[過去ログ] ■■■死恐怖症(タナトフォビア)37棺目■■■ (1002レス)
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(1): 2020/08/25(火) 20:41:04 ID:JY1RyU9T(1/6)調 AAS
>>397
特定のクオリアが特定の座標に依存していること自体は、唯物論でもまあ不思議なく説明できるよね。
いちご食べた時に「あのいちごの甘さ」がクオリアとして生じている。その時に脳味噌の活動見れば、「Aニューロン」の活発な活動が起きていると。だからこの両者に相関が(因果までは立証できないのだが)あることは一目瞭然。
これは唯物論のお話。じゃあ、いまのこの私の意識が、なぜあなたの肉体にではなく26年前に誕生したこの肉体に紐付けされなければならなかったのか、同時代には70億の人間がいるが、なぜこの肉体からこの意識が紐付けされるようになったのか、については物理的な説明ができんのだよ。
唯物論でこの私性を説明しようとどうなるか?・・・こうなる。70億の人間の脳の中で、私の脳にだけ特別なニューロン(粒子でも何でもよい)が存在し、それによってこの脳がこの意識と結びついたのだ、と。これっておかしくないか。唯物論では、全てが物質から説明されるってだけでなく世界のすべての物質は均質な性質をもつと仮定してる。にもかかわらず、私を生み出す唯一の!ニューロンや粒子がこの世にあることになる。もしあるとしたら唯物論は成立不可能だし(なんでそんな特別な存在が2020年に存在しているかわからない)、もしないとしたらこの私がこの脳から生じていることは
物質で説明できないことになるから、やはり唯物論はここで破綻する。この私という特殊なパースペクティブを世界に位置付けようとした時には、だから、唯物論は破綻せざるをえないんだ。唯心論も同じように破綻する(説明は自分で考えてみてほしい)。

もちろん、唯物論が私を説明し得ないからといって、いきなり非物質的な魂の存在が導かれるわけでもない。でも唯物論になにか違和感を感じている人からしたら、とりあえずこの破綻にその一因があるかもしれない、と思ったわけです。
402: 2020/08/25(火) 20:47:07 ID:JY1RyU9T(2/6)調 AAS
ちなみに、物質も心も世界をそれだけでは説明できないと言う議論は哲学の歴史ではライプニッツ が初めに注目していたんだ。彼の神学の議論とかはまあ現代人からしたらそんなに興味をひかないけど、「世界には物質と心だけでは説明できない領域がある。それは、どの視点から世界が見えているのか、というパースペクティブの問題だ。この、パースペクティブ性と心、物をそなえた単位を新しくモナドと名付けよう!」と彼は言ったんだね。これはすごいことだと思う。
403: 2020/08/25(火) 20:59:53 ID:JY1RyU9T(3/6)調 AAS
>>400
そのコメントの無神経には呆れる。彼らは、多分自分自身の無の恐怖をブログ執筆者に肩代わりしてもらおうと思ったんだろう。しかし、私もこの問題を考えたことがあるけど、果たして自分の臨終の間際に周りから「天国でお会いしましょう」なんて言われてもいらいらするだけだろうとも思うのだ。我々は臨終のベッドで何を思うんだろう、周りの人間になんと声をかけたものだろう。私はこう言おうと思っている。
「君たちもわかってると思うが、私は安易な慰めが一番こたえる。死の恐怖をあなたは知っているか、無に向かい合っているこの私の真剣な眼差しの意味があなたにはわかるか。あなたはそれを生涯しることはないだろう。私は常にこの瞬間だけを考えて生きてきた、臨死のときだけ死を思うあなた方とどうか一緒にしないでくれ、あっちへいってくれ」と。信仰のある人はそれを支えにこの瞬間に望むのだろう。
しかし信仰のないものにとって臨終とはなんなのか。

私は絶対に「ありがとう」なんていいながら死にたくはない。「いやだ、いやだ。無だって。永遠に無だって!それはどういうことなのか。本当にそうであるのか?」と最後まで煩悶して死ぬだろう。ここにいる人は臨終の席で知り合いに感謝したかったりするのだろうか。私はとてもそんな気がおきないと思うのだが・・・。
404: 2020/08/25(火) 21:13:08 ID:JY1RyU9T(4/6)調 AAS
長くなって申し訳なかった。私は決して宗教を軽視してないし、自然科学も最大限尊重されなければならないと思っている。だがまったく確実性のない論拠で自分に不死を思い込ませようとしたり、死なんてなんでもないから無でも別にいいじゃないか、といった無に戦慄したことのない人間の意見に納得したりすることはできないのだ。理性と生への渇望は対立し合う物だから。
私が以前読んで、非常に得ることの多かったエッセイを紹介させてください。それは神学者ティリッヒ博士の死を間近に控えた態度についてです。キリスト教の信徒であり世界的な学者でもある彼は、しかしキリスト教のみに満足することはできなかった。また、彼は多分に懐疑的な学者でもあったので不死を頭から信じ込むこともできなかった。彼は死の恐怖とこれまでの学者としての経験からどんな死生観を持ち、どんな確実性と不確実性の中で死んでいったかが詳細に書かれています。
このエッセイから私は哲学へ一時のめりこんでいったのですが・・・まあ私のことはどうでもよいでしょう
外部リンク[html]:noro.eucharistia.tokyo
407: 2020/08/25(火) 21:35:50 ID:JY1RyU9T(5/6)調 AAS
>>396
意識の内容の中で、いきいきと感じられるものをクオリアといいます。レモンのすっぱさ、夕焼けの赤、好きな音楽を聴いてる時のぞくぞくした感覚などすべてクオリアです。一応、人間の全員がこのクオリアをもってるらしいということがこの世界の前提であるようです。今世界には70億のクオリアが発生している現場がある。だが、それらクオリアの中で、なぜこの私のクオリアだけが感じられるのか、か謎だと言うことを話しています。
408: 2020/08/25(火) 21:37:25 ID:JY1RyU9T(6/6)調 AAS
唯物論を全く正しいと仮定する。神経、脳の決定論も正しいと仮定する。そして考えていくと、私の私である理由は神経でも物理でもない、たんなる偶然であると言うことがわかった。
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