[過去ログ] 【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
1-

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46: 04/09/16 14:42:52 AAS
>>45
確かにそういう疑問にぶち当たるわな
47
(1): 04/09/16 19:44:45 AAS
伊賀に三つしかない上忍の家の当主なんてのは嘘っぱちで、単なる土豪。
伊賀にいつまでいたってうだつ上がらないだけだから
単身伊賀を出て士官を探し、最終的に松平家に落ち着いた。
そこで優れた武勇を発揮して勲功を重ねて出世し、一軍を
まかされるほどに至った――という程度なら、戦国時代には
結構いるかもね。
実際のところはどうなんだろう?
48
(1): 04/09/16 21:39:12 AAS
>>47
一応、子分たちがいたんだろ?浄閑入道には
49: 04/09/16 23:31:41 AAS
>>48
浄閑入道?
50: 04/09/17 00:15:47 AAS
服部保長のことでしょ。
武田家の今福浄閑という可能性もあるが。
51
(1): 04/09/17 00:20:17 AAS
そもそも伊賀でそれなりの支配地を持って部下もそれなりに
いたようなのが、なんで伊賀を離れて一族郎党で流浪せにゃ
ならんかったんやろね。
52: 04/09/17 12:57:32 AAS
>>51
小なりと言えど城持ちじゃなかったか?
53
(2): 04/09/17 19:38:00 AAS
でも長年に亘って故郷をお留守にしてたワリには
伊賀越えでは土豪達に対して結構な影響力を持ってた様な(倅が)。
マルっきりの雑魚の家柄ではああいう芸当は不可能では。
少なくとも武田信玄の北信侵攻時に
現地土豪の間で真田幸隆が持たれてた程度の信頼と同胞意識がなくては無理。
54
(1): 04/09/17 20:45:00 AAS
>>53
実際に活躍したのは柘植党だったという説もある。
55
(1): 04/09/18 00:42:27 AAS
>>54
この後で伊賀に居づらくなって三河に逃れるんだよね?
56
(1): 04/09/18 00:50:32 AAS
>>53
信長にボロボロにされた後の伊賀なら、ちょっとでもコネのある奴が
有名大名に恩売れるチャンスを手引きしてくれる状況なら
まず動くかと。
57: 04/09/18 03:39:00 AAS
あれかぁ
伊賀者ってホッペタにナル(ry
ニンニン
58: 04/09/18 03:44:38 AAS
その通りだが、みんな知ってることを何を今さら・・・?
59: 04/09/18 14:36:43 AAS
>>56
信長の死後にも第三次天正伊賀の乱を起こしてるし、多少の戦闘力は残っていた
ようだな。
60
(1): 04/09/18 14:50:12 AAS
>>55
鉄砲足軽の組頭か何かになったよな
61
(1): ( ’ ⊇’)裸眼ちゃん [安室ちゃん貶したらぼこりオールw。] 04/09/18 15:38:18 AAS
。。
62: 04/09/18 22:08:34 AAS
>>61
何これ?
63
(1): 04/09/19 01:43:36 AAS
>>60
前スレで一瞬話題になってたな>柘植党
64: 04/09/20 03:25:56 AAS
>>63
ログっておきます。
65
(2): 04/09/20 05:10:28 AAS
家康の伊賀越えでは、服部半蔵が活躍したことになっているが、実際、一行に協力した
のは福地宗隆の孫・與次郎忠安や三之丞(清広)などで、三之丞は一党を率いて一行
を信楽から伊勢白子まで誘導したとか。
しかし、柘植一族は鹿伏兎一族とそれほど関係が良くなかったため、最大の難所・加太
越えでは米地九左衛門が代役を務めたらしい。
66
(1): 04/09/21 02:39:04 AAS
>>65
柘植三之丞って天正伊賀の乱で討ち死にした柘植某とはどういう関係に
あるのかな?
67
(1): [age] 04/09/21 02:54:31 AAS
>>66
柘植三郎左衛門尉のことか?
ちなみに前スレには
2chスレ:warhis

464 :無名武将@お腹せっぷく :04/04/05 13:37
天正伊賀の乱(第一次)で織田信雄軍に内通した名張郡の土豪、下山甲斐守の最期
はかなり悲惨だな。
信雄は天正7年9月に甲斐守の進言を受けて南部の名張口、北部の馬野口から伊賀
に侵攻したが、地の利を知り尽くした伊賀国人衆に撃破されてしまう。
激怒した信雄は甲斐守が罠に嵌めたと判断し、甲斐守を捕縛して退却するよう指示を
出し、長野左京亮が甲斐守を捕縛して退いた。
このため名張口では甲斐守を奪回しようとする国人衆の追撃を受け、殿の澤源但馬、
秋山右近将監がこれを撃退した。
また、馬野口の殿も追撃を受けながら、日置大膳亮、柘植三郎左衛門尉が防戦にあ
たったが、三郎左衛門尉は酒気のため思うように動けず?鬼瘤の難所で討死してし
まう。
信雄は捕縛した甲斐守を監禁すると共に、秋山右近将監は家臣上津江新坊を「甲斐
守の女婿である」という理由で殺害している。
甲斐守は獄中で一切食を取らず、監禁から28日を経過してなお死なずにいたが、つ
いに自ら舌を噛み切って死んだという。

とある。ちょっと情けない死に方だね。
68
(2): 04/09/21 06:01:42 AAS
外部リンク[html]:www.www2.harimaya.com
柘植氏
左三つ巴/丸に二つ引両
(桓武平氏高棟流/貞盛流?)
伊賀国阿拝郡柘植郷より起こった。『江戸系図』また『柘植系図』には、平高棟
の後裔宗清が伊賀国に赴き、柘植の地名をもって名字となしたとある。
『尊卑分脈』をみれば、宗清は平信実の子で右京大夫に任じられ、その子に宗
俊の名はみえない。また年代的にも少し無理があるようである。また、『尊卑分
脈』の貞盛流の裔に宗清の名がみえる。右兵衛尉に任じられ、平家の家人で
あった。こちらの方が、柘植氏の祖として年代的、状況的にうなずけるところが
多いのではないか。
『古代氏族系譜集成』に収められた服部連系図のところに、柘植氏の系図があ
る。これには、平貞盛の後裔で右兵衛季宗の子で、平頼盛の家人であった宗
清が、祖にあたるとみえる。そして、宗清には宗俊・清春・俊忠の三子があり、
宗俊が宗家となり、清春は福地を、俊忠は北村を名乗り、それぞれその祖とな
ったとある。しかし、前記『尊卑分脈』にみえる宗清の子は家清だけである。こ
れは、宗清が世を隠れてからもうけた子がさきの三人ということなのだろうか。
いずれにしても、平家落人の一人として伊賀の山中に潜んだものが、柘植氏
の先祖になるものであろう。宗清にからんで、以下のような言い伝えが『寛政
重修諸家譜』に記されている。
伊賀に隠れ住む宗清のもとへ、源頼朝から誘いの手がのびて、養老の地とし
てそこも与えようという。そこで「宗清戯れに柘植の一枝を新地にさし、もしこの
枝葉繁茂せば草庵をこの地にかまうべしといえり。翌年、柘植の一枝大いに
繁茂して花開けり。宗清奇なりとし、これより柘植をもって家号とす」と。
69: 68 04/09/21 06:04:29 AAS
●戦乱の時代を生きる
大永年間、将軍義稙は、仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。このとき、柘
植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび宗家は兵部少輔を射て、
仁木軍を敗走させている。その後、兵部少輔の子某が更めて柘植と戦ったが、
宗家と子の宗能はふたたび仁木軍を討ち破っている。宗家と宗能を兄するも
のもあるが、年代的にみて父子とする方が妥当と思われる。その後、宗家は
遠江国に至って死んだと伝えられる。
天正七年九月、織田信長による第一次伊賀征伐のとき、信長の三男信雄の
軍勢が阿波口・鬼瘤口・伊勢地口の三道から伊賀に攻め込んだ。この戦いは
織田軍の敗北で終わるのだが、鬼瘤口の大将として柘植三郎左衛門の名が
みえている。三郎左衛門は伊賀出身ながら北畠氏に仕えていたもので、北畠
没落後信雄に仕えて伊賀征伐には信雄に属して出陣したようだ。しかし鬼瘤
口も敗北し、三郎左衛門も討死した。この敗戦に怒った信長は、天正九年九
月四万四千の大軍をもって再び伊賀に攻め込んだ。このとき、上柘植の福地
伊予をはじめ、柘植近在の郷士が案内人となっている。この征伐によって、伊
賀国はまったく独立性を失い、また多くの郷士が討死した。この合戦における
柘植氏の動向はさきの案内人をつとめたこと以外に、どのように行動したのか
は詳らかではない。
天正十年(1582)六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって京都の本能寺
で世を去った。このとき、信長に招かれて上方にあった徳川家康は、身をもっ
て三河へ逃れることになる。その逃避行の道にあたったのが伊賀の山中であ
った。その案内役を柘植清広がつとめた。これが機縁となって徳川氏に仕え、
のち関ヶ原の戦いにも参加。柘植氏は徳川氏旗本として世にでることになった。
庶流として数家の柘植氏があった。家紋はいずれも、「左三つ巴」「丸に二つ
引両」を用いた。
70
(3): 04/09/21 16:11:03 AAS
福地伊予の弟だっけ?>柘植三郎左衛門
71: 04/09/22 00:59:09 AAS
>>70
弟という説と子という説がある。
72
(1): 04/09/22 03:11:51 AAS
>>67
酔っ払って討たれるってかなり「ぷっ!」って感じの最期ですね
73
(3): 04/09/22 03:33:39 AAS
>>72
伊賀衆の息の掛かった百升に「御戦勝おめでとうございます!!!」なんて飲まされたのかなあ?
でも、この時点では敵地だよね?
74: 04/09/22 06:04:28 AAS
>>73
おいおい、「百姓」だっての・・・
「百升」も飲んだら、そりゃ討ち取られる以前の問題だわなw
75: 04/09/22 07:39:19 AAS
>>73
郷士連中にはそれぞれ周辺勢力との関係があるからね。
本気で戦勝祝いを贈る香具師もいれば、逆にスパイを使う香具師もいただろう。
まあ、判断しにくいところだよね。
76: 04/09/22 18:30:49 AAS
>>70
柘植三郎左衛門には北畠具教暗殺の指揮を執ったという説もあるな
77: 04/09/22 23:14:59 AAS
>>65
福地伊予守、柘植三之丞あたりは信長の存命中から家康とのパイプを持っていたね。
かつて柘植は家康に「家臣にしてくれ」と頼んだけど、家康は「一党を率いて三河に来る
なら」という条件を出したために叶わなかったと言われている。
78
(1): 04/09/23 01:32:29 AAS
福地は後に伊賀を追われて三河に遁走したよね?
79: 04/09/23 03:39:56 AAS
>>78
以後の消息は・・・どうなったんだ???
80
(1): 04/09/23 03:55:57 AAS
>>68
仁木兵部少輔って誰?
81
(1): [age] 04/09/24 01:10:33 AAS
>>80

仁木兵部少輔で検索した結果  ページ:9件

それほどメジャーな人じゃないようです...
82: 04/09/24 01:16:52 AAS
>>81
そういう尺度ですか???(w
83
(2): 04/09/24 04:22:39 AA×

2ch板:warhis
84: 83 04/09/24 04:25:38 AAS
リンク先間違えました…
外部リンク[html]:www.city.sasayama.hyogo.jp
です。
85
(2): 83 04/09/24 04:43:39 AAS
なお、「仁木長政」については・・・
天正2年に「伊賀守護 仁木長政」が上野市西高倉の高倉神社の本殿、八幡社、春日社
を建立した旨が春日社の棟札(重要文化財)に記されている。
>>83の「仁木左京大夫長政」と同一人物であるかは定かではないが、永禄6年と天正2年
というとこの間わずか9年ほど。
この間に「仁木左京大夫長政」と「伊賀守護 仁木長政(官途名不明)」という2人の長政が
いたと・・・???
86
(2): [age] 04/09/24 22:34:21 AAS
>>85
足利義昭に同行した近習の中に仁木某がいるよね?
87
(1): 04/09/24 23:56:13 AAS
>>86

永日も覚す暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜かな

                     仁木義政
88: 04/09/25 01:52:33 AAS
>>86-87
義昭が越前に下った際に、義昭と共に朝倉義景から饗応を受けたんだろ?
89: 04/09/25 06:23:32 AAS
>>85
確かに細川真之の子・畠山之照を養育した仁木右衛門(之照の大叔父)という人物が
いるけど、この人物が丹波仁木氏の流れを汲んでるってことはないのか?
90
(1): 04/09/25 22:11:00 AAS
仁木義政=仁木長政?
91
(1): 04/09/25 22:18:51 AAS
>>90
丹波にいた香具師が将軍近臣?どうだろうねぇ・・・
92
(1): 04/09/25 22:36:51 AAS
>>91
仁木氏が丹波から四万十川流域に移る時に、長政だけが伊賀入りしたとしたら……
土豪、郷士たちが認めるところの「伊賀守護」として迎えられ、高倉神社などの建立も
「伊賀守護」として長政が行ったとすれば……
93: [age] 04/09/26 02:37:07 AAS
「仁木友梅=仁木義政」に100j
94
(1): 04/09/26 03:11:21 AAS
>>92
長政は信長による伊勢侵攻の際に滝川一益を通じてこれに
協力しているよね?
95: 94 04/09/26 03:13:17 AAS
それ故、後に織田信雄の軍団に組み入れられているね。
96
(2): 04/09/26 06:35:33 AAS
「新津秀三郎氏所蔵文書」によれば、1569年7月28日、信長は滝川一益を通じて
伊賀国の仁木長政を味方につけ、長政に国内の状況報告を命令したという。
なお、仁木義視なる人物が信長の支援によって伊賀に入国し、守護に迎えられた
のは1571年のこと。そして1578年には近江・信楽に追放されている。
となると、長政は義視より少なくとも2年ほど前に伊賀に在住していたことになる。
97
(2): 04/09/26 12:05:48 AAS
>>96
確かに、元亀2年に伊賀に入国した香具師が、永禄12年に伊賀の国情を
報告するのはそりゃ、無理ってもの。
しかも、高倉神社の棟札自体が重文に指定されるようなシロモノで、そこ
に「伊賀守護」「仁木長政」とあるのだから、裏も取れてるしな。
98: 04/09/26 12:29:27 AAS
>>97
その棟札には官途名は記載されてるのかな?
99
(1): 04/09/26 21:05:42 AAS
>>96
追放後はどうしてたんだ?
100
(1): 04/09/26 21:57:21 AAS
しぶとさを発揮してますね・・・仁木氏
外部リンク[html]:www.club-ec.com
>いつも私を大相撲の砂かぶりに招待して下さる大切なご贔気の仁木さん。
>この方は巣鴨で印刷業を営んでおいでになりますがこの方の御先祖は徳川の
>お旗本なのです。しかも二千石という大身旗本で、何でも関ヶ原の合戦で大変
>な戦功を上げたのだそうで御仏壇の御位牌なども長く大きく三、四十cmはあろ
>うという位牌なのです。
>戦前までは武具、刀、槍、兜、みんな残っていたそうですが、みんな空襲で焼
>けてしまったとのこと、実に残念です。ただ、そのお顔はやはりチョンマゲの似
>合いそうな風格のある旗本顔で、血というのはすごいもんです。
101: 04/09/26 22:54:58 AAS
>>100
確か榊原家家臣から起こってるんじゃないかな?>旗本・仁木家
102
(2): 04/09/26 23:09:24 AAS
>>99
天正伊賀の乱の時などは「信長に恭順の意を示すように」と国人たちの説得に
あたっていたらしいな
103: 04/09/27 00:42:09 AAS
>>102
第三次天正伊賀の乱であぼーんだっけ?
104
(2): 04/09/27 02:25:34 AAS
なぜ忍者に謎が多いか。
それは忍者組織が徹底した秘密主義を貫いたからだ。
現代でも謎が多いということは、この平成の世にも生き残ってうわ何をするやめあwせdrftgyh
105
(2): 04/09/27 05:58:50 AAS
>>104
上野市の役所に行ったら、職員が忍者ルックで仕事してました・・・
106
(1): 04/09/27 14:53:27 AAS
>>105
それ、忍者じゃないって…
107: 04/09/27 18:04:35 AAS
>>97
ここで仮説を立てると…
丹波にいた仁木左京大夫長政は、永禄6年(1563年)以降に一部の伊賀国人衆の支援を
受けて伊賀国に入国したが、国人衆の全てがこれに同意していたわけではなく、非公認の
伊賀守護に過ぎなかったと。
伊賀国内は当時、北畠派、六角派、仁木派、独立派の4つに分かれていたから、仁木派
に担がれた長政の立場は極めて脆弱なものであったのだろう。
そのため、長政は信長の軍事力によって北畠派、六角派に対抗するため、滝川一益を通
じて永禄12年(1569年)7月に信長に内応、国内の情報を逐一信長に報告し続けた。
しかし、信長の軍事力は伊賀には及ばず、また、北畠派、六角派の反対もあったのだろう。
長政を正式な守護に立てることができず、やむを得ず、妥協の産物として仁木義視(=足
利義昭の近臣・仁木義政?あるいは義政の縁者?)を守護に送り込むことにした。
そしてこの間、長政は天正2年(1574年)に「伊賀守護として」高倉神社を建立したと。
108
(1): 04/09/27 18:06:18 AAS
なお、仁木義視(=友梅)を追放した際、国人衆の誓紙の中に仁木姓を名乗る者がいたこ
とからも、自称・伊賀守護、実際には国人衆の1人という仁木氏(=長政?)が在国してい
たことは間違いない。
109
(1): [age] 04/09/28 09:34:51 AAS
>>108
伊勢系の仁木氏かな?
110
(1): 04/09/28 11:02:40 AAS
>>109
幕臣仁木氏の話って前スレに無かった???
111: 04/09/28 11:57:31 AAS
>>102
んなモン、聞き入れるわけないわなw
112
(1): 04/09/28 14:00:57 AAS
>>104-106
「伊賀・甲賀衆」の冠をつけると必ず忍者ネタ書き込んでくる香具師がいるのには笑える(w
113
(1): 04/09/28 16:44:07 AAS
>>110
仁木「甚五兵衛」家のことね。
館林藩士から幕臣となり、下野国内に1500石を領していた。
なお、家紋は「丸に二つ引」「五三桐」。
114: 04/09/28 22:03:59 AAS
>>113
旗本になったのは時代的にはいつ頃なのかな?
115
(1): 04/09/28 23:24:20 AAS
>>112
それだけ「刷り込み」されてるということでは?
116
(1): 04/09/28 23:38:31 AAS
榊原家にいた仁木甚五兵衛が名族コレクションに引っ掛かり、幕命で名跡を継いだってこと
なんだろな。
117
(1): 04/09/29 00:51:22 AAS
>>115
甲賀衆なら武勇伝あるけどな
118
(1): 04/09/29 00:58:13 AAS
>>117
沢山城攻略とか?
119: 04/09/29 01:04:37 AAS
ケムマキ
120
(2): 04/09/29 01:44:57 AAS
 結 論 : 忍 者 な ど 存 在 し な か っ た

 
121: 04/09/29 03:39:51 AAS
>>120
早いよ(w
122: 04/09/29 11:16:21 AAS
>>120
傭兵部隊だからね。確かに忍者じゃないよな。
123
(1): 04/09/29 17:50:50 AAS
>>118
鈎の陣こそ(ry
124
(1): [age] 04/09/29 23:04:29 AAS
>>123
一説には甲賀衆が足利義尚を討ち取ったって話あるけど、あれってどうなの?
125
(1): 04/09/30 00:23:28 AAS
外部リンク[html]:www.m-network.com
服部半蔵はその初陣とされる宇土城攻めにおいて、『寛政重修諸家譜』に「正成十六
歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを
賞せられて御持鎗(長七寸八分両鎬)を拝賜す」とあるのだが、正成十六歳といえば弘
治三(1557)年のことで、このとき家康(当時は松平元康)はまだ今川義元の元に人質と
して存在し、しかも当時の宇土城主鵜殿長持は今川方に属していたことから、話が何
かかみ合わない。
半蔵は一体誰から槍を「拝賜した」のであろうか?
ちなみに宇土城落城は永禄五(1562)年のこととされている(永禄六年説もある)ので、
仮にこの戦いが実際に行われて半蔵が活躍したとしても、落城には至っておらず、ま
た家康の命で働いてはいないことになる。
さらに記すと、家康(当時は松平元康)は永禄三年二月、戸田三郎四郎と牧野伝蔵を
近江に派遣、多羅尾光俊等甲賀二十一家の衆二百名を集めたという。ただし、これは
今川方に属していた家康の戦闘要員としてである。そしてこれら甲賀衆は、桶狭間の
戦いで今川義元が討たれた後も鳴海城の岡部美濃守長教の手に属し、水野藤十郎
(藤九郎とも)信近を刈谷城に攻め、門に放火するなどして奮戦、遂に信近の首を挙げ
ている。
さて今川家から独立した永禄五年三月、家康は松井左近忠次(松平康親)を大将に命
じて今川方鵜殿長持の拠る上郷城を攻撃させた。忠次は城の北西名取山に陣を敷い
て攻めようとするが、守りは堅くなかなか攻めきれない。そこで、忠次もまた家臣の勧
めで甲賀から伴与七郎資定ら八十余名を招き、これら忍びの者を使って放火攪乱させ
るという夜襲をかけ、ついに城を落としたとされている。しかし、服部半蔵の名はこの記
録にも見られない。
城主長持は城の北にある護摩堂を目指して敗走中に、伴資定に追い付かれて突き伏
せられ、首を取られたという。また、子の藤太郎長照・藤三郎長忠兄弟は伴伯耆守資
継に生け捕られ(鵜飼孫六説もある)、駿府に人質となっていた家康の妻子との交換が
行われることはよく知られている。しかし、落城日時にも異説があり、城主を長照とする
ものもあって、現時点でははっきりと断定することはできない。
126: 04/09/30 05:56:53 AAS
>>125
思いっきり傭兵部隊って感じですね……
127
(1): 04/09/30 14:57:49 AAS
>>124
義尚の死因は肝炎とされている。
甲賀衆の襲撃により負傷したのは確かなようだが。
128
(1): 04/09/30 16:04:48 AAS
>>127
別に甲賀衆だけで幕府軍を叩いたわけじゃないよね?
129
(1): 04/09/30 16:25:55 AAS
>>128
六角軍の先鋒として夜襲仕掛けたんだろ?
その時に足利義尚を負傷させ、近江から幕府軍を撤退させたわけだが、
その後、甲賀の連中がその武勇伝を喧伝しまくったことで話がデカく
なっていったと。
130: 04/10/01 11:33:33 AAS
>>129
六角氏に軍事力を提供することで、自治を認められていたから、
従軍したのは約定通りってことだからね。
131
(1): 04/10/01 11:47:34 AAS
義尚って手淫に浸って早死にしたんじゃなかったか?
132: 04/10/01 12:23:17 AAS
>>131
何か2ch的な将軍様でつね・・
133
(2): 04/10/01 13:23:38 AAS
外部リンク[html]:okhome.fc2web.com
>坂本に義尚が着陣すると、六角高頼は対決を避け逃亡。このため義尚は、
>翌十月に陣を鈎(まがり)の安養寺に移し、甲賀郡に攻め込む。
>もはや、「この一帯には将軍の敵は全くいない状況」とまで記録されている
>が、青年将軍は今度は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長
>期戦に備える体制をとる。
>本当は京に戻りたくなかったのでは。父親の大御所義政やうるさい母親日
>野富子のいない新天地で幕府の運営と権力の一元化に取り組みたかった
>のが真意ではないか。事実上の鈎幕府である。
>しかし、その義尚も小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ、不規則な生
>活がもとで体調を崩し、その志は挫折、短い生涯をここで終える。推測だが、
>「夜幕府」は、将軍権力のこれ以上の強化を望まず、妻帯もしないで奇行の
>多い細川政元が仕掛けた「罠」であったのかもしれない。
>長享三年(1489年)三月晦日、将軍義尚の遺体は管領細川政元や母日野
>冨子に護られ京に帰還、さながら凱旋将軍のような隊列であったと記録され
>ている。泣き崩れる富子が側に寄り添っていなければの話だが。
134
(1): 04/10/01 17:26:16 AAS
>>133
>小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ

凄い表現ですね(w
135
(1): 04/10/01 19:22:52 AAS
>>134
将軍って男色家多いねw
136: 04/10/02 03:53:42 AAS
>>135
女どもに囲まれてると「そっち」に行っちゃうんじゃないの?
137
(1): 04/10/02 04:01:20 AAS
>>133
といっても近江・六角氏攻めは義稙も継承したよね。
138: 04/10/02 13:00:00 AAS
>>137
結局果たせなかったけどな
139
(2): 04/10/03 02:17:11 AAS
信長が六角を攻める段階になったら早々に屈服したのにな。
まあ、中には水面下で反抗してた香具師もいるわけだが。
140: 04/10/03 07:36:39 AAS
>>139
善住坊だっけ?
141
(1): 04/10/03 11:25:50 AAS
>>139
六角承禎は、近江を追われた後も甲賀衆を使ってチマチマと信長に抵抗してたよね。
善住坊もその1人でしょ。
142
(1): 04/10/03 11:32:53 AAS
>>141
狙撃の名人?のくせにかなりの至近距離から外したって香具師だろ?
143: 04/10/03 11:53:40 AAS
>>142
最後は鋸引きであぼーんですな
144: 04/10/03 12:52:00 AAS
すいません、仁木氏の話はどうなったんでしょ?
145
(3): 04/10/03 13:42:36 AAS
あの頃の火縄銃って狙撃できるほどの精度があったのか?
146: 04/10/03 14:01:42 AAS
>>145
伝えられているところで考えるしかないわなw
まあ、鉄砲で撃ったのは事実じゃないの?
147
(1): 04/10/03 14:56:47 AAS
>>145
じゃあ、弓矢にしておくか?(w
148
(1): 04/10/03 17:57:05 AAS
>>147
信長の伊勢侵攻の際には、伊賀衆が敗走する織田軍を弓矢攻撃で苦しめたよね
149
(2): 04/10/04 07:38:47 AAS
>>148
といってそれが世の伊賀忍者を彷彿とさせるものかと言えば
そうではない。
弓矢を武器にしたゲリラ戦なら他の国人衆でもやってる。
150: 04/10/04 09:24:36 AAS
>>149
ですから・・・・(ry
151
(1): 04/10/04 10:01:34 AAS
忍者なんて都市伝説ですよ
152
(1): 04/10/04 14:09:15 AAS
>>151
『萬川集海』以来じゃないの?
153: 04/10/04 17:11:34 AAS
いきなりマジレスですか、そうですか。
154: 04/10/04 17:20:22 AAS
>>152
もうちょっと引っ張れや・・・w
155: 04/10/05 00:27:10 AA×

156
(1): 04/10/05 02:13:01 AAS
>>116
旗本・仁木(甚五兵衛)家の本国は伊勢なんだよね、伊賀じゃなくて。
157: 04/10/05 09:52:30 AAS
>>156
榊原家から「起こした」んでしょ?経緯的に。
158
(1): [age] 04/10/05 12:28:10 AAS
ホント、謎が多いって言うか・・・
まあ、それだけ没落状態にあったわけで、これが普通なのかな
159: 04/10/05 14:37:35 AAS
>>158
だから語り甲斐があるというもの。
160
(2): 04/10/06 01:03:06 AAS
>>149
特技は「道案内」です。
161: 04/10/06 05:42:29 AAS
>>160
その「道案内」であぼーんした香具師もいるわけですが?
162
(2): 04/10/06 05:46:36 AAS
地獄への道案内です
163: 04/10/06 06:23:36 AAS
>>162
ワロタ!!!
164: 04/10/06 07:22:34 AAS
>>162
自分が地獄に堕ちてどうする!(w
165
(2): 04/10/06 09:41:06 AAS
伊賀ではみょ〜に竹槍戦法が炸裂しますよね。
166
(2): 04/10/06 19:36:38 AAS
山が深いから歩兵の接近戦が一番使えたんだろうな
167
(1): 04/10/08 11:17:46 AAS
>>165-166
出会い頭の竹槍は避けられないだろ。
168
(1): 04/10/08 12:13:03 AAS
>>165-167
本土決戦の主力兵器でしたからね...>竹槍
169: 04/10/08 13:14:21 AAS
>>168
ワロタ!!!
170
(3): 04/10/08 13:46:09 AAS
F4ファントムでさえ落としたらしいしな>竹槍
171: 04/10/08 14:28:04 AAS
>>170
What???
172
(1): 04/10/08 17:23:40 AAS
>>170
さすがは忍び……侮れませんねw
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