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【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 http://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1094889257/
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125: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 04/09/30 00:23:28 http://www.m-network.com/sengoku/ieyasu/kaminogou.html 服部半蔵はその初陣とされる宇土城攻めにおいて、『寛政重修諸家譜』に「正成十六 歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを 賞せられて御持鎗(長七寸八分両鎬)を拝賜す」とあるのだが、正成十六歳といえば弘 治三(1557)年のことで、このとき家康(当時は松平元康)はまだ今川義元の元に人質と して存在し、しかも当時の宇土城主鵜殿長持は今川方に属していたことから、話が何 かかみ合わない。 半蔵は一体誰から槍を「拝賜した」のであろうか? ちなみに宇土城落城は永禄五(1562)年のこととされている(永禄六年説もある)ので、 仮にこの戦いが実際に行われて半蔵が活躍したとしても、落城には至っておらず、ま た家康の命で働いてはいないことになる。 さらに記すと、家康(当時は松平元康)は永禄三年二月、戸田三郎四郎と牧野伝蔵を 近江に派遣、多羅尾光俊等甲賀二十一家の衆二百名を集めたという。ただし、これは 今川方に属していた家康の戦闘要員としてである。そしてこれら甲賀衆は、桶狭間の 戦いで今川義元が討たれた後も鳴海城の岡部美濃守長教の手に属し、水野藤十郎 (藤九郎とも)信近を刈谷城に攻め、門に放火するなどして奮戦、遂に信近の首を挙げ ている。 さて今川家から独立した永禄五年三月、家康は松井左近忠次(松平康親)を大将に命 じて今川方鵜殿長持の拠る上郷城を攻撃させた。忠次は城の北西名取山に陣を敷い て攻めようとするが、守りは堅くなかなか攻めきれない。そこで、忠次もまた家臣の勧 めで甲賀から伴与七郎資定ら八十余名を招き、これら忍びの者を使って放火攪乱させ るという夜襲をかけ、ついに城を落としたとされている。しかし、服部半蔵の名はこの記 録にも見られない。 城主長持は城の北にある護摩堂を目指して敗走中に、伴資定に追い付かれて突き伏 せられ、首を取られたという。また、子の藤太郎長照・藤三郎長忠兄弟は伴伯耆守資 継に生け捕られ(鵜飼孫六説もある)、駿府に人質となっていた家康の妻子との交換が 行われることはよく知られている。しかし、落城日時にも異説があり、城主を長照とする ものもあって、現時点でははっきりと断定することはできない。 http://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1094889257/125
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