[過去ログ] 第49回衆院議員総選挙総合スレ37 (1002レス)
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(1): ◆NAMARA//7. (JP 0Hf9-EdZ1) 2020/07/11(土) 03:55:26 ID:CdHmMZm1H(6/23)調 AAS
伊福部昭て本当に凄い音楽家だったんだな

【デビュー作・日本狂詩曲】
1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務。
アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。
(中略)
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、
1.平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
2.当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
3.北海道の厚岸町から応募してきたこと
との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部
の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、
応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届け
られた。

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。賞金は300円であった(2019年現在の百万円くらい)。この時の第2位は、伊福部と
同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平と伊福部はともに新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、
セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットし
て演奏され、そのカットした部分の楽譜は現存しないため、永遠に幻となった。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲
のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。

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世界と言うか欧米中心主義の時代が長らく続いても非欧米社会では日本だけは独自の文化形成によって、当時の欧米人ですら、あれ?良いじゃん
日本てのが知識レベルが高い層では、画家の藤田画伯と共に認められたのかもね?
昔の国際連盟では5000円札のお人が随分と理想を語った(札幌農学校卒)らしいから、日本の国際連合への奉仕は戦後も続いてたと理解してたさ

え〜と、NHKの朝の連ドラなんだったけ?
音楽は人の中身を変えられるだけの力を持ってるのね
ブルマはAKB48が10年前に好きでも、それを揶揄するつもりはさらさらないけど、音楽・アイドル・お笑い・俳優・噺家・勝負師の更新ができないブルマ
は不憫に思う
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(1): (ワッチョイW cb29-6EQZ) 2020/07/11(土) 07:08:43 ID:YqwI6q7Q0(1/8)調 AAS
>>650
エールに出てきてもおかしくない人物
古関もストラビンスキーが好きだった
というか劇伴をやる作曲家は渡辺浦人親子や木下忠司や渡辺宙明親子にしろ菊池俊輔ロシアかぶれが多い
ちなみに山田耕筰の師匠はブルッフでメンデルスゾーンやシューマンやブラームスの路線を引き継いだ作曲家
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