[過去ログ] 【悲劇の清朝王女】川島芳子3【男装の麗人】 (1001レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
282
(1): 2009/10/18(日) 17:53:48 0 AAS
>>279
ほいよ!

【改訂版】関係時系列
2004年冬 張ト、祖父段連祥から方おばあさんの話を聞く。段連祥は12月に死去。
     この時渡されたものは浮世絵、獅子像、戦前の雑誌、銀のかんざし、香炉など    
2006年7月 張トが李剛を訪ねて方おばあさんの話をする。 李剛は助手の何景方を呼んで調査を開始する
     (李剛は八天英語培訓学校校長、退職前は吉林省政府の司法部門の 幹部で、芸術学校の校長もしており、そこで張トに調査を依頼されたとしている。
      2005年には何景方と共同で小説を書いている)
2007年8月21日 張トらは、方おばあさんの生前に卵を届けていた農民陳良を訪ね、方おばあさんが確かに存在したという文章を書かせる。
       陳良の文章では方おばあさんは「方麗蓉」であると書かれているが、調査団はこの情報を公表せず
       方おばあさんには名前がないと隠し続けていた。
2007年10月 段連祥の3周忌を前に遺品を整理し、クローゼットの中から手提げ金庫、本などが出てくる
      金庫の中には双眼鏡などがあった。
2008年 李剛と何景方は方おばあさん=川島芳子の資料をあつめて長春市政協文史委員会などに提出
5月7日、長春市で市政協文史委主任凌正凱の司会により「関于川島芳子資料情況的聴証会」が開催される
    市政協副主席、吉林、天津、内蒙古の文史委などが出席。 王慶祥も会議に参加、以降調査団に加わる。
6月28日、王慶祥、天津で開催された「第2回溥儀研究国際学術会議」で方おばあさん説を紹介。
    何景方も会議に参加して発表する。会議に参加していた愛新覚羅徳崇と愛新覚羅兆基が関心を示す。
    徳崇は芳子が生きていたことについて、「そんなことはうちの人間はとっくに知っていたよ」と発言。
    ただしこの時点ではいつ知ったのかなど具体的なことは言っていない。
9月16日、王慶祥が徳崇と電話で会話。もうすぐ「川島芳子生死之謎新証」という本を出版しようとしていることを話すと
    徳崇は1955-56年の冬に芳子が徳崇の家にやってきたと発言。
9月25日、李剛、何景方、王慶祥、張トらは瀋陽の徳崇を訪問。芳子が家に来た当時の状況について尋ねる。
1-
あと 719 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.007s