[過去ログ] 【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッド【擾乱】 (990レス)
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816(1): 2005/08/05(金) 21:54:55 AAS
ところで家康の小姓を務めた古河氏成って、古河公方の末裔なのかね?
三河の土人が名族の人間を小姓にしているとは思えんが、鎌倉公方を連想してしまう・・
817: 2005/08/05(金) 22:05:49 AAS
>>815
一応、将軍は将軍。
信長にも使者は送っていただろうが、だからといって義昭に使者を送らないとも
言い切れない。
どちらを取るのか、という切迫した状況にはないのだから。
地方においては依然として将軍の権威というものは存在していたわけで、信長
を支持するか、義昭を支持するかという構造にはなっていなかったはず。
818: 2005/08/05(金) 22:45:07 AAS
>>816
だ、誰?
819(3): 2005/08/05(金) 22:50:43 AAS
小弓公方の俺が来ましたよ
820: 2005/08/05(金) 22:55:31 AAS
>>819
あぼ〜ん。。。
821: 2005/08/05(金) 23:41:15 AAS
>>819
義明様の顔グラ・・・あの天然パーマっぽいのが好き。
822: 2005/08/06(土) 00:32:13 AAS
>>819
猪突猛進の猪武者ですか?
823: 2005/08/06(土) 03:32:20 AAS
宮原ですが・・・・何か?
824(1): 2005/08/06(土) 16:22:13 AAS
勘合貿易に必要な日本国王印って大内義興が分捕って大内氏にいった後はどうなったんでしょか?
毛利氏?大友氏?何れにせよ国王印があれば足利将軍なんて無視できるんで無かった?
825(1): 2005/08/06(土) 17:13:45 AAS
>>824
細川と中国本土でトラブルやって、その国王印自身が明により無効化されてしまったわけだが。
少なくとも、鞆幕府当時は、日本から明に正式ルートで朝貢することはできなくなっていた。
琉球経由で朝貢しようとしていた島津みたいな大名はいたようだが。
826(1): 2005/08/06(土) 22:08:02 AAS
>>825
ニンポーの乱後も大内は明に遣使してなかったっけか?
827(1): 2005/08/07(日) 00:19:26 AAS
>>826
1523年(大永3)の寧波の乱の結果大内氏が権益を握り、1536年に大内義隆は遣明船派遣を再開する。
で1540年と1549年に大内氏が遣明船を派遣。
1551年(天文20)に義隆が家臣の陶晴賢による謀反で大内氏が滅亡すると、東アジアでは倭寇(後期倭寇)による密貿易が中心となる。
無効にはなってないようなんだが・・・
828: 2005/08/07(日) 01:38:59 AAS
それでも、将軍権威だの日本国王号だのは必要とされていないな。
829: 2005/08/07(日) 02:40:24 AAS
で、何のスレですかここは?
830: 2005/08/07(日) 03:31:06 AAS
>>827
しかし、将軍家が介在する必然性はどこにもないね。
海上交通における何らかの権益に関わっているとも思えない。
831: 2005/08/07(日) 03:39:59 AAS
古河・関宿城は関東における水上交通の要衝。
簗田氏がその利権を握っていたにしても、古河足利家がその権益に不介入だったとは思えない。
関宿は一国に相当する、と氏康も評価していたほどだし。
そのあたり詳しい人はいないかな?
832(1): 2005/08/07(日) 03:51:50 AAS
佐藤博信氏の『古河公方足利氏の研究』で梁田氏の関宿の話アリ
不介入と見て良いと思われ
だから氏康が義氏を鎌倉から関宿に入れ、梁田氏を関宿から古河に移して
関宿の利権を北条が奪ったとさ
833: 2005/08/07(日) 07:28:15 AAS
古河が梅で有名になったのも江戸時代以降だしな。
古河が陸の商業拠点として、関東では比較的栄えていた城ではあるらしい。
もっとも、当時の関東での話なので、たかが知れているが。
834: 2005/08/07(日) 08:32:51 AAS
鎌倉公方時代の収入ってどれぐらいだったんだ?
資料とか見ても、個人所有としての荘園はあっても直轄地とされたような地域もないようだし。
835(1): 2005/08/07(日) 09:34:58 AAS
>>832
なるほど。
関宿に傀儡を押し込んで利権を確保したわけね。
836: 2005/08/07(日) 19:54:26 AAS
>>835
上杉謙信が関東への関心を失った時点で簗田氏の命運も尽きたわけだが、
第三次関宿合戦にて関宿城が落城、簗田氏(持助)が水海城に退いたことで、簗田氏は古河公方に
対する影響力を失い、北条氏に取り込まれてしまったと。
837(2): 2005/08/07(日) 20:07:42 AAS
簗田氏は幕府の御番帳に登場していないし、勢力としては関東公方府に限られてるんでしょ?
838(1): 2005/08/07(日) 22:09:36 AAS
>>837
成氏の生母が簗田氏の出身。
満助が公方の外祖父となってからでしょう。影響力を持つようになったのは。
その意味では鎌倉府以来の奉公衆ともちょっと毛並みが違う。
839: 2005/08/07(日) 22:24:47 AAS
外部リンク[html]:fc2bbs.com
この問題解いてみて?皆さんも頑張ってみてください
解ければすごい ヒント:真ん中の何かの位置が変
840(2): 2005/08/08(月) 01:07:39 AAS
上杉禅秀の乱で良助が活躍し、良助の子・満助が下総国下河辺庄に所領を得たことが大きい。
同地は鎌倉府の御料所があった地であるし、その中心地である古河を公方が根拠地とした。
これに血縁が加われば、影響力を持たないわけがない。
841: 2005/08/09(火) 21:45:38 AAS
>>838
ということはその後も交配率が高いと。
842: 2005/08/10(水) 13:07:19 AAS
>>840
江ノ島などもかつては鎌倉府の御料所だったんだけどね。
843(1): 2005/08/11(木) 14:38:37 AAS
>>840
まさに古河公方の栄枯盛衰と共にあったのが簗田氏だったのね。。
844: 2005/08/11(木) 14:43:54 AAS
>>837
のぶやぼでは国人衆として登場してますなw
845(2): 2005/08/12(金) 06:41:37 AAS
>>843
古河公方が簗田にのっかっていただけ、と見ることもできるかもな。
関東は家臣のほうが力を持っても担がれ続ける例がそれなりにあるし。
千葉とか扇谷上杉とか。
846: 2005/08/13(土) 07:57:31 AAS
>>845
んなモン、当たり前でしょうが。
847(1): 2005/08/17(水) 09:04:50 AAS
のぶやぼに出てくる簗田晴助ってけっこう使えるね☆
848(1): 2005/08/18(木) 09:17:41 AAS
>>847
実際、関宿で北条の北進を阻止し続け、古河公方内における影響力を保持し続けた。
その点では評価が高いのは当然のこと。
849: 2005/08/18(木) 16:43:21 AAS
>>848
地味な実力者。。。
850(3): 2005/08/18(木) 20:14:34 AAS
幕末に斉昭の子供が養子に入った時点で、関東公方の血筋も完全に断絶?
過去に喜連川から他家に養子に行った例ってないの?
851(1): 2005/08/19(金) 06:53:59 AAS
>>850
喜連川・・・半端だな。足利を名乗らんかい!と思うのは俺だけ???
852: 2005/08/19(金) 11:08:16 AAS
>>851
徳川政権下でっせ。
そりゃ憚ってのことでしょ。
明治維新後、足利に復姓してるし。
853(1): 2005/08/19(金) 11:12:17 AAS
宮原あたりは存続してるから、ここらへんが血筋としては古河宗家に近いんだよね
854: 2005/08/19(金) 12:24:52 AAS
>>853
宮原さんは今、神主さんをやってるそうです。
855: 2005/08/19(金) 12:52:42 AAS
宮原氏の祖・足利晴直ってどこでなにやってたの?
856: 2005/08/19(金) 13:43:16 AAS
次スレのテンプレですが、サーバ移転にご注意願います。
堺公方〜阿波(平島)公方について語るスレ
2chスレ:warhis
【山名・里見】新田一門総合スレ2【岩松・得川】
2chスレ:warhis
857(1): 2005/08/19(金) 17:29:06 AAS
>>850
女系から何度か再生させてはいるけどな。
宮原家からも2回ほど養子が入っているが、最終的には水戸徳川家の血筋。
858: 2005/08/19(金) 17:34:25 AAS
>>850
ここで調べてみてね!☆
外部リンク[htm]:homepage1.nifty.com
859(1): 2005/08/20(土) 10:37:15 AAS
>>845
最後は没落しながらも幕臣ですからね<簗田氏
860(1): 2005/08/21(日) 04:41:09 AAS
>>859
持助の子、孫?は大坂の陣で討ち死にしてますな。
で、一人残った娘が家光に御家再興を願い出て受理されたとか。
861: 2005/08/21(日) 17:08:30 AAS
>>860
貞助、助吉父子ね。
862(2): 2005/08/21(日) 18:22:56 AAS
簗田氏系図には
「水海主 貞助 初助利ト云、平七郎、奉仕東照宮、元和元卯五月七日、於大阪父子討死ス」
とあるね。
親子揃って討死したために男子がなく廃絶となるところだったが、貞助の娘の子・助政の時に
再興が許されている。
なお、助政は旗本(留守居役与力)として明治維新まで続き、維新後は帰農した。
863: 2005/08/22(月) 06:13:26 AAS
>>862
しかし、なかなかの没落ぶりだね
864: 2005/08/22(月) 14:30:58 AAS
>>862
大阪の陣の前で既に家禄1,000石だったよな?
最終的にどこまでリカバリーできたのやら。
865(1): 2005/08/22(月) 15:05:55 AAS
>>857
今川家なども明治期に血筋が絶えてしまったな。
あちらも確か養子が何度か入っていたように思う。
866(2): [age] 2005/08/22(月) 19:48:30 AAS
>>865
庶流の品川家は続いていたように思うが。
867(1): 2005/08/22(月) 20:17:31 AAS
>>866
よく読め。
明治になってから断絶した。
華族の品川家は、薩摩藩士出身で、今川とは関係ない。
868(1): 2005/08/23(火) 07:17:58 AAS
>>867
はあ?
華族かどうかなんて問題にしてないが。
薩摩藩士のそれは品川弥二郎のことだろ?
ここで言う品川家というのは高家・品川家のこと。
今川氏真の次男・高久を祖とする石高300石の高家。
知らないのか?
869(1): 2005/08/23(火) 07:20:11 AAS
>>868
明治時代に直系が絶えたのは確かだぞ。
もちろん傍系はいるにしても、戦国今川家は完全に滅亡した。
その点、織田家は次期当主がフィギュアスケートで活躍中だが。
870(2): 2005/08/23(火) 07:26:02 AAS
>>869
今川家直系は確かに明治時代に無嗣断絶している。
>>866が述べた品川家の存在というのは、喜連川足利家に対する宮原家のようなもの。
そちらは血統が続いているのではないか?というのが>>866のレス。
ちなみにスレ違いになるが、スケートの織田クンはどの系譜に属するのかな?
871(1): 2005/08/23(火) 07:28:31 AAS
>>870
ここで聞いたら?
織田常真・有楽斎
2chスレ:warhis
872: 2005/08/23(火) 11:39:38 AAS
>>871
ネタスレやんけwww
873(1): 2005/08/23(火) 13:11:22 AAS
次回はもしも武田信玄があと一年長生きしたら。
874: 2005/08/23(火) 14:18:53 AAS
>>873
意味不明。
875(1): 2005/08/23(火) 14:36:19 AAS
>>870
【品川家歴代当主】
品川高久(1576〜1640)
品川高如(1611〜1671)
品川伊氏(1668〜1712) ※松平重治(高如長男)の次男
品川範増(1711〜1713)
品川信方(1683〜1749) ※松平重治(高如長男)の四男
品川氏如(1731〜1780)
品川氏長(1763〜1788) ※前田長敦の三男
品川氏維(???? 〜 ????) ※竹中定弘の次男
品川高美(1767〜 ????) ※松平近朝の次男
品川言氏(???? 〜 ????)
品川高尚(???? 〜 ????)
品川氏繁(???? 〜 ????)
品川氏恒(???? 〜 ????)
品川信 (1924〜1942)
品川氏清(1891〜1947)
品川氏茂(1918〜1994)
品川修
なお、品川家の現当主・修さんは都内で自転車屋を経営しているのだとか。
876(1): 2005/08/23(火) 15:38:13 AAS
>>875
高家から自転車屋・・・・
877: 2005/08/23(火) 16:28:16 AAS
>>876
そんなのザラですがな。
俺の先祖も小身の旗本だったが、維新後、屋敷ほかを処分して帰農。
その点では簗田家と似てる。
幸いに農地改革にも引っ掛からず事なきを得たものの、そんな程度だっての。
878(2): 2005/08/23(火) 17:43:15 AAS
【氏真以降の今川家当主@】
今川氏真(1539〜1614)
※正室:北条氏康女
※実子:範以、品川高久、西尾安信、澄存、吉良義定室
今川範以(1570〜1607)
※正室:吉良義安
※女、直房、西尾以庸、大友義親室、吉良義弥室
今川直房(1594〜1661)
※正室:立花宗茂養女
※実子:範明、範興、大久保忠高室、松平勝広室
※養子:氏堯(吉良義弥の子・岡山弥清の長子)
今川氏堯(1642〜1673)
※正室:土井利重女
※養子:氏睦(品川高寛の長子)
今川氏睦(1668〜1699)
※正室:北条氏平女
※養子:範高(品川伊氏の長子)
今川範高(1694〜1712年)
※正室:畠山義寧女
※実子:山岡景之室
※養子:範主(品川伊氏の次子)
879(1): 2005/08/23(火) 17:44:14 AAS
【氏真以降の今川家当主A】
今川範主(1698〜1754)
※正室:なし(側室2人あり)
※実子:紅影童女(早世)、峻嶺院、範彦、松平勝文、 赤井林幸室
西尾義泰、稲垣正庸室
今川範彦(1716〜1749)
※正室:秋月種輔の次女
※養子:義泰(今川範主の三子)
今川義泰(1729〜1784)
※正室:喜連川茂氏女(後に離縁)、盛寿院(後妻)
※実子:義彰
今川義彰(1756〜1818)
※実母:盛寿院
※正室:小笠原政方女
※実子:義用、男、女、女、女
※養子:瀬名貞如女
今川義用(1786〜1839)
※実子:義順、西尾治左衛門
今川義順(1809〜1840)
※実子:竜王丸、彦丸、範叙
今川範叙(1828〜1887)
※正室:肥前平戸藩松浦家女
※実子:今川淑人、せん、女
今川淑人(1854-1872)
880: 2005/08/23(火) 17:45:48 AAS
>>878-879
なお、高家今川家初代は氏真の孫・直房とされている。
881(1): 2005/08/23(火) 18:17:27 AAS
乙。
西尾治左衛門の子孫が男系では今川宗家にもっとも近い血縁ということになりますね。
本題からずれるが、現代において過去に嗣子なく絶家した家を興すことは可能なのかな?
例えばさっきの西尾の子孫が、「今日から今川を名乗ります。淑人の名跡を継ぎますから!」
といって戸籍を変えられるのかな?戸籍だと家裁か、どーなんだろ。
882(1): 2005/08/24(水) 08:39:18 AAS
>>881
考えたことないが、養子縁組ができないと厳しいんじゃないか?
故人の養子になるというのは聞いたことがない。
883: [age] 2005/08/24(水) 09:18:49 AAS
>>878
大友義親も無嗣断絶になっている。
大友家は義親の叔父・松野正照の子、義孝(近江守)によって再興されている。
よって大友家に今川家の血筋が入ったという事実はない。
884: 2005/08/24(水) 10:49:51 AA×
![](/aas/warhis_1109516196_884_EFEFEF_000000_240.gif)
885: 2005/08/24(水) 10:50:47 AA×
![](/aas/warhis_1109516196_885_EFEFEF_000000_240.gif)
886: 2005/08/24(水) 10:52:23 AA×
![](/aas/warhis_1109516196_886_EFEFEF_000000_240.gif)
887(2): 2005/08/24(水) 10:53:38 AA×
![](/aas/warhis_1109516196_887_EFEFEF_000000_240.gif)
888: 2005/08/24(水) 11:09:46 AAS
横レス失礼
>>882
旧華族には死後の養子がに認められているし
現在一般人でも裁判で改姓して家を継ぐのは珍しくないですよ
889(1): 2005/08/24(水) 19:26:34 AAS
西尾治左衛門ってだれ?
890: 2005/08/25(木) 13:27:15 AAS
徐々に生殖能力が弱まってるなぁ。
891(1): 2005/08/25(木) 13:50:20 AAS
>>887にある喜連川紀氏が窮状に耐えかねて逃亡した公方様ね?
892(1): 2005/08/25(木) 14:03:25 AAS
喜連川聰氏の実子はいなかったのかな。宮原からの入嗣で足利系でせっかく維新を迎えたのに
水戸から於菟丸が入るとはな・・・
893(2): 2005/08/26(金) 10:15:36 AAS
>>892
水戸徳川家との絡みがあるから、嗣子がなければ水戸徳川家から迎えるのが
妥当な判断だろう。
894(1): 2005/08/28(日) 14:40:27 AAS
>>893
足利家を悪者に仕立てないと徳川家が立たなかったわけだしな。
895: 2005/08/28(日) 14:47:09 AAS
>>889
今川義用の諸子だが?
896: 2005/08/28(日) 16:44:35 AAS
>>893
縄氏は慶応4年に一度、同盟軍との内通を家臣から疑われたことがあったな。
897: 2005/08/28(日) 23:29:00 AAS
薩長と???
898(1): 2005/08/28(日) 23:36:02 AAS
>>894
それがなければ、世を憚って喜連川と名乗らなくても良かったのでは?とも思うが、
喜連川改姓ってのは徳川政権下でのことなの?
豊臣政権の時に既に喜連川に所領もらってるわけでしょ?
899: 2005/08/29(月) 00:26:05 AAS
>>898
喜連川領は秀吉時代に拝領となっているよな。
徳川家(新田流)を憚ったにしては若干、タイムラグがあるような・・・
900(1): 2005/08/29(月) 00:31:10 AAS
>>891
藩主としてはカウントされていない模様。
901(1): 2005/08/29(月) 09:35:38 AAS
>>900
極貧に嫌気が差して逃げちゃったからねぇ・・・
902: 2005/08/29(月) 09:44:15 AAS
>>901
いかにも細川家っぽい幕引きですね(w
末裔にもそんな方がいたように思います。
あれは一体何だったのでしょうか。
903: 2005/08/29(月) 10:46:52 AAS
喜連川宜氏の実父・細川孝応は、肥後宇土藩主・細川興文の庶子。
実兄・斉茲が肥後熊本藩主(第8代)となっており、この斉茲の孫で10代藩主と
なったのが紀氏(離縁後、長岡護美)の実父・斉護。
後の内閣総理大臣・細川護熙は、
斉護−韶邦−護久(韶邦弟)−護成−護立(護成弟)−護貞−護熙
と繋がってくる。
904(1): 2005/08/29(月) 11:28:42 AAS
公方様ってどんな格好してたのかな?
時代劇に出てくる高家の人みたいな髪型、衣体だったのかな?
905: 2005/08/29(月) 18:22:00 AAS
>>904
まろ、とか言ってたのかねえ?
906(6): 2005/08/29(月) 20:08:25 AAS
外部リンク[htm]:www4.plala.or.jp
殿様逃亡す(2002.09.23)
栃木県に喜連川(きつれがわ)という小さな町がある。
鮎釣りが名物の長閑な町だが、この町には独特な歴史がある。ここに江戸時代「もう一つの幕府」が
存在していたのである。
室町幕府の滅亡後、足利将軍家の名跡を継いだのは、関東に派遣されていた一族だった。この一門
は古河を本拠とし古河公方と呼ばれたが、戦国時代の争乱で北条氏に破れ没落した。
豊臣秀吉は全国を平定すると、古河公方の末裔である足利国朝に下野喜連川を領地として与え、国
朝は家名を喜連川氏に改めた。喜連川家は徳川幕府の下でも由緒ある名族として高家に任じられ、
参勤交代も免除されるという異例の厚遇を受けた。喜連川藩の中では藩主を「御所と呼んだというか
ら、喜連川藩は小さな幕府だったのだ。少なくとも、彼ら自身の意識では。
(中略)
せこい稼ぎにも限界がある。幕末になると喜連川藩はいよいよ財政がにっちもさっちもいかなくなり、
婿養子作戦で切り抜けることにした。豊かな藩から養子を入れて持参金をせしめようというのだ。
こうして足利氏の家来筋にあたる肥後細川家から迎えたのが十一代目の喜連川宜氏。まだ十代の
若殿だったが、この貧乏藩にはたちまち根をあげた。しかも江戸幕府すら屋台骨が揺らいでいる風
雲の時代だというのに、この藩では未だに公方様とか言って室町幕府ごっこをしているのだ。こんな
とこにいても時代に置いてかれる一方じゃないか。自分の可能性は他にあるんじゃないか?
悩める青春してしまった若き殿様は「山間の小天地に骨をうずめられようか」と書置きを残すと出奔
した。藩主の家出なんて古今東西、前代未聞の椿事だ。慌てた家臣たちは藩主の逃亡を阻止せん
と追跡し、殿様を見つけて藩に連れ戻した。飲食宿泊の支払を全部小判で払おうとしたので足がつ
いたというから、やはり殿様育ちであった。ともあれ、こういう具合じゃ藩主はやはり勤まらないと、
宜氏は細川家に還された。
まるで漫画みたいなドタバタ劇だが『喜連川町史』に記される史実である。
907: 2005/08/29(月) 21:23:17 AAS
>>906
既出ネタですね。
908: 2005/08/29(月) 23:40:32 AAS
>>906
>「山間の小天地に骨をうずめられようか」
確かに山間だけどさぁ……
909(1): 2005/08/30(火) 00:20:16 AAS
>>906
「室町幕府の滅亡後、足利将軍家の名跡を継いだのは、関東に派遣されていた一族だった」
とあるが、将軍家と関東足利家はもはや別物だろう。
国朝は義昭の名跡まで継いだのではないし、あくまで関東足利家の名跡しか継いでいない。
厳密に言えば、小弓流がその座についたのは氏姫、頼氏の没後のこと。
頼氏の孫・尊信が鴻巣館を引き払い、喜連川陣屋に移った寛永7年(1630年)以後と考える
べき。
それまでは喜連川領には小弓系の家臣団が、鴻巣領には古河系の家臣団がおり、これら
の統合を以て漸く小弓系が関東足利家を継いだと見るのが妥当ではないか。
910(1): 2005/08/30(火) 01:22:48 AAS
>>906
宜氏じゃなくて紀氏じゃないの?
911(1): 2005/08/30(火) 02:28:06 AAS
表高5,000石(実高10,000石という説もある)で士族171戸というのは少々バランス悪いよね。
しかも10万石の格式となると出費もかさむ。
こりゃ、確かに頭を抱えたくもなるわ。
912: 2005/08/30(火) 12:08:10 AAS
>>909
生涯、別居生活というのも凄いね。
まあ、昔は物珍しくも無かったのだろうけど。
913: 2005/08/30(火) 13:15:22 AAS
>>911
そこで観光業で食いつないでいたわけでしょ?
涙ぐましいけど微笑ましい。
914: 2005/08/30(火) 13:30:10 AAS
>>906
懐かしの「プチばく〜ふ!」ネタかいなww
915(2): 2005/08/30(火) 15:11:56 AAS
>>910
確かに>>906は宜氏ではなく、紀氏(=長岡護美)であると思われる。
紀氏は喜連川藩10代藩主・熙氏の女婿として喜連川家に入ったが、
「良之助様(=長岡護美の幼名)御事喜連川様江御聟養子并御出府御引越」が弘化3年(1846年)
のこと。
そして「良之助様御養子御破断若殿様御一同御国許ニ御下」と婚姻が破談になったのが安政5年
(1858年)のことなので、時期的には熙氏の存命中の出来事。
対して、>>906に登場する宜氏の生没年は天保2年(1831年)〜文久2年(1862年)。
宜氏の藩主としての在任期間は、熙氏が死去した文久元年(1861年)から同2年の僅か1年余に
過ぎず、宜氏の死去を受けて水戸徳川家から縄氏が後嗣に入っている。
したがって、話の流れとしては、弘化3年(1846年)に熙氏が女婿に肥後熊本藩主の細川斉護の
子・紀氏(護美)を迎えたものの、>>906のような理由から藩主を継職するに相応しくないと判断さ
れて安政5年(1858年)に離縁となり、その後に肥後宇土藩所縁の宜氏が迎えられたと。
なお、長岡護美(1842年〜1906年)は後年、長岡家(細川家分家)当主として子爵になっている。
916(1): 2005/08/30(火) 15:30:10 AAS
>>887
宮原方斎って何者?
917: 2005/08/30(火) 15:41:49 AAS
山キ 茶角ghtggたさdfgfひじょくゆ゙
918: 2005/08/30(火) 22:16:15 AAS
>>916
宮原義直と言われているね。
919: 2005/08/31(水) 03:09:27 AAS
>>915
辻褄は合ってますね。
920: [age] 2005/08/31(水) 11:54:17 AAS
>>915
その後の護美の動きを見ると、離縁となり、細川家分家というポジションに身を置けたことは
幸いだったんじゃないかな。
足利家の御末裔じゃねぇ・・・
921(1): 2005/08/31(水) 13:39:43 AAS
家康側室の於六の方が、家康没後、喜連川家に入ったというのは本当?
それとも俗説?
922: 2005/09/01(木) 12:19:59 AAS
>>921
そのあたり家譜は存在しないのかねぇ?
923(1): 2005/09/01(木) 12:29:57 AAS
権現様が死んだら側室なら尼になると思うが・・・
924(1): 2005/09/01(木) 12:42:25 AAS
>>923
権現様が没した時にはまだ二十歳そこそこでしょう。
他の側室たちは落飾したけれど、お六と阿茶だけはNG出されたらしい。
925(1): 2005/09/01(木) 12:49:54 AAS
>>924
いやいや、家康の没後、一度は髪を下ろして養儼院と号しているんだけどね。
田安の比丘尼屋敷に住まいしていたけれども、あまりに若かったので還俗して喜連川義親に嫁している。
926(1): 2005/09/01(木) 13:44:48 AAS
日光東照宮を参詣していた際、割れて飛んだ香炉が当たって頓死・・・・哀れ・・・・
927(1): 2005/09/01(木) 16:07:19 AAS
墓所は栃木県日光市にある養源院。東京の伝通院にも墓碑がある。
但し、養源院は明治の廃仏毀釈運動の際に廃寺になっており、養源院の墓だけが跡地に残されている。
何故か喜連川家代々の菩提寺にはその痕跡がないというのも不思議だが。
928(2): 2005/09/01(木) 17:06:19 AAS
>>925
お六の還俗、喜連川家輿入れは秀忠の意向とも言われているな。
榊原康政の養女として輿入れしたとの説も。
929(3): 2005/09/01(木) 19:16:53 AAS
>>928
それは違う。
榊原康政の養女として喜連川義親に嫁いだのは花房(榊原)職直の姪。
ちなみに康政の子・康勝の生母も花房氏の出身。
花房氏は職之の時、御家騒動で宇喜多氏を退去して佐竹氏の食客となっており、関が原の役では
家康の従った。役後、旗本として備中国にて8,220石を与えられている。
職直は職之の二男にあたり、榊原康政の取り次ぎで家康に拝謁し、榊原姓を与えられている。
職直は上総国山辺郡2,500石を領して長崎奉行を務め、家光から出島の築造を命じられてもいる。
島原の乱の際の軍律違反を咎められて失脚したが、後に赦免され、近江水口城番となった。
930: 2005/09/01(木) 19:17:31 AAS
きょじょ叩きがあってますが彼が何をしたのですか?
何もしてないのに疑われる。こんなことがあっていいのでしょうか?
今後三戦板の再興にはきょじょさんの力が必要です。
みなさん彼を信じてあげてください。お願いします。
931: 2005/09/01(木) 22:26:33 AAS
>>926
どういう当たり方すりゃそうなるんだ?
932: 2005/09/01(木) 23:11:21 AAS
>>929
けっこう地味に歴史的な場面に登場してるのね・・・出島なんて。
933: 2005/09/02(金) 11:31:03 AAS
>>927
おそらくそこが婚姻そのものに「?」を付けられるポイントなのでは?
934: 2005/09/02(金) 13:07:50 AAS
そもそも権現様の側室を後添えにもらったのであれば、記録くらい残りそうなものだけどね。
少なくとも喜連川足利家の記録には残るでしょう。
日光でお六が急死したのは事実だろうけど、香炉が当たって頓死というのは「あまりにも若く、
突然過ぎる死」と「権現様の側室から喜連川侯の後室に」というややタブーな展開が作り出し
た俗説なんじゃないかと。
935: 2005/09/02(金) 21:09:19 AAS
>>929
義親室・松月院(榊原康政養女)の没年は1612年。
ということは家康存命中。
完全にお六と別人と見て間違いない。
936(1): 2005/09/02(金) 22:43:19 AAS
ネタ的には北条氏隆&蔭山氏広と繋がるお万、太田道灌と繋がるお梶もOK?
937(1): 2005/09/03(土) 22:17:37 AAS
>>936
蔭山氏広ってアンタ・・・・俗説でしょ、ぞ・く・せ・つ。
938: 2005/09/04(日) 00:49:12 AAS
>>937
持氏の子孫と自称してるけどね。
しかし、生没年も生母も定かじゃない。言ってみるもんだ、というレベルか?
939(1): 2005/09/04(日) 09:49:47 AAS
次スレ
2chスレ:warhis
940: 2005/09/04(日) 10:39:29 AAS
ちょっと早くないか?
941(1): 2005/09/04(日) 15:31:31 AAS
>>939
テンプレ修正しろよ。
日本語としておかしいだろ。
過去ログも鯖変わってるしな。
住人にお伺いを立ててからやれよ。
942(2): 2005/09/04(日) 15:46:50 AAS
>>941
>>1
>足利基氏以来、関東の地にあって常に関東擾乱の主役であり続けた
これは確かにおかしいね。
普通なら、「足利基氏以来、関東の地にあって常に擾乱の主役であり続けた」だろうね。
何にも考えずにやったんだろうな。
足利スレは将軍スレ以来、協調が基本。
テンプレも手直ししながら作ってたし。
それと関連スレだけど、移転につき
●関連スレ●
堺公方〜阿波(平島)公方について語るスレ
2chスレ:warhis
【山名・里見】新田一門総合スレ2【岩松・得川】
2chスレ:warhis
が正解。
いい加減なお仕事されちゃったな、というのが正直な感想。
史板厨に荒らされて「滅亡した」一門スレを思い出すよ。
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