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★ 宇多田ヒカル ★ (483レス)
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477
: 2018/07/01(日) 09:51:16
ID:0MUIj9Mc(150/156)
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477: [sage] 2018/07/01(日) 09:51:16 ID:0MUIj9Mc デルモア・シュワルツは、『夢の中で責任が始まる』という短篇小説によってアメリカ文学史に燦然と輝いている作家である。 この短篇は、一九八八年に刊行された村上春樹訳編の『and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇』(文藝春秋)の中に、『夢で責任が始まる』という題で収録されている。 訳者の畑中佳樹は次のように書いている。 「たった一発の狙いすました弾丸でたった一つの的を射ぬき、あとは一切余計なことをせずに死んでいった作家――デルモア・シュウォーツを、ぼくはそんな風に感じている。 その一発の弾丸とは、一つの短篇小説である。そのタイトルが、まるで伝説のように、アメリカ小説愛好家の間で囁かれつづけてきた。」 『夢の中で責任が始まる』が長く語り継がれる伝説の作品となった理由のひとつは、たぶん、それが「映画」と「夢」の親密な関わりについて書かれた最初の、そして最高の小説だからだ。 時は、一九〇九年。主人公の「僕」は映画館でスクリーンを見つめている。映っているのは古いサイレント映画で、そこに登場する男女は、若き日の「僕」の父と母だ。 父は母を連れ出して、コニーアイランドへ出かける。浜辺を散歩し、メリーゴーランドに乗り、いちばん高級な店で食事をとる。 そこで父は母にプロポーズする。母はうれしさのあまりすすり泣く。 すると、「僕」は席から立ち上がり、 スクリーンに向かって 「結婚しちゃいけない! まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」と叫ぶ――。 かつて、ジャン・コクトーは、 「映画とは現在進行形の死をとらえた芸術だ」と書いたが、 そんな映画というものの特異さ、そして映画館でスクリーンに魅入っている時の混濁した深層心理、夢想とも妄想ともつかない昏い惑乱状態をこれほど繊細に掬い取った作品はない。 『夢の中で責任が始まる』は、一九三七年に復刊された「パーティザン・レヴュー」の巻頭を飾ったが、当時、二十四歳だったデルモア・シュワルツは、一躍、若手世代の文化英雄となった。 文芸批評家のアルフレッド・ケイジンが「『夢の中で責任が始まる』は、率直で、美しく、忘れられないものだった。 ……〈われわれの経験〉についてその後読むことになったもののなかで、最高の寓話だった」と回想しているのは、そのひとつの例証だ。 私が、デルモア・シュワルツの名前をふたたび強く意識するようになったのは、 マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』の2001年12月号で「坪内祐三 いつも読書中」という特集が組まれ、その中で坪内祐三がデルモア・シュワルツの『スクリーノ』という短篇を翻訳し、 「必敗者シュワルツ」という刺激的なエッセーを寄せていたからである。 この『スクリーノ』も「映画」と「映画館」が主題になっていた。 坪内祐三さんは、その後、2007年に『変死するアメリカ作家たち』を上梓する。 この本は、一九九一年から未来社のPR誌『未来』に断続的に連載された20世紀のアメリカ文学で変死したマイナー作家たちを描いたポルトレがもとになっており、 その巻頭を置かれていたのがデルモア・シュワルツだった。 そのほかにハリー・クロスビー、ナサニェル・ウエスト、ロス・ロックリッジ、ウェルドン・キースというシブい名前が並んでいる。 坪内さんによれば、 当初は、さらにジェイムズ・エイジーとリング・ラードナーのふたりの作家を加えて一冊にまとめる構想があったようで、本来なら最初の彼の著作になるはずであったという。 この頃、神田神保町の北沢書店のバーゲンだったかで、五百円ぐらいで『Selected Essays of Delmore Schwartz』を見つけた。 デルモア・シュワルツの詩作と小説以外の評論、エッセイを集成した大部のハードカバーで、私は、拾い読みしているうちに、 デルモア・シュワルツは、ほぼ同世代のジェイムス・エイジーにどこか似ているなと思った。 ジェイムズ・エイジーは、アメリカが生んだ最高の映画批評家であり、優れた詩人、作家、シナリオライターでもあったが、デルモア・シュワルツと同様、 過度のアルコール中毒と憂鬱症のために、やはり〈変死〉している。 ピューリッツァー賞を獲ったエイジーの唯一の長篇小説『家族の中の死』も自伝的な作品で、父親とチャップリンの映画を見に行った幼少時の場面が印象的に描かれていた。 デルモア・シュワルツも、T・S・エリオット、エズラ・パウンド、W・H・オーデンをめぐる詩論、ヘミングウェイ、フォークナー、ジイドについての作家論などのほかに、 映画評論も手がけている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1388751490/477
デルモアシュワルツは夢の中で責任が始まるという短篇小説によってアメリカ文学史に燦然と輝いている作家である この短篇は一九八八年に刊行された村上春樹訳編の とっておきのアメリカ小説篇文春秋の中に夢で責任が始まるという題で収録されている 訳者の畑中佳樹は次のように書いている たった一発の狙いすました弾丸でたった一つの的を射ぬきあとは一切余計なことをせずに死んでいった作家デルモアシュウォーツをぼくはそんな風に感じている その一発の弾丸とは一つの短篇小説であるそのタイトルがまるで伝説のようにアメリカ小説愛好家の間でかれつづけてきた 夢の中で責任が始まるが長く語り継がれる伝説の作品となった理由のひとつはたぶんそれが映画と夢の親密な関わりについて書かれた最初のそして最高の小説だからだ 時は一九九年主人公の僕は映画館でスクリーンを見つめている映っているのは古いサイレント映画でそこに登場する男女は若き日の僕の父と母だ 父は母を連れ出してコニーアイランドへ出かける浜辺を散歩しメリーゴーランドに乗りいちばん高級な店で食事をとる そこで父は母にプロポーズする母はうれしさのあまりすすり泣く すると僕は席から立ち上がり スクリーンに向かって 結婚しちゃいけない! まだ間に合う考え直すんだ二人ともいいことなんて何も待ってないぞ後悔とにくしみと醜聞とそれからおそろしい性格の子供が二人それだけさ!と叫ぶ かつてジャンコクトーは 映画とは現在進行形の死をとらえた芸術だと書いたが そんな映画というものの特異さそして映画館でスクリーンに魅入っている時の混濁した深層心理夢想とも妄想ともつかない昏い惑乱状態をこれほど繊細に掬い取った作品はない 夢の中で責任が始まるは一九三七年に復刊されたパーティザンレヴューの巻頭を飾ったが当時二十四歳だったデルモアシュワルツは一躍若手世代の文化英雄となった 文芸批評家のアルフレッドケイジンが夢の中で責任が始まるは率直で美しく忘れられないものだった われわれの経験についてその後読むことになったもののなかで最高の寓話だったと回想しているのはそのひとつの例証だ 私がデルモアシュワルツの名前をふたたび強く意識するようになったのは マガジンハウスの文芸誌鳩よ!の2001年12月号で坪内祐三 いつも読書中という特集が組まれその中で坪内祐三がデルモアシュワルツのスクリーノという短篇を翻訳し 必敗者シュワルツという刺激的なエッセーを寄せていたからである このスクリーノも映画と映画館が主題になっていた 坪内祐三さんはその後2007年に変死するアメリカ作家たちを上梓する この本は一九九一年から未来社の誌未来に断続的に連載された20世紀のアメリカ文学で変死したマイナー作家たちを描いたポルトレがもとになっており その巻頭を置かれていたのがデルモアシュワルツだった そのほかにハリークロスビーナサニェルウエストロスロックリッジウェルドンキースというシブい名前が並んでいる 坪内さんによれば 当初はさらにジェイムズエイジーとリングラードナーのふたりの作家を加えて一冊にまとめる構想があったようで本来なら最初の彼の著作になるはずであったという この頃神田神保町の北沢書店のバーゲンだったかで五百円ぐらいで を見つけた デルモアシュワルツの詩作と小説以外の評論エッセイを集成した大部のハードカバーで私は拾い読みしているうちに デルモアシュワルツはほぼ同世代のジェイムスエイジーにどこか似ているなと思った ジェイムズエイジーはアメリカが生んだ最高の映画批評家であり優れた詩人作家シナリオライターでもあったがデルモアシュワルツと同様 過度のアルコール中毒と憂症のためにやはり変死している ピューリッツァー賞を獲ったエイジーの唯一の長篇小説家族の中の死も自伝的な作品で父親とチャップリンの映画を見に行った幼少時の場面が印象的に描かれていた デルモアシュワルツもエリオットエズラパウンドオーデンをめぐる詩論ヘミングウェイフォークナージイドについての作家論などのほかに 映画評論も手がけている
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