[過去ログ] 【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学 (650レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) レス栞 あぼーん
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
276: 老クリスチャン 2016/01/28(木) 17:12:24.23 ID:N97mG6Q+(1/4)調 AAS
【信仰の話 -5-】
私たちが (個人として) 福音を学んだり、福音を宣教するとき、それは実際には教会の奉仕に参加しているのです。
たとえそれが個人の行為のように見える時にも、それは神から教会にゆだねられた責任に於いて、教会の奉仕の一部としてなされているのです。
もしそうでないなら、これを 「福音の学び、福音の宣教」 と呼ぶことは、用語上矛盾していることになります。
なぜなら 「キリストの福音」 は 「教会にゆだねられた宣教の内容」 であって、教会を離れては意味をなさないからです。
教会から切り離された個人が行う聖書の研究も、また聖書から得た真理や価値観を実行することも、それらは学問や倫理ではあっても、福音の学びや宣教とは根本的に別のものなのです。
私たちは、聖書の証言を通して福音を学ぶのですが、それを 「聖徒の交わり」 の中で行います。
それは、単に現在だけではなくて、過去の全キリスト教会の歩みと思索と認識との関連における 「聖徒の交わり」 です。
277: 老クリスチャン 2016/01/28(木) 17:13:36.56 ID:N97mG6Q+(2/4)調 AAS
【信仰の話 -6-】
私は神学校を卒業してから既に50年になりますから、自分の同窓の友だけでなく、その他にも多くの牧師や信者たちを見て来ました。
熱心にキリスト教関連の勉強をしたり、聖書を研究する人たちにも出会いました。
その中には、健全な信仰者もいれば、はっきり言って怪しげな自称キリスト教知識人も可成り混在していました。
過去の教会の歴史を尊重するという姿勢に欠けた、自己流の独善的な福音理解を、自慢げに語る知識人のことです。
ギリシア語やヘブライ語が読めるというので、さも自分は一人前の聖書学者にでもなったように錯覚している、自称知識人です。
聖書を翻訳によらずに、原典で読んで、自分の現代感覚で解釈してしまうことは、最も愚かな行為です。
聖書神学には、永い釈義の歴史があって、現代の聖書翻訳は、その膨大な知識の富を深く学ぶことによって行われているのです。
ところがそのような素養のない自称知識人が、辞書を頼りに原典を自己流に読んで、いかにも得意げに 「この箇所の日本語は誤訳だ」 などと言ったりしているのです。
278: 老クリスチャン 2016/01/28(木) 17:15:11.46 ID:N97mG6Q+(3/4)調 AAS
【信仰の話 -7-】
私たちがそれぞれの能力や時間の制約の中にあっても、自分なりに 「キリストの福音」 を学ぼうとするなら、いくらでも日本語で良い助けを見出すことが出来ます。
先ず、日本語の聖書を、その翻訳への十分な敬意を払って読むことです。
現行の日本語聖書として主なものは 「新共同訳」 と 「フランシスコ会訳」 の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません。 ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです。
聖書の注解書は、もちろん大切なのですが、自分の能力に見合う良書に出会うのは簡単ではありません。
これは、いちばん当たり外れの多い、学習者泣かせの分野だと思います。
第三に、歴史的な (プロテスタントの) 信仰問答や信仰告白と呼ばれる多くの書物が、ほとんどすべて日本語になっています。
是非、(一冊だけでなく) 何種類かを読んで、出来るだけ柔軟な思考を養うようにしましょう。
カトリックの場合は、やはり 「カトリック教会のカテキズム」 をお勧めしたいと思います。
279: 老クリスチャン 2016/01/28(木) 17:16:36.12 ID:N97mG6Q+(4/4)調 AAS
【信仰の話 -8-】
聖書の証言である 「キリストの福音」 を宣教するために、歴史の教会は様々な仕方で努力して来ました。
そしてそれらは常に、その時代、教会の置かれた状況に応じての、一つの 「試み」 でありました。
「キリストの福音」 は、それ自身に於いて無限であり、無尽蔵であって、神学のどのような試みによっても完全に説明し尽くすことが出来ないからです。
教会は、そのような過去の先人たちによる、多くの 「試み」 の果実という遺産を持っています。
しかし私たちがそのような果実のどれか一つに、時代を超えて不変不動に固執することはふさわしくありません。
私たちはそれらの遺産を、十分な敬意を抱いて学びつつ、しかも常に新しく現代における 「試み」 に向かいます。
その場合にもその 「試み」 は、旧・新約聖書の厳密な釈義に由来しなければならないことは当然です。
なぜなら、もし聖書の釈義を軽んじるような 「現代の新しい福音解釈」 などというものが語られるなら、それはただの人間的な思弁に過ぎず、教会の 「宣教の奉仕」 にはふさわしくないからです。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ
ぬこの手 ぬこTOP 2.041s*