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【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
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482: 477 [sage] 05/02/20 03:02:14 〜鯖の道〜 谷筋の街道には関所が置かれ、高島関といわれたようであるが、今日その場所は明らかでない。 長享3年(1489)幕府は朽木氏を関の代官に任じたが、なぜか朽木氏は断った。しかし,朽木氏 も京都へ出る場合は、関を通過しなければならなかった.延徳2年(1490)・明応6年(1497)・ 永正3年(1506)などに、朽木氏の被官人500・馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合、その通 過に差し障りがないようにと、幕府が各関所へ命じている。なお、この街道の往来について、「朽木 文書」の「庄下用帳」は京都へ上京する商人が通るとか、車54台に積んで貝鮑が京へ行くとかいっ たことまで記している。この街道が俗に「鯖の道」と呼ばれたのは、若狭からの海産物が、盛んに運 ばれた結果であろう。 〜惣村と支配〜 中世末期になると、朽木荘には荒川・麻生・市・村井・椋川・地子原・雲洞谷・栃生といった多くの 惣村が成立した.これらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったが、その下に は中間と呼ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた。16世紀の初め頃の荘内各惣の10〜4 0軒の家から棟別銭を取り立てた。時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした。永正元年(15 04)に小川惣・平良惣が、椋川惣・荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの祈誓文などが残って いる。朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが、一方「奥畑炭かま銭」「商人銭」「馬宿銭」と いったものを課しながら、林業・商業・交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めていった。 しかし、針畑住民などが、能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた。 http://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1094889257/482
鯖の道 谷筋の街道には関所が置かれ高島関といわれたようであるが今日その場所は明らかでない 長享3年1489幕府は朽木氏を関の代官に任じたがなぜか朽木氏は断ったしかし朽木氏 も京都へ出る場合は関を通過しなければならなかった延徳2年1490明応6年1497 永正3年1506などに朽木氏の被官人500馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合その通 過に差し障りがないようにと幕府が各関所へ命じているなおこの街道の往来について朽木 文書の庄下用帳は京都へ上京する商人が通るとか車54台に積んで貝が京へ行くとかいっ たことまで記しているこの街道が俗に鯖の道と呼ばれたのは若狭からの海産物が盛んに運 ばれた結果であろう 惣村と支配 中世末期になると朽木荘には荒川麻生市村井椋川地子原雲洞谷栃生といった多くの 惣村が成立したこれらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったがその下に は中間と呼ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた16世紀の初め頃の荘内各惣の104 0軒の家から棟別銭を取り立てた時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした永正元年15 04に小川惣平良惣が椋川惣荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの祈誓文などが残って いる朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが一方奥畑炭かま銭商人銭馬宿銭と いったものを課しながら林業商業交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めていった しかし針畑住民などが能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた
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