてを扱う総合スレッド
でございます。諸派・他宗旨の方のご参加、話題も結構でございますが、専門的な
話題に発展する場合は、該当する専門スレッドへの移動をお願いいたします。
ようこそお参りくださいました。南无阿彌陀佛。
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浄土真宗本願寺派 [17拍]
2chスレ:psy
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真宗大谷派・東本願寺系諸派総合スレッド
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重複を避けるため、スレたて宣言とスレたて報告をお願いいたします。
なるべく「 調声人 ◆DlIN3YzWlI 」本人が踏むようにいたします。
(他の方がたてられる場合は和讃部分を削っていただいても結構で
ございますが、スレタイを勝手に変更なさるのはご勘弁くださいませ)
875(1): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:07:06 ID:4DH17/GM(1)調 AAS
>>874
>もしや阿弥陀さまに失礼だったかと心配しています。
失礼ではありません。
>このまま読み続けてもいいのでしょうか。
宗旨にもよりますのでお好きにどうぞ。
876(2): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:17:49 ID:8o6LLk0R(1)調 AAS
浄土真宗とは・・
阿弥陀の救済を信じる信心決定を仏の悟りにも等しい
とする親鸞聖人の教え
と
(それだけじゃ、信心があれば坊主も寺も不要になる
から)儒教道徳の「恩」を説いて本願寺に貢がせる
覚如上人・蓮如上人の教え
で構成された奇妙な宗教
877(2): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:46:33 ID:+U2gdT6F(1/2)調 AAS
親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそう
らわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いず
れもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちから
にてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわ
め。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと
云々
親鸞は読経どころか念仏さえも父母孝養のためにしたことがない。
自分のちからで善根を励み真実の善のできる身であれば念仏、読経の功徳を父母に
回向するということもあり得るだろうが、雑毒虚仮の善しかできぬ身であれば
自分自身が地獄しか行き場のない罪悪生死の凡夫。人に善根を回向して助ける
などということができるはずがない。
ただ阿弥陀仏を一向にたのみ信心決定して、浄土に生まれることがまちがいない身に
なってこそ往相還相の二種の回向をいただいて弥陀同体のさとりをひらくことが
できるのだ。
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき
弥陀の願船しか私たちを渡してくださる船はないことをよくよく知っていただきたい
と思います。
878(1): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:54:36 ID:+U2gdT6F(2/2)調 AAS
それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸
仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。しかればここに
弥陀如来ともうすは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏とし
て、いまのときの、諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人を
ば、弥陀にかぎりて、われひとりたすけんという超世の大願をおこして、われら
一切衆生を平等にすくわんとちかいたまいて、無上の誓願をおこして、すでに阿
弥陀仏となりましましけり。この如来をひとすじにたのみたてまつらずは、末代
の凡夫極楽に往生するみち、二つも三つもあるべからざるものなり。
諸仏に見捨てられ、弥陀一仏が「われひとり救わん」と立ち上がってくださったのです。
般若心経を読んで何をしようとされているのか、我が身をよくよく問いつめて
ください。
「逆謗を救うぞ」とあなたのために誓われた弥陀を十劫の間待ちぼうけをくわせて
いつまでも我が身知らずで雑行を捨てないあなたを見て弥陀は泣いておられますよ。
879: 874 2006/06/12(月) 21:36:14 ID:puQXpAiT(2/2)調 AAS
>>875-878
いろいろご意見下さってありがとうございます。
毎日仏壇を整えること以外母に何もしてあげられないので
せめて読経をと思い続けておりました。
会話ができない寂しさもあって読んでいたのかもしれません。
しかし母が本当に望むことを私は疎かにしていたと思います。
読経のことはあまり考えすぎないようにしようと決めました。
スレ汚し失礼いたしました。
880: 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 23:02:57 ID:jZrg3dRD(1)調 AAS
仏説阿弥陀経と正信げをあげましょう
881: 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 23:31:32 ID:1iATbLQA(1)調 AAS
>>877
いや、たぶん法然上人と出会う前、比叡山時代には父母孝養のために読経したことはあると思う。
念仏は父母孝養のためにしたことはないはずだけど。
882: 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 01:50:03 ID:/o+7OtnN(1)調 AAS
信心決定の人は日曜日が忙しい人か
883(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 13:05:34 ID:LHuz/ypn(1)調 AAS
>比叡山時代には父母孝養のために読経したことはあると思う。
比叡山でも念仏の行はありますよ。
親鸞聖人が言われたのはそういうことではないでしょう。
884: 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 19:31:44 ID:JhNtnMzS(1)調 AAS
亡くして初めて知る親の御恩ですね。
「恩を知るは大悲の本なり、善根を開く初門なり」と
教えられています。
無常と自己の罪悪を観じて仏縁を求めてください。
874さんに仏縁が恵まれることを念じております。
885(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 20:23:37 ID:qgcjLEmF(1/2)調 AAS
>>883
聖人は比叡山時代に念仏の行をしたとでも?
886(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 22:08:35 ID:B0K5fMgh(1)調 AAS
>885
あほか、常行三昧堂の堂僧(堂に仕え勤行を修する僧)だったのにやらいでか。
887: 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 22:41:32 ID:qgcjLEmF(2/2)調 AAS
>>886
それは自力の念仏ですか?何のための念仏ですか?
888(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 22:43:50 ID:MVmc5oHr(1)調 AAS
ダヴンチ・コードを見ても(小説だから真偽はいろいろあるにしても)ローマ帝国が
キリストを神にしたとか、お釈迦さまも竜樹の時代の前頃から生まれながらの仏さま
にする考え(久遠仏)が出て来ていたとかあるが、親鸞さんも生まれながらの浄土真
宗の開祖にしたくなる御仁が出てくるんだろうか。それぞれ人間だからいいところが
あると思っているのだが、洋の東西を問わず似た現象は起きるもの。
889: 真如 2006/06/14(水) 03:11:57 ID:yiNGIEZR(1/5)調 AAS
親鸞は南無阿弥陀仏の意義を細分化して、阿弥陀回向の他力信心と言う処まで突き詰めたが、そこまで突き詰める事は親鸞にとって重要だったのであって、一般の人にはさして重要じゃない。全くと言って良いほど重要じゃない。
890(1): 真如 2006/06/14(水) 03:41:31 ID:yiNGIEZR(2/5)調 AAS
一般の人にとっては、念仏が自力か他力かなんて議論自体、無意味だ。
ご先祖様になんかありがたい念仏をあげれば良いだろう、そんな感じだ。
しかしそれでいいんだ。大切なのは南無阿弥陀仏ととなえ念じさせる事だと思うから。
891(1): 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 04:19:56 ID:YP3slg/p(1)調 AAS
>>890
そういう人、そういうお念仏のいただきぶり、でさえも、
阿弥陀様は救って下さいますよ、と御開山はおっしゃったです。
892: 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 04:24:19 ID:aEP3nHig(1)調 AAS
>>891
必ず救うと誓願を立てられた。しかし、彷徨い続けるのは止めて、平生業成させて
もらいましょう。
893: 真如 2006/06/14(水) 04:58:20 ID:yiNGIEZR(3/5)調 AAS
念仏を肉に例えれば、この肉はどこの店から買ったのか、どこの産地か知るのも大切かもしれん。自分で買うか他人に買ってもらってなおかつ料理してもらうか、違いがあるだろうが。
しかし結局はみな、肉を食べれば栄養になり血肉となる。
念仏をとなえるのも同じ事だ。となえれば念じれば、自然に仏果を得る。
店や産地を知るのは、肉を食べる助けになるだけの事だ。肉には古いか新鮮さかの違いがあるが、南無阿弥陀仏にはそれが無い。南無阿弥陀仏はそれだけで尊いからだ。
自力か他力かなどどうでもいい。南無阿弥陀仏をとなえ念じる事こそ重要だ。南無阿弥陀仏
894: 真如 2006/06/14(水) 05:08:36 ID:yiNGIEZR(4/5)調 AAS
いや待てよ、阿弥陀さんから信心を頂いている、と思う事も、いわば南無阿弥陀仏の変化形だな。失敬失敬
895(1): 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 06:39:26 ID:80kG2KgA(1/2)調 AAS
アミダさまに頼るだけでいいんだというなら、なぜ大伽藍を造営し仏壇を麗々しく
荘厳し大教団を維持しなければならないんだ。
親鸞さんはお寺も弟子もいらんと言っておられたんではないか。
親鸞さんの教えを護り多くの人の賛同を得ないといけないとの思いが、壮大な装置を
必要としているんではないか。現実問題、アミダさまに頼るというのは一大事業でも
あるのではないか。その覚悟は、ある意味必死なことではないか。
「自力か他力かなどどうでもいい。称名念仏しなさい」と言って「ああそうですか」と
こっちへ来た人は、他から祈伏されるとすぐにあっちへ行くんではないか。心底をつき
固めるにはそれなりの手順が大事だと思うがどうか。
896: 真如 2006/06/14(水) 10:00:46 ID:yiNGIEZR(5/5)調 AAS
895さんは、心底を突き固めた経験なり手順なり、があったのだろうな。
897: 895 2006/06/14(水) 11:35:44 ID:80kG2KgA(2/2)調 AAS
月曜日の昼、京都南を通ったので本願寺へお参りして門徒会館で昼飯を食った。
境内にも会館地下の食堂でも新発意か学僧らしい若い僧が大勢見えた。行き交う
人に挨拶するのもいないのもいた。しかし得度をしたんなら一度でいいから剃髪
くらいしたらどうかと思った。このスレの前にも信心決定が大事と書いてあった
が、決心をそういう形で一時期であれ示すのは大事なことではないかと思うが、
どうか。踏絵になって酷だという人もいるかな。普通の会社でも新入社員は全員
こざっぱりした頭髪服装になっていて新人だなと分かるものだ。失敗しても免罪
符になるせいもあるが。
898: 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 13:21:15 ID:QP0EZjN8(1)調 AAS
普段から剃髪してます。
ちょっとめんどくさい時は丸坊主ですが。
特に決意がどうこうというつもりではないですが、袈裟着たときに一番ピシッと似合う頭はやはり坊主頭だなぁと。
作務衣にも似合うと思うし。
格好からでゴメンw
899(1): 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 16:59:56 ID:oOkWrqaB(1)調 AAS
かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、
しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実の
ごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。
「名号にはすべての人の無明を破る力があるけれども
念仏を隙無しに称えていても無明が破れずに信楽のこころになれない者がある」
そういうひとの称える念仏を蓮師は
「それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、なにの
分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにお
もえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。」と言われたのです。
十九願、二十願、十八願の念仏はそれぞれ称え心が違います。
十八願のお念仏を称える身になっていなければ往生はできません。
900(2): 900 2006/06/14(水) 21:57:24 ID:ZbfiKAPS(1)調 AAS
>>899
人間に十八願のお念仏なんてできんのかよ
901: 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 22:43:28 ID:wtmqaeTt(1)調 AAS
>>900
できます。
阿弥陀仏のお力でできるのです。
902: 真如 2006/06/15(木) 00:39:57 ID:fFu15zrY(1/5)調 AAS
あのさ、阿弥陀さんから信心も念仏も頂いている、と認識する事で十八願念仏とするなら、念仏の力じゃなくて、「認識」の力によって念仏は十八願になったり、そうじゃなくなったりすると言う事になるからね。
認識で念仏を操作出来るものかねぇ。操作出来なくて認識も関係無いのが念仏なんじゃないかと思うがなぁ。認識で念仏の効用が変わると説いた所が親鸞の言い過ぎた所なんだよな(笑
903: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 04:40:07 ID:28ZHI/UH(1/3)調 AAS
そのハンドル、恥ずかしくないかい?
というのはいいとして、あんさんの理屈だと機の部分がないね。
法だけ説くのならば「念仏する、させる」でいいんだけれどさ、
凡夫という機があるから本願の念仏という法があるんであって、
機の部分が欠けると本願もいらなくなるのよ。
あんさんの認識っつうのは念仏の細分化のようだが、
親鸞聖人がこだわったのは「私」の機の部分。しかも、
細分化というより明確に顕したというのが正解でしょう。
徹底的に機を見つめられたから報恩感謝の念仏ということになるのよ。
報恩感謝の念仏っていうことは、凡夫の計らいだっていうことと同じなの。
だからこそ、自分の凡夫性に気が付いた人は安心して称えられるの。
904: 真如 2006/06/15(木) 09:48:23 ID:fFu15zrY(2/5)調 AAS
903
あなたの言う「安心して」の「安心」とは、どういう心持ちを言うのですか?
905: 真如 2006/06/15(木) 10:13:41 ID:fFu15zrY(3/5)調 AAS
そんな「安心」をいつまでもふりかざしておってもな、誰もありがたいなんて思わんて。
坊さんの言う事やからとみんな仕方無しに聞いてるだけなんやからな。
そういう現実っちゅうもんを、ここらに来てる坊さん方はどのくらい認識しておられるのでしょうかねぇ。
906: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 11:16:33 ID:28ZHI/UH(2/3)調 AAS
法だけ語る方が上滑りしてしまうんだよ。
「おまえは阿弥陀如来になったつもりか」ってね。
理由であるところの機を説かず、人を子供扱いして
頭ごなしに念仏申せということですからね。
あ、だからそのハンドルなのか。(失礼)
だから法と同時に機も説かなきゃならない。
これは難しいよ、自分を語るということだから。
それと、安心の心持ち?
人に尋ねるということは、あなたは安心していないのね。
・・・最近は口で念仏をしていても、自己を見つめる作業をする人がいなくなったのかねぇ。
907: 真如 2006/06/15(木) 11:31:23 ID:fFu15zrY(4/5)調 AAS
あなたの事いくら聞かされたって、仕方無いんだよ。十八願とか他力がどうとか、機がどうの自己がどうのとか、そんな事言われても、心に届かないって事なんだよ。
あなたお坊さん?
908: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 11:37:46 ID:t1fan0RT(1)調 AAS
真如=渡海難事故
909: 真如 2006/06/15(木) 11:48:54 ID:fFu15zrY(5/5)調 AAS
ハンネがどうとか、しまいにゃ他人扱い…わかったわかった、もう来ません。一生十八願念仏とやらをありがたがってろ。上滑りなのはどっちだろうかね…
910: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 11:49:10 ID:28ZHI/UH(3/3)調 AAS
法を聴くっていうこと、これは念仏だけではなくて
仏法としても良いけれど、常に我が事として聴くんだよ。
他人事として聴いているなら無駄な時間でしょうね。
無駄な時間にするか一期一会のご縁とするかは、
聴いている一人一人の心持ち次第。
911(1): 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 14:32:22 ID:HkokLrS2(1)調 AAS
流れを中断するようで悪いが、
この前、西本願寺という寺はないって書き込み在ったな。
境内北に隣接の駐車場入り口の立て看板には、西本願寺って書いてある。
築地本願寺もパンプレットはそうだったような。
オレは通称でいいと思うが、固いこという人にこういうことで話の腰を
折られるのウザイ。法の話も似たような感覚がある。
912: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 19:31:23 ID:6hOJOBuU(1)調 AAS
「他力の念仏は往生すべし。自力の念仏はまったく往生すべからず」
(法然上人)
913: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 22:31:57 ID:/llNx3+X(1)調 AAS
>>911
うむ、朝には紅顔ありての著者略歴にも「西本願寺住職」とあるよな。
914: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 01:14:08 ID:BZFrxkpT(1)調 AAS
■■オタク殺到■■ 戦国武将縁の寺・神社 ■■
2chスレ:kyoto
915: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 20:08:32 ID:49/uiSCg(1)調 AAS
>あなたの言う「安心して」の「安心」とは、どういう心持ちを言うのですか?
安心は信心のこと。
真宗では二種深信のことを信心というのです。
二には深心、深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に
流転して出離の縁あることなし」と深信すべし。
二には決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なく
かの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり。
今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
これが他力の信心です。
信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、
行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、
まことのこころとはもうすなり。
また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。
916(1): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 20:45:57 ID:ISYlVwZ8(1)調 AAS
>一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に
流転して出離の縁あることなし」と深信すべし。
よく間違われているのは、信心決定すれば「救われるはずのない者が救われた」
ということに関して「結局救われる」と思っているひとがあること。
「出離の縁あることなし」で弥陀の本願からも除かれて助かる縁手がかりが
永遠に無い自分ということがハッキリするのが機の深信。
永遠に救われることのない自分と誰が救われなくても自分だけは浄土往生まちがいない
ということの両方が同時にツユチリの疑いなくハッキリする。
だから不可称、不可説、不可思議。
これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
917(8): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 21:03:43 ID:sDzmLEQn(1/4)調 AAS
>だから不可称、不可説、不可思議。
「おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、
造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、
頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、
有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、
ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。
たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。
だね
ただし、信楽が「不可思議不可称不可説」なのは
「しかれば大聖(釈尊)の真言、宗師(善導)の釈義、まことに知んぬ、
この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。
これを至心と名づく」
と、それが「不可思議不可称不可説」である如来の至心、真実心で作られ回向された名号を領受したため。
だから、如来の至心=名号=信心は誰でも同一である。
けれども、その信心から起こる歓喜に関しては人によって受け取りが違うといえる。
凡夫の感覚はすべて違うからね。
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。
918: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 21:10:05 ID:sDzmLEQn(2/4)調 AAS
さらに「不可思議不可称不可説」を掘り下げれば
大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。
「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、
法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。
この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、
法性すなはち法身なり。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。
しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、
方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして
あらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。
この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。
報と申すはたねにむくひたるなり。
この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに
尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。
無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。
しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。
919(1): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:07:20 ID:uI/iRqQO(1)調 AAS
>その信心から起こる歓喜に関しては人によって受け取りが違うといえる。
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念
歓喜=欲生=(信楽の)楽だが、三心のいただきものが違うとでも?
三業の違うのは当然ですが。
>信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。
根拠をあげて話してくださいね。
920(3): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:37:20 ID:sDzmLEQn(3/4)調 AAS
>>919
>歓喜=欲生=(信楽の)楽だが、三心のいただきものが違うとでも?
ああ、語弊のある言い方だったね
たしかに’初起’の歓喜は信楽と同じくいただきものだし、非意業ってことに江戸宗学ではなってるよ
(歓喜初後という安心論題だね)
>三業の違うのは当然ですが。
第二念以後に三業にあらわれる歓喜はバラバラ。
>根拠をあげて話してくださいね。
そちらの教学でも言われていると思うが、信一念は人間の感覚ではとらえられない瞬間の出来事であるとされているだろ?
(こっちでは「信一念義」という安心論題になっている)
「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を顕すなり。」
成就文の「信一念」の一念は「時剋の極促」を意味する。
時剋の極促については有力な解釈が二説ある。
1)「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」(浄土文類聚鈔)
から時間の延び促み、これの「極促」つまり「時間のちじまりきった極限」であるとする説。
2)行巻の「奢促対」
「機に奢促あり、「奢」はおそきこころなるものあり、「促」は疾きこころなるものあり。」(銘文)
この場合の奢促は、おそいはやいの意味で、これから「極促」を「はやさ極限」であるとする説
で、どっちをとるにせよ「時剋の極促」は人間の三業で捉えることのできない瞬間ってことになる。
つまり、この初一念の信楽や歓喜は人間の三業ではわからない…ということになっている。
(だから宗学にとっては一念覚知説は異安心ってことになるわけだ)
後続の信心が非意業かどうかについては、たしか緒論があったと思う。
三業にあらわれる歓喜は万人で同一であるはずがないし、また四六時中意業にあらわれるって訳でもない。
921: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:49:18 ID:sDzmLEQn(4/4)調 AAS
補足すると、
一念については、通仏教で二つの系統で言われる
1)きわめて短い時間、一瞬間を意味する。
サンスクリット語でeka-ksanaなどに対応
ksanaは刹那と音写される時間の単位。
九十刹那を一念とする説もある
2)心のわずかな働きを意味する。
サンスクリット語ではeka-citta-utpadaなどに対応
この心の内容によって初発心、発菩提(一念発起)わずかな信心、(一念信)また1回の念仏など、多様に用いられる
で、真宗では成就文の一念は、「時剋の極促」の意味で取っている。
夫按眞實信樂信樂有一念一念者斯顯信樂開發時剋之極促彰廣大難思慶心也
是以大經巻下言諸有衆生聞其名號信心歡喜乃至一念至心廻向願生彼國即得往生住不退轉
922: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 00:01:08 ID:zuJBKfVd(1/2)調 AAS
刹那(せつな)
仏教における最小の時間単位。
サンスクリット語クシャナksanaの音訳。
『大毘婆沙論』巻136の譬喩的説明によると、
「2人の成人男子が何本ものカーシー産絹糸をつかんで引っ張り、
もう1人の成人男子が中国産の剛刀でもって一気にこれを切断するとき、
1本の切断につき六四刹那が経過する」と述べられている。
2人の男がかりに5000本の絹糸をつかんだとすると、剛刀による一瞬の切断で
5000×六四刹那の時間が経過するから、一刹那の短さが想像されよう。
『大毘婆沙論』同所の科学的説明によると、一昼夜=三〇須臾{しゆゆ}、一須臾=三〇臘縛{ろうばく}、
一臘縛=六〇怛刹那{たんせつな}、一怛刹那=一二〇刹那である。
一昼夜を24時間として計算すると、一刹那は75分の1秒になる。
仏教哲学では「刹那」は、物質的、精神的、なかんずく精神的な現象の瞬間的生滅を説明するときに使われる。
なお、今日の「刹那主義」ということばの概念は仏教のものではない。
<定方 晟>
923(1): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 00:10:12 ID:gNNtC3Pc(1/2)調 AAS
信相の一念が無くなってしまったんですか?(笑)
歓喜が機相ではない、という邪義は昔からあります。
根拠をあげておきますからこれで十分ではないでしょうか。
御質問があればまたどうぞ。(今日はこれで寝ます)
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり。
「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり、です。
「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は如来の御ちかひをききて
疑ふこころのなきなり。「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、
「喜」はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよ
りよろこぶこころなり。
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて
疑心あることなし、これを聞といふなり。
「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。
「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、
信心二心なきがゆゑに一念といふ。
924(3): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 00:24:39 ID:zuJBKfVd(2/2)調 AAS
>>923
>信相の一念
いかんね、抜かったよ。
そっちの意味の一念は初一念から存在する。
「「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。
これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。」(信巻)
ただし、初一念は「時剋の極促」であり、その瞬間の信楽は非意業だ。
>歓喜が機相ではない、という邪義は昔からあります。
歓喜がないなどと一言も言っていないが?
初一念の歓喜は信楽と同じく非意業で、後続の歓喜は受け取り方が違うとは言ったがな。
それとも初一念から意業としての歓喜があるという説かい?
それこそ「歓喜正因」の異安心を許すことになる。
925(17): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 05:53:11 ID:gNNtC3Pc(2/2)調 AAS
おはようございます。今日は仕事があるので早目にお答えしておきます。
>後続の歓喜
機相として歓喜があるなら「体験ではない」というのは成り立たないでしょうね。
慶喜心も真実信心ですからいただいたなら一味です。
「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土
に生るとしるべし。慶喜といふは、信をえてのちよろこぶこころをいふなり。
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。
喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。
うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。
信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。
機相というのは三業だけではないんですよ。
無明とか自力とかがわからないと無理だと思いますけど。
機相と法徳がばらばらでは機法一体ではありません。真実信心ではない、ということです。
926: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 06:17:58 ID:xRTbJswO(1/2)調 AAS
門徒が唱えるお経と、僧侶が唱えるお経は、
どこがどう違うの?もし違いが無いなら、
法事は門徒だけが唱えて済ませていいのかな?
927: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 08:14:40 ID:zl0lLPLP(1)調 AAS
どこも違いやせんですよ。
読経だけなら門徒さんだけで済ませてしまうのも問題ないですな。
しかし法要っちゅーのは、読経してハイ終わり〜っちゅーもんでもないかと。
御法話も聞いて、み仏の教えに会わせていただいてこそ法要かと。
禿坊主の与太話なんぞききとーねーわ!ちゅーなら仕方ないっすがぁ・・・。
928: 名無し 2006/06/17(土) 08:23:36 ID:8HAUDpOK(1/4)調 AAS
お経に違いは無いと思う。しかし、同じお経を聞かせて頂く場に、僧侶も参加させて頂きたい、という思いがある。
そして、法事という場をご縁にして、ご遺族の皆様方が、仏様やお経、お念仏についてどのように想われているのか、お聞きしたい気持ちがある。
私もその中で、念仏に対する思いや考えを述べたい。
しかし、それは法事の場ではなくても良いのかな、という気もする。
929: 名無し 2006/06/17(土) 08:30:08 ID:8HAUDpOK(2/4)調 AAS
僧侶や寺族はもっと、ご門徒さんの声に耳を傾ける必要があるのではないかと感じる。
930(2): 名無し 2006/06/17(土) 10:08:27 ID:8HAUDpOK(3/4)調 AAS
たとえば月参りでご門徒さんの家に行くとします。ご仏壇にお札や他宗派の仏像がある所は沢山あります。しかし、そういう方でもお寺の行事に積極的に参加され、法座にもご聴聞されます。
逆に口に信心を言い、お念仏ありがたいとご門徒の前では言いながら、法務員を奴隷のようにこき使い、気に入らないと口汚くののしる住職もいる。
私にとっては、ご門徒さんの方がよほどありがたく、ご門徒さんに接するだけで、お念仏をとなえたくなる。バカな住職と朝の勤行をする度に、こんなバカ住職と同じ念仏など誰がとなえるもんか、と思ってしまう。
「法は人となり」
そう感じる今日この頃だ。私にとっての「よき人」とは、お聖経から出会うご開山様とご門徒様である。
931: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 12:01:18 ID:xRTbJswO(2/2)調 AAS
>>876
>>888
親鸞聖人やお釈迦さまなど一部の人は、
結局は後世の人の私利私欲のため好きなように扱われているわけ。
聖人の名を使って金儲け出来ているわけだし、
その時代時代に合わせて教えを都合のいいように解釈したりして、
うその上塗りをして教団を保っているわけ。
932(4): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 12:42:57 ID:HS3/ARQr(1/2)調 AAS
>>925
>機相として歓喜があるなら「体験ではない」というのは成り立たないでしょうね。
横レスすんまへんが、初一念の「初起の歓喜」は、「信楽」(仏心)の開発した相
であり、非意業であって、>>917氏の言う通り、「信一念にかんしては衆生の体験で
はない」でしょう。
後続については、「衆生の三業の上に」(だから、当然、機ごとに異なる)歓喜があ
ることは、>>920 >>924(0時過ぎて?IDが違うが、おそららく、>>917氏と同一人
物。)にもある通り。
>機相として歓喜があるなら「体験ではない」というのは成り立たないでしょうね。
>機相というのは三業だけではないんですよ。
「機相」って、「衆生(機)の三業の上の事相」のことを言うと思うのだが、別の意
味に定義してるのかな? 例えば、「性得の機の実相」(それを、信知させていただ
くのが、「機の深信」)とか?それならば、お互いの「機相の定義の違い」を、利用
して? 、「初一念」の話と。後続の話をごっちゃにしているとしか思えませんが。
>機相と法徳がばらばらでは機法一体ではありません。真実信心ではない、ということです。
これも、上と同じで、後続の衆生の三業の話と、初一念の話がごっちゃになっている。
933(3): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 12:50:07 ID:HS3/ARQr(2/2)調 AAS
>>932の続き
「衆生(機)の三業の上の事相」という意味での「機相」ならば、信後も変わらず、
「煩悩具足」であるから、「機相」と「法徳」が違うのは当たり前。
934(1): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 17:47:26 ID:IgTIAg2+(1)調 AAS
>後続については、「衆生の三業の上に」(だから、当然、機ごとに異なる)歓喜があ
ることは、>>920 >>924(0時過ぎて?IDが違うが、おそららく、>>917氏と同一人
物。)にもある通り。
横レスだけど。
だから925は慶喜の根拠を出してるわけだろ。
後続の真実信心である慶喜心が機ごとに違う、というのはおかしいよ。
>後続の衆生の三業の話と、初一念の話がごっちゃになっている。
信相の一念の話をしてるのでは?
>「機相」と「法徳」が違うのは当たり前。
機相は機受の信相だと思うよ、多分。
他力の信心は三業ではないだろ。
935: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 19:07:33 ID:6oPAt4/V(1)調 AAS
>>930
私は門徒だけど、言いたいことは良く分かるよ。
936: 名無し 2006/06/17(土) 20:12:47 ID:8HAUDpOK(4/4)調 AAS
935さん
ありがとうございます。m(_ _)m
937: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 23:51:13 ID:zkWM2UKj(1)調 AAS
>>930
たとえば、同じ内容の説教でも、"誰が"話すのかが大事だと言うご門徒いますね。
その考えが正しいのか分かりませんが、相槌だけ打ってます。
938(2): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 00:13:42 ID:RAUHg9DN(1/4)調 AAS
>>934
>だから925は慶喜の根拠を出してるわけだろ。
>後続の真実信心である慶喜心が機ごとに違う、というのはおかしいよ。
>>932-933ですが、>>920= >>924氏は、衆生の機相(三業)に現れる歓喜が、「万人で同一である
はずがない」と言われてるのであって、それに、私は同意してるわけです。
勿論、信後の衆生の機相に現れる「歓喜の体」は、信後称名と同じく、名号法であるので、機ごと
に違うことはありえないですが、「衆生の三業」を通した「後続の歓喜の相」は、機ごとに違う
でしょう。
>信相の一念の話をしてるのでは?
だから、>>917=>>920= >>924氏が、「初起の歓喜」を、「非意業の(衆生の体験でない)歓喜」
と言い、「第二念以後の後続の歓喜」を「機相(三業)に現れる歓喜」(衆生の体験である歓喜)
と言ってるのを、>>925氏が、ごっちゃにして、
>「機相として歓喜があるなら『体験ではない』というのは成り立たないでしょうね。」
と論難していることを言ってるのです。
>機相は機受の信相だと思うよ、多分。
>他力の信心は三業ではないだろ。
「機相」は、「不断煩悩」の相だから、「衆生の三業」でしょう。
「機受の信相」は、 疑蓋無雑の信楽ですから、非意業でしょう。
939: 調声人 ◆DlIN3YzWlI 2006/06/18(日) 00:31:59 ID:+glXfgh3(1/2)調 AAS
少し早いですが次スレをたててまいります。
940: 調声人 ◆DlIN3YzWlI 2006/06/18(日) 02:19:17 ID:+glXfgh3(2/2)調 AAS
次スレでございます。
浄土真宗本願寺派 [19拍]
2chスレ:psy
このスレを使い切るまでは次スレはsageておいてくださいませ。
先スレですのでいったんageておきます。
941(2): 925 2006/06/18(日) 05:30:54 ID:cidH2avu(1/6)調 AAS
おはようございます。今日も朝早くに出ないといけないのでこんな時間に
書き込みです。
>勿論、信後の衆生の機相に現れる「歓喜の体」は、信後称名と同じく、名号法であるので、機ごと
に違うことはありえないですが、「衆生の三業」を通した「後続の歓喜の相」は、機ごとに違う
でしょう。
慶喜心というのは根拠に示した通り、真実信心のことです。
後続の喜びの相の話になったので「信心をえてのちによろこぶこころ」を
根拠に出したのです。
「真実信心は非意業だから体験ではない」との反論ですけど
「三業でなければ体験ではない」という主旨ですよね。
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。
喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。
うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。
信心をえたるひとをば、「分陀利華」とのたまへり。
さきにあげた御文ですが
「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。
喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。
うべきことをえて」までは非意業だから体験ではなくて
「のちに身にもこころにもよろこぶこころなり」は体験だけど
三業だからひとそれぞれで真実信心ではない、という主旨でしょうか?
942(3): 925 2006/06/18(日) 05:31:52 ID:cidH2avu(2/6)調 AAS
正直言ってなにを仰りたいのか意味不明。(というか、
信心決定は体験じゃないから本人にはわからないとか、そういう感じのことを
本当は言いたいんだろうとは思いますが....)
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、
他力の信心といふことをばいますでにえたり。
これしかしながら、弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とは
やがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心に
あらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。
この御文だったら「信心をえたのは非意業だから体験ではない。知られたりは
三業だから真実信心ではない」ということですよね。
こういう話にどんな意味があるんでしょうか。
慶喜の御文も、この御文も、私にはどう読んでも信心決定の体験にしか読めませんね。
「非意業」と言われても、無明が破れたのは「私の無明が破れた」のであって
だれか他人様の無明が破れたのではないし、それが弥陀よりたまわった信心だと
知らされるのは仏智によってだが、知らされているのは私自身で他人様ではない。
真実信心は非意業だから「(自分の)体験ではない」というのは自分で体験して
ないからでしょう。
「無明が破れたのは非意業だから体験ではない。無明が破れたと知ったのは
三業だから信心ではない」というのはどういう意味があるんでしょうか?
信心決定の「非意業」は信楽「開発」であって無念無想ではありません。
三業自体が真実信心ではないというのは何度も言っています。
943: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 08:35:05 ID:qZ/87Cft(1)調 AAS
気に入らない住職は門徒総会で解任したらええがな!
944(1): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 10:53:45 ID:SG+sUAHB(1)調 AAS
オレは嫁さん貰ってるぜ!って妻帯宣言したり
念仏唱えてもちっとも楽しくねえよ!
とか平気で言っちゃう親鸞はカッコいいよね
パンクだぜ
945: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 11:28:58 ID:HCCfkWM4(1)調 AAS
>>944
いいね。 正直で。偽善は嫌だ。
946(2): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:23:20 ID:RAUHg9DN(2/4)調 AAS
>941-942
>「真実信心は非意業だから体験ではない」との反論ですけど
>>938=>>932-933ですが、↑ばかりじゃないですが、私のカキコを、よく
読んでもらえば、わかると思います。
私は、真実信心の相として、衆生の三業に現れる後続の「体験」を否定し
ているのではなく、>>917氏に賛同して、「信の一念にかんしては、非意業
だから、体験ではない。」と言っているのですが。>「三業でなければ体験ではない」という主旨ですよね。
私の意見では、そうです。あなたの意見は、>>925他を読む限り、「非三業の
体験がある」「私の三業にかからない“私の体験”がある」という説みたいで
すね。よかったら、その「非三業の体験」について解説キボン。「体験」につ
いての、概念規定がお互いに食い違っているのだから、話は平行線を辿るまま
ですね。
947: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:24:54 ID:RAUHg9DN(3/4)調 AAS
>>946(>>941-942)続き
>「のちに身にもこころにもよろこぶこころなり」は体験だけど
>三業だからひとそれぞれで真実信心ではない、という主旨でしょうか?
これも、概出。いただいた「真実信心」は一味ですが、「衆生の三業に現
れた体験の相」は、ひとそれぞれということ。
>信心決定は体験じゃないから本人にはわからないとか、そういう感じのことを
>本当は言いたいんだろうとは思いますが....)
概出。そんなことは言ってません。繰り返しますが、「『信一念』(初起の歓喜
)が、人間の体験ではない。」「初一念の信楽や歓喜は人間の三業ではわからな
い。」と言っているのです。
>真実信心は非意業だから「(自分の)体験ではない」というのは自分で体験して
>ないからでしょう。
これも上に同じ。私も>>917氏も、真実信心が、自分の三業に現れた後続の「体験」
を否定しているわけではないです。
948: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:30:00 ID:RAUHg9DN(4/4)調 AAS
>>946後段の改行ミスを訂正します。
>「三業でなければ体験ではない」という主旨ですよね。
私の意見では、そうです。あなたの意見は、>>925他を読む限り、「非三業の
体験がある」「私の三業にかからない“私の体験”がある」という説みたいで
すね。よかったら、その「非三業の体験」について解説キボン。「体験」につ
いての、概念規定がお互いに食い違っているのだから、話は平行線を辿るまま
ですね。
949: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:38:37 ID:jsQ1BJFR(1)調 AAS
名古屋の荒子の蓮徳寺の坊主は値遇仏法の門を知らないらしいぞ!笑ったれ!
950: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 17:45:24 ID:GQhzqDDZ(1)調 AAS
「死を超えた願い−黄金の言葉」展 〜 龍谷大学
外部リンク[php]:www.kyoto-np.co.jp
京都新聞 2006年6月12日(月)
2006/6/12〜2006/8/4まで。入場無料。土日祝日休館(6/17 7/1 7/8は開館)
951(1): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 19:55:22 ID:0x7XpAj4(1)調 AAS
中仏の通信教育ってどうなんですか?
留年することが有るのでしょうか?
952(2): 925 2006/06/18(日) 21:21:06 ID:cidH2avu(3/6)調 AAS
>「体験」についての、概念規定がお互いに食い違っているのだから、
体験というのは、一般に、外界と自分自身との相互作用の過程や自分の内面の
変化の過程を言うんじゃないでしょうか。仏語ではないですが使って悪い言葉
だとは思えません。信心決定は体験ではない、三業に限る、あるいは使うに
不適当とかいうことならその理由を説明していただけるとありがたいですね。
953(1): 925 2006/06/18(日) 21:29:26 ID:cidH2avu(4/6)調 AAS
信一念の変化は御聖教全部がそうといってもいいくらいにたくさんあります。
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて耳に聞き
口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根
にあらず、これ多功徳なり
「無辺の聖徳、識心に攬入す」なんて
「ああー、この方も弥陀にあわれた尊い方だなあ」と思わずにおれません。
本願を信受するは、前念命終なり。すなはち正定聚の数に入る
即得往生は、後念即生なり。即の時必定に入る。
また必定の菩薩と名づくるなり。
死んで生き返る経験をするのに「体験じゃない」ってどうして言えるんでしょう?
954(2): 名無し 2006/06/18(日) 21:34:36 ID:LIM8oiIM(1/2)調 AAS
信心があるとか無いとか、阿弥陀さんじゃなきゃわからないと思う。
955(1): 925 2006/06/18(日) 21:37:51 ID:cidH2avu(5/6)調 AAS
しかれば、凡夫不成の迷情に令諸衆生の仏智満入して不成の迷心を他力より
成就して、願入弥陀界の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、
「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、「住不退転」とも、
聖人釈しましませり。これすなはち「即得往生」の時分なり。
この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源を
つなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、
「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。
これは覚如上人。
「この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源を
つなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて」
「やぶれて」なんて言葉、「無明がはれて」より強烈。
「利剣即是弥陀名号」(名号は切れ味するどいつるぎだ)というお言葉も
信心決定したひとなら「ほんまやーほんまやー」と拍手喝さいですが
なんでこれが「体験ではない」になるんですか?
956(1): 925 2006/06/18(日) 21:55:16 ID:cidH2avu(6/6)調 AAS
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、
ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、
選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われ
らが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、
「選択の願海に転入せり。」「たのむ一念のとき、往生一定」
十八願の世界、無碍の一道に出たぞ、たのむ一念のとき往生一定になったぞー
と仰っているじゃないですか。
「真に知んぬ」「明らかに知られたり」「明信仏智」とか「はっきり」という
お言葉はいたるところにあります。
こんなはっきりすることがなんで「体験じゃない」んですか?
957: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:38:09 ID:EQ0U4EWX(1)調 AAS
>>951
留年はあるでしょう。
通信卒の住職は意外にいるよ。
詳しくは中央イム教学院のスレで聞いた方がいいと思う。
958: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:38:45 ID:LIM8oiIM(2/2)調 AAS
信心決定かどうかわからんが、いつの間にか念仏について考えるようになったのは、お育て、というやつだろうか?
959(2): 波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 2006/06/18(日) 23:40:56 ID:/4RjN+XD(1)調 AAS
魔の誘いだろ
960(2): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:53:05 ID:KyhqXG7r(1/2)調 AAS
>>952-956
>体験というのは、一般に、外界と自分自身との相互作用の過程や自分の内面の
>変化の過程を言うんじゃないでしょうか。
『広辞苑』には、「自分が身をもって経験すること。また、その経験。」とありますね。
だから、普通は、仏教用語で言う(自分の)三業にかかるものじゃないですかね?
>信心決定は体験ではない、三業に限る、あるいは使うに
>不適当とかいうことならその理由を説明していただけるとありがたいですね。
三業に限るというのは、「体験が」ということですか? 上記したように、「体験」
の日常的な意味なら、「体験」は、(仏教用語で言う)「三業にかかる」と思うので
すが、あなたが、「三業にかからない『体験』がある」と言われるならば、説明キボン。
「体験が三業に限るか否か?」は、それによって判断させていただきますね。
あと、決定信(=他力信心)そのものは、あなたが、>>942で、「三業自体が真実信心で
はないというのは何度も言っています。 」と言われてますように、私の言う三業の意味
での「体験」ではないのは言うまでもありません。「決定」の主体は、「真実信心」(=
仏心)であり、機(衆生)が決定するのではないし、決定するのは、「報土(往生)の真
因が決定する」(『行文類』他)わけですからね。ただ、その「真実(決定)信」が、機
相(衆生の三業)に現れた「体験」はある(ただし、衆生の三業に現れる体験は、機ごと
に違う)。というのは、何度も言うとおりです。
961: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:54:27 ID:KyhqXG7r(2/2)調 AAS
>>960続き
>信一念の変化は御聖教全部がそうといってもいいくらいにたくさんあります。
>死んで生き返る経験をするのに「体験じゃない」ってどうして言えるんでしょう?
>なんでこれが「体験ではない」になるんですか?
>こんなはっきりすることがなんで「体験じゃない」んですか?
信前信後(「信一念」の前後)の機相に、「変化がない」とか、「体験的な歓喜がない」
と言っているのではないのも、何度も既出。
無論、信後の機相に、真実信心からおこる「体験的な歓喜」はあります。
「体験でない」と言っているのは、「『信一念』の一念」=「時剋の極促」=「広大難思
の慶心」のこと。これも何度も既出。>>917氏や、私(>>938=>>932-933)のカキコを再読
してください。
962: 名無し 2006/06/19(月) 00:56:29 ID:5s6Pz2L5(1/4)調 AAS
魔もまた仏…
963: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 00:57:16 ID:VOvk6R3J(1)調 AAS
>>959
巡回乙。神仏板の自治でしか知らんが。
964(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 00:58:49 ID:1RMXtwNo(1)調 AAS
>>952
>信心決定は体験ではない、三業に限る、あるいは使うに不適当とかいうことなら
>その理由を説明していただけるとありがたいですね。
信心決定の初一念は「時剋の極促」で凡夫の三業では捉えられない瞬間のことである。
したがって体験できない。
もし、三業で体験できるものであるとすると一念覚知の異安心を許すことになる。
>信一念の変化は御聖教全部がそうといってもいいくらいにたくさんあります。
初一念は覚知できないが、二念以後に歓喜がないとは言わない。
しかし、その味わいは画一ではない。
たとえば歎異抄第九章の親鸞聖人と、そして唯円房の味わいはしみじみとしている。
>>954
凡夫の三業の喜びが信心の証拠であるというのも異安心とされるんですよね。
それだと凡夫の三業のはたらきが往生の決定に必要だと言うことになりかねなくなりますから。
>>959
他宗の信仰に茶々を入れるのが日蓮宗の流儀ですか?
あまり失望させないでください。
…あなたも邪教と位置づける信仰者の評価など気にされないのかもしれませんがね。
ちなみに今ここで議論をしかけているのは、たぶん親鸞会の人間です。
965: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 01:45:41 ID:hVTR4dTw(1)調 AAS
>>964
> たぶん親鸞会の人間です。
だからこのスレに来たんだと思う。
レスも単なる茶々とも思えない。
しかし誤解を招くレスには違いないかな。
966: 名無し 2006/06/19(月) 11:16:24 ID:5s6Pz2L5(2/4)調 AAS
俺は本派僧侶だけど
親鸞会かなんか知らんけど、本派を批判する事で自分の主張の正しさを示そうとするのが批判の動機なら、考えた方がいいと思うな。信心を得た体験があってお念仏喜べるなら、喜べばいい。人に議論をふっかける必要は無いと思うが?
967: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 11:48:19 ID:5s6Pz2L5(3/4)調 AAS
「私はこのようにお念仏を喜びました。」
「それはありがたい事です。」
後はみんなでなんまんだぶととなえりゃそれで済むと思うんだが。それで済まないのが娑婆のクソ凡夫なんだろう。だから、阿弥陀さんが必要なんだろうな。
968: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 11:52:41 ID:5s6Pz2L5(4/4)調 AAS
お念仏の頂き方を、個人で喜ぶ分には全く問題無い訳で。それを唯一正しいと他の頂き方を批判したくなるから、話がややこしくなると思う。
ま、一般のご門徒さんにはとっちゃ、何の話?って感じだろうけんど。
969(1): 925 2006/06/19(月) 13:17:08 ID:7KdE4oQU(1)調 AAS
>>960
>『広辞苑』には、「自分が身をもって経験すること。また、その経験。」とありますね。
だから、普通は、仏教用語で言う(自分の)三業にかかるものじゃないですかね?
ループしてるので、多分これ以上は無理でしょう。
その広辞苑で「経験」をくってみるといいと思います。
>ちなみに今ここで議論をしかけているのは、
議論しにきてるのではないのでやめときますね。
ちなみに私は門徒ですが。(うちの仏壇、たしか西だったと思うけど)
>機(衆生)が決定するのではないし、決定するのは、「報土(往生)の真
因が決定する」(『行文類』他)わけですからね。
疑情は三業だ、ということですか?
別にお答えいただかなくても何にも言いません。
自分で学習されればよろしい。
>たとえば歎異抄第九章の親鸞聖人と、そして唯円房の味わいはしみじみとしている。
歎異抄第九章は機の深信を言われているんですよ。
「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、
往生は決定と存じそうらえ。」
「助けられても喜ぶこころがない、そんなものと見抜いて助けてくださった弥陀の本願は
たのもしいなあ、うれしいなあ」と喜んでおられるじゃないですか。
谷深ければ山高し。
浅い谷しか知らないから、「しみじみ」なんていってるんです。
無宿善には読ませてはいけないと言われたのはそのためです。
970(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 19:08:03 ID:DjNbNyyz(1)調 AAS
>>969
>ループしてるので、多分これ以上は無理でしょう。
>その広辞苑で「経験」をくってみるといいと思います。
『広辞苑』によると、「経験」とは、「人間が外界との相互作用の過程を意識化し
自分のものとすること。」とか、「感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活
動までを含む体験の自覚されたもの」etc とありますが、「意識化」「感覚」「知
覚」「行為」「活動」「自覚」と、やはり仏教用語で言うところの「人間の三業にか
かる」ことを言うようですが。ループしてるのは、あなたの方じゃないですか?
あなたの見解は、「信一念は、人間の三業にかからない体験(?)」ということでい
いでつか?
だとしたら、「三業にかからない体験」って何? 「自分が体験していることが、自分
でわからない」こと?
>疑情は三業だ、ということですか?
真宗では、疑情を、根本無明(元品の無明)としますから、「迷妄の業識の大元」で
あるとしますね。迷いの三業の元ということですね。
ですから、疑情を断破されるのは、「名号光明」と「真実信心の業識」の因縁による
しかないですね。
「『疑情』(根本無明)が破られる『初一念の時剋の極促』は、凡夫の三業では、覚
知できない。」という話を、私はずっとしているんですが。
971(3): 925 2006/06/19(月) 20:00:38 ID:qKZcZLLt(1/2)調 AAS
>>970
議論したいなら相手にはなりますけど。
>>917
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
>信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。
もともとこれが議論の始まりであって「信心決定を体験というのはおかしい」という
論難が本なんですから「三業のことしか体験とは言わない」というなら
立証責任はそちらにあるのではないですか?
972(2): 925 2006/06/19(月) 20:01:12 ID:qKZcZLLt(2/2)調 AAS
>etc とありますが、
私の広辞苑が古いんでしょうか。「内界の変化の過程」みたいなことも
書いてあったように記憶しているんですが、あなたのには無いですか?
「獲信は三業にかからない体験」ってどこかでいいましたっけ?
三業自体が真実信心ではないっていいましたが、「三業にかからない」というのは
誤解の多い表現です。どこかでしてたなら訂正します。
真心はかならず三業に表れますが、三業から信心は計れないと言っています。
慶びがあるからと言って信心獲得の証にはならないのは当然です。
>迷いの三業の元ということですね。
だから「迷いの三業の元」というのは三業なんですか、そうではないのですか?
>「『疑情』(根本無明)が破られる『初一念の時剋の極促』は、凡夫の三業では、覚
知できない。」
だから後続の二念(?っていうのかな)以降の真実信心も覚知できないということか、
って慶喜心の根拠をあげて御聞きしてるんですけど。
慶喜心も覚知できないなら「信心決定したかどうかは本人にはわからない」という
ことですよね。
973(1): 925 2006/06/19(月) 20:30:58 ID:28bkQguV(1)調 AAS
二種深信というのは、そんなしみじみとしたもんじゃありません。
「うれしい」のと「かなしい」のが徹底してるんです。
「三かな文」は有名でしょう。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、
遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。
ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、
恥ずべし、傷むべし、と。
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀
を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。ただ仏恩の深きことを念じて
人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。
「慶ばしいかな」「悲しきかな」「慶ばしいかな」これがいつも一緒に
あるんですよ。常歓喜常懺悔。
974(2): 925 2006/06/19(月) 21:23:12 ID:xHdnle6o(1)調 AAS
>「『疑情』(根本無明)が破られる『初一念の時剋の極促』は、凡夫の三業では、覚
知できない。」という話を、私はずっとしているんですが。
あー、やっとわかりました。あなたの言っていること。
そりゃあ「凡夫の三業だけ」だものわかるはずないですよ。
初発の一念どころか、後続の二念も三念も何にもわかりませんよ。
信心獲得の行者というのは仏智をいただいて機も法もみえるんですから。
仏凡一体になってない、凡心だけじゃ何にもわからんのはごもっとも。
「獲信見敬大慶喜」というのはいただいた仏心で法を見るんです。
凡心と仏心が一体になって初めて見えるんです。
「体験じゃない」わけだ。「凡心だけ」なんだから。
一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて、
仏智より他力の信心をあたえたまうがゆえに、仏心と凡心と
ひとつなるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり。
975(3): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 21:50:30 ID:sLluB9VB(1/3)調 AAS
>>971
真宗の宗学は一念覚知を認めない。
この説は一念を覚知しなければ信心とは言えないとするもの。
それは信心決定に凡夫の自力の意業が介在しなければならないことを意味する。
しかし、自力の心を離れるのが他力の信心である。
だから、信心決定の瞬間に自力が介在するとする一念覚知説は異安心とされる。
そのため宗門では信一念を、行者の三業で覚知できる体験とはいわない。
>>916の
>永遠に救われることのない自分と誰が救われなくても自分だけは浄土往生まちがいない
>ということの両方が同時にツユチリの疑いなくハッキリする。
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
は、一念を覚知できるといっているように見える。
ハッキリする一念を意業で覚知しなければ信心といえないなら、それは他力の信とは言えない。
>>973
>二種深信というのは、そんなしみじみとしたもんじゃありません。
いや、歎異抄第九章はしみじみしているよ。
踊躍歓喜の思いが持てないという告白と、そんな凡夫だからこそ阿弥陀仏は目当てとされるのだと言う回答。
そこにある機の深信は慚愧の思いで頭を抱えるというようなものではないし、
法の深信も踊躍歓喜し始めるようなものでもないだろう。
意業としての歓喜が、いつでも同じ強さであるわけではないだろう。
(ただし頂き物である他力の心は変化しない)
976(2): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 22:43:52 ID:sLluB9VB(2/3)調 AAS
>>974
>信心獲得の行者というのは仏智をいただいて機も法もみえるんですから。
>凡心と仏心が一体になって初めて見えるんです。
なんとなく宗学の機法一体と違う気がするな。
宗学で言う機法一体は、単に阿弥陀仏のはたらきと凡夫の信心が一つであるという意味だよ。
二つの別々の心が一つになるって意味では取らない。
「西方指南書」は機法一体の解釈が何種類か出てくるけど、蓮如上人の解釈で取らないと(真宗的に)おかしくなる。
(たとえば、彼此三業不離一体の機法一体は阿弥陀仏の三業で成就された名号が衆生に届くのだから、
衆生の三業は阿弥陀仏と離れない、とかね)
その他力の信心を開けば、機の深信と法の深信になる。
二種深信は他力の信を開いたものであるから初発の一念からある。
しかし初発の一念は「時剋の一念」であり、意業では覚知できない。
977(2): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 22:49:18 ID:GJdvKjoL(1/2)調 AAS
>>975
横から質問。
一念覚知説と妙好人の回心体験は外見的に似ているが、
その違いは「自力の意業が介在」するとするか、しないか、
って事ですか?
978(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 23:10:03 ID:sLluB9VB(3/3)調 AAS
>>977
いや、強烈な廻心を経て信心決定する人はいる。
しかし宗学では、その人であっても「信一念」を意業で覚知したわけではないとされる。
なぜなら、初発の一念は人間の意業ではとらえらえられない、すごーく短い瞬間とされるから。
意業で覚知した気になる人がいても、宗学的には、それは二念以後のことになるんだろうね。
その理由を凡夫の自力の介在は義としておかしいとするわけだけど、
現実的に、一念覚知説を否定しなきゃならない理由もあったんだろうと思う。
信心決定者の誰もが何年何月何日何秒に信心が決定したかを覚えているわけじゃないから。
それに、法を聞く内にいつの間にか阿弥陀仏の救いを感謝するようになる人がいるから。
979(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 23:11:13 ID:1KLeHNIf(1/2)調 AAS
>>971-972
>もともとこれが議論の始まりであって「信心決定を体験というのはおかしい」という
>論難が本なんですから「三業のことしか体験とは言わない」というなら
>立証責任はそちらにあるのではないですか?
既に、>>975氏(=>>917氏?)が、回答されてますけど、>>917氏の論は、「信心決定を
体験というのはおかしい」ではなくて、「『信一念』を体験というのはおかしい」だと
思いますが。信心決定の相としての凡夫の体験を否定されてるわけじゃないですから。
それと、「立証責任」って何ですか? 「体験」というのは、仏教用語じゃないって、
あなたも言ってるとおりで、それで日常言語から「体験」の意味を伺うと、仏教用語で
言う「三業による所作」の意味しかないと言ってるわけで、異論があるなら、「非三業
の体験」があるというなら説明を何度もキボンしてるわけですが。それに、あなたは、
「非三業の体験」の「有無」について言明してません。どっちなんでつか?
>私の広辞苑が古いんでしょうか。「内界の変化の過程」みたいなことも
>書いてあったように記憶しているんですが、あなたのには無いですか?
さあ? 私のは電子辞書ですが、その通りの文言は見つかりません。それに、
>「外界と自分自身との相互作用の過程や自分の内面の変化の過程」
というのも、仏教用語で言う「三業」のカテゴリーに入ると思いますが。
980: 977 2006/06/19(月) 23:33:22 ID:GJdvKjoL(2/2)調 AAS
>>978
なるほど。ありがとう。ミクロの世界だねぇ。
ぐぐったらこんなのもあったわ。スマン。
外部リンク[html]:www2.big.or.jp
名号は 不思議な慈悲で
合点がいらぬ
合点いらぬが 南無阿弥陀仏
981: 925 2006/06/19(月) 23:43:13 ID:8IfmFH7I(1/2)調 AAS
>>975-976
>ハッキリする一念を意業で覚知しなければ信心といえないなら、
それは他力の信とは言えない。
あなた方が「初発の一念の覚知」にこだわるから
「それなら後続の二念以降は覚知はどうなるんですか。
真実信心は三業では覚知できないなら、信心決定は本人にはわからない
という結論ですか?」とお聞きしているんです。
質問がわかりませんか?
>そこにある機の深信は慚愧の思いで頭を抱えるというようなものではないし、
法の深信も踊躍歓喜し始めるようなものでもないだろう。
二種深信は三業じゃないんですけど......
982: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 23:47:47 ID:1KLeHNIf(2/2)調 AAS
>>971-972続き
>だから「迷いの三業の元」というのは三業なんですか、そうではないのですか?
「元品の無明」は、無始来で、業識を生み出す元だから、三業ではないです。
>だから後続の二念(?っていうのかな)以降の真実信心も覚知できないということか、
>って慶喜心の根拠をあげて御聞きしてるんですけど。
あなたも、「真心はかならず三業に表れますが、三業から信心は計れないと言っています。」
と言われてますように、「かならず三業に現れる」真実信心は、体験的に知ることができます。
>>974
>仏凡一体になってない、凡心だけじゃ何にもわからんのはごもっとも。
>「獲信見敬大慶喜」というのはいただいた仏心で法を見るんです。
>凡心と仏心が一体になって初めて見えるんです。
>>976氏が既に反論済みですけど、「仏凡一体」というのは、仏様の真実信心が、凡夫
の煩悩具足の心に満ち満ちて、当来の仏果の真因を頂いてるという「法徳」の上で言わ
れることであって、「機相」の上で、凡心が仏心に転ずるということではないというの
が、オーソドックス。だから、今生、機相の上で、凡心に見えなかったものが、信後、
仏心をいただいて見えるようになるという話ではありません。
983(1): 925 2006/06/19(月) 23:50:12 ID:8IfmFH7I(2/2)調 AAS
>>979
>自分の内面の変化の過程」というのも、
仏教用語で言う「三業」のカテゴリーに入ると思いますが。
内面がどうして三業に限定されるのか、教えていただきたいものです。
「思います」ではね。
>「迷いの三業の元」というのは三業なんですか、そうではないのですか?
これはどう思います?疑情がやぶれるのは内面の変化ではないわけですか。
自分にはわからないと?
984: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 00:04:47 ID:n6SEFM1z(1)調 AAS
>>983
>内面がどうして三業に限定されるのか、教えていただきたいものです。
衆生の内面の変化も、業の所作だから。
>これはどう思います?疑情がやぶれるのは内面の変化ではないわけですか。
>自分にはわからないと?
機相の上では、「内面の変化」でしょう。だから、二念以降は、自分でわかり
ます。
985: 名無しさん@3周年 [時間] 2006/06/20(火) 00:38:37 ID:gdfMy838(1)調 AAS
>>240
>>272-273
986: 925 2006/06/20(火) 13:23:39 ID:59QpNAas(1)調 AAS
>機相の上では、「内面の変化」でしょう。だから、二念以降は、自分でわかり
ます。
>内面がどうして三業に限定されるのか、教えていただきたいものです。
>衆生の内面の変化も、業の所作だから。
疑情は三業ではない。
しかし疑情が破れるのは自分でわかる内面の変化である。
初一念はわからないが後続の二念以降はわかる。
これでよろしいですか?
午後から仕事で出張なので2日ほどお返事できません。
多分次スレになっているんでしょうがまた帰ってきたら書き込みしたい
と思います。ではでは。
987: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 18:22:48 ID:Si8+GshB(1)調 AAS
某コテみたいな去り方だな
988: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 21:56:31 ID:ezOV37rh(1)調 AAS
ハルヒって見たこと無いけど
動画リンク[YouTube]
こんなのがあがってたよw
989: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 23:17:16 ID:Z1K7uZdD(1)調 AAS
誤爆?
990: 名無しさん@3周年 2006/06/21(水) 19:52:08 ID:BlEhvp/r(1)調 AAS
990
991: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 02:28:00 ID:eu169uYQ(1)調 AAS
急にボールが来たので991
992: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 03:23:34 ID:ioghEWdC(1)調 AAS
547 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/22(木) 02:51:24 ID:NpsBbOOQ0
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急にボールが来たけど、守るべき小さな命を守り抜いた平成のサムライ柳沢
993: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 20:59:43 ID:UciCk7LD(1/6)調 AAS
帰命無量寿如来
994: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:00:17 ID:UciCk7LD(2/6)調 AAS
南無不可思議光
995: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:00:52 ID:UciCk7LD(3/6)調 AAS
法蔵菩薩因位時
996: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:04:28 ID:UciCk7LD(4/6)調 AAS
在世自在王仏所
997: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:06:11 ID:UciCk7LD(5/6)調 AAS
覩見諸仏浄土因
998: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:07:10 ID:UciCk7LD(6/6)調 AAS
国土人天之善悪
999: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:09:49 ID:86jKe4HV(1)調 AAS
浄土真宗本願寺派 [19拍]
2chスレ:psy
1000: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:14:36 ID:SBNDOZbT(1)調 AAS
南無
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