[過去ログ] 浄土真宗本願寺派 [18願] (1001レス)
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917(8): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 21:03:43 ID:sDzmLEQn(1/4)調 AAS
>だから不可称、不可説、不可思議。
「おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、
造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、
頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、
有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、
ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。
たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。
だね
ただし、信楽が「不可思議不可称不可説」なのは
「しかれば大聖(釈尊)の真言、宗師(善導)の釈義、まことに知んぬ、
この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。
これを至心と名づく」
と、それが「不可思議不可称不可説」である如来の至心、真実心で作られ回向された名号を領受したため。
だから、如来の至心=名号=信心は誰でも同一である。
けれども、その信心から起こる歓喜に関しては人によって受け取りが違うといえる。
凡夫の感覚はすべて違うからね。
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。
918: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 21:10:05 ID:sDzmLEQn(2/4)調 AAS
さらに「不可思議不可称不可説」を掘り下げれば
大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。
「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、
法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。
この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、
法性すなはち法身なり。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。
しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、
方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして
あらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。
この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。
報と申すはたねにむくひたるなり。
この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに
尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。
無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。
しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。
920(3): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:37:20 ID:sDzmLEQn(3/4)調 AAS
>>919
>歓喜=欲生=(信楽の)楽だが、三心のいただきものが違うとでも?
ああ、語弊のある言い方だったね
たしかに’初起’の歓喜は信楽と同じくいただきものだし、非意業ってことに江戸宗学ではなってるよ
(歓喜初後という安心論題だね)
>三業の違うのは当然ですが。
第二念以後に三業にあらわれる歓喜はバラバラ。
>根拠をあげて話してくださいね。
そちらの教学でも言われていると思うが、信一念は人間の感覚ではとらえられない瞬間の出来事であるとされているだろ?
(こっちでは「信一念義」という安心論題になっている)
「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を顕すなり。」
成就文の「信一念」の一念は「時剋の極促」を意味する。
時剋の極促については有力な解釈が二説ある。
1)「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」(浄土文類聚鈔)
から時間の延び促み、これの「極促」つまり「時間のちじまりきった極限」であるとする説。
2)行巻の「奢促対」
「機に奢促あり、「奢」はおそきこころなるものあり、「促」は疾きこころなるものあり。」(銘文)
この場合の奢促は、おそいはやいの意味で、これから「極促」を「はやさ極限」であるとする説
で、どっちをとるにせよ「時剋の極促」は人間の三業で捉えることのできない瞬間ってことになる。
つまり、この初一念の信楽や歓喜は人間の三業ではわからない…ということになっている。
(だから宗学にとっては一念覚知説は異安心ってことになるわけだ)
後続の信心が非意業かどうかについては、たしか緒論があったと思う。
三業にあらわれる歓喜は万人で同一であるはずがないし、また四六時中意業にあらわれるって訳でもない。
921: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:49:18 ID:sDzmLEQn(4/4)調 AAS
補足すると、
一念については、通仏教で二つの系統で言われる
1)きわめて短い時間、一瞬間を意味する。
サンスクリット語でeka-ksanaなどに対応
ksanaは刹那と音写される時間の単位。
九十刹那を一念とする説もある
2)心のわずかな働きを意味する。
サンスクリット語ではeka-citta-utpadaなどに対応
この心の内容によって初発心、発菩提(一念発起)わずかな信心、(一念信)また1回の念仏など、多様に用いられる
で、真宗では成就文の一念は、「時剋の極促」の意味で取っている。
夫按眞實信樂信樂有一念一念者斯顯信樂開發時剋之極促彰廣大難思慶心也
是以大經巻下言諸有衆生聞其名號信心歡喜乃至一念至心廻向願生彼國即得往生住不退轉
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