[過去ログ] 東洋教学総合スレ (988レス)
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780: 2010/11/03(水) 20:43:06 0 AAS
百姓の家系であるうちのばあさんは、本当に自分のことしか考えない。
いつも自分の身体のどこが悪い、自分が好きな食べ物、自分が好きな野球チームなどと
自分のことばかりを考えて口にし、こちらの身体の調子が悪かったりしても
「あたしもここが悪くて辛いのよ」などと、すぐに自分のほうに話を振る。
そんな、百姓としては健全な範囲の自意識過剰であるばあさんを、
養子縁組などもあったにしろ、一応は武家の血筋であるじいさんは「大したことない女」などと放言する。
男系社会では、妻が高貴であることなど大した自慢にはならず、百姓出身だからこそ秀吉も妻をえり好みしていた。
むしろ「大したことない女」を妻として娶り、老後も仲睦まじく過ごしていることを自慢の種にすらしているのであり、
大したことある女を妻として娶ることを自慢にするヴィーナス>アンキーセース型の、蚤の夫婦の逆をいっている。
偏屈なところも非常に多いじいさんではあるが、人を見る目は確かなようで、
戦前には軟派者の入る部類に入れられていた航空部隊に所属し、今は小さな自動車工場を営んでいる
叔母の勤め先の社長などが、「近頃は儲かりまへんなあ」などと漏らしていたのを聞いて、
もう今では数少ない同年代にも関わらず、「大したことない男だ」などと冷徹に言っていた。
俺自身、その血筋からも、自分のことや儲けばかりが問題である産業従事者の小人さ加減と、
自分や儲け以上のものを計り知る士人の君子さ加減との違いを、身に染みて経験してきている。
君子と小人、どちらともに奥深く関わって来たからこそ、両者の違いをかぎ分ける嗅覚は人一倍だと自負できる。
たとえ仁義統治者のフリをしたところで、奥底に儲け第一の性根=商魂が潜んでいれば、すぐに見抜いてやる。
781: 2010/11/03(水) 21:26:21 0 AAS
我田引水よりも仁義を旨とした、
君子道徳の持ち主と意見を戦わせることは、こちらから望むところですらある。
しかし、仁義よりも我田引水のほうが重要である、
大部分の産業従事者にも共通した、小人止まりの品性の持ち主とは、
元から意見を戦わせたりするべきではない。
我田引水を否定する仁義と、仁義を否定する我田引水と、
互いに譲れない相反性を持ち合わせているもの同士、意見が相容れるはずも
ないのだから、議論を試みることで意見をすり合わせる余地もない。
君子と小人が貴賤に基づく差別下に置かれるのは、
互いに相反する理念を拠り所としている上に、君子の品性のほうが優良で、
小人の品性のほうが劣悪だからで、両者の差別が相反性に即していなければ、
まだ平等化の余地もあったが、仁義と我田引水という、決して相容れない
理念を本義としていればこそ、普遍的な差別下に置かざるを得ない。
782: 2010/11/04(木) 13:32:43 0 AAS
夫が高貴な身分で、妻が下賤な身分であることは、まったく問題ない。
むしろ夫唱婦随に滞りがなくて、よりうまくいく。
もちろん、体制を転覆させてやろうだなどという、
不埒なルサンチマンは元から捨て去っている場合の話。
783(1): 2010/11/05(金) 06:59:02 0 AAS
陰陽乾坤について質問します。陰陽乾坤図の
白は「陽」でしょうか?「陰」でしょうか?
そして方角としては陽は「南」でしょうか?
それとも「北」でしょうか?
784: 2010/11/05(金) 08:31:41 0 AAS
ところで宮崎アニメって仏教(あるいはインド教)の世界を書いてるんですね。
もののけ姫の「アシタカ」って仏教(ジャイナ教だったかな)の概念なんですよね。
785: 2010/11/05(金) 09:59:34 0 AAS
>>783
そんな、概念上の白黒や南北で一概に決め付けられるもんじゃない。
痩せた土地でも育つ蕎麦の粉は浅黒く、肥沃な土地でないと育たない麦の粉は白い。
これは蕎麦のほうが悪い環境でも育つ生命力の陽剛さの証拠になっているから、
生命力に関しては浅黒い蕎麦のほうが陽剛であるといえる一方、麦のほうは逆に肥沃な
環境の象徴にもなっているといえ、環境の良さという点では白い麦のほうが陽剛であるといえる。
それじゃあこの白黒の法則が、必ず何ものにも当てはまるのかといえばそうではない。
日当たりのいい南洋や砂漠の気候に順応しているからこそインド人やアラブ人の肌は黒く、
日当たりの悪い北方の気候や洞窟での生活に順応しているからこそ白人の肌は白い。
有色コーカソイドの肌の黒さが日当たりの良い環境、陽剛である環境の象徴になっているのに対し、
白色コーカソイドの肌の白さが日当たりの悪い環境、陰柔である環境の象徴になっていることは、
蕎麦の黒さが土壌の悪さの象徴となり、麦の白さが土壌の良さの象徴となっていることと反転している。
天の環境の良し悪しは良さが黒さ、悪さが白さで表れるのに対し、地の環境の良し悪しは良さが白さ、
悪さが黒さであるという風に、天地という環境の位相の逆転に基づいて、白黒の陰陽関係も逆転する。
786: 2010/11/05(金) 10:13:28 0 AAS
中国では伝統的に天子が南面(南を向く)して政務を執る。
これは地球上の北半球では太陽が南方に昇る法則に基づいていて、
天子たるものは日当たりのいい環境に置かれなければならないという陰陽の法則に即している。
しかし、天子が南面して政務を執るということは、その天子に臣従して目前で意見を述べる臣下は
天子のほうを向くために北面する必要が出てくる。天子が南面するからこそ、臣下は南側で
太陽に背を向け、天子は北側で太陽に面と向かっているという状態が生ずる。天子が北、
臣下が南に位置する政務関係もまた正しいものであり、天皇の語源となっている「天皇大帝」も
北極星の意味を含意しており、「徳治が行われる時には、北極星を中心に全ての星が回るように
天子の下に人々が臣従する」という論語・為政第二・一の記述にも適った状態に自然となる。
南面するからこそ天子は北に、臣従するからこそ臣下は南にという、互い違いの陰陽関係が
南北については備わりもする。しかもこれは北半球での法則であり、太陽が北方に昇る
南半球であれば、これらの陰陽法則の全ての位相が逆転することにもなる。実相上の環境に
厳格に左右されるのが陰陽関係であるため、脳内の概念上で白黒はこう、南北はこうなどと
決め付けたところで、実相に即さない不毛な論議に終始することが明らか。
787: 2010/11/05(金) 10:13:47 0 AAS
レスありがとうございます。一般にはどう指定されているのでしょうか?
たとえば洛陽は「洛水の南に位置するから洛陽」でしたよね?
788: 2010/11/05(金) 10:30:24 0 AAS
土地環境上は、北半球では太陽が南に昇るから、南が陽だ。
でも、土地的に南方が陽だからこそ、天子は朝廷の北側に玉座を構える。
土地的には南が陽→一般的に南が陽→天子も南側に座ればいい
などといったような、概念による一般化での実相把握の欠落をかませると、
全く真逆の誤った結論に至ってしまうのが陰陽関係。「一般的にどうであるか」
を実相からかけ離れたところで考え込む、帰納法が通用しない。
789: 2010/11/05(金) 10:52:20 0 AAS
生物的により陽剛な動物か、より陰柔な植物かによっても、陰陽の現れ方は反転する。
麦よりもさらに土壌の肥沃さを必要とする稲などは、モンスーン気候並みに湿潤な気候でなければうまく育たない。
砂漠ほどに痩せているわけではないが、雑草も生えないほどに痩せ気味の土地であるヨーロッパでは
せいぜい麦を育てるのが精一杯。動物上の白人の肌が白いことが、肥沃な土壌の象徴になっているわけでもなく、
動物の白黒は天候の良し悪し、植物の白黒は土壌の良し悪しにより左右されやすいことがわかる。
人間の肌の白さは、日当たりの悪さの象徴である上に、土壌の肥沃さの象徴ともならない。つくづく環境の
悪さの象徴ばかりになっているが、だからといって肌が白いことが、必ずしも否定の対象になるわけではない。
中国でも古来から白磁のように肌の白い女性が好まれて来たし、日本でも日照度の低さゆえに肌が白い
場合の多い秋田美人が持てはやされたりしている。男が色白なのはひ弱さの象徴にしかならないが、
女だとそのひ弱さがかえって愛らしさの象徴になる。日当たりも土壌もよくない劣悪な環境下に育ったことも、
夫唱婦随に耐える堪忍の持ち主である証拠にもなっているためより好ましい。劣悪な環境下で育った
陰湿な存在であることが、本人たち自身が女性的な陰柔さを守る限りにおいては、かえって有効に働いたりする。
790(2): 2010/11/05(金) 13:26:29 0 AAS
白人の肌は、白いのではなく、脱色しているのだ。色がないのである。
一方黄色、黒色、と言われる人種は、肌に色が付いているのである。
であるから、有色人種といわれるのである。
自分の身体の色がこのようにそれぞれ異なるのであるから、気持ち:考え方も自ずから、
異なるものとなるのである。
これは気候風土の違いが、人の気持ちを気候風土に相応したものに拘束するのと同じ働きをしているのである。
脱色人種の色彩感覚は、すべての色を差別せずに、コーディネイトする。
有色人種の色彩感覚は、色を差別し、特定の色に執着する。
脱色人種の、身につける衣服、街路の色彩を見て、それから、有色人種の身につける
衣服、街の色彩を見ると、その違いを発見するだろう。
さて、色即是空と言う真理真実があるが、脱色人種の方が、絶対的に、この真理真実
に近い。つまり、生まれながらに、悟りに近いのである。自分の身体そのものが、
色形を脱した様相を持っているからであり、したがって、特定の色に執着する
と言うことは、自らの性質に反するものなのである。
とこのように思えるがどうかな?
791(1): 2010/11/05(金) 13:43:25 0 AAS
>>790続き
であるから、日本人の旅行者で、アジアからヨーロッパに入ると、ヨーロッパの世界は、
垢抜けしていると言うのである。垢抜けとはよく言ったものだ。適切な表現であると言うのである。
赤とは罪を言う。罪がない社会であるとかんると言うのである。
792(1): 2010/11/05(金) 13:47:06 0 AAS
訂正
赤とは罪を言う。罪がない社会であるとかんると言うのである。
↓
垢とは罪を言う。罪がない社会であると感じると言うのである。
793(1): 2010/11/05(金) 13:52:42 0 AAS
罪の最たるものは、これは優れている、これは劣っている、これは良い、これは悪い、
この人はよい、などと差別することである。ましてそれを得意げに言う
のほど、重罪はないのである。
この罪が深いものはヨーロッパなどに旅行しない方が良いのではないか?
見ても聞いても接しても面白くないだろうからだ。
アテクシなんかは、とても行けないな。
794: 2010/11/05(金) 13:55:36 0 AAS
どうあっても亭主関白を拒むというのなら、結局女は遊び人の男と付き合うしかなくなる。
いい男と結婚するため、それどころか結婚する相手をいい男にしてやるためにこそ、自分が良妻賢母とならなければならない。
795: 2010/11/05(金) 14:09:26 0 AAS
週刊アスキー読んでたら、秋葉観光に来たフランス人やイギリス人が
「街がとても綺麗だ」などとインタビューで言っていた。
日本の公衆衛生の清潔さには定評があるが、
よりにもよって秋葉原が清潔か? と思った。
796: 2010/11/05(金) 14:11:00 0 AAS
不可触民
797: 2010/11/05(金) 14:13:53 0 AAS
ハリジャン(神の子)
798: 2010/11/05(金) 16:35:36 O携 AAS
ハリジャン
クリジャン
クリスジャン
クリスチャン
799: 2010/11/05(金) 17:50:14 O携 AAS
神の子たちの恒久の歴史は、まだ始まったばかり。
800: 2010/11/05(金) 20:37:56 0 AAS
>>790-793
白人が自分たちの所業に全く罪悪感を抱かないでいるのにも、ちゃんとトリックがある。
再三言うとおり、天空の南側に太陽が昇降する北半球では、南方が土地関係上は「吉方」となる。
不動産でも、南向きの日当たりのいい物件は評価が上がって値上がりしたりする。
けれども、その南方の日当たりのよさを享受する人間自身は、むしろ北側から南を向く。
国家社会において最も高貴な身分に当たる天子がいらっしゃる時には、周りの人間からも
自主的に日当たりを気遣って、南方を向く北側の位置に玉座を設け、そこに鎮座してもらう。
高貴であるが故に優遇される立場であればこそ、南方を向く北側の位置に座席が設けられる。
土地関係上の吉方が南であればこそ、南方の豊かな日当たりを享受する、天子は北側に座る。
土地の吉方と、その吉祥さの享受者である者の座席とは、お互いが相反関係にあるのであり、
南方が吉方であるからといって、その享受者である者までもが南方に座ったりはしない。
801: 2010/11/05(金) 20:41:53 0 AAS
これと同じように、十字架にかけられて苦悶しつつ刑死しているイエスの像などを見たからといって、
その人間がイエス自身になったりするわけでは決してない。自分自身は十字架にかけられてもいなければ
それによる身体の苦痛に苦悶してもおらず、無理な姿勢でいさせられ続けることでの身体破壊や、
ロンギヌスの槍によるわき腹の突き刺しなどによって、本当に刑死せんとしているわけでもない。
ただ、見ているだけ。苦悶する刑死者という偶像を視認することによって、苦痛を分け与えてもらった
気になっているだけ。自分たち自身は決して懲罰を被ることもなく、近頃じゃ死刑や精神医療の
全面的な撤廃までをも試みつつある始末。ただ刑死者の偶像を見ただけで、自分たち自身の
罪までもが贖われた気に本気でなっている。それは、「土地関係上は南が吉方だから、天子は北側に鎮座する」
というような、視認対象と視認者の分別がキリスト教徒などに備わっていないからで、
刑死者の偶像を自分が見たからといって、自分が刑死者になるわけでもないことは、
実相を厳格に精査していく易学などに基づけば、あまりにも明白なこと。
刑死者の偶像を見たから、自分たちの罪が贖われたと白人たちが思い込むのは、
視認者と視認対象の区別も付かない、愚者の錯乱に過ぎないのであり、そのような初歩的な
倒錯に基づきつつ、人類史上未曾有の大犯罪に手を染めて、なおも罪悪感すら抱かないでいることは、
白人が優等な人種である証拠になっているどころか、致命的な精神薄弱を宿した劣等人種、
「人類社会のガン細胞」である証拠にすらなっているのであり、易学などに基づいた実相把握が
器質的に本当に不可能であるというのなら、冗談抜きで、インドのカースト制に基づいた「ハリジャン」
という意味での、「神の子」としての恒久的な歴史を歩んでいく以外に、もはや選択肢はない。
802: 2010/11/06(土) 00:28:06 0 AAS
欧米白人は「内なる神」がないからだと思う。つまり「何をしても信じていれば
救われる」という阿弥陀信仰に近いものがあると思いますね。そうじゃなければ
とてもじゃないがあれほどの世界中での殺戮を行って正当化、なんてできはしない。
それにくらべるとインドの人間は内なる神があって、彼がずっと見てるわけですよ、
己の行動すべてを。だから行動を自制できる。
803: 2010/11/06(土) 01:40:57 0 AAS
白人女は、白人男のフニャチンばかり相手にしてるから、大して感じてない。
だから野太い声で「オ〜イエ〜」とか自覚的に喘いでいる。内なるものが何とやら。
804: 真面目な話 2010/11/06(土) 10:50:12 O携 AAS
さほど感じてないとも言えるし、
さほどでもない性感を必死で感じようとしているとも言える。
突き立ての餅も同然のフニャチンでも感じた気でいようとする必死さが、
刑死者を見ただけで自分までもが刑死した気分になる倒錯にも寄与した。
健気というか、アホというか。
805: 真面目な話 2010/11/06(土) 13:14:33 0 AAS
突き立ての餅も同然のフニャチンだけでは、女を征服できない。
だから白人男はチンポ以外のあらゆる手管を尽くして、女を感じさせようとする。
女の側が感じないことには、膣内が強酸性であり続ける関係から
女子ばかりが産まれて男子が産まれなくなるため、種の存続の
ための切実問題としても、何とかして女を感じさせる必要がある。
女のほうも、そんな白人男の側の事情を慮って、チンポによる性感と
それ以外のサービスによる歓喜とを混同する、倒錯の妙技を尽くそうとする。
そこから、刑死者を見ることと自分が刑死することの混同なども醸成され、
自らの罪が刑死者の視認だけで解消された気になる倒錯も確立されていった。
男の側がチンポだけで女を感じさせられない白人社会の事情は、
自然と女の側に権威を付与し、男を使いっパシリに回す女系も肥大化させ、
母親が旧約信仰者であることを規定としたユダヤ系の派生も助長している。
806: 2010/11/06(土) 15:30:58 O携 AAS
せつねえな
807: 2010/11/06(土) 19:25:13 0 AAS
ちんぽ一本、剣一振りで天下を平らげる、
漢の高祖の如き男のロマンは、白人男には始めから無いってことだな。
せつねえな
808: 2010/11/07(日) 15:24:54 O携 AAS
ヨーロッパの美麗とされる街並みも、
男の視点からすれば、ただ女くさいだけだもの。
女を喜ばせて、嬉しがらせて、感じさせて、男子も産んでもらう。
そのためにちんぽではなくインフラ整備なんかに頼ってるんだから、
街並みが美麗で豪壮であればあるほど、男のフニャチンさの証拠にしかなっていない。
ちんぽは逝かせられず、まんぽは自主的に逝こうとする「陰陽不全」が、
根本を疎かにしたまま外観ばかりを取り繕う、美しくとも不吉なフェミニン社会をもたらした。
809(1): 2010/11/07(日) 15:44:27 0 AAS
もともと欧州は男尊女卑だぞ。イスラムの影響で女性優位になっただけ
810: 2010/11/07(日) 15:53:49 O携 AAS
ちんぽで逝けない・逝かせられない挙げ句に
「ちんぽで感じさせられるのは外道だ」「ちんぽ以外のもので感じるのが高尚だ」
などとまで思い込む始末。
結局「感じる」という情念の部分を扱っているのには違いないのに、
何によって感じるのかを選り好みすることなどを高尚扱いしようとする始末。
感じたければ、ちんぽで感じればいい。
感じる感じない云々の情念を超えた所に高尚さを見出すのは結構だが、
ことに感じたいのなら、ちんぽで感じるに越したことはない。
貧乏長屋の万年床の布団の中でも、ちんぽで感じられればそれに越したことはなく、
ヨーロッパの古城のキングサイズのベッドの中でも、ちんぽで感じられないことにはしょうもない。
眼で逝くことではなく、ちんぽで逝くこと、
そのほうが性感の本義であることをわきまえるところから、
刑死者の視認を自らの刑死と思い込むような錯乱も排されていく。
811: 2010/11/07(日) 18:54:08 0 AAS
>>809
そりゃあただ、男のほうが身体も大きくて体力もあるから、
奪い合い殺し合いの絶え間ない乱脈社会で、その腕力が偏重されていただけだ。
イスラムでは女性、特に子を産んだ母親を尊ぶ風習があるし、それは中国や日本にもある。
孝行で知られる曾子は「勝母」という名前の土地を忌んで足を踏み入れなかったというし、
孟子は財政が豊かになってから執り行った母親の葬儀が、貧窮していた頃の父親の葬儀
よりも豪華だったことにいちゃもんを付けられて、魯の平公との面会を断られてもいる。
日本神道の最高神アマテラスも、経産婦でもある主婦の神で、家の外に出て
バリバリ働く大夫の神であるスサノオよりも、格上の存在として扱われている。
男系社会だからこそ、家を司る良妻賢母が尊貴なものとして厚遇されるのであり、
それは「フェミニン(女性本位)」であるということとは全く違う。一夫多妻で女系の
世襲は認められず、家系図に女の名前は載せられないほどにも透徹した男尊女卑が
根本に据えられているから、その余技として、良妻賢母としての女性が尊ばれてもいる。
それは、女系だったり、女系と男系のごちゃ混ぜだったりするような社会ではあり得ない
ことであり、家督を継ぐほどもの権限を保持している場合にこそ、女性への風当たりも強い。
男と同等のものとして扱われるにも関わらず、身体も小さく力も弱い女性が、強権社会たる
西洋で徹底して貶められていたことのはねっ返りとしてフェミニズムがあるのであり、
根本的に女性は男性の支配対象であること、ちんぽで感じさせるべき相手であることが、
男の側のフニャチンという特殊事情によって疎かにされていたことを元凶としている。
812: 2010/11/07(日) 20:06:13 0 AAS
そもそも「ちんぽ」が、これほどまでにも卑しめられている現状がおかしい。
日本の古来からの冠も、正直、男性器を模した形状になっているし、
その冠を模して、髷も結われている。日本刀も、腰元に差した状態の柄拵えが
鍔と合わせて男性器の模型になるようにして、その誂えを凝らされてもいる。
情感そのものを劣後する超俗的な観点からすれば、性器が劣後の対象に
なるのも免れ得ないことだが、ことに情感の内では、性器が最高の部類にあたる。
美麗な街並みや美しい王宮、美男子の美顔や筋骨隆々とした身体構造なんぞに
よって感じさせられることよりも、ちんぽによって感じさせられることのほうが、
ことに情感を扱う限りにおいては高尚なことなのであり。情感こそは最高扱い
される俗世において、ちんぽほどにも高貴であるものは他にあり得ない。
ちんぽすら汚らわしい、情感対象の極致すら汚らわしいというのなら、
今すぐにでも出家するべきなのであり、出家もしない内はちんぽこそが最高。
あらゆる情感の根本にあたる、何もかもを感じさせる根元であるちんぽ。
そのちんぽすら蔑ろにして、他の何ものかを情感の根本に据えようとすることは、
根本を疎かにして末節を偏重する、本末転倒の根元ですらあるといえる。
813: 2010/11/07(日) 22:35:40 0 AAS
Luxury Chimpo
814: 2010/11/08(月) 07:04:35 0 AAS
イスラム教徒の女性が顔を隠すのは「顔で女性を判断してはいけない」という
理由があるとのことですが本当ですか?
815: 2010/11/08(月) 08:13:39 O携 AAS
女は美しかろうが醜かろうが豚っぽい。
丸みを基調とした外見もそうだし、
ほっとけばどこまでも貪欲であり続けるところも。
イスラムの豚否定は、女性性の暗部の否定でこそある。
816: 2010/11/08(月) 11:30:40 0 AAS
豚トロうめー
817: 2010/11/08(月) 12:16:43 0 AAS
「太っていることが豚」なんていう安易な発想にもよらない。
食糧事情が資本主義社会ほどには豊かでもないので、
そんなに多くはないが、イスラム圏にも肥満した男女はそれなりにいる。
一方で、豚肉から豚革、豚毛まで豚を活用しまくっている
中国人は、豊満な力士たちが取っ組み合う日本の相撲を嫌う。
後天的な肥満ではなく、先天的な脂肪分の多さ、
よく言えばムチムチ、悪く言えばブヨブヨな女性性が、
豚という寓意を借りてイスラムでは否定された。
そりゃあ、男のちんぽからブヨブヨな白人などにとっては
理解しがたいことで、単なる肥満が豚の寓意という理解のほうが
しやすいだろうが、一般的な肥満と豚を結びつけて考える風習は
イスラムにもなければ、中国にもない。アラブ男の陰茎も
黄色人種並みにガチガチらしいが、股間の陰陽関係から
健全な社会では、豚のブヨブヨさは女性性にこそ比類され、
イスラムでは女性性の否定のために豚が否定されたが、
中国では陰陽の調和を重んじて、豚が完全否定はされなかった。
否定したりしなかったりの選択の異同以前に、
豚を何ものとして扱っているかという部分での異同がある。
818: 2010/11/08(月) 15:02:55 0 AAS
近ごろじゃモデル体系の女優なども持て囃されているようだが、
インドでも豊満な体系の女性が伝統的に好まれて来た。
肉食全般が忌避されることで、豚が特定して貶められていた
わけではないインドで、脂肪分の多い女性が好まれていたのも、
女性とはそういうものだという見解の一致があったからだ。
いくらダイエットに励んだところで、潜在的な脂肪分が女性は多い。
それは、育児のときに幼児に安心感を与えるためなどの
有用性があるからこそ付与された一種の機能なのだから、
一概に否定し去ればいいもんでもない。
ただ、イスラム圏などにおいては、女性的な脂肪分の多さを
「豚」という寓意を借りて否定してきた伝統があり、脂肪分の多さゆえに
丸みを帯びた女性の容貌が、ヴェールでひた隠しにされてきてもいる。
人間社会に女性は必須の存在であり、女性の脂肪分の多さも
それなりの有用性があるものだから、根絶するわけにもいかない。
だからイスラムでは苦肉の策として、女性のヴェール着用があてがわれた。
より高度な陰陽調和を図っている極東文化などと比べれば、不恰好な感が
無きにしも非ずだが、女性性を完全否定まではせずとも劣後した事例が
イスラムにおける豚の否定や女性のヴェールの着用であるのだから、
女性を完全否定したり、その反動でフェミニズムに振れきったりする
極端化よりは、まだ穏健な要素を伴っているのだといえる。
819: 2010/11/08(月) 15:23:30 0 AAS
ある程度スレンダーな女性が好まれる現代社会でも、
ロリコンでもない限りは、胸や尻が丸々と豊満であることが好まれるだろう?
それは、女の豚っぽさが好まれているということだ。
残飯でも糞尿でも平気で食らいつく、貪欲さの象徴としてのムチムチさ。
それをイスラムは豚否定を通じて完全劣後してしまってるんだから、ある意味たいしたもんだ。
女性用下着の専門店でも髭のオヤジが店番をしているほどに、女性性の劣後が行き届いている。
それでいて女性は女性で存在していて、大半は女性解放を訴えたりすることもなく、いそいそと暮らしている。
ムスリムの女性こそは、色欲の対象であることから解放されているのだともいえる。
820: 2010/11/08(月) 15:28:51 0 AAS
豚しゃぶうめー
821: 2010/11/08(月) 19:55:50 0 AAS
白人ってのは、どうも「鏡映認知障害」である場合が多いようだ。
肉をくわえた犬が、橋の上から川面に映る自分の姿を見て他の犬と勘違いし、
相手の肉も奪ってやろうとして口を開けたら、肉は川へとボットンという
イソップ寓話も有名だが、人間には元来、鏡に映った自分の姿を、
自分自身の姿であると認識する「鏡映認知能力」が備わっている。
白人にだってその能力があるはずだが、あるにしても随分と脆弱なようで、
莫大な利権を貪ることで多くの人々を犠牲に追いやっている自分たちの有様と、
十字架にかけられた長髪のヒゲ男との区別も付かない。だから、十字架上で
刑死しているイエスの像を見たからといって、それが自分の姿であると思い込み、
罪を贖った気にすらなってしまう。切実な鏡映認知能力の欠如に基づき。
自分たちが美男美女であったりするから、鏡映認知が疎かになるのだとしても、
ことに「鏡映認知障害」という部分だけを鑑みれば、明らかに劣等な障害でしかない。
美男美女だったりすることを根拠にその障害を正当化するとしても、「障害それ自体が
優等な証拠である」とまではいかず、あくまでそれは不具であり、矯正が不能だというのなら
手厚い庇護にでも置かねばならない。美男美女であったりすることと引き換えに、致命的な
劣等さを宿し続けるというのなら、美男美女であることすら免罪の理由にはならない。
822: 2010/11/08(月) 20:36:04 0 AAS
日本や中国で伝統的に鏡が貴ばれてきたのは知ってのとおり。
正直、日本人や中国人が美男美女であるということは少ない。
一重だったり出っ歯だったり猿耳だったりと、現代的な美意識に基づいて非難される容貌的特長も多い。
しかし、だからこそ鏡映認知が極めて細緻であり、自分が世の中においていかなる存在であるか
というような自己把握も切実になり得た。もちろん自らを形而上の概念世界に避難させるような
愚行にも及ばず、オリュンポス山の神々のうちの誰かに自分を当てはめるようなこともしなかった。
万物斉同の観点に即して、万物のうちの一つとしての個人である自分を冷静にわきまえられたから、
他者を餓死や戦死にまで追い込みつつの凶行などに、自分たちから手を染めることはなかった。
(戦後の日本人の醜態も、あくまでアメリカによる強権支配下でのやむ無いもののうちに止まっている)
美男美女であることが重権力犯罪に結びつき、ブ男やブスであることが権力道徳に結びつくというのなら、
美男美女が尊ばれて、ブ男やブスが卑しめられることから見直さなければならなくなるのも当たり前。
823: 2010/11/08(月) 20:37:33 0 AAS
人は美しさによって生きているのではなく、穀物をも育て上げる日当たりのよさによってこそ生きている。
「北半球では南側に太陽が昇降するから、天子が朝廷で政務を執る上では北側に座る」というような、
実相に即した吉凶把握のほうが、美醜の把握よりも普遍的である上に、人々の存亡を直接司ってもいる。
美醜も全くの無駄とは言わないが、全空間の八分の一に過ぎない、人間の視覚の欲求を満たす
ためにのみ存在する美醜だけにかかずらわっていれば、かえって全体の吉凶が疎かにされ、人類を
滅亡へと導く結果ともなる。礼記の「愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る」という言葉も、
このような美醜好悪と吉凶善悪の相反性をこそ予言していたのであり、美しいから愛せるが凶悪であることと、
醜いから嫌いだが吉祥であることとは全くの相反関係にあるからこそ、それらをみそくそに扱ってジレンマの
苦悩を抱く必要もない。美しいから愛せるものは凶悪だから劣後し、醜いから嫌いなものは吉祥だから優先する。
好き・嫌いという判断を超えた所に冷静な優劣判断を置くだけで、美しくて愛せるものと、醜くて嫌いなものとの
両立は簡単に達成されるのであり、好き嫌いを第一のものとして扱うことが殊更に不吉であるだけに過ぎない。
824: 2010/11/08(月) 23:29:28 0 AAS
そうかな?
身の回りには美男美女けっこういるぞ?中国人も。
逆に一部のひと以外、西洋人ってそんなに美男美女多くないと思うけど。経験上。
自分自身にどこかコンプレックスあるのを、無理やり別の論理でこねくりまわしてねじふせんでも・・・。
825: 2010/11/08(月) 23:36:25 0 AAS
もはや何がコンプレックスだったのかも覚えてない。
ブタ かわいいよ ブタ
826: 2010/11/09(火) 00:41:20 O携 AAS
完全なる天邪鬼か、完全なるイエスマンかのどちらかでしか
意見を述べられない思考回路も、つまらないもんだな。
反応がYesである場合もNoである場合も、自省の行き届いた発言者は予想し抜いている。
だからそのような二者択一で話を進めようとすることは全くの不毛であり、
ツーといえばカーという、機転の利いた会話のみが真に行うに値する。
YesやNoやIばかりで発言が始まる、英語文法に即した会話などは、始めからいらないのだ。
827: 2010/11/09(火) 00:48:07 O携 AAS
語るべきでないことを語るぐらいなら、語らないほうがいい。
語るべきことを語らないでいるぐらいなら、語ったほうがいい。
「私がやりました」
828: 2010/11/09(火) 04:42:06 O携 AAS
罪のなにが致命的かって、真に人を愛することも憎むこともできなくなることだな。
829: 2010/11/09(火) 12:08:46 0 AAS
「惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」
(「論語」里仁第四・三)
自らが仁に即して最大級に愛すべきものを愛し、憎むべきものを憎んでいるからこそ、
誰にもそこまで愛されても憎まれてもいないことに気づく。
別に俺が誰かにというだけでなく、今の世における万人が万人に対して
大した愛も憎悪も抱くことなく、事務処理然とした無機質な付き合いばかりに終始している。
それは何よりも「仁」に即せていないからで、仁義に反する我田引水、
他者を破滅に陥れてでも自分が裕福になろうとする犯罪志向を帯びてしまっているせいで、
せいぜい愛憎が隣人か友人ぐらいまでにしか届かず、その愛憎も不恰好で、
矮小でこわばったものにしかなっていない。
仁者は常に、万人との調和を念頭において人を愛したり憎んだりするから、
万人のうちの一人である自らにまで愛憎が跳ね返ってくることも常に踏まえているために、
最大級に他者を愛したり憎んだりすることもできる。しかし、仁義が欠如し、
我田引水ばかりに耽溺しているような人間は、自らの愛憎が自らに返ってくることを
必ずしも踏まえていないために、人を愛したり憎んだりすることを極端に恐れた結果、
せいぜい隣人や友人程度への、こわばった矮小な愛憎しか抱けなくなる。
仁者が抱いているほどもの愛憎を、不仁者が抱いたりすれば、おそらく発狂する。
冗談抜きで、自らの愛憎に征服されることで、自我を喪失してしまうに違いなく、
それはただ、仁者と面と向かって付き合うだけですら引き起こされかねないこと。
仁弱者が仁者と対等に付き合おうとすることは、仁弱者にとってこそ致命的な危険が伴う。
830: 2010/11/09(火) 13:20:09 0 AAS
愛も憎悪もないところで、無味乾燥とした人間関係を築こうとする一方で、
愛や憎悪しかないところで、禽獣同然の色欲や、血も涙もない殺し合いに溺れもする。
愛憎の扱いが全般的に稚拙過ぎるからこそ、そんなことになるのであり、
何事にかけても満遍なく適度な愛憎を振り向ける仁に基づけば、
全く愛憎しないとか、愛憎しかないとかいった、無様な事態は未然に防がれる。
最も、女性が汎用的な愛=仁を抱くことが器質的に困難であることは、
韓信の名言「婦人の仁」からも明らかだが。男ですら、よっぽどの大丈夫でも
ない限りは抱けないとされる仁を、婦女子が抱くことを期待するぐらいなら、
火付盗賊が捕縛されることを期待するほうが先ではないか。
831: 2010/11/09(火) 14:31:34 O携 AAS
人生の未熟者が、人生の達人の目前に放り出されれば、
未熟者のほうこそは、達人の仁強さにあてられて、発狂せざるを得ない。
だからこそ、未熟者こそは逃げ回っているしかなく、
どうしても会うというのなら、檻越しにでもなるしかない。
未熟者のほうこそは、剃刀などの危険物も預かり制となる檻の中からでないと、命に関わる。
832: 2010/11/09(火) 15:24:14 O携 AAS
詭弁による論理武装によって、一方的に自己意見をまくし立て続けるハリネズミ状態と化すことで、
相手の意見を聞き入れることによる自己崩壊を免れられなくもないだろうが、
だったらまだ、会わないほうがマシだろう。
こうやって面と向かいもせず、声も掛け合えない隔離関係にあったほうが、
下手に気を許して崩壊してしまう危険も少なくて、より都合がいいだろう。未熟者の側にとっては。
833: 2010/11/09(火) 20:35:00 0 AAS
おまえらが抱けば発狂・自殺してしまうレベルの愛憎を俺が抱いても破綻しないのは、
俺のほうがが仁強であり、おまえらのほうが仁弱だからだ。
別に俺が気違いだからでも野蛮だからでもなく、俺には仁があって、おまえらにはないから。
仁があることも殊更に稀有なことでもなく、「史記」などには仁の持ち主らしき人間の
敢然とした振る舞いがあまた記録されている。仁弱を煽るカルト信教や洗脳政策によって、
今の世の中においてばかり、仁の持ち主が少数派に追い込まれているのであり、為政者からも
仁を貴んで、率先した実践に努める世の中であれば、世の中の大多数が仁強になることすらある。
仁強であること全般を非難や冤病のの対象にしたところで、仁弱であるおまえらこそは
人類史上未曾有の重権力犯罪に手を染めているのだから、どちらかが非難されて、
どちらかが病気扱いされなければならないというのなら、もちろんおまえらのほうであるに違いない。
別にどちらかを殊更な非難や病気扱いの対象とせず、どちらともそれなりに健全ではあるものの、
仁強であるほうがより優良であり、仁弱であるほうがより劣悪であるといった、社会的責任を
負える範囲での差別に基づくだけでも十分。そのような差別によって世の中が営まれていくほうが、
どちらか一方を完全な社会不適合者扱いして、完全隔離の対象とするよりも、普遍的にはマシだろう。
仁弱の側が保身のためにどうするかといえば、仁強者を病人として隔離し続けるほうがマシだろうがな。
834: 2010/11/10(水) 00:48:03 O携 AAS
愛憎を楽しみなさい。
無理なら出家なさい。
835: 2010/11/10(水) 13:40:43 0 AAS
仁弱であることが保護容認されることが文明的なこと、先進的なことで、
仁強であることが野蛮なこと、気違いじみていることだなどという認識が
西洋などではまかり通り、維新後の日本にもそれが輸入されてしまった。
だから「史記」のような、仁強者の事績を羅列した記録書などを読んでも、
その有り様を野蛮扱いしようとしたりするが、自他の利益を十分に慮ることで、
殺したり殺されたりの剣呑さを甘受する仁強さのほうが、愛憎も不全なままに
何億人もの人々を犠牲に追いやる重権力犯罪に手を染める仁弱さなどよりも
遥かに死傷者や貧窮者も少なく抑えられているのだから、結果的にいえば、
仁強さよりも仁弱さのほうが野蛮だったことにもなる。
仁強さは蛮勇とも違うものであり、未然に自他の利益を十分に慮る
叡智が働いている場合に限ってこそ、剣呑さも受け入れるのであり、
死をも恐れぬ暴力団組員などが仁義を掲げるのも、仁義を蛮勇だと
曲解してのことに過ぎず、ただの蛮勇を仁義だと勘違いし続けているのなら、
仁強さが蛮勇だと思われても仕方がない。あくまでそれは、間違いに基づく。
836: 2010/11/11(木) 11:46:08 0 AAS
仁弱であることの保護や容認を日本人に奨励したのも、やっぱり福沢諭吉。
日本の武家が、あだ討ちなどの血みどろの仁強さをも嗜むのに対し、
西洋では、議会で争っていた政敵同士が、私的には会食を行っていたりする
ことを根拠に、西洋のほうが進んでいて、日本のほうが遅れているとした。
実際には、為政者としての十分な責任を負うために、自分たちが血にまみれることを
嗜んでいた日本人などのほうが、なあなあの友愛ばかりに終始して、交友のない
所に全ての殺伐さをしわ寄せする、西洋流の仁弱保護などよりも進んでいた。
まあ、そのことを、140年前の日本人が十分に図り知ることができなかったのも
無理のない話で、佐久間象山や吉田松陰のような、儒学への傾倒も多少はあった
ような学者が殺されて、福沢諭吉や新渡戸稲造、板垣退助のような、もはや
完全に東洋教学を捨て去った西洋かぶれのほうが長生きして持て囃されたのも、
あの時代には仕方のないことだった。すでに洋学や聖書信仰に基づいて、
人類史上未曾有の重権力犯罪がやり尽くされている今ならばそうではないが。
837: 2010/11/11(木) 23:26:42 O携 AAS
ただ、欲望を最大限に叶えたいだけのことさ。
838: 2010/11/12(金) 10:50:10 0 AAS
特筆すべきは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道が、
修羅・人・天の三善道などと比べて、峻厳などころか、むしろ緩慢としているということだ。
人の心の峻厳さは、修羅道や人道においてこそ極まるのであり、
それは、両者を高度に両立させた日本の伝統的な武士道が(新渡戸の偽武士道ではなく)、
あまりにも仁強であるために、仁弱な人間からは気違いじみているとすら思われることからも分かる。
仁弱さが保護されて畜生のごとく飼い馴らされたり、逆に保護されなくて餓鬼と化したりすることは
「悪趣」であるわけだから、「善趣」である人道や天道と比べて、より精神的な疲弊が多そうに
予想されやすいが、実際には悪趣である餓鬼道や畜生道こそは精神薄弱の世界であり、
薄弱者に特有の緩慢さこそが持ち越されることで、餓鬼や畜生となる。それは、
三悪趣中最悪の地獄道についてですら言えることで、罪を罪ともわきまえられない
仁弱者に対してこそ、地獄の鬼たちも、どこまでも際限のない厳罰を加え続ける。
悪それ自体は恐るべきものであり、不用意に受け入れれば破滅をも招きかねない危険な
存在ではあるが、人はむしろ、悪への十分な恐れを欠いた中でこそ、悪に取り込まれる。
致命的な意見の分裂を宿した政敵同士が、私的には馴れ合って会食していたり
するような緩慢さこそが、本人たちを知らず知らずのうちに地獄へと突き落とす。
839: 2010/11/16(火) 22:48:24 O携 AAS
心に疚しいところがないのなら、
間違っていたことを間違っていたと認めたからといって、
我を喪う心配をする必要はない。
「私はこうこう思う」といった思考自体が、
あなたの自我だったわけではないから。
840: 2010/11/17(水) 19:55:57 O携 AAS
罪を犯しても、反省すらしないような相手とは、当然付き合えもしないね。
ましてや結婚など、なおさら。
反省したから許されて、早々にも付き合える、それでいいじゃない?
あとは、心から反省する努力が必要なだけだ。
841: 2010/11/17(水) 23:15:02 0 AAS
反省できたかどうかが分かるまでは待っていよう。
反省できたなら、一緒になろう。
反省できなかったなら、諦めよう。
842: 2010/11/17(水) 23:25:59 P AAS
反省は再帰的近代の思考の典型だが、東洋思想には近代がないから
反省もない。
ただし荘子などが近代にたどり着く前に反省をつきつめてしまったから、
(西欧的な)近代を必要としなかったとも言える。
中国にはカントがいないと小林秀雄が言ったが、感性/悟性/理性の
代わりに三国志があるのだ。
843: 2010/11/18(木) 00:02:46 0 AAS
反省はサルにはできない。
ありゃあ、人間にとっての反省のポーズをさせられてるだけだ。
844: 2010/11/18(木) 07:40:04 O携 AAS
心から反省して、いい子になる。
いい子いい子
845: 2010/11/18(木) 14:44:37 0 AAS
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(「詩経」国風・鄘風・蝃蝀)
中国で、「虹」は陰陽の交接によって生まれるとされていたことから、「結婚」に比類されることがある。
もちろん結婚が悪いことなわけではなく、万物を化育する陰陽調和の機会として、東洋でも重要なものとして扱われる。
しかし、男系社会である東洋では、結婚が女子にとっては実家を出て他人の家に入る、親愛毀損の発端ともなることから、
あまり女子から欲したりすべきものではなく、よく機会を見計らって、慎重に受け入れるべきものとして扱われている。
記紀神話におけるイザナギ・イザナミの国生み神話などでも、女神のイザナミが男神のイザナギよりも先に
声をかけた時には奇形児が生まれ、イザナギがイザナミよりも先に声をかけた時には日本列島などが生まれたとされている。
陽唱陰和も叶わないうちから、ことさらに女子のほうから婚姻を求めるのは、無知で信用がならない上に、不孝でもある。
むしろ、適切な婚期を得るための準備にこそ尽力すべきなのであって、それでこそ信頼がおける上知である上に、孝行ともなる。
846: 2010/11/18(木) 14:45:57 0 AAS
×その命を知りも知らない
○その命を知りもしない
847: 2010/11/19(金) 01:33:12 O携 AAS
密教は、白人には物理的に修得不能。
突き立ての餅も同然では。
848: 2010/11/19(金) 07:08:13 O携 AAS
釈迦もモンゴロイドかコーカソイドかその混血かは不明にしろ、
「黄色い肌」だったという記録が、原始経典を含む仏典に数多ある。
肌が黄色いと、アレもガッチガチ。
まさかそんな所に器質的な解脱の秘訣があろうとは、夢にも思わなんだ。
849: 2010/11/19(金) 16:25:02 0 AAS
だいたい「東洋教学」って何よ。
そんな言葉初めて聞いたわよ、私。
850: 2010/11/19(金) 17:59:03 0 AAS
お互いに腹を割り切って付き合う、ただそれだけのことじゃないか。
どこに納得のいかないところがあるものか。
851: 2010/11/19(金) 18:18:23 0 AAS
同態復讐の嫌疑を免れるために、当然被害者は、
自分への加害者の断罪には直接従事しない。
あなたの尋問担当者は、たぶんムスリムかインド人あたりになる。
中国人は少し感情的な反発が大きすぎるだろう、お互いに。
852: 2010/11/19(金) 19:26:05 0 AAS
こちとら善意にしろ悪意にしろ、ここに書き尽くしているまでで全てだから。
ちっとも腹の内を見透かされることへの恐れなどはありゃしない。
しかし、そっちは違うな。匿名掲示板で対等な会話をしているようでいて、
腹には一物も二物も宿したまま。誰にも未だ一度も打ち明けたことのない
思いだって、いくらでもあるだろう。そこがどうしたって、不公平な所だ。
士農工商穢多非人や、カースト制の階級差別のほうが
まだマシなぐらいの、内心からの自由の有無の差別だ。
853: 2010/11/19(金) 19:45:48 O携 AAS
女囚にはやっぱり、女性の尋問官をあてないとな。
854: 2010/11/19(金) 22:25:12 0 AAS
ムスリムのおばあちゃんあたりに、直接尋問をお願いして、
女性としての尊厳を著しく損なうような尋問情報などは、
捜査上差し支えのない限りは、おばあちゃんの胸のうちに伏せておいてもらう。
捜査上問題でもあり、性的にも問題のあるような情報に関しては、
なるべく女性の捜査官だけをあてて、男の介在は最小限に食い止めるようにする。
とはいえ、どうせ女囚の数はそんなに多くはあるまい。
万引きレベルなどではない、重大な権力犯罪などを主導しているのはいつも男。
女は介入したとて、せいぜい共犯止まり。捜査する側もそんなに
大掛かりな体勢で臨む必要はないだろう。
855: 2010/11/20(土) 10:56:18 0 AAS
イスラム圏の国境検問所には、女性専用の隔離された身元取調所がある。
厳格なムスリムだと、目まで覆ったヴェールで完全に顔を覆う。
かといってイスラエルなどからの不法入国者の排除も欠かせない。
だから隔離された取調所で、女性同士で顔も晒しつつの身元確認を行う。
つまり、そういう事務に慣れている女性が、イスラムには結構いるということだ。
856: 2010/11/20(土) 15:31:47 O携 AAS
まあ、それでも受け入れられないってんなら、俺と付き合うのは絶対に無理だな。
こちとら、己れの欲せざらざる限りのところを要求しているだけだから。
それすら受け入れられないってんなら、どちらが上か下かはともかくとして、
心の段階に違いがありすぎるから、男女の相違を容れた上でも、やっぱり付き合うのは無理だな。
857: 2010/11/20(土) 16:41:38 O携 AAS
わざわざ心の内を見透かすまでもなく、見透かされることを拒んでいる時点で、
見透かされると困るような致命的な悪心を抱えたままでいることが明らかだから。
そんな相手とは付き合わないでいたほうがマシなのも、
しごく当たり前な道理だといえる。
858: 2010/11/20(土) 17:32:43 O携 AAS
よりにもよって、内面に致命的な悪心を抱えたままでいることが
実証的に明らかな女なんかと付き合うかよ。
だったらまだ、悪心を抱いているともいないとも知れない、
どこぞやの無関係の女と付き合ったほうがいいに決まってんじゃねえか。
859: 2010/11/20(土) 20:58:40 0 AAS
ざらざるざらざる
860: 2010/11/21(日) 13:26:42 0 AAS
悪意をまったく完全に捨て去れってんではなく、
カルト信仰に基づいて「実罪(他者に危害を加える罪)」の
重犯をも正当化してしまうような、俗世に生きる人間としては
致命的な悪念だけを捨て去って、よく反省しろって話だ。
罪には実罪と虚罪とがあり、実罪は上記にいうとおり実害の伴う罪のことで、
虚罪はたとえば、カルト教義や悪法に違反しているとかの、実害の伴わない罪のこと。
誰しもが旧約聖書の律法に少なからず違反していたり、七つの大罪を犯していたりすることを根拠に
誰しもを罪人扱いして、「誰にも誰をも断罪する権利はない」の論理と、「毒食わば皿まで」の論理によって、
自分たちこそは多大なる実害も伴う、重大な実罪に手を染めようとする。それこそは致命的に許されない所で、
実害の伴うわけでもない虚罪は、坊さんでもないような俗人なら何ら咎められる謂われはない一方で、
実害の伴う実罪だけは、俗人であろうとも犯しちゃいけない。みんな虚罪(キリシタンなどは「原罪」という)を
犯しているからといって、自分たちが実罪を犯しても構わない根拠などになるはずがなく、そのような
カルト教義への狂信に根ざした悪念だけは捨て去って、十分に反省しなければならない。
そこんところすら十分に反省して、二度とカルト教義への狂信に基づく実罪の重犯などには陥らないと
見受けられたなら、法定上の最低刑以上にも軽い刑罰や、執行猶予などだけでも済むかも知れない。
それぐらいの償いはしてからでないと、悪念を抱えたままであることが
確実な相手などとわざわざ付き合う筋は通らない。
861(1): 2010/11/21(日) 17:47:15 0 AAS
あなたの愛こそは、己れの罪を乗り越えられていない。
試練からも逃げ去ろうとする卑小な愛でしかないから、
無理に付き合うことがあなたの思いに沿わないことも明らかなので、
あなたの意向を尊重する上でも、付き合わないほうがいいということになる。
腹を割って付き合えるほどにも、純粋で透徹した愛などが
あなたには備わっていないことが、その選択からも明らかだから、
愛もない相手などに付き合いを無理強いするほうが、相手にも悪いことになる。
862: 2010/11/21(日) 17:58:56 0 AAS
本当はぜんぜん付き合いたくなんかない、
美形の白人男の、モチモチのちんぽこそを咥えたい、
そんな内心を見透かされたんじゃ、何もかもが台無しになっちゃうから、
どうあっても自分が“やられる側”になるのだけは認められない。
だったらねえ、付き合おうとすることからやめなきゃねえ。
身分や心の段階の違いを乗り越えて付き合うだなんて以前に、
そもそも本人にそんなに付き合いたい意志がないことが明らかなんだから、
それを無理強いして付き合ったりするのは、そちらにこそ悪いからねえ。
863: 2010/11/21(日) 19:24:02 0 AAS
別に、家の都合で嫁ぎ先までもが決められる封建社会なわけでもあるまいし、
愛してもいないような相手と無理やり付き合わされるような強要も認められまい。
誰から強要されるわけでもない付き合いが、内心を読まれることで破綻するというのなら、
それは「愛していない」か、「他に愛している相手がいる」かのいずれかでしかありえない。
そのいずれであろうとも、付き合うのをやめておく理由としては十二分なもの。
こちらではなく、あなたの内心こそを慮って、お付き合いをご免させて頂かねばならない。
864(1): 2010/11/21(日) 19:52:55 0 AAS
「愛していない」や「他に愛している相手がいる」と同等か、
それ以上にも深刻な破綻の原因となるのが、「カルト信仰が捨てられないから」という理由。
愛することよりもカルト信仰のほうが重要、だからカルト信仰は捨てられない、
だったらカルト信仰と結婚すりゃいいのであって、俺の出る幕なんか微塵もありゃしない。
何よりも、カルト信仰による征服支配の口実に、愛が悪用されることが頂けない。
男女の交合が、君臣や父子の序列にも先んじる最原初の陰陽調和であることが「易経」の
序卦伝においても認められているのに、その男女の関係よりもさらに先にカルト信仰を
置くとするなら、もはや何ものにも先んじてカルト信仰があるということになる。優劣はともかく、
先後関係については、易に始まる漢学ですらもが先を譲っている男女の関係の、
さらに先にカルト信仰を置いたりすることは、史実上の順列においても間違っているし、
実際、認められるもんじゃない。漢学すらも先を譲っている男女関係のさらに先に、
カルト信仰を置いたりすることは、漢学の拘束すらも振り切った俺こそが許さない。
865(1): 2010/11/21(日) 20:04:42 0 AAS
近ごろ、俺が熱心な勉学対象として、深く傾倒しつつある漢学すらもが、
「男女の関係については、我々の領分よりも先にあった」と認め、
俺を含む天下万人の、男女関係に関する殊更な拘束を解いている。
にもかかわらず、その漢学よりもさらに劣悪なカルト信仰が、漢学すらもが拘束を解く
男女関係に対して、精神的な拘束を強要することなど、認められるわけがない。
旧約聖書の2倍もの歴史を持つ、世界最古の古典「易経」をも擁する漢学すらもが
「そこから先はもう自分たちで好きにやってくれ」としている男女関係を、
漢学よりも質でも量でも古さでも劣るカルト信仰などに拘束されることは、
漢学の拘束すらをも振り切った俺こそが認めない。愛に関して複雑怪奇な
学問宗教が介在することは、漢学も含めて一切認めず、何ものによる拘束も
認めないがゆえに、カルト信仰による拘束もまた、当然のこととして認めない。
愛を拘束するカルト信仰を捨てられない、そんな相手と付き合うことこそは認められない。
男女の恋愛への拘束は、漢学すらもが解くというのに、カルト信仰などが試みるとは、何ぞや?
おまえらよりも遥かに優等な教学すらもが介入を控えている部分に、おまえらこそは介入を試みる、
何様のつもりだ?ということだ。何ものかによる精神的な拘束を受け続ける、常時マゾ状態の
恋愛などを、何ものに拘束されているわけでもない、この俺こそは認めてたまるかってんだ。
866: 2010/11/21(日) 20:22:22 0 AAS
カルト信仰・・・虚罪(原罪など)を厳禁して実罪を容認。
法律万能主義・・・実罪も虚罪も法文で禁止されていれば厳禁、法文で黙認されていれば容認。
道徳主義・・・実罪を厳禁して虚罪を容認。
カルト信仰は、憤怒や色欲のような虚罪までをも厳禁しようとして、結局実罪を放任する。
法律万能主義は法文による杓子定規で、実罪か虚罪かなどということを察知しない。
道徳主義は他者に危害を加える実罪を厳禁する一方で、憤怒や色欲のような、
それだけでは誰に危害を加えるわけでもない虚罪を全く容認する。
カルト信仰に即して「罪」とされるような罪を裁かれる必要は全くないし、
法律万能主義に即して「罪」とされる罪も、道徳主義に即して罪とされない場合には許される。
ただ道徳主義に基づいて、俗世の凡人の虚罪は一切咎めず、実罪の責任のみを徹底的に追求し、
もう二度と同じ過ちを繰り返さないことが明らかな程もの反省ができたなら許すが、
その言質も取れないようなら、いつまでも許されることはない。
生きている間に許される見込みがないようなら、もうあなたとの付き合いは諦める。
許されて釈放されたならば、多少の時間がかかったとしても付き合うだろう。
もちろん元から愛してもいなかったり、他に愛してる相手がいたりするのならば、とっとと諦めるが。
867: 2010/11/21(日) 22:07:31 0 AAS
自ら愛していない証拠を提示し続ける相手と付き合う無理。
868(1): 2010/11/21(日) 22:50:33 0 AAS
「全ては愛のため」だったというのなら、その心を見透かされることを恐れる必要は何もないはず。
「愛のためか、もしくは正当な理由のため」だったというのなら、それでも恐れる必要は何もない。
「愛や不当な理由のため」だったり、「不当な理由のためだけ」だったりするなら、
その心を見透かされて、断罪や破談の対象になることも恐れざるを得ない。
「不当な理由」ってのは、たとえば愛までをも拘束して悪用するようなカルト宗教だったり。
カルト信仰でなくても、実罪を犯すような致命的な悪行の存続のためだったり。
まあ、その「不当な理由」が、心からの弁解によって人に理解されることもあると思うんなら、
その場合にも心を見透かされることを恐れる必要はないわけで、自分が愛のため以外の
理由としていることが、心の底からの弁解によってでも、到底認められ得ないような、脆弱な
欺瞞に根ざしていることが自分でも分かってるから、心を見透かされることを恐れるわけだ。
どこまでも、自らが人と愛し合うに値しない存在であることを自ら実証し続けているのが、今のあなただ。
869: 2010/11/21(日) 23:04:33 0 AAS
愛し合うに値しないし、愛し合ってはならないという義務性すら伴っている。
今のあなたのあるがままのあり方が、「誰も私と愛し合ってはならない」
という義務感を、全ての人間に対して振りまき続けている。
愛されオーラではなく、「愛してはならないオーラ」が、
あなたの自意識に即してこそ、周囲に発散され続けている。
ただ罪障を帯びているだけでなく、その罪障を自らが振り払うこともできず、
むしろ自分から保全すらしようとしていることが、あるがままの行状からも
明白なので、最大級にあなたを愛している相手ですら、あなたを愛している
ような素振りを、思考からすら表現することができない。
どこもかしこも「愛してはならないオーラ」で取り巻かれているので、
最大限にあなたを愛している相手もまた、あなたの意向に沿うためにこそ、
あなたを愛する素振りすら見せようとしないように努める。
それでこそ、愛するあなたの今の意向に即していることになるから。
870: 2010/11/21(日) 23:32:21 O携 AAS
素直に反省すれば許される程度のことなのに、
その反省すらをも拒む強情さ。その強情さにすら勝てない愛。
大して人を愛そうともしない相手を、一方的に愛することもできなくはないが、
それは相手にとってこそ酷なことだろうから、あえて愛さないでおく配慮を尽くす。
それでこそ、真に相手への愛情を込めた応対だといえる。
871: 2010/11/21(日) 23:55:55 O携 AAS
何か、理に適わないことを言っただろうか?
理には適っても、愛情に反することを言っただろうか?
理に適い、しかも愛情に即したことを言っている。
そこに反発を抱くというなら、それは、あなたの言い分が理に適わない上に、
愛情にすら反している証拠でもある。
愛すらも、もはやあなたの味方ではなく、敵だ。
872: 2010/11/22(月) 08:53:00 0 AAS
せっかく、愛の真実さを証明する手段が目の前にあるというのに、
その手段を用いることを拒むってことは、愛が真実でないか、
真実の愛すらをも阻害するような何らかの障害があるってことだ。
あなたの内面にこそ。愛が真実でない場合はもちろんのこと、
真実の愛すらをも阻害するような何らかの障害がある場合にも、
これ以上お近づきになったりしたとて、その障害の側からの
阻害によって、今以上にも真実の愛が損なわれていくことが
明白だから、より愛を育むためにこそお近づきになるという本来の
目的が叶えられることはないので、やはりダメだということになる。
873: 2010/11/22(月) 09:36:56 0 AAS
「自らの意思とは無関係に、親の意向などによって結婚する相手も選ばされる」
なんてのは、封建社会の武家などなら当然あったことだ。
しかし、その封建主義を君らは目の敵にして、
本人自身の意向がどこまでも通される自由主義を絶対視している。
だったら、本人の意思が根本からお付き合いを欲しているのかどうかを
確かめることを憚る必要など、何もないはず。
「本人自身が意向の有無を読まれることを拒絶している」としても、
その希望がすでに、読まれると困るような不実さを宿したままでいる実証にもなっている。
それ以前に、その意向すらも、本人自身の本心からの意向であるとも知れない。
少なからず、何らかの欺瞞を宿したままでいる人間が、
全ての欺瞞を引き剥がされて丸裸と化した人間と付き合おうとする無理。
至らない人間が、至っている人間と対等に付き合おうとする、自明に不当な平等志向。
厳重な差別化で付き合うか、もしくはお互いに丸裸になるかでないと、通らない。
874: 2010/11/22(月) 13:29:07 0 AAS
丸裸といっても、服を脱いで丸裸ということでもなければ、
自尊心や道徳心を引き剥がされて丸裸ということでもない。
自他に対する欺瞞を完全に引き剥がし、
善意も悪意も完全に丸裸にしているという意味。
未だ自己の内面に致命的な欺瞞を抱えたままでいる者と、
全ての欺瞞を捨て去った者とが、接触する狂気。
その欺瞞の内容が如何であれ、欺瞞を持たない人間は欺瞞を忌み嫌い、
欺瞞の持ち主も欺瞞を持たない純粋さを忌み嫌うのが人の心の常。
致命的な欺瞞の持ち主であることが明らかな人間と、
あらゆる欺瞞を捨て去っていることが明らかな人間。
そのような者同士であることがすでに、致命的な敵対の原因ともなる。
875: 2010/11/22(月) 15:01:12 0 AAS
バカで無知蒙昧な上に、さらに誤解や無理解に根ざした自己意見ばかりをがなり立てるから、
到底こちらの言ってることなんか理解できやしない。そしてそんな甘えは、もう通用しない。
ただでさえ難解な東洋教学の深奥を、自己流の思い込みをあてがいつつ理解しようだなんてんじゃ、
二度と檻の中から出られなくなるだろうことも必定。分からないなりにも従順でありつつの熱心な
学習に努め、それでもかなりの時間がかかって、多少なりとも理解できるかどうかってとこ。
理解ができて、それが反省材料ともなり、他者に危害を加える実罪ぐらいは踏みとどまる程度の
倫理観が恒常的に抱けるようになって、その反省の度合いが審査されて、許されれば釈放となる。
難解であって、しかも反発意識すら未だ大きいだろう道徳学。反意を抱くのは明らかに罪障の大きさ故の
自業自得だし、難解すぎて理解できないのも、頭が弱すぎるからでなければ、間違った学知による
曲学阿世で、正しい学問を理解する方向に脳みそが割り振れなくなっているからで、それもまた、
間違った異学異見をあえて自分が好き好んで取り入れてきた自業自得によっている。
876: 2010/11/22(月) 20:12:06 0 AAS
自分だって、目の前に洋学や聖書教しかなくて、漢学や仏教が巧妙にひた隠されていた限りにおいては、
そっちのほうを好き好んでいた経験があるから、それらを捨て去って漢学や仏教へと移行する大変さもよく知っている。
もしも目の前に洋学や聖書教しかなく、漢学や仏教など、未だ遥か遠い世界の未知の存在であったりしたなら、
洋学や聖書教のほうに傾倒し続け、それらをアイデンティティの拠り所にしていたに違いない。
しかし、実際のところ自分の目の前には漢学や仏教もあって、歴史的に自分の家系などが傾倒してきた
度量も漢学や仏教のほうが遥かに大きかったことが明らかだから、その、洋学や聖書教と比較しての優等さも
合間見えて、当然のこととして漢学や仏教を含む東洋教学のほうに振れきり、それらへの傾倒にも専念した。
そういう、恵まれた境遇にあるわけでもない君らが、東洋教学を修得するために必要とされるのは、偏に向学心。
イエスと同じように妾腹の私生児として産まれながらも、自暴自棄になって破滅級のカルト教義を触れ回るわけでもなく、
伝統上にある正統な道徳学の継承に努めた孔子のような、不遇さをも超克した向学心による、正学の修得。
恵まれた血筋などが跳躍板ともなって、色を好むように徳を好めた俺の場合などとは違って、
君らにはいかなる後ろ盾もない、純粋な向学心のみに即した、東洋教学修得の責務が課される。
それは、全く苦労をさせられていないわけではないにしろ、同質の苦労はさせられたことのない
俺などには計り知ることも、助言することもできないところなので、ただ「がんばれ」としか言えない。
がんばった先に結実するものがあることぐらいは知っているから、その応援ぐらいはできる。
877: 2010/11/23(火) 18:44:02 0 AAS
まじめに答えてくれるスレがここだけなので。
私はゴータマブッダの教えは「中庸を得ること」だと感じたのですが、どうでしょうか?
878: 2010/11/23(火) 19:01:55 0 AAS
「中正を得ること」だ。
「始めから中正を守り抜き続けること」が中庸。
「両極端の過ちから中正を得ること」が中道。
俺は結局、中庸でい続けているわけだけれども。
君らはもう中庸は無理で、中道を目指すしかない。
879: 2010/11/23(火) 19:24:50 0 AAS
ゴータマ・ブッダは「両極端を退けよ」とおっしゃられましたよ
880(1): 2010/11/23(火) 19:29:23 0 AAS
孔子はそんな言い方もせずに、ただ中庸の徳を褒め称えている。
両極端を経験した上で卒業したから、
仏陀であるものこそは「両極端を退けよ」とも言える。
881: 2010/11/25(木) 23:32:34 0 AAS
「中国が共産主義をやめて古来の徳治主義社会に立ち戻るなら、
資源配分を是正して中国にも人口相応の資本を分け与える」と、
資本主義国の側が宣言すればどうだろうね?
共産党を崩壊させる民衆革命が起こるかもね。
882(1): 2010/11/26(金) 23:40:02 0 AAS
むかしむかし、地球村という村に、70人の村人たちが住んでいました。
この村は、人里遠く離れたど田舎ではあるものの、自然は豊かであり、
村の中だけでも、100人分の食糧はまかなえるほどもの資源に恵まれています。
しかし、この地球村には、盗賊を生業とする人種が約10名ほどもいて、
こいつらが地球村の食糧を80人ぶんも強奪して独占してしまうために、
残りの20人ぶんの食糧しか、盗賊ではない60人の村人たちには行き渡りません。
60人の村人たちが、たった20人ぶんの食糧だけで何とか食いつないでいるのですから、
当然まったく栄養が足りず、飢えて苦しむ人たちもいますし、そうでなくたって、
栄養状態がはなはだ悪いために、元気でいる村人たちもあまり体格はよくありません。
かえって、盗賊身分の村人たちは、たった10人で80人ぶんもの食糧を独占している
わけですから、栄養状態はよ過ぎるほどにもよくて、体格も巨人かというほどにも
大きくなったりしています。それはあくまで、他の村人たちからの食糧の強奪によって
成り立っているものなのですが、強奪によってこそ巨大になった自分たちの体格を、
盗賊たちは「自分たちが他の村人たちよりも偉い証拠だ」などと思ってもいます。
この地球村における、盗賊身分ではない60人の村人たちが、
飢餓を解消して人並みの生活を送るためには、どうすることが最善でしょうか?
1.盗賊たちを滅ぼしつくして、60人の村人たちだけで地球村の生計を立てていく。
2.盗賊たちが、他の村人たちからの食糧の大強奪をやめて、平等な資源配分の下で仲良く暮らす。
3.盗賊たちによる資源の大強奪はそのままに、他の村人たちが自助努力によって資源を増産する。
4.盗賊たちによる資源の大強奪はそのままに、盗賊たちが村の外に出て村人たちへの借りを返す。
5.その他。( 記入欄 )
883: 2010/11/27(土) 14:33:59 0 AAS
低能な、あまりにも低能な
884: 2010/11/27(土) 15:36:13 0 AAS
>>861>>864>>865>>868
カッコイイね。
885: 2010/11/27(土) 17:25:53 0 AAS
単なる低能を、「愛」なんて言葉でごまかしてんじゃねえよ。
脳みそだけがカルト教義によって幼児退行したところで、
大きく成長したおまえらの身体を、もうお母さんも抱きかかえられねえよ。
886: 2010/11/27(土) 20:28:19 0 AAS
>>880中庸を得るために極端な行動をすることはあり得る。
ただし行いに対し基準(到達点)を求めず、闇雲に
連続してそれを行うのならば、傾いた舟に水が入って
沈むかのごとくすべてを失う。
887: 2010/11/27(土) 21:01:26 0 AAS
というよりも、その舟に乗っていたことがすでに極例だが。
洪水に方舟で対抗しようとする以前に、まず治水から。
888: 2010/11/27(土) 21:57:50 0 AAS
たとえば舟が荒波によって急激に右方向に舵を取られたとする。
舟の本来である「目的地に対しての安定した推進」を得るためには
瞬間的に左に舵を切らねばならぬ。これは中庸である。
だが闇雲に方向を基準とせず常に舟を右、あるいは常に左に
航海する、というのは偏向であり偏った悪しき行いである。
これさえも現代人は気づかない人が多い。
889: 2010/11/27(土) 22:34:42 0 AAS
目的のための手段と、目的のない手段とでは、当然違いが出てくるだろうね。
飼い犬は長生きできても、野良犬は早死にするようなもん。
目的を司るあなたの飼い主はいずこ。
890: 2010/11/28(日) 09:12:09 0 AAS
そもそも、水上を航行するために設計されていた方舟が、
乗船者の大多数を占める船頭たちの意向で山の上に登り、
陸上での無理な引きずり航行が祟って、自壊しつつあるとでもいった所。
目的のために選ばれない手段も、武経七書などの兵法では嗜まれる。
しかし、それは恒常的な統治手段などではなく、有事の軍政に限って
用いられることが認められるものであり、平時にまで性懲りもなく
用い続けたならば、名将ではなく重罪人のそしりを被るのみ。
891: 2010/11/28(日) 09:30:24 0 AAS
キリスト教で是とされる隣人愛や、
アリストテレスの「ニコマコス倫理学」で賛美されている友愛なども、
それらの名目上の愛を偏重することによって得られる実質的な効能が、
「釈遠謀近は利益を得やすい」」という形で七書中の「三略」に説かれている。
大戦中や冷戦中のような戦闘状態ならば、自分たちばかりの利益を慮って
遠方の利益を蔑ろにすることにも妥当性が伴っていたが、冷戦も終結し、
同時テロのような自作自演でも試みないことには有事を捏造できない、
平時へと世界が移行しても、相も変わらず「グローバリズム(国際主義)」
などという、釈遠謀近を正当化するイデオロギーを全世界に強制し続けた
せいで、他国の人間を餓死に追いやってでも自分たちばかりが裕福でいる、
国家レベルからの重権力犯罪の条件をも満たしてしまったわけだ。
892: 2010/11/28(日) 09:56:53 0 AAS
西洋人が釈遠謀近をやめたからといって、
今度は東洋人が釈遠謀近を試みるようになるわけでもない。
そのせいで今度は、欧米が貧窮するようなことになってもいけない。
>>882の答えも、1よりは2であるべきだから。
893: 2010/11/29(月) 19:18:45 0 AAS
盗賊が、何かを得た上で“失う”なんてこともなく、
元来他人の財産であるものを一時的に奪い取ったから、
それを“お返し”するだけのことだ。
未だ「悪いことをした」という罪の意識すら十分にわかないのも、悪魔の仕業には違いないが。
悪魔役だった連中を厳罰に処すのは簡単にしても、それで反省の気持ちが抱けるかどうか。
かえって一部の「トカゲの尻尾」に全ての責任を押し付けて、自分自身は罪を免れた気にすらなりかねない。
むしろ、自分こそは悪いことをしたという、率先して罪に服していこうとする心意気が必要。
何もかもの罪をキリストさんに押し付けるのではなく、自分こそは相応の罪に服そうとする。
その際、他人の罪までをも自分が代わりに被るような、分不相応なおせっかいにも及ぶことなく、
自分自身が犯した罪こそを特定して明らかにすることに努め、その罪に相応の罰を受けることに
ついてこそ率先的であらねばならない。誰しもの罪を償おうとすることにかけてではなく、
自分自身の罪を償うことにかけて徹底的であろうとする心意気こそは、
自らの行いによって、他者にも徳性の堅持を促す、最も道義的な服罪姿勢となる。
894: 2010/11/29(月) 22:34:05 0 AAS
大山不動にして億千万の鼠鳴動せる。
895: 2010/11/30(火) 05:18:06 0 AAS
欧州人がイエスを信じる割合は5%w
896: 2010/11/30(火) 09:46:09 0 AAS
でも、みんな聖書から姓名を引用している。
実際のところ、新約聖書は「古代ローマ小説」でもあるし。
897: 2010/11/30(火) 10:11:22 0 AAS
「罪と罰」で、強盗殺人を犯したラスコーリニコフの代わりに
誤認逮捕されたペンキ屋のミコールカが、慈善(偽善)団体に加入していた関係から
「自分が犯人だ」などとウソの自供を始め、ラスコーリニコフの代わりに
強盗殺人の罪を背負おうとするくだりがある。
そのせいもあったり、親孝行娼婦(爆)ソーニャのキ○○イじみた説得などに応じたりで
ラスコーリニコフも最後には自首するが、やはりキリスト教圏の小説なだけあって、
これも色々とおかしい。他人の罪までをもかぶる偽善が持てはやされたり、
親孝行のために娼婦になったりの、実相からの狂いが前提としてあって、
その狂いに感化されて強盗殺人の真犯人も自首するという、美談のようでいて、
実際には人間倫理にひどく反する犯罪寓意が散りばめられている。
自らの罪を償うことにかけて徹底的であるような人間に倣って自首するのならいいし、
親孝行のために貞女であろうとする女性に感化されて、「人は結局あるべきところに
いなければならない」と感化されて自首するのでもいいだろう。しかし、他人の罪までをも
被ってあげようなどとする偽善者に感化されたり、親孝行のために娼婦になった白痴女
なんかに感化されたりして自首するのでは、自首する動機から間違っているから、
服罪に努めたところで、なかなか反省するのも難しかろうな。
898: 2010/11/30(火) 10:19:41 0 AAS
かようにして、キリスト教圏においては、
長らくカルト教義にドップリ漬かり続けてきた爪あとが方々に残されている。
たとえ今はもう、キリストなんか本気で信じていなくたって、
カルト信仰の爪あととしての凶相が方々に残されているために、
ドストエフスキーやニーチェのような実存主義志向の文学ですらもが、
凶相の遍在を前提とした論理展開から脱却できないままでいる。
899: 2010/11/30(火) 10:48:56 0 AAS
マルクスの「資本論」なども、資本主義経済批判の対象として、
よりにもよってイギリスの下層階級の極端な薄給重労働をあげつらい、
「こんな風にならないためにはどうしたらいいか」をわざわざ論じ立てているから、
人間社会のデフォルトがさも、イギリスの下層階級の薄給重労働であるかのようになってしまった。
マルクス存命中でもあった、江戸時代の日本人の平均労働時間などは、今の半分程度だったというし。
王権神授説によって上層階級の権力を絶対化し、そのくせして四民制やカースト制のような
支配階級と産業階級の分別も付けず、ユダヤ商人などもヘタに近づけて、資本家の権力までをも
絶対化させてしまった英欧の社会体制などを大前提として、マルクスも共産主義を提唱したから、
非宗教・無信仰的なイデオロギーであるはずにも関わらず、共産主義もまた、
その内面に奇形的な精神性を宿したままに定立されることとなってしまった。
そもそも王権の神授性から、封禅の儀の成功如何によって左右され(始皇帝は失敗し武帝は成功した)、
儒家や法家の提唱した四民制によって政財界の分別も行き届いていた東洋の社会体制に基づくなら、
19世紀のイギリスの下層階級の薄給重労働など自体が、すでに異常なものであることが確かだから、
それを前提にその解決を目指すようなことからあり得ず、そのイギリス的な資本主義を、東洋的な封建主義
よりもまだ先進的なもの(ただし共産主義よりは後進的なもの)として認めたマルクスの判断もおかしかった。
900: 2010/11/30(火) 21:08:08 0 AAS
ラスコーリニコフが、親孝行娼婦ソーニャの説得に応じて自首したことにも、ちゃんと裏がある。
家を出る 人としきけば仮りの宿に 心とどむなと 思ふばかりぞ
「人が出家しただなどという話を聞けば、仮の宿に過ぎない現世ごときに心をとどめるなとばかり思う」
との意味である、西行法師と歌詠み交わした江口の遊女の返し歌。
現世で散々にわが身をもてあそばれ、どこにも安住するに足る場所を見出せない娼婦の詠んだこの歌が、
「兵法にも通ずる」として沢庵和尚に「不動智神妙録」で取り上げられ、それを又引きしつつ柳生宗矩も
「兵法家伝書」を書いた。娼婦の心境は、命をやり取る兵法者の心境にも順ずるものであり、
真剣勝負の場においてですら有効ながらも、それはしごく殺伐としたものであるということ。
家計を助けるために娼婦になって、殺伐とした遊女なりの心境を蓄えつつあったソーニャと対面して、
自らの罪状を告白したラスコーリニコフは、発狂したかのごとく自首を命令するするソーニャの
気勢に押されて、最後には自首してしまう。それは要するに、強盗殺人という重罪を犯しながらも
反省すらしないでいたラスコーリニコフの気勢が、真剣勝負にも相当する戦闘態勢を、日々の
秘め事で蓄えていたソーニャの気勢に圧倒されて、思わず自首してしまったということであり、
反省の足りなさに打ちひしがれるどころか、反省しないでいる平気さの足りなさに打ちひしがれて
自首したということだったので、より悪い動機によって自首してしまったことにしかなっていない。
901: 2010/12/01(水) 09:35:50 0 AAS
内心「あ"〜早くちんぽ咥えたい、咥えたい、咥えたぁ〜い」などと思っていても、
そこはムスリムのおばあちゃんの心のうちに止めておいてもらう。
別にそれが実罪なのではなく、
畜生の渇望を巧妙な権力犯罪に振り向けたことこそは実罪なのだから。
902: 2010/12/01(水) 10:05:49 0 AAS
地獄餓鬼畜生の三悪趣と、修羅人天の三善趣との違いは、主に渇望の有無ないし充足の有無にある。
地獄餓鬼畜生には全く充足がなく、渇望ばかりがあり、餓鬼のように本当に餓えている場合だけでなく、
すでに相当な利権を貪っている畜生ですらも、いま以上の貪りを続けようとすることを止めない。
修羅人天にも全く渇望がないわけではないが、人としての致命的な問題をも呈するほどもの渇望は
十分に抑制されて、邦に道の行われている時にこそ熱心に働いて俸禄も得ようとするような分別によって、
自ずからの充足を知り、むしろ充足状態故の浩然の気を保つことにかけての研鑽にすら努めようとする。
903(1): 2010/12/01(水) 10:06:59 0 AAS
ただ、このうちでも扱いが難しいのが修羅で、劣悪な修羅は際限もなく戦いを貪ることがあるために、
正統仏教においても地獄餓鬼畜生と合わせた「四悪趣」として扱われることがある。しかし、どこまでも
際限なく戦いを貪るのはあくまで劣悪な修羅のみであり、東洋兵法や武芸などの高潔な修羅においては、
武はあくまで目的のための手段であるとされ、一旦泰平という目的が達成されたなら、堅実な徳治などに
道を譲ることが貴ばれているために、どこまでも無意味に戦いを貪り続ける畜生的な要素は廃されている。
とはいえ確かに、戦闘中の修羅は安穏としてもいられない所があり、実際に心を一所に止めることが
ないように努めるさまが、畜生道である遊女の心境にも近いものだと、沢庵や柳生ですらもが認めている。
「地獄餓鬼畜生修羅人天」の順列では、修羅と畜生は隣り合わせになるが、確かに近いところもあって、
戦争中の兵士なども性欲を蓄積させてしまうために、軍規の徹底や慰安婦のあてがいにでも依らない
ことには、戦地での婦女への暴行なども横行してしまう(ソビエトは戦地での強姦を正式に認めてもいた)。
逆言すれば、畜生道にあたる娼婦の心境は、戦闘中の修羅にも見紛う渇望にまみれたものである故に、
それを今から自首せんとする犯罪者への後押しなどに用いれば、檻の中で心を落ち着けて反省
しなければならないところが、その気持ちは殺がれ、バビロン拘留中に異民族への復讐意識を
モーセ五書に託した古代ユダヤ人のような、全く反省しない服役者が量産されるだけのこととなる。
自分が投獄されるのは戦いに負けただけのことに過ぎないから、「今度は勝つ」などと、己の罪に
よってこそ投獄された犯罪者としては思い上がりにも程がある、勘違い下での悪念を募らせる。
904: 2010/12/01(水) 16:34:29 0 AAS
地獄界・・・米英瑞以
餓鬼界・・・ブラックアフリカ
畜生界・・・欧露
修羅界・・・イスラム圏
人界・・・中国
天界・・・インド
かようにして、現代の現実世界もまた、ちゃんと六道輪廻の配分に収まっている。
今の日本はといえば、地獄餓鬼畜生修羅人天のいずれもが混在している状態で、
善くも悪しくも、六道については世界一網羅が行き届いている社会となっている。
畜生界は、それらだけで重大な実罪に手を染めることは少ないが、
「蛇の道は蛇」であり、地獄道の連中との連絡にも余念がなく、
仲間内で小競り合いなども多少はしながら、利権関係ではねんごろとなり、
地獄界並みかそれ以上もの利権的豊満に与る。
餓鬼界はといえば、ただ地獄界や畜生界から一方的に利権を奪われ続ける一方で
ある点が深刻な従犯状態ともなっており、資本主義国の工業生産の下請けなども
引き受けつつ、ちゃっかり工業技術などを吸収している中国のようなしたたかさもない。
ただ奪われ通しで、誰を怨めばいいかも分からないほどの無知蒙昧の中に
置かれ続けていることも、決していい見本にはならないので、
地獄道や畜生道と共に、三悪趣の中に入れられる。
修羅界はといえば、三悪趣の敵になることもあれば、三善趣の敵になることもあり、
一概に善か悪かを断定できないのも確かだが、少なくとも実罪の共犯であることにかけて、
地獄界や畜生界と共同しようとまではしないので、断罪の対象にまではならない。
人界と天界については、もうさんざんここで説明し尽くしているので、いま詳述する必要はあるまい。
東洋教学は主に、人界や天界、仏界などを研究対象とし、地獄道や餓鬼道、畜生道などの
暴挙を抑え付けることによる、天下万人の恒久的な福利厚生に貢献することをも目的としている。
905(1): 2010/12/02(木) 01:37:18 0 AAS
俺は修羅が英米だと思うね。慢性的なうそつきと戦争と自己正当化の繰り返し。
まさにアスラ。
人界は支那やインドシナかな。とりあえず食わねばならず、そのために人を動かす
政治に重点を置いてるから。
天界は自己に打ち勝つことを目的とした宗教家だろうか。
畜生道は日本やドイツといった敗戦国だろう。まさに戦勝国のための家畜。
飢餓道は旧共産圏だろう。心身ともにすべてに飢えている。
地獄道はわからない。
906(1): 2010/12/02(木) 01:41:40 0 AAS
>>903「闘争を以ってむさぼる存在」とは言いえて妙ですな。
欧米の「権利の追求」は自分の権利を主張するために
他者の権利を踏みにじり、そしてその人はまた自分を保持する
権利を突きつける・・まさに「闘争の輪廻」が続いていくわけです。
こんなバカな政治制度は荀子の時代でさえ、すでに退けられて
いたのに、あいも変わらずの白人の暗愚と独善ぶりには
笑うしかないです。
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