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【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
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2005/04/19(火) 17:46:25
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581: 580 [] 2005/04/19(火) 17:46:25 その後、光俊は豊臣秀吉に仕え、関白秀次に属した。これが災いして秀次が秀吉によって没落する と、光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目にあい、光俊は信楽に蟄居した。このとき、 光太も父と行動をともにしている。 慶長元年、光太は家康に召し出されて、近江国甲賀郡のうちに三千八百石の采地を賜った。同五年、 上杉景勝征伐にも随行、下野国小山において、采地の御判物を下賜されている。九月、関ヶ原の合 戦に参加し、その後代官職を務め、大坂両度の陣にも出陣した。 以後、子孫は徳川旗本家として存続、明治に至った。 多羅尾家の家紋は、近衛家ゆかりの「牡丹」紋であった。そのほか、「藤巴」「牡丹菱」なども用いて いたことが知られている。 http://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1094889257/581
その後光俊は豊臣秀吉に仕え関白秀次に属したこれが災いして秀次が秀吉によって没落する と光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目にあい光俊は信楽に居したこのとき 光太も父と行動をともにしている 慶長元年光太は家康に召し出されて近江国甲賀郡のうちに三千八百石の采地を賜った同五年 上杉景勝征伐にも随行下野国小山において采地の御判物を下賜されている九月関ヶ原の合 戦に参加しその後代官職を務め大坂両度の陣にも出陣した 以後子孫は徳川旗本家として存続明治に至った 多羅尾家の家紋は近衛家ゆかりの牡丹紋であったそのほか藤巴牡丹菱なども用いて いたことが知られている
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