[過去ログ] 【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
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353(1): 04/11/22 23:14:52 AAS
>>352
織田裕二主演の『ベスト・ガイ』でも航空自衛隊が渋〜く協力してました。
354(1): 04/11/23 03:40:41 AAS
>>352-353
まあ、PRは大事ですからね・・・・
355(1): 04/11/24 00:39:30 AAS
>>354
伊賀上野に行く電車なんてもろに忍者のPRじゃん
356: 04/11/24 02:51:00 AAS
>>355
忍者列車だろ?
357(1): 04/11/25 02:42:03 AAS
>>347
天草四郎はやっぱりジュリーだろ?
358(1): [age] 04/11/26 04:55:41 AAS
>>357
ジュ、ジュリーってさぁ・・・・
359(1): 04/11/30 03:44:15 AAS
>>358
樹木希林か?
360: 04/11/30 04:31:07 AAS
>>359
『影の軍団』では風呂屋の女将さんの役とかやってたね。
必ず半蔵に絡んでくる役どころ。
361: 04/12/01 21:52:31 AAS
すっかりジャパン・アクション・クラブに乗っ取られますた。。。。
362(1): 04/12/01 22:21:56 AAS
手裏剣の話おしえて。
363: 04/12/01 22:33:31 AAS
今展示されてる手裏剣で
「名忍者御用達」とか書いてあるやつの大半はヘボ忍者御用達or創作
と当たり前のことを言ってみる
364: 04/12/02 00:50:49 AAS
>>362
大杉漣は棒手裏剣やってるそうです。
365(1): 04/12/03 15:47:30 AAS
北斗白影
366(1): 04/12/03 17:30:33 AAS
>>365
甲賀忍者の里の忍頭さんね。
外部リンク[htm]:takigumi.fc2web.com
367(1): 04/12/03 17:57:58 AAS
>>366
「甲賀流忍者軍団 瀧組所属 白龍隊 忍頭 瀧十二神将軍一党」って・・・・
368(1): 04/12/03 18:19:46 AAS
>>367
甲賀衆ってただの土豪集団ですから〜っ!!!!残念!!!!
369(1): 04/12/05 16:48:59 AAS
>>368
そうだよね。
佐々木六角氏から自治を認められる代わりに、軍役を負担していた地侍集団だからな。
いつから忍者になったんだ?
370(1): 自治スレッドより重要なお知らせ(至急) 04/12/05 16:50:46 AA×
2chスレ:warhis
371(1): 04/12/06 04:14:48 AAS
>>370
この告知が入る基準って何なの?
372: 04/12/07 19:07:02 AAS
>>371
ゲーム厨スレ
373(3): 04/12/07 19:12:20 AAS
ここに羽黒流について知っている人いる?
なんか、うちの地元の石碑に羽黒とか書いてあるんだが
ちなみに秋田の県南です
374: 04/12/07 23:23:47 AAS
ここは忍者スレではありませんと何度言えば(ry
375(3): 04/12/10 03:14:47 AAS
>>373
羽黒流って山形県ですよねぇ?確か。
376(2): 04/12/10 04:03:33 AAS
>>375
柳原戸兵衛
能力:政治51 統率55 知略42 野望54 義理80
特技:「引抜」「混乱」
列伝:羽黒流の忍者。戸兵衛は実際は伊達家に仕えた忍者「黒脛巾組」の1人。
安部重定に仕えて頭領を務め、世瀬蔵人とともに黒脛巾組50名を率いた。
実際にはどんな香具師がいたんだろうね?>羽黒流
377: 04/12/10 07:15:30 AAS
>>376
おいおい・・・・嵐世記ネタかよ。
378: 04/12/11 05:36:47 AAS
>>376
すげぇな、頭領かよ
379(3): 04/12/12 23:24:36 AAS
>>375
ですね。
秋葉流とかって・・・実際にはあまり聞いたこと無いんだけど・・・ホントにあったの?
380(1): 04/12/16 00:21:21 AAS
>>379
意外と重宝しますね。
381: 373 04/12/16 00:53:09 AAS
>>375
そのはずなんですが
年末に帰った時に確認してみます
まあ、羽黒流とは無関係だとは思いますが
382(1): 04/12/18 14:07:08 AAS
>>379
饗談だっけ?
383(1): 04/12/18 18:55:17 AAS
>>382
一全流は無視っすか????
384: [age] 04/12/20 02:23:06 AAS
>>380
確かに序盤は伊賀、甲賀共に忍者貸してくれないし。。。
385(1): 04/12/20 03:49:09 AAS
>>369
「・・・になった」のではなく、「・・・ということになってしまった」が正しいのでは?
386(2): 04/12/20 14:25:42 AAS
>>385
諜報活動くらいはしてたんじゃないの?各大名も。
387(1): 04/12/20 21:19:46 AAS
>>386
要人拉致とかね。
388: 04/12/20 23:15:37 AAS
>>387
暗殺じゃね?
389: 04/12/21 01:11:36 AAS
>>386
武田信玄が好んで使っていた「歩き巫女」なんてのもあるしね。
真偽の程は知らないけど。
390(1): 04/12/21 09:05:54 AAS
>>373
羽黒流は秋田に伝わる修験系の忍術とされているよね、確か。
391(1): 04/12/21 13:11:53 AAS
このスレは忍者スレになりますた
392: 04/12/21 19:04:03 AAS
>>391
まあ、そのうち戻りますよ。
393: 04/12/21 21:36:49 AAS
>>390
秋田氏の傘下にあったわけでしょ?>羽黒流
394(1): 04/12/22 00:56:25 AAS
>>379>>383
共に尾張の勢力だよね。
江戸期には尾張徳川家に仕えたと言われている。
395(5): 04/12/23 11:47:59 AAS
服部半蔵死後の伊賀者はどうなったんだ?
あのヘタレ息子に付いていったとは思えんが、やっぱり盗賊団かな?
396: 04/12/23 14:56:07 AAS
>>394
一全流って技芸の幅が広いよね。鉄砲術とかもあるし。
397: 04/12/24 00:41:41 AAS
>>395
はぁ?
398: 04/12/24 00:53:59 AAS
>>395
過去ログ嫁。まずはそれからということで。
399: 04/12/25 00:15:13 AAS
>>395
幕府に召抱えられたままだが?
400(1): 04/12/25 05:09:37 AAS
>>395
何か基本的なことを知らない香具師が紛れ込んできたようですね。
401: 04/12/25 12:24:57 AAS
秋田氏は水軍や忍者とかいて強かったんだなあ・・・
後、羽黒流と関わりがあるかわからんが
忍者迷路とかあるあまさぎ(漢字忘れた)って忍者がいたの?
402(1): 04/12/25 18:01:53 AAS
>>400
>>395は半三正就が何故改易にあったか分かってないんじゃないかな?
403(2): 04/12/26 02:29:51 AAS
ずいぶんスレのレベルも下がったんだなあ…と思う。
前はちゃんと伊賀の郷士について語れたんだが。
気が付けば忍者スレに成り下がってるし…
404(2): [age] 04/12/27 05:07:16 AAS
>>403
まだ、レス数400ちょっとでしょ?
>>402で徳川家臣の服部正就の話が出てきたっていうのに・・・それを言うのは尚早ってモン。
405: 04/12/27 07:01:53 AAS
>>403
そう言われるなら……自分でネタ振りしてみません?
406(1): 04/12/30 00:08:44 AAS
>>404
与力、同心レベルだろ?伊賀者なんて。
最下級の幕臣なら、郷士っぽく土着武士やってる方が良くない?
407: 04/12/30 04:48:44 AAS
>>406
甲賀衆はそれで食い詰めて、幕府に何度も陳情してたわけで、大差はないだろう。
まだ固定給貰えるだけマシとも言える。
408(1): 04/12/30 09:30:21 AAS
ところで、先祖が伊賀や甲賀衆の香具師ってここにいるのかな?
409: 04/12/31 02:53:40 AAS
>>408
三重、滋賀出身者はいるんだろうけどね
410(1): 04/12/31 04:31:48 AAS
>>404
正就は伊賀者を私兵化しようとして反発されたんだよな。
俺たちはおまえの家来じゃねえ!!!!と。
411(2): 04/12/31 13:45:57 AAS
>>410
新年に社長の家に呼び出されて(もちろん無給で)パシリに使われるようなもんか。
怒るよな、普通。。。
412(1): 05/01/01 02:12:39 AAS
>>411
屋敷の普請を手伝わせたり、まさに「パシリ」状態だったらしい。
413(2): 05/01/01 19:20:14 AAS
>>412
正就って伊賀と全然関係ないしな。
正成の子ってだけで。
414(1): 05/01/02 12:03:03 AAS
>>413
正成ですら地縁はないからね。親父さんの故郷ってだけで。
415(2): [age] 05/01/02 22:31:04 AAS
>>414
浄閑入道の時代に伊賀を離れてるからな。
しかし、一門の中には伊賀に残った者もいるわけだろ?
416(2): 05/01/03 04:16:47 AAS
>>415
浄閑入道って半三保長のことかい????
417: 05/01/03 20:52:23 AAS
>>416
ですね。
418(1): 05/01/04 01:16:52 AAS
>>415
一応、有事の際には共闘するという決め事があったらしいね。
さすがは伊賀者?
419(2): 05/01/04 04:30:01 AAS
>>416
千賀地家のこと?
保長の子とされる市兵衛保元の系譜だよな。
保長―保元―則直(千賀地半蔵/服部半蔵)―元則(保田栄西養子、後に藤堂采女)
という家系だったはず。
420(1): 05/01/04 23:19:27 AAS
>>419
一時期、増田長盛に仕えてたよね?
421(2): 05/01/05 05:21:51 AAS
増田家改易後は藤堂家。
422(1): [age] 05/01/06 03:15:13 AAS
>>421
藤堂家への仕官は確か家康が斡旋したのでは?
423(1): 05/01/06 08:13:50 AAS
>>411
オーナー会社ではよくあることだな。。。
424(1): 05/01/06 22:54:28 AAS
>>423
とはいえ、その場合は反抗しづらいものがあるけど・・・
425: 05/01/07 01:52:14 AAS
>>424
反抗するとこっちがあぼーんされるだけ。
426: [age] 05/01/10 01:22:20 AAS
>>418
助け合いの精神ですよ。
427(2): 05/01/10 01:31:41 AAS
>>422
他国から入るのだからそれなりに地縁のある家臣も必要じゃないの?
でなければ、ただの進駐軍になっちゃうし。
428: 05/01/10 06:24:04 AAS
>>427
現地採用組ってことね?
429(1): 05/01/10 10:47:30 AAS
服部康成のような例もあるわけだが。
そのあたりはどう解釈するのだろうか・・・
430: 05/01/11 01:55:02 AAS
>>429
都に程近いところにネットワークを持つ康成をスカウトしたのであれば、
彼の使いどころはそこにあったと見るべきだが、家老職にあって藩政を
支えた康成を思うにつけ・・・・
431: 05/01/13 09:40:38 AAS
>>427
豊臣大名などにはその傾向があったようだが?
432(1): 05/01/15 08:59:18 AAS
>>413
それが反発を招く根底にあったと思うね。
正成は別としても正就は伊賀者ではない、というのが彼らの本音。
433: 05/01/16 07:22:29 AAS
>>432
桑名藩で服部半蔵を名乗ったのは、正就の弟・正重の系譜だよね。
彼もまた大久保長安事件に連坐して改易され、松平定綱に仕えたと。
このあたり何故か服部家って不遇だね。
434(2): 05/01/16 07:48:57 AAS
>>419-421
保田元則(采女)は増田家に仕官する前、豊臣秀長、秀俊に仕えていたよね。
藤堂高虎は大和豊臣家の家老(紀伊粉河城主)だったから、この時点で知己を得ていたはず。
采女は秀俊の早世後、増田家に仕えたが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、増田長盛が蟄居と
なった際、大和郡山城の接収にあたった高虎と再会し、1601年に藤堂家に仕官している。
なお、大和郡山城接収にあたっては、家老職にあった渡辺勘兵衛や保田采女が高虎に好意
的に接し、武器・弾薬の引渡しが速やかに行われたという。
このことがあり、勘兵衛や采女は藤堂家からスカウトされたとされている。
435(1): 05/01/16 15:46:21 AAS
>>434
新規召抱えなのにいきなり藤堂姓とはこれ如何に?????
436: 05/01/17 10:47:12 AAS
>>435
伊賀統治には服部家の血筋が何としても必要だったんじゃない?
地侍が点在していた地域だけに。
437: 05/01/17 11:03:04 AAS
采女が重用された理由としては、彼自身の能力もさることながら、伊賀の名族・服部家、紀伊の
名族・保田家の血筋にあたることが大きいと思う。
伊賀上野城代として伊賀の領民を懐柔するにあたっては服部家、圧するにあたっては他国衆な
がら名族でもある保田家の血筋を使い分けさせたのではないか。
服部家の血を引く保田采女を藤堂一門に遇することで、伊賀の土豪・地侍たちの速やかな宣撫
工作を図ったのだろう。
438(1): 05/01/17 15:05:14 AAS
信長に討伐されて悲惨なことになってたからな。
そのうえ縁も縁も無い為政者が来たんじゃ、内情も不安定になるだろうし。
439: 05/01/17 17:09:00 AAS
>>438
何だかんだ言って生き残ってたりはするんだな。
440(1): 05/01/17 17:23:29 AAS
>>434
渡辺勘兵衛って後に高虎と袂を分かつんだっけ?
441: 05/01/18 10:23:24 AAS
>>440
大阪の陣の時に主従でもめちゃったんじゃなかったかな?
442(2): 05/01/18 18:39:12 AAS
渡辺勘兵衛 (1562-1640)
阿閉家臣。主家滅亡後は豊臣・中村・増田・藤堂家に歴仕。豊臣秀吉の小田原征伐の際、
伊豆山中城に一番乗りし秀吉から賞賛された。大坂の陣後、浪人した。
特技:収拾 槍衾 攻城
能力:政治9 統率74 知略49
443(1): 05/01/18 23:55:29 AAS
>>442
伊予今治城の築城を担当したのって勘兵衛だったはず。
444: 05/01/20 12:14:45 AAS
>>443
YES
445: 05/01/20 17:26:27 AAS
>>442
渡辺了だっけ?
446: 05/01/22 12:43:24 AAS
わたなべ・りょう?
447: 05/01/23 10:57:12 AAS
この渡辺一文字シリーズって何者なの?
448: 05/01/23 14:20:42 AAS
嵯峨源氏だから源融にあやかってるんでないの
直接的には渡辺綱の影響かもしれんが
449: 05/01/23 14:32:31 AAS
外部リンク[htm]:www2s.biglobe.ne.jp
渡辺姓の武将は多い。
渡辺了の他にも大阪の陣で知られる渡辺糺、秀吉麾下の重−勝、さらに孝−任(浅井家臣)、
勝−通−長(毛利家臣)、信−盛−永(徳川家臣)。 (−は親子)。
やたらに名が一字なのが興味深い。
これは多分、武門の祖とも言える源頼光の四天王・渡辺綱の影響であろうか。
実際、渡辺氏は綱の出自嵯峨源氏から発生したものが多く、上に挙げたいくつかの系統は綱
の末裔と称している。
実際、嵯峨源氏は信、常、明と何世代も一字で名を現している者が多い。
450(1): 05/01/24 02:00:37 AAS
浅井家にも阿閉家にも同族?がいたということは、近江に古くから地縁のある
一門がいたわけ?
451(1): 05/01/25 21:47:08 AAS
ひょっとして良スレ化の予兆???
452: 05/01/26 14:34:24 AAS
>>451
おいおい、本論からはズレてるだろうに・・・
453: 05/01/27 23:44:23 AAS
454(1): 05/01/29 00:30:02 AAS
>>450
近江と言えば・・・・
455(2): 05/01/30 12:40:23 AAS
>>454
朽木をおいて他にはあるまいw
456: 05/01/31 00:18:04 AAS
>>455
その名前が……やるか?
457(1): 05/02/01 02:30:24 AAS
>>455
朽木元綱と聞くだけで萌えてくるのは俺だけ?
458(1): 05/02/03 14:07:42 AAS
>>457
いや、のぶやぼネタのスレでは必須武将のように思うが?
459(1): 05/02/04 18:38:34 AAS
>>458
湖畔でひとり天下の趨勢を見つめる元綱プレイはけっこういいぞ。
朝倉軍が来ても「ど〜ぞお通りください」
織田軍が来ても「ど〜ぞお通りください」
だもの。
460: 05/02/05 01:51:55 AAS
>>459
近江国内で合戦になっても反戦中立が基本原則。
461: 05/02/07 01:32:12 AAS
朽木と言えば「金ヶ崎の退き口」と関ヶ原での華麗なる裏切りでしょうな。
462(1): 05/02/08 04:51:52 AAS
鯖街道だろ、鯖街道。
463(2): 05/02/09 04:32:27 AAS
>>462
何それ?
464: 05/02/09 04:36:09 AAS
鯖街道だよ、鯖街道を知らんのか。
465: 05/02/11 22:34:00 AAS
>>463
このスレの住人で鯖街道を知らん香具師はモグリ認定だわな(w
466(1): 05/02/12 01:03:21 AAS
>>463
外部リンク[html]:www.ruralnet.or.jp
より引用
>● 歴史と文化が交差した「鯖街道」
>
>若狭の国・福井県、小浜城下から京の出町柳辺りまで、約80kmの街道は古くから「鯖街道」と
>呼ばれてきました。これは13世紀の初期にできた若狭街道のことで、戦国時代から江戸時代
>にかけ、若狭の海でとれたサバがこの道を通って京へ運ばれたことから、「鯖街道」の名で呼ば
>れるようになりました。
>渓流魚の佃煮、鯖のなれずし、栃餅など朽木の自然の中から生まれた品々がこの街道筋で売
>られました。また、奈良時代、朽木谷から「朽木の杣」、材木を東大寺の建築用材として筏で搬
>出した記録や、貝原益軒の『諸国めぐり』に、朽木を材木の名所として記されていることなど、朽
>木は木工品の産地としても昔から知られ、塗物の椀や盆などもこの道を通っていきました。
>このように鯖街道は、京都をはじめ各地へ朽木の産物が流通し、同時に都の文化・技術も行き
>来した歴史と文化の交差点だったのです。
467(1): 05/02/12 10:36:58 AAS
伊賀・甲賀はどこに…?
468(1): 05/02/13 01:29:11 AAS
司馬の「街道をゆく」では伊賀・甲賀は通ってるのか?
469: 05/02/13 02:15:39 AAS
>>468
司馬ネタは他でやってよ。
470: 05/02/13 02:21:47 AAS
>>467
朽木は将軍家非難ルート繋がりだね、確か。
471: 05/02/19 00:26:56 AAS
御料所の代官だろ?
472(1): 05/02/19 13:32:19 AAS
足利将軍家で近江国に亡命したのは義晴、義輝、義昭の3人か?
義晴は伊賀&甲賀には避難してないし、義輝は細川晴元と近江坂本に逃れた後、
各所を転々としながら、2度目に近江に逃れたときは朽木谷で5年余りを過ごし
ている。
義昭は大和に幽閉された後、伊賀経由で甲賀の和田惟政の許に逃げ込んでいるが
朽木谷に入ったという記録はない。
朽木氏には将軍から偏諱を受けた者も多いし、幕府の御供衆にも列しているが、
甲賀の諸氏にそこまでの者はいない。
473(1): 05/02/19 19:37:18 AAS
>>472
こらこら、足利義澄を忘れるなっての。
しかも、義澄は近江であぼ〜んしてるじゃないか。
474: 05/02/19 19:47:21 AAS
外部リンク[html]:www2.harimaya.com
朽木氏
----------------------------------------------------------
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)
佐々木氏の一族。信綱の次男忠信は高島郡田中郷を与えられ高島氏を名乗っていた。
その子頼綱、さらにその子義綱の代になってはじめて朽木氏を称するようになった。
朽木庄は、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれ、安曇川上流の渓谷
に沿う谷盆地となり、京都にも近いということと、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこ
ともあり、早くから開け、交通上の要衝としても重視されていたところだ。
朽木氏は朽木谷一帯を抑え、佐々木氏一族として重きをなした。1528年三好元長が京都
に乱入した時、足利将軍義晴は朽木谷に逃れ、そのころの当主稙綱は義晴を厚遇した。
その功によって稙綱はのち申次七人衆の一人に数えられることになった。さらに1551年に
も将軍義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがあり、山間盆地という地勢が将軍
の避難所としての条件を持っていたことを示している。
朽木氏の歴代にあっては、稙綱と晴綱および元綱が特筆される存在で、晴綱の弟たちも
将軍家に多く仕えている。
たとえば藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆として名がみえ、足利
将軍家との関係の深さを示している。
元綱は、はじめ六角氏に仕え、次いで朝倉氏と結び、さらに足利義昭、次いで織田信長と
転々としているが、近江という政治情勢の変化の激しい地方の小戦国大名としては当然
の身の処し方だったといえよう。元綱はさらに豊臣秀吉、徳川家康に仕えている。関ヶ原
の合戦では、最初西軍に属し途中で東軍に通じている。その結果、減封措置ではあった
が近江高島郡九千石を安堵されている。
しかし、江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名
となった。この稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。
475: 05/02/19 19:55:05 AAS
>>473
そうだね。
足利義澄は永正8年(1511年)8月、京都に戻る準備を進めていた最中、近江国の
岡山城(滋賀県近江八幡市)で病没している。
476: 05/02/19 22:47:42 AAS
>>466
山林資源の豊富なところだったわけか。
477(8): [age] 05/02/20 02:51:46 AAS
今は幻となった朽木村を偲びつつ・・・・
外部リンク[htm]:www.biwa.ne.jp
朽木谷をゆく(朽木村の概要)
<現況>
・成 立 明治22年(1889)4月1日、市制町村制施行により成立
・面 積 165,ku ・人 口 2,603人
・村の花=ヤマユリ ・村の木=スギ
・村名の由来 中世の荘名による。
<立地>
〜国境の山村〜
県の西部に位置し、朽木谷の名で知られた広い村域のほとんどが山地である。周囲を取り囲んだ
標高500〜900mの山々に2つも三国岳の名が見えるのは、近江と若狭・丹波・山城の国界によっ
たものであり、さらに小川地先に近江・山城2国の境界石が残存するなど、いずれもその辺境性を示
している。その中を丹波高原の百井峠に源をもつ安曇川(俗称.大川)が北流し、針畑川・北川・麻生
川の支流を合わせ、主邑市場付近で向きを東に変え、隣接安曇川町に注いでいる。大川筋はいわゆ
る花折断層に沿うもので、北陸〜京都を結ぶ間道として早くから利用されたが、ここに開かれたのが
朽木街道であった。気候は、山間地特有の時雨のため天候が変わりやすい。また日照時間が短くて
気温も低く、冬期はしばしば豪雪に見舞われて孤立化することがある。最奥の針畑地区を含む朽木
西小学校区は、僻地指定でも、県内最上位の*5級地になっている。
478: 477 05/02/20 02:53:20 AAS
<沿革>
「原始・古代」
〜森林資源と開発〜
朽木谷にはまだ、原始の人々の暮らしを証明する考古資料(遺跡・遺物)は1つも見つかっていない。
この地域が歴史上で確かめられるのは、せいぜい1,000年ほど前からである。「和名抄」の高島郡
郷名に桑原郷が載っているが、所在について諸説がある。「日本地理志料」などのように、針畑地区
に桑原があるので、それを古い針畑荘(桑原・古屋・中牧・小入谷・荘屋・生杉・能家・横谷・轆轤の9
か村)と古賀荘(上古賀・下古賀・南古賀の3か村)にゆかりのあるものと推定すれば、その範囲はか
なり広いものであったことになる。
奈良期、東大寺の建築用材がこの地域の山作所から、筏などで搬出されたらしい。天平宝字6年(7
62)の「高島山作所漕材注文」(大日古)は、文中の小川津について問題を残しがらそのことを推測
させる。平安期になると、長保3年(1001)中納言・大宰権師平惟仲が、白川寺喜多院に布施した
所領10か所の中に、「高島郡朽木庄」と記したものがある(高野山文書)。この頃国の諸所に荘園化
が進み、先の桑原郷もいまひとつ大きな朽木荘に吸収されたもののようである。
治暦4年(1068)の「大政官符」に朽木谷奥地の針畑地区と、朽木谷に北接する三谷地区の山々が
子田上杣(こだかみのそま)と呼ばれたことが見え、それがやがて藤原頼通の家領となる。都にも知
られた「朽木の杣」で、歌枕にもなった。この谷筋が当初からその森林資源をもとに開拓されたらしい
ことが、その自然環境と照らし合わせて充分うなずける。
479: 477 05/02/20 02:55:00 AAS
「中世」
〜朽木氏登場〜
朽木谷が荘の性格をはっきりさせて登場するのは、鎌倉期に入ってからである。承久の乱後,佐々
木信綱はその功によって、幕府からこの朽木荘の地頭職に新補された。所領は朽木荘以外にもあ
ったが、子孫が次々と分かれていって、それが後に高島七頭といわれた武士団を形成した。朽木荘
を譲られたのはそれらの中で、信綱二男高信の孫にあたる義綱が最初である。弘安10年(1287)
のことで、ここに土地の名をとって朽木氏を称した。しかし、元弘3年(1333)には地頭職安堵の綸
旨を朝廷から得たかと思うと、建武3年(1336)には幕府からこの地域を兵糧取り立ての料所とし
て預けられたように認めてもらったりして、所領確保に苦心している。
〜針畑荘と年貢〜
宮前坊に残る抜塚の伝説は、朽木氏入部に際して行われたこの谷の旧支配層坊村少将などの抵
抗をしのばせるが、当時この地域にどのような村落生活の展開があったかは詳らかでない。「針畑
文書」によると、荘内の針畑9か村が山門(延暦寺)西塔領に属するようになって、それを区別する
ために針畑荘と呼ぶようになったという。やや時代が下降するが、天文23年(1554)の「針畑田地
之事」の文面には、それが上白屋・今井・田中・山本・小入・上中寄・下中寄・下白屋・くほう・滝権寺・
下司・公文・能家上・能家下の14名に分かれ、領主がその名田ごとに年貢を収納したらしい。年貢
は、米・大豆その他山方年貢として四二寸榑(しにすくれ=4寸と2寸角の材木)があったらしい。そ
の四二寸榑をめぐり、永仁5年(1297)に地頭代と雑掌間に争いが起こり、ついに地頭代が解任さ
れる事件があったので、その結果針畑荘では,さらに新たな年貢の負担を申し渡されたりしたことも
あった。
また、この荘の南の葛川荘や、西南の山城久多荘との間で、争いが絶えなかった(葛川明王院文
書)。そのほとんどは山論である。しかし、互いに荘園の区域をこえて共通するものをもち、行き来も
ずいぶんあったと思われる。鎌倉末期に、朽木荘に葛川の上分田がつくられるとか、朽木荘の田地
が葛川明王院に寄進されるとか、あるいは南北朝の頃になると、地頭の朽木氏が明王院へ奉った
戦功祈願の願文があったりする。
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