[過去ログ] 主イエス・キリストは父なる神 2014.9.5 (1002レス)
前次1-
抽出解除 必死チェッカー(簡易版) レス栞 あぼーん

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
170: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/27(月) 09:47:50.60 ID:YlDxRMdSG(1/5)調 AAS
(続き)
私は若い人たちに、ぜひとも祈ってほしいと思います。もし両親が信者としての務めを、
義務や社会的訓練からではなくきちんと果たし、自分たちは神において生きていると本当に
考えていれば、普通ならその家庭は子供と一緒にロザリオの祈りを唱えるでしょう。
私はそのような家庭をいくつも知っています。それらの家庭は、本当に子供と共に愛と一致
の中で生きています。もし子供たちがロザリオの祈りは黙想の実践だということをまだ
理解することができず、反復が多くてうんざりするようなら、一連の祈りだけにとどめて
おくべきです。私の場合は聖母マリアに取りなしをお願いしました。マリア様の前で、
子供たちの信仰教育ができていないのは私のせいだということを認め、それでも
マリア様の助けを必要としていることを認めました。息子たちを聖母マリアに捧げ
ましたら、マリア様はすべてのことを行なってくださいました。祈りの生活に彼らを
連れ戻すために、いくつもの奇跡を行ってくださったのです。(中略)
171: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/27(月) 09:50:09.91 ID:YlDxRMdSG(2/5)調 AAS
(続き)
(ネランク):子供たちには、そしてそのあと若者には、いつ頃から、どのように
して聖書を読ませればよいでしょうか?

(ヴァッスーラ):宗教教育をほどこす学校があれば、八歳か九歳になったらすぐに
読ませるべきでしょう。

(ネランク):宗教的な儀式は、とりわけ大人のためのものですが、何歳から
子供たちを連れて行けばよいでしょう?

(ヴァッスーラ):何の儀式でしょう?ミサですか?

(ネランク):たとえばミサです。ミサに連れていくことに意義はあるのでしょうか。
また何歳から連れて行けばよいでしょう?子供たちを強制する必要はありますか?

(ヴァッスーラ):ギリシャ正教の教会では、ミサに出席するのに、年齢は問いません。
赤ちゃんも二歳の乳幼児もいますが、静かにしています。子供ですのでおそらく
聞いているわけではないのでしょうけれど、慣れています。子供たちは次第に慣れて
ゆきます。私はできるだけ早い方がよいと思います。
172: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/27(月) 09:52:01.63 ID:YlDxRMdSG(3/5)調 AAS
(続き)
(ネランク):思春期にあたる十五歳頃になって、若者がひどく反抗的な態度を示す
ようになったら、彼らをそっとしておかなければならない時期はありますか?

(ヴァッスーラ):その子に道理を説き聞かせる必要があります。たとえ学校に反抗しても、
勝手に退校させて、まったく教育を受けさせないようなことはあってはなりません。
両親は、学校へ行くように一生懸命言い聞かせます。それに、祈らなければなりません。
祈りには力があるのですから。反抗している子供のために祈れば、神は結局、私たちの
願いを聞き届けてくださいます。
173: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/27(月) 10:17:40.14 ID:YlDxRMdSG(4/5)調 AAS
(続き)
(ネランク)もっと一般的に言って、まだ学業を続けているか、あるいは終了したばかりの
成人になって間もない若者たちの間では、信仰を棄てることが当たり前のようになっています。
所属する宗派の信仰上の務めを定期的に果たしている若者は十人のうちの一人、あるいは
二十人のうちの一人もいないくらいです。そのような状況にもかかわらず、若者たちに宗教への
関心を持たせようとしている人々に、何かアドバイスをすることは在りますか? 若者たちの
無関心にぶつかるのがふつうです。若者は宗教にまったく無関心でまったく無知です。
どうすれば彼らを引き寄せることができるでしょうか?

(ヴァッスーラ):私は、若い人たちは無知なのだと思います。どちらかというと否定的です。
無知には、否定的な意味が含まれています。なぜなら彼らは、宗教は老人のためのものだという
印象を持っていますから。それはまったく間違っています。若い人たちは宗教は退屈なものだ
と思いこんでいます。とんでもない間違いです。いったん神と出会えば、必ずや、彼らは喜びを
見いだすでしょうから。私たちを最も愛してくださっている御方と出会って、完全に人生が
変わったのを見るのです。ですから神と出会う努力をしなければなりません。
174: 小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF. 2014/10/27(月) 10:30:19.56 ID:YlDxRMdSG(5/5)調 AAS
黙示録講解427イ

アベル・・・仁慈の善
カイン・・・信仰の真理

『エホバはカインの上に、彼が殺されてしまわないように、ある印を付けられた』
エホバは彼を他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な
信仰が先行しない限り与えられることは出来ないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者
たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成する
ような事柄に関わる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または
説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような
働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ない
からである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、
真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。
 このことから『エホバはカインの上に、たれも彼を殺さないように、またたれであれ
彼を殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることが出来よう。
さらに、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、すなわち、信仰を構成しているような事柄に
関わる知識の中にいる者らは ― かれらは『カイン』により意味されている人物または
信仰であるが ― これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために ― 
そのことを彼らは記憶から行うのであるが ― 保持されるのである。
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.041s