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284: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 21:13:06.37 ID:Z7Z9SOzC0(1/7)調 AAS
俺は人間の価値は顔で7〜8割は決まるという意見に理解があるが
もし本当に人間は顔じゃないと思っているんだったら
逆にイケメンに対するヒガミとかが生まれることもありえないと思う。
だってガチで顔に興味がない。顔で判断しないというのはつまりそういうこと。
つまりイケメンとかブサイクとか世俗で呼ばれているような顔が全てその人の価値感上、同価値ということ。
もちろん、顔が違うというのは当然認識しているうえでの話ではあるが

つまり、顔が全てではない。という方が正確かもしれない。
まぁ何れにせよ、価値というのは相対概念でしか無いので、ゲームの装備品のように
簡単に必要なときはその価値観を用い、世間に迎合しているように装う(所謂、和光同塵)
一方、一人でいるときは必要ない世俗価値観は捨てられるという、この柔軟さは一つの考えに執着していては決して得られない。
仏教では執着することは苦しみの原因であると説き
さらに口は災いの元とも言う
老荘思想でもこの考えはあり、例えば我いまだ木鶏たりえず、や和光同塵、能ある鷹は爪を隠す(これは別の宗教?)
など儒教の孔子先生を引き合いに出して、あまり知識をひけらかさないことを教えている。

僕の解釈では、これらの宗教はウソを付くことに対して特にそれを罪悪だと考えていない。
仏教でも特にこの世の苦しみの大半は人間関係によるものとしていて、その因縁を切るためにあらゆる労力を割いており
その手段としてあらゆることを利用することに倫理観はない。(ただし家族を持つ在家信者に対しての教えは同じ宗教とは思えないほど世俗に迎合的な内容であることからも彼らが嘘というか本音で話す人や言葉の使い方に非常に気を使っているのが分かる)

スッタニパータよる引用


人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。

自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語れ。

これこそ実に善く説かれた言葉なのである。



個人的には僕は老荘思想で言うところのタオ。(人間には理解できない。語り得ないこと)のように
語らないことが最善であるが(このTAOと言うのは、語らないという行いを正当化?wwするために生み出した概念とすら思える。まぁ少なくともそういう使い方もできる)
だがもし、語らざるを得ない状況になったとしたら、その時は、相手によって言葉を慎重に選ぶべきと思っている
285: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 21:28:57.64 ID:Z7Z9SOzC0(2/7)調 AAS
老荘思想で「上徳のものは徳を他人に施そうとしないから徳がある」という言葉がある。
これは一見、現在の価値観では理解できない。
つまり、貧民に対して、施しをしない者の方が、何故か、施しをするものより徳が高いと説く。

僕の解釈では
老荘思想というのは世界観が仙人の世界である。
彼らの理想とするところは、一人で山奥に住み、露や霞を食べて生きる。誰の助けもいらない仙人である。
まぁと言っても人間であるので、当然、物を食べねばいけないから、そういう物理的な意味で人間をやめるのではなく
重要なのは、社会的に可能な限り自立すること。

つまり、やはり仏教と同じ人間関係による悩みやトラブルが苦しみの要因として大きいと考え
可能な限り、他人に依存せず関係を持たずに生活することが理想であると考えている。

そして、仮に自分で自分の事はなんとかなるという状態になった時、
全ての人が、自分で自分の事をなんとかでき、他人との人間関係は一切不要であるというのは理想である(もちろん現実的には必要最低限の関わりは必要だが)

そうなった時に、他人に物を施してしまうと、そこで他人との関係が生まれてしまう(縁の発生)
これが徳を落とす要因なのだろう。
自分一人だったら、自分でなんとかできる能力があるが、他人の事まで自分のように大事にして面倒を見ようとした結果、
そこを漬けこまれ、人質に取られるとか依存関係が深まり、自立を妨げるとかして、本来、自立できる人1、できない人1だったのが
依存関係の悪化により、自立できない人2人になってしまう危険があると。
だから、施さない方が徳があると説いているんだと思う。

でも逆に自分の持つ財に執着する事は、禁忌のはずなので、重要なのは他人と関わりを持たないことであることだから
例えば匿名で施すなどすれば徳を下げずに施しを行うことが可能であると思う
286: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 21:33:57.43 ID:Z7Z9SOzC0(3/7)調 AAS
このことから意外と他人などどうでもいいという冷徹な感情が見える
仏教でも、情にほだされれば己が利を失うという言葉がある。

だが、施すなと言っているわけではないと思う。
つまり、本当に他人などどうでもいいと思っていれば、
施そうが施すまいが、どちらでもいい。
つまり、例えば、自分の財を手放したいという状況になれば、施すのも手段の一つとしてありということである。

この目的をちゃんと抑えているかどうかが重要で、目的を理解せずただ規律に従うというのは
その規律への執着であり。こういう執着は規律を破っているやつを見た時に、不公平感を感じる。
何故?自分だけが規律を守っているのか?という不公平感は、そもそも規律は目的達成のための手段に過ぎないという理解の欠如からくる
287: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 21:48:55.58 ID:Z7Z9SOzC0(4/7)調 AAS
老荘思想では、最も重要な概念である「道」
これは語れないものだとされている。

これを語らないものこそが彼らの理想とする真人であるとされている(書の中では無所謂という人物が登場する)
彼は道人は何かと問われ、それに対して答えることを拒否した。「答えるにあらず、答えを知らざるなり」

仏教でもこの世の真理に関わる質問に対して無記として答えることを拒否している
(十無記入、善でも悪でもない無記)
世界は永遠であるのか
世界は永遠でないのか
世界は有限であるのか
世界は無限であるのか
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
修行完成者(如来)は死後存在するのか
修行完成者(如来)は死後存在しないのか
修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

自己の過去の業は善あるいは悪であるが、現在の自己を成り立たしめている根源そのものである阿頼耶識は、過去の業から独立している(異熟である)とされるためである。阿頼耶識は善・悪の種子を蔵する拠り所となるが、もしもその阿頼耶識自体が本質的に悪ならば、我々はいつまでも迷いの世界を脱することができず、またもしも本質的に善ならば、迷いの世界はありえないことになるため、阿頼耶識そのものは、善・悪いずれの性質をも帯びない無記であるとされている[6]

この前世、死後の世界感や、善悪価値観などは本当に面白いことに一般の在家に対する教え(仏教でも死んだら地獄に落ちるパターンや畜生に生まれ変わるなどが宗派によって存在する)
とは本当に同じ宗教なのかと疑うほど全く違う
288: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 21:58:39.97 ID:Z7Z9SOzC0(5/7)調 AAS
いずれにせよ、この世の真理である
宗教上、核となる最も重要な概念が言葉で語れない性質のものであるのだから
その他のことなど、あえて語る価値はない。

こういう姿勢から、修行を積むことで、語らないという癖がつき、その修業の完成形として彼らの理想とする真人と呼ばれる人が存在するのだろう。
現在では喋れないやつはコミュ障とかいうレッテルでくくられ、劣等感を感じることもありえるが
老荘思想や仏教など彼らの価値観では逆にお喋りなやつほど、劣る。というか徳が低いという考えだった。

だが所詮は人は千差万別であり、この教えもツールに過ぎず、自分の状況に応じて、自分の望むだけ生活の向上に役立てればいいだけなので。
そういう意味で、教えに縛られて、劣等感を感じていると言うなら、どっちの価値観に従っていようが同じな気がする。(現代の世俗でこの宗教観を用いればその両方の価値観に板挟みにされる)

どこまで言っても宗教は幸福実現のためのツールに過ぎないと言うなら、最も重要なのは何を持って自分は幸福とするのかという感覚であって
そこまで世間体や他人の意見に流されてしまうようでは、洗脳されることは免れないよな
289: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 22:13:45.19 ID:Z7Z9SOzC0(6/7)調 AAS
壮子だったか忘れたが、仏教の中道的な考えでも似たようなことを言っていたと思う。
なんか一見矛盾しているようにも思えるが
彼の言いたいことは分かる気がする。

つまり、究極の理想としては何も食べなくても、呼吸して露を食べ光合成するだけで山の中一人で生きていける仙人が理想であるが
別にそこまでいかなくても、そこそも教えを利用して自分にとって不満のない精神的安定を得られればいいという考えであると思う。
つまり、前代の世俗的価値観で例えると
仙人という究極的な理想を、億万長者だとする。
だが別に庶民からすれば、年に1000万もあれば、後はそれが1億になろうが十億だろうが自分の生活スタイルは変わらず満足できる人もいる。
人によってはベーシックインカムのように月に10万あればそれだけで幸せっていう人も中にはいるだろう。

そのように、極力人間関係は断つほうがトラブルや心理的ダメージは回避できるが
回避率を100%にせずとも、現実的に運用できる程度の状態が作れればいいのではないかということだろう。
そういう意味で、ある程度の感覚の鋭さは必要になってくる。他人の意見に流されやすいとかで、何が自分なのかわからなくなった時
最終的に戻ってくるのは自分の5感。つまり想念的感情ではなく。あくまで筋肉の硬直、神経、呼吸レベルで感覚的に捉えた感情。
ここを軸に満足できているか、本当に心から不満がないのかというところが
宗教に限らずあらゆる考えをツールとして利用する際の基準になる。

ここを抑えてないと駄目だわな。感覚だから言語化する以前の問題だしね
290: 366.56D◆FQ9xo/MvJhbB 2021/11/21(日) 22:29:01.99 ID:Z7Z9SOzC0(7/7)調 AAS
最初の話に戻るが老荘思想の逸話に
西施は美女か?という話がある。
人間の間では美女の西施だが、魚から見たら人間の美醜などどうでもいいだろうね。と
確かにそうだが、中々狂った話であると思う。現代の価値観からすれば、何いってんだこいつと
だが、そういうレベルで、顔の美醜などどうでもいいと思うのが本当に顔で判断しないということだと思う。
逆に言えば興味がないとも言い得る。

同じように魚が人間のように死後や前世の世界観などについて悩むのか?
考えることがなまじ可能になったがゆえの悩み。
それより、魚だったら今を生きる事の方を重要視して他のことは考えてなさそうであると思う。

つまり、この世はルールがないのが大前提、法律や善悪倫理、常識などは後から人間が勝手に作った
でもその御蔭で治安が良くなっているという側面もあるだろう。
つまり、これはあくまでツールであるのであり、別に我々は手段として従っているだけであるから
我々が自由であることに変わりはない。自由であるが例えば治安を良くするという目的のため合意してルールに従っている。
この理解があればルールを破るやつを見ても不公平感をを感じることはないはず

逆にペナルティーなども理解した上で従うメリットのほうがないと考えればルールを破ることも当然できる。
こういうことに執着せず、ためらいなくルールを破れる状態なら不公平感を感じ他人にムカつくことはないと思う。

これは時間や空間であっても例外ではない。
老荘思想にも過去や未来から現在を書かなければ人は自由になれると言っている。
過去や未来というのも現在の自分が思い出している。もしくは予想している概念であり、それを考えている自分もその考えも現在にしか存在しない。
しかし、過去が未来があると仮に考えると言うか、
その概念自体は非常に有効というかそれがないと人とのコミュニケーションは成り立たない。

つまりはコミュニケーションの手段である。だから目的を達成するための手段に必要でないならそういう概念を捨てて自由に考えていい
創作の世界ではそれは有効だし、時間を守れない、守らない。遅刻するというのも結局、本人の目的によってその価値を判断するのは自分だけである。
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