[過去ログ] 主イエス・キリストは父なる神 2014.10.3 (1002レス)
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120: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 11:35:48.44 ID:hOGcOycU0(1/9)調 AAS
>キリストの愛によって、わたしたちは、キリストに結ばれて新しく創造された者となります
>(二コリント5・17参照)。こうしてわたしたちは、キリストの神秘的なからだである教会の
>一部となります。
私たちは再生することによって教会となり、天界の一員となることを意味していると思われます。
121: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 11:41:07.02 ID:hOGcOycU0(2/9)調 AAS
>>66
>「義認についてのパウロの宣教」(二) 教皇ベネディクト十六世の160回目の一般謁見演説
>このように考えると、パウロの宣教で中心的な意味をもつものとして第一に述べられた、
>行いによらない義認は、愛のうちに働く信仰と矛盾しません。むしろ、行いによらない義認は、
>わたしたちの信仰を霊に従う生活によって表すことを求めます。パウロの神学とヤコブの神学
>の間に根拠のない対立が見いだされることがしばしばあります。ヤコブは手紙の中でこういう
>からです。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」
>(ヤコブ2・ 26)。
パウロもヤコブと同じものを言っているのです。
122: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 11:44:46.01 ID:hOGcOycU0(3/9)調 AAS
>実際はこうです。パウロが何よりも心がけたのは、キリストへの信仰が必要であり、
>またそれで十分なことを示すことでした。これに対してヤコブは、結果として生じる、
>信仰と行いの関係を強調しました(ヤコブ2・2−4参照)。それゆえ、パウロにとっても
>ヤコブにとっても、愛のうちに働く信仰は、キリストにおいて人を義とするたまものが
>無償で与えられたことをあかしします。聖パウロもフィリピのキリスト者に向けて述べる
>とおりです。わたしたちは、キリストによって与えられる救いを「恐れおののきつつ」
>守り、あかししなければなりません。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに
>望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何ごとも、不平や理屈をいわずに
>行いなさい。そうすれば、・・・・いのちのことばをしっかり保つでしょう」
>(フィリピ2・12−14、 16参照)。
パウロとヤコブの違いについてはよく分かりませんが、結局同じことを
言っているのです。愛の業が救うのだと。
123: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 11:48:40.45 ID:hOGcOycU0(4/9)調 AAS
>わたしたちはしばしば、コリントの共同体に見られた誤解を抱くことがあります。
>コリントのキリスト者たちはこう考えました。信仰によってキリストに結ばれ、
>無償で義とされたのだから、「すべてのことが許されている」。そこで彼らは
>こう考えました。現代のキリスト者もしばしばそのように考えることがあるように
>思われます。キリストのからだである教会の中に分裂を作り出すことは許されている。
>もっとも貧しい兄弟のことを心にかけずに感謝の祭儀を行うことは許されている。
>自分たちが互いに部分であることをわきまえずに、最高のたまものを望むことは
>許されている、などです。信仰を愛のうちに具体化しないなら、その帰結は破壊的です。
>なぜなら、そのような信仰は、自分自身にとっても兄弟にとってもきわめて有害な、
>専横と利己主義になるからです。
特に問題は見られません。
124: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 13:41:22.18 ID:hOGcOycU0(5/9)調 AAS
>>66
>その反対に、わたしたちは、聖パウロに従って、あらためてこう自覚しなければなりません。
>わたしたちはキリストにおいて義とされました。だからこそ、わたしたちはもはや自分自身の
>ものではなく、聖霊の神殿とされたのです。それゆえわたしたちは、自分のからだと全生涯を
>もって神をたたえるよう招かれています(一コリント6・19参照)。わたしたちはキリストの血
>という高価な代価によって買い取られました。ですから、もしわたしたちのからだでキリストを
>たたえないなら、義とされたことの計り知れない価値を安売りすることになります。実際、
>これこそがわたしたちが「なすべき」、「霊的な」礼拝です。この礼拝についてパウロは
>わたしたちに勧めます。「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして
>ささげなさい」(ローマ12・1)。典礼は主にのみささげるものです。しかし、もしこの
>典礼を兄弟への奉仕とせず、愛のうちに表される信仰としないなら、わたしたちはそれを
>どれほどおとしめることになるでしょうか。使徒パウロもしばしば自分の共同体を最後の審判
>の前に立たせます。そのとき、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
>善であれ悪であれ、めいめいからだを住みかとしていたときに行ったことに応じて、
>報いを受けねばならないからです」(二コリント5・10。ローマ2・16も参照)。
>このように審判を思うことによって、わたしたちは日々の生活の中で自らを顧みなければ
>なりません。
>わたしたちはキリストにおいて義とされました。
これだけでは意味がよく分かりません。
>そのとき、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、
>善であれ悪であれ、めいめいからだを住みかとしていたときに行ったことに応じて、
>報いを受けねばならないからです」(二コリント5・10。ローマ2・16も参照)
最終的にここに戻ってきており、これはこれで正しいと思います。
125: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 13:51:55.14 ID:hOGcOycU0(6/9)調 AAS
義とされることが単純にキリストによって与えられたと理解するなら
それは誤りです。しかし、行いによって得られたというなら正しいでしょう。
義とされるということも、結局「再生」して救われることを意味している
のに他ならないでしょうから、それは「贖罪」「贖う」と関係しますが、
主によって、悪魔、地獄の過大な影響を押し戻されたその自由な環境のもとに
私たちが自らの自由意志で「再生」を果すことです。
私たちが何もしないで主から義とされるということではありません。
ベネディクト16世も「回心」について、あるいは「行い」について
言っておられましたから、同じ理解だとは思いますが、聞く人間によって
義が無償で私たちに転嫁されると誤解することはあるだろうとと思います。
もし無償で私たちに転嫁されると考えるなら間違いです。
127: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 14:37:29.84 ID:hOGcOycU0(7/9)調 AAS
同性愛者は自分の巣に戻りなさい。
ここはあなたがたの来るところではありません。
129(1): 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 17:47:43.26 ID:hOGcOycU0(8/9)調 AAS
>>66
>聖パウロが信じる者に示した倫理は、単なる道徳的教訓ではありません。この倫理は
>わたしたちにとっても現代的な意味をもちます。それは、この倫理がつねにキリストとの
>個人的また共同体的な関係から再出発するからです。それは、聖霊に従った生活のうちに
>この倫理を実現するためです。根本的なのはこのことです。キリスト教倫理は掟の体系
>から生まれるのではありません。むしろそれは、わたしたちのキリストとの友愛が
>もたらすものです。この友愛が生活に影響を及ぼします。
どういうことを仰っているのかよく分かりません。
131(1): 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/22(水) 17:50:35.26 ID:hOGcOycU0(9/9)調 AAS
>もしこの友愛が真実なものであれば、それは、隣人への愛のうちに具体化され、実現します。
>だから、倫理的な堕落は個人の領域に限られません。それは同時に個人と共同体の信仰をも
>堕落させます。倫理的な堕落はこの信仰の堕落に由来するとともに、信仰の堕落に決定的な
>影響を与えます。それゆえ、神がキリストによって与えてくださった和解と、わたしたちに
>対する神の「狂おしい」愛にあずからせていただこうではありませんか。
>だれも、また何ものも、神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです
>(ローマ8・39参照)。この確信のうちにわたしたちは生きます。そして、この確信が、
>わたしたちに、愛のうちに働く信仰を具体的なしかたで生きる力を与えてくれるのです。
同様です。
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