[過去ログ] ● 私 (女) は 悪 く な い ● (982レス)
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895: 2015/04/04(土) 13:11:29.92 ID:X17rwlEz(1/5)調 AAS
悪(あく)とは、文化や宗教によって定義が異なるものの、概ね人道に
外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。
日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉
としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝
の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥
協を知らない性格から「悪左府」と呼ばれた。鎌倉時代末期における悪
党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。
本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人
間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的
な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規
則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝
の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。
『古事記』において、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪
の訓読みは「マカ・マガ」となる)。対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代で
は、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てていること
からも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という図式ということになる。
なお現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、
依然として相違を含んでいる。
896: 2015/04/04(土) 13:16:24.94 ID:X17rwlEz(2/5)調 AAS
悪は善と対比される。
人間が善悪を意識、判断する場面は様々だが、家庭での躾から、教育、
スポーツ、法律など、秩序を必要とするあらゆる場面で見出せる。生活に
即したものとして宗教で、娯楽や伝承として物語の上で取り上げられるこ
とも多い。その際は、善をすすめ悪を除外すること(勧善懲悪)、善と悪と
の対決などがしばしば注目される。
善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もあるため、規範という形で
存在するものは、このような混乱を避けるためによく用いられる手段なのだ。
後述する仏教と同様に、儒教と道教には西洋思想にみられるような善悪の
対立構造がないが、中国の民間信仰では何か悪い物の影響についてよく
言及される。儒教の主要な関心事は知識人や貴人にふさわしい正しい社会
的関係・行動にあった。それゆえ「悪」という概念は悪い行動ということになる。
道教では、二元論がその中心に据えられているにもかかわらず、道教の中
心的な徳に対立する思いやり、節度、謙虚は道教において悪の相似物だと
推測できる。
フリードリヒ・ニーチェはユダヤ-キリスト教的道徳を否定し、『善悪の彼岸』・
『道徳の系譜』の中で、非-善の本来の機能は弱者の奴隷道徳によって宗教
的な悪の概念へと社会的に変容され、主人(強者)に反感を抱く大衆を抑圧し
た、といったことを主張した。
897: 2015/04/04(土) 13:20:40.73 ID:X17rwlEz(3/5)調 AAS
アイン・ランドは『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』で、
「理性は人間の基本的な生存手段だから、理性的存在が生きるのに適した
ものが善い物である。逆に理性的存在が生きるのを否定・妨害・破壊するも
のが悪いものである」と書いている。この考えは『肩をすくめるアトラス』の中
でさらに練り上げられており、「考えることは人間の唯一の基本的な美徳であ
る。他の全ての徳は考えることから生まれてくる。そして、人間の持つ基本的
な悪徳、つまり全ての悪の根源は人が皆実際にはやっているのにやっている
とけっして認めようとしない名もなき行為、つまり自分の意識を故意に停止す
ること、考えるまでもなく盲目であることは否定するが実際には見ようとしない
ことだ。つまり、単純に無知なのではなく知ることを拒んでいるのだ。これは自
分の心に焦点を当てるの避け、自分があるものを認識するのを拒んでいる限
りそれは存在しないとか、自分が『それは悪い』という評決を下さない限りAは
Aでないといった暗黙の前提に基づいた判断を避ける心の中の霧を引き起こ
す行為だ。」とある。
バールーフ・デ・スピノザはこう言った
善によって、人々にとって有用であると人々が当然知っているものを私が理
解できるようになる。
反対に悪によって、人々が善いものを持とうとするのを妨げると人々が当然
知っているものを私は理解する。
スピノザは半ば数学的な文体を使い、『エチカ』第4部で述べた定義から証明・
説明できると自分が主張しているさらなる命題について述べている。
898: 2015/04/04(土) 13:23:59.27 ID:X17rwlEz(4/5)調 AAS
命題8
善や悪の知識は私たちが意識する限りでの喜びあるいは悲しみの気持ちで
しかない。
命題30
私たちの本性において共有されているものを持つことを通じて悪であるものは
あり得ないが、あるものが私たちにとって悪である限りではそのあるものは私
たちと相いれない。
命題64
悪の知識は不適切な知識である。推論「それゆえに人の心の中に適切な知識
しかなければ、悪い考えが形成されることはないであろう。」
命題65
理性の導きに従えば、二つの善い物のうちより善い物を選ぶことになるし、二つ
の悪いもののうちより悪くない方を選ぶ。
命題68
人間が自由に生まれたら、自由である限りその人間はよい考えも悪い考えも持
たない。
以上のニーチェ、ランド、スピノザのような哲学的考察は後述する神学的考察と
比較でき、対照をなすが、ニーチェとランドは無神論者でありスピノザはそうでは
ないことが指摘される。
899: 2015/04/04(土) 13:30:37.32 ID:X17rwlEz(5/5)調 AAS
カール・グスタフ・ユングは『ヨブへの答え』やその他の著作で、悪を「悪魔の暗
黒面」だと言っている。人は他者へ寄り添う影を思い描くので、悪は自分の外部
にあるものだと信じがちである。ユングはイエスの物語を自らの影に直面する神
の話として解釈した。
2007年にフィリップ・ジンバルドーは、人々は集合的アイデンティティーの結果と
して邪悪な行動をとり得ると主張した。この仮説は、彼が以前にスタンフォード監
獄実験を経験したことに基づいていて、著書『The Lucifer Effect: Understanding
How Good People Turn Evil』で発表された。
宗教はしばしば戒律で悪を規定する。それに基づいて禁止されている事柄(タブ
ー)は、その始祖や開祖に関するものや、それが発達した文化圏における生活
規範をモチーフにしたものなどがある。中東のゾロアスター教は光(善)と闇(悪)
で世界を捉えており、のちの一神教における神と悪魔の対立という概念に影響を
与えたとされる。一神教ではユダヤ教の十戒やキリスト教の七つの大罪などが
有名である。
仏教の二元性は第一に苦と悟りの間にある、というのは仏教の内部には善と悪
の対立に似たものは直接的に言及されていないからである。しかしブッダの一
般的な教えをもとに、仏教哲学の体系内の苦は「悪」に相当すると推測されうる。
実際にはこれは三つの利己的な感情-欲望、憎悪、虚偽;や肉体的・言語的行動
におけるそれらの現れ、について言及することができる。十戒 (仏教)を参照。とり
わけ「悪」は、現世における幸福、より良い生まれ変わり、輪廻からの解脱、ブッダ
の真正にして完全な悟り(三藐三菩提)を妨害するものを指す。無知は全ての悪の
根源であるとされる。
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