[過去ログ] 世田谷区 (1001レス)
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944: 2020/06/05(金) 23:04:25.25 ID:SGR7YQ/x(1)調 AAS
おかやま 川原で起きた悲劇

きっかけは明治4(1871)年に公布された『賤民廃止令』だった。江戸時代を通じて、厳しい階級制度、身分差別が定着していた。
この時、士農工商のさらに下に"エタ"や"非人"などの身分が設けられた。被差別部落である。
そして、今の時代ではおよそ信じられないのだが、多くの農民らは被差別部落の人々は、異国人の末裔で、肉食や屠殺もいとわない卑しい身分と信じていた。
その差別は容赦ないものとなっていった。
差別は熾烈を極め、農民とすれ違う時は、エタや非人は必ず顔面を地面にすりつけるまで土下座しなければいけなかった。
祭礼の時、農民は屋内に上がることが許されても、被差別部落の人々は土間や地面のゴザで待機。農民と同じ食器を使ったり、
料理を食べることは、穢れが移るからといって、決して許されなかった。
しかし、明治新政府は明治4年に突如『賤民廃止令』を公布。身分差別を撤廃すると宣言した。
明治新政府の真の狙いは、被差別部落の人々から"免税特権"を取り上げて、全国民からあまねく税金を取り立てるようにし、
政府の財政基盤を強化しようとしていたという。
ところが、農民にとっては我慢ならないものだった。それまでバカにし、蔑み、汚らしいと下に見ていた被差別部落の人々と、
対等に接せよというのだから

被差別部落の側にとっては、つもりにつもった屈辱をようやく晴らせるときがやってきたのだ。谷の被差別部落の人々の少なからずが、正々堂々とふるまい始めた。農民への卑屈な挨拶をやめたり、時には風呂屋で一緒に風呂に入ったりした。

だが、農民側はキレた。完全な逆ギレ、八つ当たりへと発展したのである。なんと谷のほぼ全域の農民が竹槍などを手に、
対等にふるまおうとする被差別部落の村々に殺到した。圧倒的な数である。
ほとんどの被差別部落の村では言いなりになるしかなかった。土下座を強いられ、証文を書かかせられ、
『エタでようござんす』と屈辱の誓いを強いられた。しかし、谷の被差別部落の村の中で、ただ一つだけ、屈服を拒み、抵抗を貫く覚悟を決めた村があった。

"おかやま 川原"である。

村人は、村を放棄して、裏山から脱出をはかった。中には県境を越えて、逃げた者もいたという。しかし、逃げ後れた人々も多数でた。
重平と、妻のろくは、幼い子供二人と物陰にひそんでいたが、逃げる途中に追っ手の農民に見つかった。
重平は頭を竹槍で突かれた。ほぼ即死となった。赤ん坊を背負ったろくは、左足を槍で突かれて、200m近い高さの崖から突き落とされた。
74歳の老婆さきは、4〜5人の追っ手の男に見つかり、竹槍で全身を突き刺された。そして生きたまま火をつけられ、絶叫。狂い踊りながら火だるまになった。
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