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(3): 老クリスチャン 2017/02/17(金) 09:18:01.80 ID:kCmOKxSp(1)調 AAS
2011年(主日A年) 2月20日 年間第7主日
レビ 19:1-2,17-18  Iコリ 3:16〜23  マタ 5:38〜48

ミサの中で聖書の朗読を聞く人は、御言葉を通して語られるキリストに聞くのです。
カトリック教会のミサは、通常 “ローマ典礼様式”(典礼憲章 3) であって、それは “ことばの典礼” と “感謝の典礼” の二つの部分から成っています(ミサ典礼書の総則 8)。
そこでキリストは会衆に、“神のことば” と “御聖体” という二つの形で出会ってくださいます。

ですから、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」 「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。 このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です」 というのが、私たちの立地点です(エフェ 1:7, 2:8)。

ところが、救いの中にいないこの世の人々が聖書を読む場合には、イエスの山上の説教が典型的な “救われるための条件” のように受け取られるのが普通です。
世間では各種の “How To もの” と呼ばれる書物 (育児、料理、就活、婚活など) が氾濫していますが、まさに聖書は昔からそのような “How To もの” の先駆けでありました。
先週の学びの中で、各種の “律法主義” に言及しましたが、その意味は “律法によって義とされようとする”(ガラ 5:4) ということです。
それを実現するためには、“そういう人は律法全体を (完璧に) 行う義務があるのです”(ガラ 5:3)。

しかも主イエスは、律法をただ形式的に守るだけではなくて、さらにその本来の意図をも十分に理解することが必要であると教えました。
ユダヤ人にとってすでに “先祖も私たちも負い切れなかった軛”(使 15:10) である律法が、このイエスの教えによって今までよりも “分かりやすく”、“行いやすく” なったなどという話では全然ないのです。

恐らくそれに対する唯一の解答は、使徒パウロの次の言葉です。
「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。 決してそうではない。 むしろ、律法を確立するのです。」(ロマ 3:31)
そしてこれを理解する鍵は、イエスの山上の説教を初めとする数々の教えが、そもそも “救われるための条件” のようなものではないことに気づくことなのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
938: 2017/02/17(金) 09:55:02.87 ID:YCddc1US(1/3)調 AA×
>>937

939: 2017/02/17(金) 10:03:04.72 ID:YCddc1US(2/3)調 AA×
>>937

942: 2017/02/17(金) 23:05:22.62 ID:YCddc1US(3/3)調 AAS
>>937
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
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