[過去ログ] 浄土真宗本願寺派 [18願] (1001レス)
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973
(1): 925 2006/06/19(月) 20:30:58 ID:28bkQguV(1)調 AAS
二種深信というのは、そんなしみじみとしたもんじゃありません。
「うれしい」のと「かなしい」のが徹底してるんです。
「三かな文」は有名でしょう。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、
遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。
ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、
恥ずべし、傷むべし、と。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀
を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。ただ仏恩の深きことを念じて
人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。

「慶ばしいかな」「悲しきかな」「慶ばしいかな」これがいつも一緒に
あるんですよ。常歓喜常懺悔。
975
(3): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 21:50:30 ID:sLluB9VB(1/3)調 AAS
>>971
真宗の宗学は一念覚知を認めない。
この説は一念を覚知しなければ信心とは言えないとするもの。
それは信心決定に凡夫の自力の意業が介在しなければならないことを意味する。
しかし、自力の心を離れるのが他力の信心である。
だから、信心決定の瞬間に自力が介在するとする一念覚知説は異安心とされる。
そのため宗門では信一念を、行者の三業で覚知できる体験とはいわない。

>>916
>永遠に救われることのない自分と誰が救われなくても自分だけは浄土往生まちがいない
>ということの両方が同時にツユチリの疑いなくハッキリする。
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。

は、一念を覚知できるといっているように見える。
ハッキリする一念を意業で覚知しなければ信心といえないなら、それは他力の信とは言えない。

>>973
>二種深信というのは、そんなしみじみとしたもんじゃありません。

いや、歎異抄第九章はしみじみしているよ。
踊躍歓喜の思いが持てないという告白と、そんな凡夫だからこそ阿弥陀仏は目当てとされるのだと言う回答。
そこにある機の深信は慚愧の思いで頭を抱えるというようなものではないし、
法の深信も踊躍歓喜し始めるようなものでもないだろう。
意業としての歓喜が、いつでも同じ強さであるわけではないだろう。
(ただし頂き物である他力の心は変化しない)
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