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【朝日慰安婦誤報】「朝日は全然、反省していない」「最低だ」櫻井よしこさんや百田さんらが誤報を痛烈批判「言論テレビ」感謝イベント (1001レス)
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787
:
名無しさん@0新周年
2014/09/16(火) 11:29:50.21
ID:EnML0xkq0(82/105)
調
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>>764
外部リンク[pdf]:www.heiwakinen.jp
外部リンク[html]:www.yomitan.jp
外部リンク[html]:www.hi-ho.ne.jp
外部リンク[htm]:www.yomitan.jp
外部リンク[html]:web.thu.edu.tw
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787: 名無しさん@0新周年 [] 2014/09/16(火) 11:29:50.21 ID:EnML0xkq0 >>764 君が想像できそうと言ってるだけ。君は詐欺被害者にも「そんなうまい話ウソだと想像できるだろ」と問い詰めるんだろうが、君が想像できようができまいがその人が詐欺被害者であることには変わりない。 ■軍属や看護婦が月給100円以上もらっていた(ネトウヨ本では教えてくれない日本史) ----------------------------- ○その時、私は漁船に乗っていましたから、船と共に軍に徴用された軍属という身分でありました。 ・・・当時、(マニラ)市内は思ったより平穏でした。戦時手当として一ヵ月百三十円、八十円は留守宅へ送金されますが、 五十円は私の小遣いとしては十分過ぎる額でありました。 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_332_1.pdf ○工員の職種も多岐にわたり雇員を筆頭に筆生、整備、運転手・・・看護婦などがあった。 待遇面では、戦時手当、家族手当もあり平均で月一五〇円くらいはもらっていた。 http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05b/chap06/content/docu121.html ○当時の給料に戦地加算を加え、兵隊十余円、看護婦約百五十円前後、ビール一本四十銭、清酒一升一円五十銭と記憶する。 日曜日は看護婦達の差し入れビールにより、兵舎の食堂で二、三年兵はよく呑んだ。 http://www.hi-ho.ne.jp/s-takagi/inform/wagaj05.html ○中国では月々の給料はとてもよかった。沖縄で県病院にいた頃は、実務研修期間で月七円か八円でしたが、大阪では五〇円ぐらいもらっていました。 中国では、一般看護婦よりは日赤看護婦は高くて七〇円から八〇円ももらいました。二か年勤めて帰る頃は一〇〇円くらいになっていました。 http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu089.htm ○BC級戦犯となった周慶豐さん 十八歳のときに新聞で捕虜監視員募集の広告を見た。・・・周さんは早速応募した。一九四三年(昭和十八年)の八月のことだったそうだ。 敗戦のときには雇人という身分から「雇員」と呼ばれる身分に昇格していて給料も増えていたそうだ。月給も五十円、それに戦地手当もついて一気に百五十円の高給取りになった。 といっても受け取れるのはその十分の一の十五円。七十五円は台湾の家に送られると言われ、残りは軍事郵便貯金に強制預金させられたそうだ。 http://web.thu.edu.tw/mike/www/eaphet%20nl/12N/12N-satane.html http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1410802140/787
君が想像できそうと言ってるだけ君は詐欺被害者にもそんなうまい話ウソだと想像できるだろと問い詰めるんだろうが君が想像できようができまいがその人が詐欺被害者であることには変わりない 軍属や看護婦が月給円以上もらっていたネトウヨ本では教えてくれない日本史 その時私は漁船に乗っていましたから船と共に軍に徴用された軍属という身分でありました 当時マニラ市内は思ったより平穏でした戦時手当として一ヵ月百三十円八十円は留守宅へ送金されますが 五十円は私の小遣いとしては十分過ぎる額でありました 工員の職種も多岐にわたり雇員を筆頭に筆生整備運転手看護婦などがあった 待遇面では戦時手当家族手当もあり平均で月一五円くらいはもらっていた 当時の給料に戦地加算を加え兵隊十余円看護婦約百五十円前後ビール一本四十銭清酒一升一円五十銭と記憶する 日曜日は看護婦達の差し入れビールにより兵舎の食堂で二三年兵はよく呑んだ 中国では月の給料はとてもよかった沖縄で県病院にいた頃は実務研修期間で月七円か八円でしたが大阪では五円ぐらいもらっていました 中国では一般看護婦よりは日赤看護婦は高くて七円から八円ももらいました二か年勤めて帰る頃は一円くらいになっていました 級戦犯となった周慶さん 十八歳のときに新聞で捕虜監視員募集の広告を見た周さんは早速応募した一九四三年昭和十八年の八月のことだったそうだ 敗戦のときには雇人という身分から雇員と呼ばれる身分に昇格していて給料も増えていたそうだ月給も五十円それに戦地手当もついて一気に百五十円の高給取りになった といっても受け取れるのはその十分の一の十五円七十五円は台湾の家に送られると言われ残りは軍事郵便貯金に強制預金させられたそうだ
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