[過去ログ] 【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学 (650レス)
上下前次1-新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
418: 老クリスチャン 2016/06/21(火) 18:49:30.29 ID:5msoxeLj(1)調 AAS
When The Saints Go Marching In
外部リンク[html]:www.kuwaei2000.com
419: 老クリスチャン 2016/06/23(木) 11:30:25.29 ID:l+8bV7Sc(1)調 AAS
今年の 「聖書講義」 <2016-3> に、
4.初期カトリシズム
5.ユーカリスト(聖餐)の起源
を追加しました。
外部リンク[html]:www.kuwaei2000.com
この小論によって皆様が、教会の "生きた体験的な信仰の遺産" への理解を持ってくださることを期待します。
2ch の似非知識人たちが、聖書から機械的に読み取った記述に基づいて、"これが本来の方式だ" "これが正しい聖餐の意味だ" などと新奇な主張をしていることへの、健全な批判力を養うために ・ ・ ・ ・ ・
420: 老クリスチャン 2016/06/24(金) 12:41:42.17 ID:uzx84HsP(1)調 AAS
2001年(主日C年) 7月1日 年間第13主日
王上 19:16b,19~21 ガラ 5:1,13~18 ルカ 9:51~62
1.ルカ vv.51-56
主イエスが御自分の受難のために、エルサレムへと向かう決意を固められたときの二つの物語りが朗読されました。
ルカ福音書はこれらの物語りを、紀元前9世紀の北イスラエルの預言者であったエリヤとエリシャの思い出と重ね合せて語っています。
イスラエルの神ヤーウェの預言者であったエリヤとその後継者エリシャの物語りは、カナンのバアル礼拝の北イスラエルへの侵入に対するヤーウェ宗教の戦いの物語りです。
イエフ王の革命 (王下 9-10章) によって一旦終結したこの戦いは、当時のイスラエルにおける二つの世界観の戦い、すなわちヤーウェ宗教対バアル宗教の戦いでありました。
エクロンの神バアル・ゼブブの助けを求めようとしたアハズヤ王の使者の一群の前に姿を現したエリヤは、天からの火によって彼らを焼き滅ぼしたと伝えられています(王下 1章)。
エルサレムへ向かうイエスを歓迎しようとしなかったサマリアの人々も、天からの火によって焼き滅ぼされるべきだったのでしょうか。
「イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」(vv.55-56)
神の裁きの日は将来に待つべきであって、今は主イエスは神の国のための受難に向かってまっしぐらに進んで行かねばなりませんでした。
そして弟子たちに求められていたのは、ひたすらその主に従って行くことでありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
421: 老クリスチャン 2016/06/25(土) 11:07:38.44 ID:pes9Pc0L(1)調 AAS
2010年(主日C年) 6月27日 年間第13主日
王上 19:16b,19-21 ガラ 5:1,13-18 ルカ 9:51~62
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカ v.62)
この聖書の言葉から、これまでどれほど多くの人々が感動を受け、私生活や事業のための指針を得て来たことでしょうか。
その人にとって、目標や目的が明確であり、それに向かって進む励ましを得たことを感謝しているのであれば、それは素晴らしいことです。
しかし、キリスト者として聖書に耳を傾けることは、そこから神のことば (福音 ! ) を聞くためであることを、私たちは決して忘れてはなりません。
実際、多くの人々が聖書から、神のことばではなくて、人生の指針や教訓のようなものを読み取って、 ・・・・・ それはしばしば見当外れなものでした ・・・・・ 、しかもそれに固執して "いっぱしの主義や主張" を唱えて来ました。
そのような中には、狂信的なキリスト教原理主義も含まれています。
"キリストに従う"、"キリストに服従する" という主張が、かけ声としては立派に聞こえても、もしその意味内容が不明確であるなら、それは "肉に従って生きる"(ロマ 8:12-13) ことでしかありません。
"自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、従いなさい"(ルカ 9:23) という呼びかけも、"単なる覚悟" だけで、自分の十字架を背負うことの意味が正しく理解されていないなら、キリストにあってはただの "損失"(フィリ 3:7-8) なのです。
"福音理解" が不明確で、"信仰の中身" が曖昧なままで、しかし党派心にかけては人一倍強いというのが俗人の常であることを、ルカ vv.53-54 からも私たちは思い知らされます(ヨハ 4:20 参照)。
エキュメニズムに関する教令 24 にある、「あらゆる軽率と無謀な熱心を避けるよう勧告する」 とは、恐らくそのような意味であろうと思われます。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
422: 老クリスチャン 2016/06/28(火) 07:42:54.05 ID:MlZ9FJmQ(1)調 AAS
「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。
しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」
(フィリ 3:15)
423: 2016/06/28(火) 20:36:27.95 ID:t51mjB9t(1)調 AAS
所の番組で不動を扱ったものがあったが空海も含めてみんなまだ騙されてる。
不動は長いこと人類を騙してきてばれて毒殺抹消対象となった。
みんな騙されておまいりすると一緒に処罰抹消される。
424: [J] 2016/06/28(火) 20:36:59.15 ID:0orxDlqb(1)調 AAS
意味から入ること。
425: 2016/06/30(木) 15:24:29.55 ID:10+meQWU(1)調 AAS
何度も騙される 騙されやすい日本人の例
外部リンク[html]:ameblo.jp
Twitterリンク:NeverBornMaster
=具体例=紙幣の不思議2さん、福田元昭さん、ハムレットの水車小屋さんRAPTさん、ネット探偵のBlogさん、donさん…
等々。
陰謀論でくくるのは妥当でないかも知れませんが、彼らは政治を見るセンスが抜群です。
視点が、日本人のレベルじゃない。
=陰謀家のさらに上=苫米地英人さん、カレイドスコープさんは犯罪心理学の技術で政治を観ています。2人はむしろ警察に近い。
=自考力=確かに一番大切なのは自考力です。情報を丸呑みせず、自分の頭で考え直すことが一番大切ですが、戦後70年間の詰込
み教育で、自分で考えない国民性にされました。
自分の頭で考えないのが、日本人の特徴です。
今すぐ自考力なんて無理です。
なのに日本滅亡が(今)迫っている。
日本人が、苦手な政治を観る時に(今)頼りにするなら、陰謀論の6人、犯罪捜査の2人が参考書になるでしょう。
=陰謀論は事実です=例えばロシアの様に、国民も政府も同じ方向を向いている国なら陰謀論なんて不要です。
ところが日本は世界一スパイに汚染された国です。
日本の政治はスパイだらけ=91%が 海外政党。
2016参院選(7/10)は命を決める選挙
外部リンク[html]:ameblo.jp
426: 老クリスチャン 2016/07/01(金) 09:43:57.87 ID:CUwmh6bT(1)調 AAS
2007年(主日C年) 7月8日 年間第14主日
イザ 66:10~14 ガラ 6:14~18 ルカ 10:1~20
初代教会にとって神の国の宣教は、過去の思い出ではなくて、現在ますます全世界に展開しつつある教会の活動でありました。
天上の主は、"世の終わりまで" この宣教活動と "共にいてくださる"(マタ 28:20) という確信を、聖書は私たちに伝えています。
ルカ福音書の七十二人の派遣の記事は、初代教会の宣教がユダヤ人の領域 (マタ 10:5-6) を超えて異邦世界にまで拡がって行ったことを反映しているものと思われます。
宣教の主題は 「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ v.9) であり、さらに 「神の国が近づいたことを知れ」(ルカ v.11) であって、彼らの挨拶 「この家に平和があるように」(ルカ v.5) はキリストの終末的な救いの訪れを意味していました。
現代の通俗的な理解では、平和運動を推し進めることがキリスト教の使命であるように考えられていますが、その場合に人々が言う平和とは、戦争や紛争が存在しないという理想郷を創り出すことであって、キリストの与える救いとは何の関係もないものです。
聖書はそのような通俗的な理解と区別して、「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」(ヘブ 13:20) を明確にしています。
信じる者が 「この御子において、その血によって贖われ、罪を赦される」(エフェ 1:7) 福音を告げ知らせることが、「この家に平和があるように」 であり、「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ 2:14) なのです。
しかし20世紀の教会は、代々の教会が使徒継承によって受け継いで来た "キリストの終末的な救いの訪れの宣教" に代えて、"教会の政治的社会的活動" こそが緊急性を持っていると解釈して来ました。
全世界のカトリック教会の今朝のミサで、福音の朗読を通して人々は宣教のことばを聞かされています。
「神の国はあなたがたに近づいた」(ルカ v.9)、「神の国が近づいたことを知れ」(ルカ v.11)と。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
427: 老クリスチャン 2016/07/02(土) 12:43:53.86 ID:pTK1p7HU(1)調 AAS
2010年(主日C年) 7月4日 年間第14主日
イザ 66:10~14 ガラ 6:14~18 ルカ 10:1-12,17-20
1.ルカ
我が国の現在の翻訳聖書では、福音書の中の段落毎に、他の福音書に共通箇所がある場合にはそれが示されています。
今朝の福音書の朗読部分にそれが欠けているのは、これがルカ特殊資料と呼ばれるものだからです。
この部分はおおむね マタ 9:37-38, 10:7-15 と共通していて、ルカは同じ資料を使ってこの物語りを書いたと推測されます。
私たちは、イエスの語録や御業に関する伝承がいくつもの段階を経てその材料として採用された、いわば "出来上がった福音書" を読んでいるのです。
そういう意味での、そのあるがままの聖書から、神が現在の私たちに何を語っておられるのかを聞くという姿勢が、主の羊である私たちには大切なのです。
イエスは御自分が自ら進み行くのに先立って、72人を派遣されました(ルカ v.1)。
彼らの使命は、ルカ 9:2 にもある通り、"その町の病人をいやし、神の国はあなたがたに近づいたと宣べ伝える" ことでありました(ルカ v.9)。
恐らくルカ福音書はここで、キリストの福音が当時の地中海世界にくまなく伝えられて行った使徒たちの宣教を、念頭に置いていたことでしょう。
神の国を宣べ伝えることと、キリストの福音を宣教することは一つでありますから、これを切り離したり、一方を除外して他方のみを語ることは出来ません。
キリストの福音は、私たちを罪と死と悪魔の支配から救う神の力ですから、使徒たちの宣教には病人を悪霊から解放するいやしが伴いました。
しかし、イエスは言われました。
「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。 むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ v.20)
"信じる者すべてに救いをもたらす神の力"(ロマ 1:16) である福音が、確かに宣教されているということがなければ、教会のどのような慈善も愛の奉仕も、それだけでは "神の国を宣べ伝えている" ことにはなりません。
"その名が天に書き記されている人々"(ダニ 12:1) の意味を、真剣に考えるようにしましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
428: Survant 2016/07/03(日) 15:44:16.37 ID:KbBiUpze(1)調 AAS
三文説教師
429: 2016/07/05(火) 22:25:16.73 ID:GmBdXRiC(1)調 AAS
・戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事 で検索 。。
国民の生活が第一なんてことは間違ってると私は思います
動画リンク[YouTube]
自民党政務調査会長 「国を護るには血を流さなければいけないんです!」 - YouTube
動画リンク[YouTube]
「憲法改正させましょう。基本的人権、国民主権、平和主義、この3つをなくさなければならない」
動画リンク[YouTube]
クイズだと言ってパヨクが大いに騒いだこの国会での討論で
安倍が憲法を全く知らないことが明らかになった。
安倍総理の憲法への無知・無責任を明らかにした
小西ひろゆき参議院議員の質疑(2013329参議院予算委員会)
動画リンク[YouTube]
1988年発表の創価学会の改憲の危険性を描いた漫画。
外部リンク[html]:seoul-life.blog.jp
創生「日本」東京研修会 第3回 平成24年5月10日 憲政記念会館
動画リンク[YouTube]
自民党 稲田朋美「憲法改正に具体的な考えがない政党と議論は出来ないから争点に出来ない」 国民の意見は完全に無視
2chスレ:poverty
430: 老クリスチャン 2016/07/08(金) 15:04:38.50 ID:0J7YbWJO(1)調 AAS
2001年(主日C年) 7月15日 年間第15主日
申 30:10~14 コロ 1:15~20 ルカ 10:25~37
今朝朗読されたルカ福音書の物語りは、マルコ福音書をかなり大胆に切り刻んで再編集することによって、独特のメッセージを教会に伝えようとしています。
マコ 12章 の一連の物語りが ルカ 20章 に再録されているのですが、その中の マコ 12:28以下 の部分が切り取られて、マコ 10:17 と結びつけられて、今朝の私たちの福音のテキストとなっています。
さらにそこに登場するサマリア人の行動は、代下 28:14-15 の物語りと奇妙に一致します。
恐らくこのテキストの中には、通常私たちが読み取る以上の多様なメッセージ群が秘められていると思われるのです。
先ず注目したいのは ルカ v.28 です。
私たちはこのイエスの言葉を、21世紀の初頭に立っている現代の教会への呼びかけとして受けとめたいと思います。
私たちは御子の十字架の血によって贖われ、罪の赦しをいただいて教会に加え入れられました。
しかし "救われた" ということはそこに安住すればよいものではなくて、"目標を目指してひたすら走る" ことなのだと、ルカ福音書はここで訴えているように思えます(フィリ 3:10-14 参照)。
多くの人々がこの物語りを、キリスト教の博愛主義や人道主義的理解の材料と理解して来た歴史があります。
しかしこのテキストを正しく読むなら、ルカ v.28 で 「それを実行しなさい」 と言われているのは ルカ v.27 のことであって、ルカ v.30以下 はその例示です。
ルカ v.27 から切り離して ルカ v.30 以下の物語りだけを独り歩きさせてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
431: 老クリスチャン 2016/07/09(土) 12:33:27.32 ID:n1ee8iOx(1)調 AAS
2013年(主日C年) 7月14日 年間第15主日
申 30:10~14 コロ 1:15~20 ルカ 10:25~37
「戒めと掟」(申 v.10) という表現から、しばしば人は戒律や道徳律のようなものを連想しますが、申命記はこの箇所でこれを 「御言葉」 と呼び換えています(申 v.14)。
そして使徒パウロはこれを引用して、さらに 「信仰の言葉」 と言い換えました(ロマ 10:8)。
それは "十字架の福音"(Iコリ 1:18) であり、"和解の福音"(IIコ リ5:19、コロ 1:22) に他なりません。
この御言葉は、神の民である私たちキリスト者の "ごく近くにあり、口と心にある"(申 v.14) べきものであって、
これを繰り返し読み、学び、理解し、"家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも"(申 6:7) 心に留めることが、"主を愛し、隣人を愛する"(ルカ 10:27) ことと決して切り離せない関係にあることを、
現代のキリスト者は知らなければなりません(申 6:4-9 参照)。
庭に撒いたパンくずに群がる雀たちの中に、初めて親に連れられて来た小雀がいて、目の前に餌があっても自分では啄まないで親鳥に食べさせてもらっていることがありますが、一日経って次の日になると、もう自分で餌を啄むように成長するものです。
そのように、カトリック教会の信者も明日には、自分で聖書を読み自分で学ぶ一人前の信仰者に成長しなければならないのは当然のことです。
普通の人なら、聖書全巻を一通り読むのに、一年以上もかかったりはしないでしょう。
それは決して 「難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」(申 v.11) ことを、各自の体験を通して実際に感謝出来るようになろうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
432: 2016/07/11(月) 08:38:49.94 ID:mSjX43br(1)調 AA×

433: 老クリスチャン 2016/07/14(木) 17:41:53.69 ID:rBD1R5u5(1/3)調 AAS
2013年(主日C年) 7月21日 年間第16主日
創 18:1~10a コロ 1:24~28 ルカ 10:38~42
「 ・・・・・ どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。」(創 v.3)
旧約聖書を繰り返し読んでいると、イスラエルの長い歴史の中で語り継がれて来た深い信仰的思索の数々に出会います。
この食事をもてなすアブラハムの物語りが、神のことば、すなわち神の約束 (ロマ 4:13) を聞く熱意をどれほど強調して述べているかに気付くと、私たちは驚きを感じないではいられなくなります。
スーパーで食材を買って来て調理するのとは違って、パンを焼くために小麦粉をこね、肉料理を作るために子牛の解体から始めるという途方もない大仕事が、ただ神への熱意のためにだけ描かれているのです。
そのような熱心が、キリストの福音を聞くために、教会には必要なのです。
主の足もとに座っているマリアは、絵画の中に描かれた慎ましい婦人像でも、また敬虔や美徳の象徴でもなくて、私たちに "神のことば" を聞く熱意を促す 「キリストの使者」(IIコリ 5:20) の一人なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
434(1): 2016/07/14(木) 17:57:57.97 ID:6lB91JJy(1/3)調 AAS
老クリさんは創世記3章の、
善悪の知識の木の実、命の木の実を、
何の比喩あるいは象徴だと思っていますか?
435(1): 老クリスチャン 2016/07/14(木) 18:14:50.96 ID:rBD1R5u5(2/3)調 AAS
>>434
別に、比喩だとも、象徴だとも思っていません。
436(1): 2016/07/14(木) 18:25:03.50 ID:6lB91JJy(2/3)調 AAS
>>435
どういうことですか。善悪の知識の木とは具体的に何のことですか。
命の木とは具体的に何のことですか。
善悪の知識の木の実を食べると、なせ楽園を追放されなければ
ならないのですか。善悪の知識の木と、命の木との関係は何ですか。
なぜ人間は命の木の実を食べられないのですか。
437(1): 老クリスチャン 2016/07/14(木) 19:21:43.27 ID:rBD1R5u5(3/3)調 AAS
>>436
聖書が語っていないことを、「それはこういう意味だ」 とか、「それは○○の象徴だ」 などと、
さも分かったように説明してみせるのは、見当外れなことです。
「善悪の知識の木」 とは、神が 「決して食べてはならない」 と言われた対象であり、
この神話の中で男と女の二人が、そこから実を取って食べた木です。
「命の木」 も、人が手を伸ばして取って食べる危険があることを神が危惧して、彼らをエデンの園から追い出された木です。
その神話を通して語られているイスラエルの神理解と信仰に、
つまり舞台装置や小道具ではなくて、
ドラマを通して語られるメッセージに耳を傾けることが、正しい聖書の読み方だと思います。
438: 2016/07/14(木) 21:10:40.28 ID:6lB91JJy(3/3)調 AAS
>>437
>つまり舞台装置や小道具ではなくて、
>ドラマを通して語られるメッセージに耳を傾けることが、
>正しい聖書の読み方だと思います。
そのメッセージは何でしたか、という意味の質問だったのですが、
肩透かしを食らったような感じです。
でも、老クリさんの誠実そうな人柄は伝わってきましたよ。
真剣勝負、ありがとうございました。
439: 老クリスチャン 2016/07/15(金) 12:44:51.42 ID:ahCzcUDp(1)調 AAS
2007年(主日C年) 7月22日 年間第16主日
創 18:1~10 コロ 1:24~28 ルカ 10:38~421.ルカ
ルカ福音書が伝えているこの伝承では、マルタは "もてなしのためにせわしく立ち働く女" であり、それに対してマリアは "主の足もとに座って、その話に聞き入る女" であります。
ルカが、この伝承を用いることによって訴えようとしたのは、"御言葉に聞く" ことの大切さでありました。
そしてそれは、当時の状況においては、"初代教会の宣教する福音に聞く" ことであったことを理解しましょう。
異邦人世界に急速に成長して行った初代教会において、共同体とその集会のために世話をする仕事の量が増大したとき、それでもなお教会にとって "本質的に必要なことはただ一つだけ" であることを訴えたのです。
教会にとっても、一人一人のキリスト者にとっても、キリストの福音に耳を傾けることは最も大切なことです。
なぜならそれは 「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ロマ 1:16) であり、キリスト教存続の 「よりどころ」(Iコリ 15:1) だからです。
それは聖伝と聖書によって伝えられていて、だれでもその母国語で読んで理解することが出来ます。
大変残念なことに、現代の教会で実際に語られている説教は、カトリックでもプロテスタントでも、かなり怪しげなものが殆どであると言わなければなりません。
ドラえもんのアニメ物語りのように、次々と創作されるイエス物語りと道徳的訓話、現代の社会問題や世界平和をテーマにした新作キリスト教講話が一方にあり、
他方には説教者が聖書の中から切り出したあるテキストを材料にして、個人的な所感を述べる独演会が、会衆と "使徒たちが伝えた福音" との間を隔てて来ました。
今朝の福音の朗読を通して、天上のキリストは私たちに呼びかけておられます。
"必要なことはただ一つだけ" なのだと。
それは、信者が自ら聖書を開いて、自らそれを読むことによって、"徒たちが宣教した福音" に聞き入ることなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
440: 老クリスチャン 2016/07/16(土) 11:04:44.05 ID:i9SaAzua(1)調 AAS
2010年(主日C年) 7月18日 年間第16主日
創 18:1~10 コロ 1:24~28 ルカ 10:38~42
「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」(コロ v.25)
御言葉を伝えることが "務め" であるように、その伝えられた御言葉を私たちが聞くこともまた "務め" であるということを理解しましょう。
この "務め" という用語は元来、食卓で給仕する奴隷の務めを意味しています(ルカ 17:8)。
キリストこそは "主の僕なるメシア" でありますから、キリスト者はこの "主の僕なるメシア" に仕える "しもべ" です。
そこで、この "御言葉 (福音)" の内容が正しく理解され、語られ、また聞かれなければなりません。
それが 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」(コロ v.26) です。
現代のカトリック教会で、各国のそれぞれの小教区のミサで、司祭たちはこの 「秘められた計画」 を伝える務めを果たしているでしょうか。
私たち信者は、この 「秘められた計画」 を理解するために、聖伝と聖書に "聞き入って" いるでしょうか。
天上のキリストの声が今朝も私たちに、「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1:15) と、祭壇から、また聖書朗読台から呼びかけています。
あなたにはそれが聞こえていますか ?
この 「秘められた計画」 とは、異邦人である私たちが今やキリスト・イエスの救いによって、来るべき御国を受け継ぐ者とされたということです(エフェ 3:6)。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ 1:7) という救いの事実が明確に捉えられている人々 ・・・ 聖なる者たち(コロ 1:2) ・・・ にとって、 「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(コロ v.27)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
441: 2016/07/17(日) 11:27:06.66 ID:atvZk1TH(1)調 AAS
日本にいるのに
どーして、クリスチャンかなーっ
442: 2016/07/18(月) 11:12:48.35 ID:k6n8qmNB(1/2)調 AAS
大いなる秘密「爬虫類人」(レプティリアン)〈上〉超長期的人類支配計画アジェンダ全暴露!!
www.amazon.co.jp/dp/4879191450/
443: 2016/07/18(月) 11:13:10.42 ID:k6n8qmNB(2/2)調 AAS
外部リンク:www.amazon.co.jp
444: 2016/07/18(月) 16:46:43.88 ID:Gx2IJb9z(1)調 AAS
法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。
445(1): 2016/07/18(月) 17:17:18.79 ID:0Rj5aMsX(1)調 AAS
一神教は
信じる者はもれなく天国へ
そうでない者はみな地獄行き
である。
446: 2016/07/20(水) 14:33:21.07 ID:1ZINcIqu(1)調 AA×

447: 老クリスチャン 2016/07/21(木) 10:01:25.65 ID:bumDZx1j(1)調 AAS
若返りましたか。
448: 老クリスチャン 2016/07/22(金) 11:30:00.31 ID:ILMp6d38(1)調 AAS
2004年(主日C年) 7月25日 年間第17主日
創 18:20~32 コロ 2:12~14 ルカ 11:1~13
神がアブラムに新しい名アブラハムを与え、彼を約束を受け継ぐ民の父とされた日から、彼の神に対する関係が変化しました。
すでに老人となっていたアブラハムとサラの間に子供が誕生するに至る物語りの経過の中に、アブラハムとロトの対照的な運命の描写が挿入されます。
そこでアブラハムは、あたかもかつてアダムがそこから追放されたエデンの園に再び戻ったかのように、神と親しく語り合っています。
祝福の使者としてアブラハムの天幕を訪れた三人の使いは、身を転じて裁きの使者となってソドムの町へと向かっていました。
アブラハムは主の御前に進み出て言います。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創 vv.23-24)
キリスト教の現代における使命は、世界に対して正義の弁護者として発言することだと考えている人々が多くいて、それが神に向かって教会がささげるべき祈りの課題であると主張されたりします。
しかし私たちは今朝の朗読配分から、もう一つのメッセージを聞き取る賢さを持たなければなりません。
それは私たちがアブラハムよりも神に向かって目を集中し、耳を傾ける賢さです。
アブラハムはソドムの町に正しい者がとても五十人もいないことを知っていました。
・・・・・ いや彼は、神の目から見て正しい人は、十人どころか一人もいないことを、すでに心の底では感じていたのかもしれません。
神はソドムを滅ぼされましたが、このように熱心に執り成したアブラハムを御心に留めてくださいました(創 19:29)。
アブラハムの弁論が功を奏して、神がご自分の計画を変更されたのではありませんでした。
神は彼を選んで多くの国民の父とし、彼が御自分と親しく語ることを喜ばれたのでした。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
449: 老クリスチャン 2016/07/23(土) 12:34:39.36 ID:8j9x3jTD(1/2)調 AAS
「主の祈り」
450: 老クリスチャン 2016/07/23(土) 12:35:33.31 ID:8j9x3jTD(2/2)調 AAS
2007年(主日C年) 7月29日 年間第17主日
創 18:20~32 コロ 2:12~14 ルカ 11:1~13
さらに "主の祈り" では、罪の赦しの祈願に続いて 「わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」 という言葉が唱えられます。
しばしばこれは、私たちが自分の罪の赦しを獲得するための条件のように受け止められて来ました。
アブラハムは、ソドムとゴモラの町の赦しのために神に祈って言いました。
「もしあの町に正しい者が五十人いるならば ・・・・・・。」 五十人いるなら、それは十分な条件になるように思えました。
しかし実際にはアブラハムは不安になって、その人数を次第に値切り、交渉は成功して最後に十人でも赦そうという神の言質を得たのです。
しかし結果は、その十人さえいなかったのに、「神はアブラハムを御心に留め、ロト (たち三人) を破滅のただ中から救い出された」(創 19:29) のでした。
そこにあったのは、神の憐れみと恵みであって、決して条件ではありませんでした。
私たちキリスト者は、キリストの十字架の血によって罪赦されたのであって、「これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェ 1:7)。
しかし 「思い上がってはなりません。 むしろ恐れなさい」(ロマ 11:20)。
私たちのキリストは、「わたしたちはなんと惨めな人間なのでしょう。 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ 7:24) というどん底から、私たちを引き上げてくださいました。
これが "主の祈り" の正しい解釈であり、すべてのキリスト者の祈りに答えてくださる聖霊の御業です。
アブラハムは神と交渉して、敗れました。
そして、祈りとは神との交渉ではないことを、それはただ神の憐れみと恵みへの信仰告白であることを、証ししました。
すべてのキリスト教の祈りに対する天の父の応答は、聖霊の御業であるという救済史的理解を、私たちは今朝聞かされているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
451: 2016/07/23(土) 12:45:58.39 ID:BO+D2YEN(1)調 AAS
>>445
信じない者は生きているうちから地獄を観ている。
452(1): 2016/07/25(月) 19:05:26.33 ID:j2eFavDa(1)調 AAS
預言者と祭司とは共に神を汚す者である。わたしの家においてすら彼らの悪を見たと、主は言われる。
それゆえ万軍の主は預言者についてこう言われる。
見よ、わたしは彼らに、にがよもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。神を汚すことがエルサレムの預言者から出て、全地に及んでいるからである。
万軍の主はこう言われる。
あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。
453: 老クリスチャン 2016/07/28(木) 14:43:48.40 ID:cPL1VMVq(1)調 AAS
>>>452
先ず、上記の出典。 エレ 23:11,15-16
エレミヤ書では、「主の預言者」 と 「偽りの預言者」 の問題が取り上げられているのであって、決して 「預言者と自称する者すべて」 が否定されているのではありません。
「空しい望み」 「自分の心の幻」(23:16) を語る当時の職業預言者たちと、エレミヤとの論争が繰り広げられました。
そして、ハナンヤとの対決においては、ハナンヤもエレミヤと同じく 「万軍の主」 の名によって預言したので、エレミヤは一旦立ち去らなければなりませんでした(28:9-11)。
しかし遂に、エレミヤは 「主はお前を遣わされていない」 と語ることが出来た 「真の預言者」 であったのです(28:15-17)。
454: X 2016/07/28(木) 21:56:07.29 ID:B9njUBmO(1)調 AAS
◆◆◆神がプログラムしていた人類歴史・預言・神の裁き◆◆◆
外部リンク[html]:blogs.yahoo.co.jp
↑ヨハネの黙示録 20世紀~現代 解説
外部リンク[html]:synchronicity7.seesaa.net
↑神による歴史のプログラム シンクロニシティ-共時性-【概説】
外部リンク[html]:macrospirit.seesaa.net
↑裁き マクロ精神分析
外部リンク:individualspirit.seesaa.net
↑個体精神分析 精神の病を克服する
裁き出てるで
◆◆◆
早く見て確かめて、気づいてね。
455: 老クリスチャン 2016/07/29(金) 10:28:55.82 ID:o1itbe/l(1)調 AAS
2007年(主日C年) 8月5日 年間第18主日
コヘ 1:2, 2:21~23 コロ 3:1~11 ルカ 12:13~21
この物語りは、もし聖書から切り離して語られるなら、富の公平な配分を願って人間の物欲を戒める一つの訓話のようなものになってしまいます。
いつの時代にも、世界は富める者と貧しい者に二極化された社会的経済的構造と無縁ではありませんでした。
主イエスを、このような差別と格差を排するために戦った革命家のように考える人たちがいます。
しかし、そのように考える人は、使徒たちが伝えたキリストの福音を聞いていない人です。
聖書のあのテキストこのテキストを、使徒たちが宣教した福音から切り離して、人間が考え出した各種の思想や主義のために利用することが大いに行われているのです。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」(ルカ v.21)
"神の前に豊かになる" という表現が何を意味しているかは、使徒たちの宣教を聞かされている初代教会にとっては、自明なことでありました。
"豊かな" とは、神がイエス・キリストにおいて私たちを愛してくださり、御子の血によって私たちを罪から贖い、神の国を受け継ぐ民としてくださったその憐れみと恵みを表現する言葉です。
"憐れみ豊かな神" から、"限りなく豊かな恵み" を受けたキリスト者が、その受け継ぐ神の国が "どれほど豊かな栄光に輝いているかを悟る" ことこそ、"神の前に豊かになる" ということなのです(エフェ 2:4,7, 1:18)。
このような希望を共有する共同体の存続のために、互いに助け合う "慈善の業" のことを "施し" と呼んでいます(IIコリ 8:2-4)。
このような教会の相互扶助の動機付けのために、使徒パウロは次のように言っています。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。 それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(IIコリ 8:9)
なぜなら "神の前に豊かになる" と "ただ、神の国を求めなさい" が、そこでは同義語だったからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
456(1): 2016/07/30(土) 07:37:35.74 ID:ZrWHMarC(1)調 AAS
出エジプト記20章
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし
>父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし
>父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし
>父の罪を子に報いて、三代、四代にまで及ぼし
エレミヤ
その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と。
人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
つまり出エジプト記を書いたのは偽りの預言者なのですね
457: 老クリスチャン 2016/07/30(土) 15:37:01.87 ID:v+/GguE6(1/2)調 AAS
>>456
屁理屈を捏ねるのは、孤独な、だれも友達になってくれない、落伍者にふさわしい。
458: 老クリスチャン 2016/07/30(土) 15:38:40.41 ID:v+/GguE6(2/2)調 AAS
2010年(主日C年) 8月1日 年間第18主日
コヘ 1:2, 2:21~23 コロ 3:1~11 ルカ 12:13~21
「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ v.4)
使徒たちはその宣教の過程で、救われた人々が 「真の知識に達する」(コロ v.10) ことの大切さを、切々と訴えました(コロ 1:23、エフェ 1:18、Iコリ 1:5)。
この知識を得るのに人種や身分の区別はなく、キリストがすべてであると教えました(コロ v.11)。
すでに半世紀以上にもわたって "平和ボケ" してしまっている日本人には驚きかもしれませんが、私のインターネットサイトで現在、ニューオルリンズの町での葬儀行進の動画を紹介しています。
外部リンク[html]:www.kuwaei2000.com
アメリカの多数の若者たちが軍人として、世界の安全と平和のために各地に派遣され、その結果として当然、故郷でしばしば戦死者を葬るという事態を決して避けることが出来ない現実を、キリストの福音の光に照らして見せてくれるのです。
Oh, when the saints go marching in . . . . .
「おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、おお、聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき、主よ、私もその数の中に入れてください。
聖なる者たちが (神の国に) 凱旋するとき。」
このゴスペルソングの歌詞が、ニューオルリンズの町の人々にとってどれほど切実な希望であり祈りであるかを、あなたは理解する信仰と (真の) 知識を持っていますか ?
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
459: 2016/08/03(水) 08:32:20.49 ID:olX32SeE(1)調 AA×

460: 老クリスチャン 2016/08/04(木) 14:12:29.33 ID:ygpnSrSj(1)調 AAS
2004年(主日C年) 8月8日 年間第19主日
知 18:6~9 ヘブ 11:1-2,8-19 ルカ 12:32~48
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブ vv.1-2)
キリスト教の信仰は、使徒たちから伝えられたものです。
そして初代教会はこれを旧約のイスラエルから受け継ぎました。
すなわち神のイスラエルへの約束 (望んでいる事柄) を確信し、その将来における実現 (見えない事実) を待望する信仰によって、教会は2千年の歴史を歩んで来たのでした。
現代の私たちの教会も、この神の遠大な救済史の中にあって、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいます。
なぜなら福音とはこの日の希望を語り伝えるものだからです。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(Iコリ 4:14)
この希望は死者の中からの復活と固く結びついています。
キリスト教は旅人の宗教だと言われるのは、地上に最終的な希望を置かないで、来るべき天の都を待望しているからであって、新しいイスラエルである教会 (ガラ 6:16) は、この希望を旧約のイスラエルから受け継ぎました。
なぜならイスラエルの神ヤーウェこそは、私たちの主イエス・キリストの父なる神だからです。
ですからキリスト教の希望は、旧約の父祖たちの希望と同じものです。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。
約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ v.13)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
461: 老クリスチャン 2016/08/05(金) 10:50:14.82 ID:/71FpSEQ(1)調 AAS
2007年(主日C年) 8月12日 年間第19主日
知 18:6~9 ヘブ 11:1~19 ルカ 12:32~48
「小さな群よ、恐れるな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ v.32)
使徒たちによる宣教を、現代の私たちは聖書から聞いています。
その宣教の背後には復活のキリストがおられるのであり、やがて到来する神の国への待望が、何にも勝って第一の関心事となっています。
もし人がキリストの復活を信じず、またキリストの終末の日の再臨と神の国の到来を信じないなら、
換言すればニケア・コンスタンチノープル信条の中の "死者の復活と来世の命を待ち望みます" という宣言を古代の迷信に過ぎないと思うなら、聖書からキリストの福音を聞くことは不可能です。
その昔ヤーウェがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出された夜、ヤーウェは "寝ずの番" をされました(出 12:42)。
そのように、初代教会はキリストの再臨を待つ信仰を "寝ずの番" になぞらえて理解したのでした。
福音書に収められたイエスの言葉は、一人一人の信者にも、彼らの小さな共同体にも、そしてそれを教え導く指導者たちにも、信仰をそのように理解することを求めています。
ルカ v.41 は、恐らく初代教会において使徒ペトロが果たした役割の大きさを想起させますが、その役割は他の多くの指導者たちも共有しているものでありました(ルカ v.48)。
やがて到来する神の国への待望が、何にも勝って第一の関心事となっている、そのような共同体を維持するということが "施し"(ルカ v.33) の目的であったことを、現代のキリスト者は見落としてはなりません(IIコリ 8,9章、申 15:1-11 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
462: 老クリスチャン 2016/08/06(土) 13:37:21.83 ID:mHlEuQ87(1)調 AAS
2010年(主日C年) 8月8日 年間第19主日
知 18:6~9 ヘブ 11:1-2, 8-19 ルカ 12:32~48
「神に従う人々の救いと、敵どもの滅びを、あなたの民は待っていた。
・・・・・ そのとき彼らは先祖たちの賛歌を歌っていた。」(知 vv.7,9)
出エジプト記12章に述べられている過越の夜の出来事を、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブ 11:2) という視点で詠じたこの歌は、"(信仰の) 外の世界の人たち" には決して理解出来ないものです。
昔のイスラエルはそんなに宗教的に一枚岩だったのだろうか。
実際の彼らは 「頑なな民」(申 9:6) だったのではないのか。
私たちの知っているカトリック教会も、「自分のふところに罪人を抱いている」(教会憲章 8) と述べられている通り、実際には 「頑なな民」、不満を言う 「多くの寄り集まり人」(民 11:4/口語訳) です。
この現実を、だれも否定することは出来ません。 しかし感謝しましょう。
「あなたがた (教会) はもはや自分自身のものではないのです。 あなたがた (教会) は、代価を払って買い取られたのです。」(Iコリ 6:19-20)
ですからミサの交わりの儀で、教会に連なる私たち一人一人は祈ります。
「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。」
教会が、キリストにあって、神の国を受け継ぐ聖なる民であることを感謝出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
463: 老クリスチャン 2016/08/09(火) 10:11:26.60 ID:sy4PNqCW(1)調 AAS
今年の 「聖書講義」 に、<2016-4> を追加しました。
外部リンク[html]:www.kuwaei2000.com
昨年の <2015-2> に続いて、今回は救済史のいわば前史に当たる 「原初史」 を取り上げました。
464: 老クリスチャン 2016/08/12(金) 10:44:54.29 ID:LvMIC98m(1)調 AAS
2001年(主日C年) 8月19日 年間第20主日
エレ 38:4~10 ヘブ 12:1~4 ルカ 12:49~53
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブ vv.1-2)
主イエス・キリストの十字架の死は、敗北の死でありました。
死とは、神から見捨てられることなのです(マコ 15:34)。
私たちはみな死を逃れることの出来ない存在です。
しかも死は自然な生命の終わりではなくて、神の怒りによって (詩 90:3-12) 命を取り上げられる (ルカ 12:20) ことなのです。
御子がその十字架の上で受けられた死は、正に罪人である私たちへの裁きとしての死でありました。
終末の裁きの日は必ず来る。
しかしそこで私たちが受けるはずの裁きと死を、御子は私たちに代わって、既に耐え忍んで受けてくださっているのです。
しかし終末の裁きを信じない人々、主イエス・キリストの十字架の福音を信じない人々、すべて罪の赦しの洗礼を受けなかった人々は、神の怒りによって滅ぼされます。
このような裁き主イエス・キリストの来られる 「かの日」(ヘブ 10:25) を待ち望みつつ、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」(ヘブ 12:1) キリスト者の人生は、
分裂と対立を安易に避ける偽りの平和主義とは異質なものであることに、目覚めなければなりません。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリ 3:20-21)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
465: 老クリスチャン 2016/08/13(土) 14:26:54.74 ID:VUVI3o4C(1)調 AAS
2007年(主日C年) 8月19日 年間第20主日
エレ 38:4~10 ヘブ 12:1~4 ルカ 12:49~53
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ v.46)
神が顕現されるとき、その顕現に触れた人々の人生に火が投じられました。
神の山ホレブでヤーウェがモーセに顕現されて以来、彼の生涯の歩みに火が投じられました。
聖書の中には、そのような人々の物語りが満ちています。
御子イエスが受肉して私たちの間に宿られた (ヨハ 1:14) ことによって、キリスト者の生涯の歩みにも火が投じられました。
このかたが十字架につけられて死に、復活して私たちの義と聖と贖いとなられた (Iコリ 1:30) からです。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。 そうではない。 言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ v.51)
地上に平和な世界を実現することが、キリスト教の目標であるかのように、またそのようなことが可能であるかのように、考えている人々が一方に存在します。
それに対して、新約聖書の中にも、キリスト教の歴史の中にも、火が投じられた歴史の中を歩んだ多くのキリスト者の苦悩と戦いの記録があって、真の平和は将来の神の国にこそあるという希望を証言しています。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙 7:14)
「神が人と共に住み、 ・・・・・ 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙 21:3-4)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
466: 2016/08/17(水) 08:11:23.05 ID:YRMS90Hh(1)調 AAS
夏休み、疲れた。
467: 老クリスチャン 2016/08/19(金) 14:29:24.19 ID:ODzR+lML(1)調 AAS
2004年(主日C年) 8月22日 年間第21主日
イザ 66:18~21 ヘブ 12:5~13 ルカ 13:22~30
「狭い戸口から入るように努めなさい。」(ルカ v.24)
イエスはエルサレムに近づき、イスラエルの指導者たちとそこで対決することを思って、話題を弟子たちからもっと広い視野に移されました。
マタ 7:13-14 と並行するこの有名な言葉が、ルカ福音書ではイスラエル人の悔い改めの困難さを指摘するために用いられています。
救われるのはイスラエル全体なのか、それとも残りの者 (イザ 10:20-23、エレ 23:3-4 参照) だけなのかという設問に対して、
イエスはイスラエルへの断罪と異邦人が神の国に集められることを語られた場面で、この言葉を用いられたという構成になっているのです。
ルカ v.26 はイスラエルの指導者たちの弁明であり、イスラエル人たちは 「わたしたちの広場でお教えを受けた」 はずでありました。
私たちが知っている現代の教会で、キリストの福音は語られて来たでしょうか。
キリストの福音はまず第一に神の国の福音であり、さらに十字架と復活の福音、そして生きている者と死んだ者を裁くために再び来られる終末のキリストの福音であることを、人々は聞かされて来たでしょうか。
神の国への備えをすること、これこそがイエスの福音の第一の、そして最大の要求であったと福音書は伝えています。
そして天上のイエスは、今朝共にミサをささげるために集まっている私たちに、聖書を通して再び同じ要求を語っておられるのです。
それが 「狭い戸口から入る」 という言葉で語られていることです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
468: 2016/08/22(月) 15:34:52.38 ID:+ZZ0wy8w(1)調 AA×

469: 老クリスチャン 2016/08/26(金) 11:18:24.84 ID:/CO9AIS9(1)調 AAS
2004年(主日C年) 8月29日 年間第22主日
シラ 3:17-18,20,28-29 ヘブ 12:18~24 ルカ 14:1,7~14
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ v.11)
福音書におけるこの用語の前後関係から明らかなことは、「高ぶる者」 とはファリサイ派に代表されるユダヤ人のことであり、
「へりくだる者」 とはキリストの救いに与った神の国の民を指しているということです(ルカ 18:14、マタ 23:12 参照)。 私たちが読んでいるのは単なる道徳の書物ではなくて、キリストの福音と神の国の希望を語る聖書なのだということに、十分に留意する必要があります。
旧新約聖書を通じて、「へりくだる」 とは神の前に自らを低くすることであります。
人は神を忘れると、心おごり、高ぶります(申 8:11-18 参照)。 信仰の父アブラハムもへりくだりの模範として描かれ、モーセもへりくだりの人でありました。
そして正にイエス・キリストこそは、へりくだって受肉された神の子、救い主でありました(フィリ 2:6-11 参照)。
福音書は、その朗読を聞く会衆に向かって、キリストの福音と神の御業へのへりくだりを呼びかけているのです。
高ぶって律法の義を追い求めたユダヤ人は救われず、へりくだって福音を受け入れた異邦人はキリストの救いを得ました。
教会の教導職への従順は、学ぶ者たちの福音へのへりくだりを目的として語られています(Iペト 5:5 参照)。
「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」 を招くとは、このような教会の宣教のことを指して言っている比喩であって、
教会のこの働きに共に参加するすべての信者に 「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」 と約束されているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
470: 老クリスチャン 2016/08/27(土) 13:24:49.03 ID:Wjk8TmCO(1)調 AAS
2013年(主日C年) 9月1日 年間第22主日
シラ 3:17~29 ヘブ 12:18~24 ルカ 14:1,7-14
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ v.11)
このイエスの言葉、およびそれに関連するいくつかの言葉が、福音書の中のいろいろな場所で使われていて、
初代教会が旧約の伝統から、またイエス御自身の口から、その深い意味を聞き取って、彼らの宣教の一つのキーワードとしていたことが分かります (ルカ 1:51-53, 18:14, 22:26、マタ 23:12、ヨハ 13:14-15)。
それは何よりもも、イザヤ書に預言された苦難の僕として御自身を献げられた神の子イエスのへりくだりへの、信仰と感謝と賛美に伴う言葉でありました(フィリ 2:6-11、Iペト 2:21-25)。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45)
ですから、これを単なる人間の道徳や美徳のように理解してはなりませんし、まして神に対する功績になるなどと勘違いしてはなりません。
ルカ v.14 の 「 ・・・ あなたは報われる」 や、マタ 5:3-10 の 「幸いである」 を、"功績を獲得する" ことのように思い込んでいる人は、"信仰による神の義"(ロマ 1:17, 3:21-4:12) がまだ分かっていないのです。
救いは "恵みにより、信仰によって、賜物として神から与えられる"(エフ ェ2:8) のであって、人間が自らの功績によって獲得するものでは決してありません。
この福音書のテキストは、ルカ 18:13 で徴税人が祈っている 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 の線上で、理解するのが正しいのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
471: 老クリスチャン 2016/08/29(月) 14:45:05.00 ID:iuKxUSL7(1)調 AAS
今年の 「聖書講義」 に、<2016-5> を追加しました。
外部リンク[html]:www.kuwaei2000.com
今回は、キリスト教信仰の中心主題である 「死と復活」 を取り上げました。
472: 老クリスチャン 2016/09/01(木) 13:34:21.45 ID:gjWi/ZWq(1)調 AAS
2001年(主日C年) 9月9日 年間第23主日
知 9:13~18 フィレ 9~17 ルカ 14:25~33
ルカ福音書独特の語り方に素直に耳を傾けると、私たちは "一切を捨てる"(ルカ v.33) という信仰の姿勢がひときわ強調されていることに気付きます。
キリスト信仰とはキリストの苦しみにも共に与かることであり、肉親との結びつきや自らの命までも犠牲にする覚悟を要求されるものであることを、今朝のテキストは念を入れて説明してくれているのです。
ルカ vv.26-27 は マタ 10:37-38 の並行記事なのですが、ルカ福音書はそこに "妻" をも加えています。
また ルカ v.27 は元来 マコ 8:34 (マタ 16:24、ルカ 9:23) が出所と考えられる句で、そこではイエスの死と復活の予告の言葉と結びついて語られています。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:4)
これらの使徒パウロの言葉と同じ内容が、ここではルカ福音書独特の語り方で展開されているのです。
現代のキリスト者である私たちも、各自の人生の途中のどこかで、「腰をすえて計算し」 「腰をすえて考えてみる」 ときに出会うかもしれません。
そのときには、「神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」 キリスト(Iコリ 1:30) が、私たちを助け導いてくださることを願いましょう。
「主よ、あわれみたまえ。 キリスト、あわれみたまえ。 主よ、あわれみたまえ。」(あわれみの賛歌)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
473: 老クリスチャン 2016/09/02(金) 12:15:42.53 ID:ogHbYUDd(1)調 AAS
2010年(主日C年) 9月5日 年間第23主日
知 9:13~18 フィレ 9b~17 ルカ 14:25~33
聖書が19世紀や20世紀に書かれた文書ではないという当たり前のことに、どうか注目してください。
フィレモンというこの時代の信者に、その奴隷 (所有物 = 財産) であった一人の男を、考えを変えて一人前の人格として、「つまり愛する兄弟として」(フィレ v.16) 迎え受け入れてくれという要求は、
たとえそれが使徒パウロからの 「頼み」(フィレ v.10) であっても、とても尋常なことではありませんでした。
フィレモンにとってそれはコペルニクス的転回を強いるものであったに違いありません。
これは人情話などではない !
福音への従順、信仰の従順の問題として、パウロは監禁されているローマからこの手紙を書いていました。
ただ希望に応えて彼が妥協してくれることを願ったのではありませんでした。
そうではなくて、「主によって、キリストによって」 彼から 「喜ばせてもらい、心を元気づけられる」 ことを要求したのです(フィレ v.20)。
福音に聞き従うということを、私たちは大きな感激と共に理解しようではありませんか(ガラ 3:26-29 参照)。
私たちはそのようにして、聖書の学びを通して、「(教会に) 伝えられた教えの規範」(ロマ 6:17、Iコリ 11:2) を受け入れる途を見出すことが出来るのです。
「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。」(知 v.17)
私たちは、確かに聖伝と聖書とが教会に託されているということに心を向け、感謝しましょう。
教会に託されたこの豊かな福音の宝は、信者一人一人が真剣に学ぼうと努力するなら、「あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(ロマ 10:8) と言えるようになるのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
474: 老クリスチャン 2016/09/03(土) 11:00:42.02 ID:p1bJ+uVV(1)調 AAS
2013年(主日C年) 9月8日 年間第23主日
知 9:13~18 フィレ 9b~17 ルカ 14:25~33
「愛する兄弟として、・・・・・ 愛する兄弟である ・・・・・ 。」(フィレ v.16)
私たちはオネシモがかつてどんな人物であり、そして今どんな人物になったのかを知ることは、全く出来ません。
「以前はあなたにとって役に立たない者でした」(フィレ v.11)とは、ダメな人間であったということではありませんし、「今は、役立つ者となっています」(フィレ v.11) とは、有能な善人に変身したということでもありません。
私たちが注目すべきただ一つのことは、彼が共に神の国を受け継ぐキリストの羊になったということなのです。
そのただ一つの事実が、他のあらゆる事情に遙かに勝って重要であるということを、使徒パウロはフィレモンが理解してくれると期待したのです。
私たちのミサで、感謝の典礼の交わりの儀で、会衆一同が行列を作って小羊の食卓に与るとき、この兄弟姉妹の交わりがこの世のあらゆることに勝って重要であると、信じることが出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
475: 2016/09/06(火) 17:43:27.66 ID:jM+JWOjz(1)調 AA×

476: 老クリスチャン 2016/09/08(木) 11:53:04.73 ID:s42LCBCo(1)調 AAS
2004年(主日C年) 9月12日 年間第24主日
出 32:7~14 Iテモ 1:12~17 ルカ 15:1~32
旧約聖書はイスラエルの民を通して進められて来た "神の救いの歴史" を語っています。
私たち教会はキリストの贖いによって 「神の (新しい) イスラエル」(ガラ 6:16) となり、旧きイスラエルに約束されていたものを彼らと 「一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与る者」(エフェ 3:6) となりました。
ですから教会は旧約聖書を、自らの救いの歴史の書物として読むのです。
イスラエルは自らの歴史を、繰り返し道からそれる民の罪への神の怒り (裁き) と、それをなだめるモーセの執り成しという形で、振り返ったことでしょう。
教会は正にそれこそがキリストがそこから私たちを見つけ出して救ってくださった罪と死の世界であったと、そう理解しました。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Iペト 2:25)
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。」(ロマ 8:2-3)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
477: 老クリスチャン 2016/09/09(金) 11:02:18.81 ID:LJiR89JT(1)調 AAS
2007年(主日C年) 9月16日 年間第24主日
出 32:7~14 Iテモ 1:12~17 ルカ 15:1~32
キリストの福音は先ずユダヤ人に向けられたものでした(マタ 10:5-7、使 13:46、ロマ 9:4-5)。
福音によって明らかにされた "秘められた計画" は、本来ユダヤ人への約束であった神の国を、"異邦人も福音によってキリスト・イエスにおいて、一緒に受け継ぐ者となる" というものなのです(エフェ 3:6)。
ユダヤ人への神の賜物と招きとは、今も決して取り消されてはいません(ロマ 11:25-29)。
「主は御自身の民に下す、と告げられた災いを思い直された。」(出 v.14)
イスラエルは、それが神の民であるという理由で、モーセの執り成しによって滅びを免れました。
いわゆるユダヤ人と呼ばれている人々は、このイスラエルの子孫なのです。
数え切れないほどの苦難と迫害の歴史を経て来たユダヤ人を、その不従順によって滅ぼすことを繰り返し思い直された神が、彼らと私たちキリスト者の共通の主であることを、決して見落としてはなりません。
「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。」(ロマ 11:22)
本来は "イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた"(エフェ 2:12) 異邦人である私たちを、その血によって贖い、罪を赦して神の国の相続人としてくださったキリストの福音に感謝しましょう。
私たちキリスト者は、イスラエルに接ぎ木されて、その根を通して豊かな養分を受けているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
478: 老クリスチャン 2016/09/10(土) 10:33:12.34 ID:fKrbAucN(1)調 AAS
2010年(主日C年) 9月12日 年間第24主日
出 32:7~14 Iテモ 1:12~17 ルカ 15:1~32
使徒パウロの生涯は、「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」(Iテモ v.15) という事実の、いわば典型であります。
彼は 「その罪人の中で最たる者」(同) であり、キリストが彼の救いのために 「限りない忍耐をお示しになった」(Iテモ v.16) ということを、聖書は語っています。
そのような意味で初代教会はパウロを、「キリストを信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」(同) と理解しました。
Iテモ vv.12-17 は、使徒パウロの直接の言葉であるよりも、むしろ初代教会の理解を示していると考える方がよいかも知れません。
そうだとしても、初代教会の証言を通して、使徒パウロはキリストの福音を今も私たちに語り続けているのです。
むしろ、やがて "聖パウロ" と尊称を付して呼ばれるようになるパウロを、いささかも弁護したりしないで、「神を冒する者、迫害する者瀆」 と述べていることの重大さに、私たちは驚きを覚えずにはいられません。
心優しいモーセの説得によって、「御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(出 v.14) 頑固親父の物語りのように、出エジプト記のテキストを読んでしまう誘惑が、近代人だけのものだなどと考える必要はありません。
モーセは偉大な預言者でありました(申 34:10)。
主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られました(申 33:11, 34:29-35)。
しかし、罪を赦すことはただ神にのみ属するのです(マコ 2:7)。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出 34:6-7)
私たちは、この神の恵みにひたすら信頼し、感謝しましょう。
私たちは 「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」 ました(ロマ 5:2)。
「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、- - - あなたがたの救われたのは恵みによるのです - - - 」(エフェ 2:4-5)。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
479: 2016/09/15(木) 04:08:08.24 ID:TrDky0f9(1)調 AAS
ハレルヤ、皆さま、通りすがりですが聖霊派のクリスチャンです、
突然ですが、来週中、もしかしたら歴史上大きい出来事として成就してしまうのかもしれない預言を兄弟姉妹より、聞きましたので、
ここに来られている、主を愛する、クリスチャンの皆さま、共に祈りませんか。
と、お伝えしたく、貼りに来ています。
下記に貼ります物を読んでみてください、1、や2、の辺りはさらっと見て頂いてもいいかと思います
ネタニアフ首相の辺りから読まれて見て下さい。
外部リンク[pdf]:riverside.main.jp
それでは栄光在主。
480: 老クリスチャン 2016/09/15(木) 16:42:41.81 ID:5L1EzE22(1)調 AAS
2004年(主日C年) 9月19日 年間第25主日
アモ 8:4~7 Iテモ 2:1~8 ルカ 16:1~13
福音書におけるイエスの言葉は、人々が神の国の到来に備えることを最大の関心事として語られていることに注目しましょう。
主の死と復活が父なる神の御計画であったように、終末の裁きと神の国の到来は神の救済史の目標であり完成だからです。
キリスト者は 「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ v.9) ために、この世の子らの賢さに見習うほどの熱心さを持つべきだと、この譬え話は今朝私たちに語りかけています。
光の子らも、実生活においてはずる賢くなるべきだと教えているのではありません。
仕事を解雇されないためになら、上司に対して媚びへつらう方法もあるでしょう。
しかし終末の裁きを越えて神の国を受け継ぐには、人は目を神に向けなければならないのです。
「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ロマ 2:5-6)
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(使 10:42-43)
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(Iテモ vv.5-6)
神の救済史の目標であり完成である終末の裁きと神の国の到来に備えることは、キリスト者自身のためだけではなくて全世界のすべての人のために、教会が今こそ目覚めなければならない最大の課題なのです。
21世紀の教会にとって、いよいよ 「時が迫っているから」(黙 1:3)、「救いは近づいているから」(ロマ 13:11) です。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
481: 老クリスチャン 2016/09/16(金) 17:14:46.20 ID:O430i2xP(1)調 AAS
2010年(主日C年) 9月19日 年間第25主日
アモ 8:4~7 Iテモ 2:1~8 ルカ 16:1~13
紀元前8世紀の預言者アモスにおいて、初めて神の民である選民イスラエルは、神の審判の対象以外の何物でもなくなりました(アモ 3:1-2)。
商人の不正は、商人だけの罪で終わらない。
祭司や職業預言者といった指導者層には責任がなく、不正を行う庶民だけが審判の対象になるなどということではない。
それは "イスラエルの家" の罪だからです。
その結果は、"主の言葉を聞くことの出来ぬ飢饉"(アモ 8:11) の到来であると預言しました。
それから200年を経て後、預言者エレミヤは語っています。
民は神のことばを聞かず、「わが民はおのが栄光を、助けにならぬものと取り替えた。」 そして
「律法を教える人たちはわたしを理解せず、指導者たちはわたしに背き、預言者たちはバアルに従って預言し、助けにならぬものの後を追った」 という主の言葉を残しています(エレ 2:8-13)。
私たち信徒は、自分の不信仰と無知の責任を聖職者だけに責任転嫁すべきではありません。
「彼らは (福音を) 聞いたことがなかったのだろうか。 もちろん聞いたのです。」(ロマ 10:18)
聖書を通し、カトリックのミサ典礼を通して、「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、 ・・・・・
あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長している」(コロ 1:6) ということが、私たちの実感となる日が来るように、共に励んで賢くふるまおうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
482: 老クリスチャン 2016/09/17(土) 13:25:56.91 ID:r2gfD/lP(1)調 AAS
2013年(主日C年) 9月22日 年間第25主日
アモ 8:4~7 Iテモ 2:1~8 ルカ 16:1~13
預言者アモスの不正糾弾の叫びを、あたかも富める商人たちへの宣戦布告のように読むことは、果たして正しいのでしょうか。
実に、アモスの預言において初めて、神の民イスラエルこそが、神の裁きの対象以外の何ものでもあり得ないことが明らかにされました(アモ 3:1-2)。
先週の "聖書の学び" で、私たちのミサについて説明している 「神の前に出る教会の構成員は、罪にまみれた人間たちなのである」 という、ユンクマンの言葉を紹介しました。
まさにその罪人を救うために、キリストは来られた (Iテモ 1:15) ということを、聖書を通して学ぶことが重要なのです。
カトリック教会のカテキズムは、"原罪" を説明して、"犯した罪ではなくて、状態"、"原初の義と聖の欠如" という表現を使い、人間が自らの努力や心がけによってそこから脱することの出来ないものであり、
キリストによる贖罪の教えと "対をなしている" と述べています(404~407)。
アモスの生々しい預言に真面目に耳を傾けることが、現代のキリスト者である私たちを、救い主イエス・キリストに立ち帰らせることとなりますように。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように。」(ロマ 11:36)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
483: 2016/09/20(火) 16:18:44.14 ID:yBfrleZb(1)調 AAS
台風 来る?
484: 老クリスチャン 2016/09/22(木) 10:00:22.51 ID:VB5UQANz(1/2)調 AAS
皆さん、聖書を読んでいらっしゃいますか ?
私の、ささやかな ●聖書講義● が、聖書理解の助けとなりますように。
外部リンク[html]:www.kuwaei2000.com
485: 老クリスチャン 2016/09/22(木) 10:01:00.99 ID:VB5UQANz(2/2)調 AAS
2001年(主日C年) 9月30日 年間第26主日
アモ 6:1~7 Iテモ 6:11~16 ルカ 16:19~31
福音書の中には、イエスが来世についての当時の通俗的な概念を利用して語られたと思われる、いくつかの物語りが伝えられています。
今朝のルカ福音書のテキストもそのようなものの一つです。
ある金持ちと貧乏人の現世と来世での運命の逆転の話は、来たるべき次の世が "ある" のだということを主張するために語られました。
来世とか死人の復活などということを信じることが出来ない人々は、現代と同じように新約聖書の時代にもたくさんいたのです。
来世とは、再臨のキリストによる終末の裁き (IIテサ 2:8) と、神の国の栄光の実現 (IIテモ 4:1、テト 2:13) のことです。
福音書は、主イエスが語られた神の国の到来の危機についての教えを保存することによって、代々の教会がその警告を聞き続けることが出来るようにしました。
それが教会の宣教するキリストの福音の重要な要素だからです。
誤解してならないのは、このような物語りは地獄で燃える炎の有様や、天国の様子についての情報資料ではないということです。
だれもそこに行って見て来た人などいないのです。
そうではなくて、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ」(IIテモ 4:1)、教会がキリストの福音に耳を傾けることを呼びかけているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
486: 2016/09/22(木) 15:18:06.62 ID:+vPWXRd8(1)調 AAS
信仰心とか礼拝とか神への賛美とか栄光を褒め称えるとか免罪符とか神への供物とか生贄っていうのは人間でいう所の賄賂だよ
神におくる賄賂
これで自分を優遇してください、ひいきしてくださいというおべっか、ご機嫌取り
つまり
神が自分に対する態度や差し出す金の金額で罰するかどうかを決めると思ってる
神が好き嫌いで特定の誰かをえこひいきすると考えてる
神が公平な裁きをせず気まぐれや気分しだいで裁きの基準を変えるでたらめな暴君だとみなしている
だから信仰のない無神論者や異教徒が地獄に落ちるなどというバカげた話を本気で信じてる
礼拝というのは贈賄収賄にまみれた狡猾さの現れに他ならない
そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟
487: 2016/09/22(木) 17:02:18.67 ID:18dBaIzS(1)調 AAS
創世記の記述は 科学的に矛盾だらけではないのか?01
動画リンク[YouTube]
神は肉食動物を造られなかった? え~~~?(;一_一) 02
動画リンク[YouTube]
ティラノザウルスは明らかに肉食恐竜 アダムの創造以前に誕生し絶滅した 03
動画リンク[YouTube]
世界的な洪水が あったのなら なぜ5万年前の クレーター痕が 洪水層に 埋もれていないのか?09
動画リンク[YouTube]
ノアの箱舟伝説では オーストラリアのみに 有袋類が棲息することが 説明できない 07
動画リンク[YouTube]
たった2千年足らずで 全ての人種は 分化していっただって~~? (;一_一) 08
動画リンク[YouTube]
「BC2370年以降に 五大陸ができ、 山脈・海溝もできた」 というエホバ そんな地質学的証拠は 全くない!010
動画リンク[YouTube]
科学的定説に対して牽強付会にこじつけ あくまでも「BC2370年に ノアの大洪水があった」と 頑迷に主張し続ける エホバの証人 011
動画リンク[YouTube]
人間に 自由意思を与えて造っておいて 「神に従わない者は 全て滅ぼす」 結局神のエゴではないか!013
動画リンク[YouTube]
488: 老クリスチャン 2016/09/23(金) 12:54:23.86 ID:mvAELRe9(1)調 AAS
2004年(主日C年) 9月26日 年間第26主日
アモ 6:1~7 Iテモ 6:11~16 ルカ 16:19~31
「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(ルカ 12:56)。
預言者アモスは北王国の首都サマリアにおける上流階級の贅沢な暮らしを責めました。
「お前たちは象牙の寝台に横たわり、長椅子に寝そべり ・・・・・ 」(アモ v.4)。
近代のサマリア発掘によっても、おびただしい象牙細工の破片が出土しており、それらは家具や調度品の象眼に使われたものと考えられています。
すでに預言者アモスの活動よりも70年ほど前に、イスラエルの王アハブがサマリアに象牙の家を建てたことが記録されています(王上 22:39)。
なぜ、アモスは繁栄するサマリアの上流階級に神の審判を預言したのでしょうか。
その理由は明確でした。
「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。」(アモ v.6)
ヨセフはマナセとエフライムの父で (創 48)、ここでは北王国のことを指してそう呼んでいます。
神の民は、来るべき神の審判の対象以外の何ものでもないというのが、預言者アモスに委ねられた神のことばでありました。
神の救済史への無知と無関心を非難し、避けることの出来ない神の審判の時に備えることこそがイスラエルの最大の課題であるという警告の、彼は "しるし" でありました。
今朝のミサの朗読を通して、天上のキリストはこの預言者アモスの言葉をも用いて、現代の私たちキリスト者に語っておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
489: 老クリスチャン 2016/09/24(土) 12:43:14.87 ID:92/2k4Q4(1)調 AAS
2013年(主日C年) 9月29日 年間第26主日
アモ 6:1~7 Iテモ 6:11~16 ルカ 16:19~31
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。 彼らに耳を傾けるがよい。」(ルカ v.29)
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(ルカ v.31)
この金持ちとラザロの譬え話を、現代の格差社会における富裕層と貧困層に当てはめたり、自国民の社会的経済的安定を守ろうとするヨーロッパの国々とそこに押し寄せる移住者と難民の問題に結びつけて、
教会の社会活動の論理付けに利用するとしたら、それは正しい聖書の読み方ではありません。
ラザロが教会で、金持ちが教会が糾弾すべき体制側の人々であるなどという理解は、聖書自身の主張ではないからです。
むしろ教会は、ラザロと金持ちの両者をその構成員としているのであって、問題は彼らがモーセと預言者、つまり "神のことば" に耳を傾けているか否かが、ここでは問われているのです。
多くの教会で、"聖書の会"、"聖書の分かち合い"、"聖書の学び" などと呼ばれる集会が行われています。
しかし私の経験では、教会がそのような集会で聖書を学ぼうとしている目的が、ほとんど明らかでないままに漫然と、ただの勉強会や読書会、あるいはほとんど聖書と関係のない雑談会になっていることが多いのです。
本当は、生ける神が、神の右の座に着いておられる天上のキリストが、聖書を通して教会に語っておられる福音を "共に聞く" という目的、
すなわち共同体の会衆一同が 「共に福音にあずかる者となる」(Iコリ 9:23) という目標が、教会では決定的な意味を持っているのですから。
"神のことばを聞く" とは、神が聖書を通して語っておられる福音に耳を傾けることであって、
そのことが抜け落ちたただの聖書の勉強をいくら積み重ねても、キリストの復活がもたらす救いに与ることが出来ないばかりか、「罪の赦し、からだの復活、永遠の命」 を信じることにも至り得ません。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
490(1): 老クリスチャン 2016/09/26(月) 15:00:09.13 ID:9Wvl3UHV(1)調 AAS
「神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びる。」(詩 1:6)
「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩 27:1)
491: 老クリスチャン 2016/09/29(木) 13:42:10.88 ID:HtwMyJSj(1)調 AAS
2004年(主日C年) 10月3日 年間第27主日
ハバ 1:2-3,2:2-4 IIテモ 1:6~14 ルカ 17:5~10
「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまであなたは聞いてくださらないのか。 わたしがあなたに "不法" と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。」(ハバ 1:2)
預言者ハバククの訴えに対して、主は神の救済史の将来に関わる幻を示して、これをだれもが読めるように板の上に記せと言われました。
これを現代風に言い換えれば、車を運転しながらでも読めるように大きな看板にディスプレイせよという意味です。
そして有名な 「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバ 2:4) という言葉が語られました。
ここで "信仰" と訳されている言葉は、アーメン (真実) の派生語で、主への忠誠と信頼を意味しています。
神の恵みや裁きの実行を人間が指図することが信仰ではない ・・・・・ 、そうではなくてただ神に信頼し、その御業の進行と展開を素直に受け入れることが "信仰" なのだと、主は答えられたのでした。
イエス・キリストにおいて、神の約束はことごとく "然り" となりました(IIコリ1:20)。
救済史の御業は神のものであり、信仰とはその御業への信頼だからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
492: 2016/09/29(木) 13:48:31.37 ID:WPzhUvcN(1)調 AAS
老栗さんは、新生されてください。
493: 老クリスチャン 2016/09/30(金) 13:09:41.42 ID:0gB5ZFGM(1)調 AAS
2010年(主日C年) 10月3日 年間第27主日
ハバ 1:2-3, 2:2-4 IIテモ 1:6-8,13-14 ルカ 17:5~10
「使徒たちが、"わたしたちの信仰を増してください" と言ったとき、主は言われた。 "もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、・・・・・ "」(ルカ vv.5-6)
多くのキリスト教信者が、自分は信仰が足りないと思って心を痛めていることでしょう。
しかし、本当に問題なのは信仰が足りないことではなくて、何を信じるのかその対象が分かっていない ・・・・・ 、教えられていない ・・・・・ ことなのです。
「神はイエスを復活させられた」(使 2:32)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使 2:36) という、使徒たちが証言した神の御業こそが、
唯一の信仰の対象であることを、現代のキリスト者は再発見しなければなりません。
聖伝と聖書に耳を傾けるとは、そういうことなのです。
新約聖書で用いられている "奉仕" という言葉は、元来奴隷の務めを指しています。
私たちは洗礼の秘蹟によって、キリストと一つの体になりました(Iコリ 12:13)。
私たちはそれによって、キリスト御自身の "僕の身分"(フィリ 2:7) に与る者となったのです。
「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(ルカ 22:27)
この "主の僕" であるキリストの "僕の務め" に、キリスト者一人一人は主を通して参加するのです(Iコリ 12:5)。
それは、私たちが受けた罪の赦しの 「神の賜物」(エフェ 2:8)、「無償の恵み」(ロマ 3:24) に対する感謝に基づく "奉仕" であって、何らかの報いを期待し得る功績のようなものではありません。
「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。 自分に命じられたことをみな果たしたら、"わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです" と言いなさい。」(ルカ vv.9-10)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
494: 2016/09/30(金) 15:16:04.75 ID:O5RPXsQp(1/2)調 AAS
老栗さんは、聖書を読みなさい
495(3): 2016/09/30(金) 15:17:53.08 ID:2Js/gTgB(1/2)調 AAS
聖書は間違いなく神の言葉であるという証拠を出しなさい
496: 2016/09/30(金) 15:22:02.38 ID:O5RPXsQp(2/2)調 AAS
>>495
なんで?
497: 2016/09/30(金) 15:28:06.19 ID:2Js/gTgB(2/2)調 AAS
二次的信仰とは完全なる洗脳だからです。
498: 123 2016/09/30(金) 15:35:08.49 ID:nH4GPbov(1)調 AAS
495.
神の言葉か。
そんなもんはない。
なんでか。
神は人間を、かまっているほどの暇がないからである。
人間が勝手に神の言葉を製造、生産しているだけのことである。
499: 2016/09/30(金) 15:42:02.39 ID:jpOhAfpe(1)調 AAS
洗脳される在家信者の身にもなってみなさい。
500: 2016/09/30(金) 23:52:02.39 ID:pJa/8V85(1)調 AAS
>>495
> 聖書は間違いなく神の言葉であるという証拠を出しなさい
激しく同意。
501: 2016/09/30(金) 23:55:55.46 ID:/BvRVmcP(1)調 AAS
キリスト教やって人生めちゃくちゃに壊れた
2chスレ:psy
↑
この中には、
> 聖書は間違いなく神の言葉である >>495
これで人生がめちゃくちゃになった人もいるとおもう。
502: 老クリスチャン 2016/10/01(土) 12:07:22.45 ID:2kWFEHAZ(1)調 AAS
2013年(主日C年) 10月6日 年間第27主日
ハバ 1:2-3, 2:2-4 IIテモ 1:6~14 ルカ 17:5~10
「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバ v.4)
この預言書は、バビロンの王ネブカドネツァルの攻撃の脅威にさらされていた、恐らくエレミヤと同時代 (王下 24~25章) のものであって、ハバククはエルサレムの窮状を神に訴え、与えられた答えがこれでありました。
「それは終わりに向かって急ぐ。 ・・・・・ それは必ず来る。」(ハバ v.3)
しかし、神からの救いを忍耐して待つ民の間には、信じる者と信じない者の分離が起きるであろう。
神に従う人だけが、信仰によって生きるからです(ロマ 1:17 参照)。
だれも神に代わって救いを作り出したり、人間の努力や能力によって地上に神の国のような世界を実現することは出来ません。
福音を通して啓示された神の義は、「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝しましょう。
「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、・・・・・ 今は罪から解放されて神の奴隷となり ・・・・・」(ロマ 6:17,22)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
503(1): 2016/10/02(日) 16:39:16.51 ID:FA4GrNxl(1)調 AAS
芥川が自殺する夜(1927年・昭和2年7月24日)、芥川は午前2時頃まで2階で書いていた。
階下に下り、寝室の隣りの部屋には子供たちが寝ていて、
そばでウトウトしていた妻の文(ふみ)と視線が合い、「いつもの薬を飲んできたよ」と言った。
そして、寝床に入ってから聖書を開いていたが、薬が効いて聖書で顔を覆うようにして眠りに入った。
「茂吉さんが与えていた睡眠薬は、急に回ってくると、それこそぱったり眠りにつく」と、
佐古純一郎は斉藤茂吉から実際に聞いている。当時としては最高級の睡眠薬だったそうだ。
芥川は「いつものように飲んできたよ」と言ったが、実は致死量飲んで寝床についたのである。
彼は2度と目覚めることなく35歳の生涯を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
芥川龍之介の枕元から聖書をとりあげたのは太宰治であった。
504(1): 老クリスチャン 2016/10/04(火) 16:27:51.53 ID:d/o4Zz6I(1)調 AAS
「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、
心の思いが御前に置かれますように。」(詩 19:15)
「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。
わたしに災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。」(詩 35:4)
505(1): 2016/10/04(火) 16:47:34.72 ID:kY3X8VXI(1)調 AAS
>>503
顔を聖書で覆っていて、開いていた箇所はルカによる福音書24章だった
そうです。
芥川龍之介の遺言
「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせる
クリストを求めずにはゐられないであらう」
506: 老クリスチャン 2016/10/06(木) 11:05:05.87 ID:ysevDa7A(1)調 AAS
「神を知らぬ者は心に言う、"神などない" と。
主は天から人の子らを見渡し、探される。
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(詩 14:1-2)
「わたしの魂は主によって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。」(詩 35:9)
507: 老クリスチャン 2016/10/07(金) 13:13:13.48 ID:8iTabPLN(1/2)調 AAS
>>505
自分の心を中心にして考えるか、主である神に目を向けて聖書に耳を傾けるかで、全く別の判断が生ずるものです。
508: 老クリスチャン 2016/10/07(金) 13:19:18.12 ID:8iTabPLN(2/2)調 AAS
2007年(主日C年) 10月14日 年間第28主日
王下 5:14~17 IIテモ 2:8~13 ルカ 17:11~19
「イエスは言われた。 "清くされたのは十人ではなかったか。 ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。"
それから、イエスはその人に言われた。 "立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。"」(ルカ vv.17-19)
この "救った" と訳されているギリシア語の "ソーゾー" という動詞は、危機や病気や苦しみからの "いやし" という意味にも、またイエス・キリストによる "救い" の意味にも使われている言葉です。
近年わが国でも "いやし" に似た "癒やし" という言葉がたいへん流行して、これを何らかの形で取り入れることが、多くの人々の生活のパターンと考えられるようになりました。
特に新約聖書において、この語がイエス・キリストによる "救い" の意味で用いられている場合にも、むしろこれを "癒やし" と読み替えると、多くの人々にとっての通俗的なキリスト教理解に近くなります。
例えば ロマ 8:24 は 「私たちは、このような希望によって癒やされているのです」 となり、エフェ 2:5,8 は 「あなたがたの癒やされたのは恵みによるのです」 「あなたがたは、恵みにより、信仰によって癒やされました」 となります。
これなら聖書がよく分かる、と思う人がきっとたくさんいらっしゃることでしょう。
重い皮膚病をいやされた "ほかの九人" にとっては、"いやされた" ということがすべてであって、彼らはそのまま去って行きました。
ところが "神を賛美するために戻って来た" 一人は "救われた"、というのが福音書の本来の意図なのです。
初代教会にとっても、使徒たちにとっても、"福音" とは "イエス・キリストの救いの知らせ"でありました。
ですから公式な教会での朗読を前提に翻訳された "新共同訳聖書" では、 マタ 9:22 でも ルカ 17:19 でも、「あなたの信仰があなたを救った」 となっています。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
509(2): 2016/10/07(金) 13:28:35.73 ID:sopk+7xf(1)調 AAS
信仰はモルヒネだ
時に人生の苦痛から逃れるために有効だが対症療法に過ぎない
そのまま使い続ければ人生を破壊する
510(1): 老クリスチャン 2016/10/08(土) 12:09:43.19 ID:d7Sdpj+F(1/2)調 AAS
>>509
イエス・キリストの救いに至らないような信心は、本物の信仰とは別物なのです。
511: 老クリスチャン 2016/10/08(土) 12:10:30.99 ID:d7Sdpj+F(2/2)調 AAS
2013年(主日C年) 10月13日 年間第28主日
王下 5:14~17 IIテモ 2:8~13 ルカ 17:11~19
「それから、イエスはその人に言われた。 "立ち上がって、行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。"」(ルカ v.19)
イエスは重い皮膚病を患っている十人の患者の訴えを聞いて、その全員を癒されました。
しかし、癒されたのは十人だったけれども、その中で救われたのは一人だけだったというのが、今朝のテキストの内容であります。
残る九人は救われなかったということを、私たちへの警告として聞くことが、ここでは求められているのです。
イエスの癒しに拍手を送るためではなくて、「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(ルカ v.18) という、十字架のキリストの嘆きを確かに聞くのでなければ、現代の教会は決して立つことは出来ません。
あなたにとって "神からの救い" は、実際どの程度の重要性を持っているでしょうか。
そのことを今朝、私たちは聖書を通して問われているのです。
「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」(王下 v.17)
このナアマンの信仰宣言がなかったら、主イエスが故郷の会堂で福音を告知する中で、この物語りを引用されることはなかったに違いありません(ルカ 4:27)。
癒されたことではなくて、ナアマンがイスラエルの神への信仰に立ち至ったことが、この物語りの主要なメッセージでありました。
悔い改めて "神からの救い" に至る一人の罪人のために、天では大きな喜びがあることを(ルカ 15:7)、私たちはもっともっと真剣に、そして大切に考えようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
512: 2016/10/09(日) 23:57:47.90 ID:6+AFF9QN(1/2)調 AAS
>>510
> >>509
> イエス・キリストの救いに至らないような信心は、本物の信仰とは別物なのです。
聖書は残酷。
513: 2016/10/09(日) 23:58:48.67 ID:6+AFF9QN(2/2)調 AAS
聖書を読んだら、自分は生まれてこなければよかったとおもう。
514: 老クリスチャン 2016/10/10(月) 18:18:03.54 ID:Ivy1Wlr2(1)調 AAS
「主に従う人よ、主によって喜び歌え。
主を賛美することは正しい人にふさわしい。」(詩 33:1)
「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、
立ち向かう者からはるかに高く置いてください。」(詩 59:2)
515: 老クリスチャン 2016/10/13(木) 11:05:59.48 ID:gsxJOQ4d(1)調 AAS
2004年(主日C年) 10月17日 年間第29主日
出 17:8~13 IIテモ 3:14~4:2 ルカ 18:1~8
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(ルカ v.1)
もちろんこの譬え話は、執拗に祈って訴えなければ人を顧みない不親切な神を述べているのではありません。
そうではなくて、神の国の福音を信ずる者の取るべき姿勢と、"祈りは聞かれる" という信仰を励ますために語られました。
祈りはキリスト教の信仰の旅路に属するものであり、私たち信者にとってとても大切なものです。
「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ v.8)
私たちキリスト者の祈りは、神の国の福音への信仰と切り離されてはなりません。
その福音は御子に関するもので (ロマ 1:3)、御子はダビデの子孫から生まれ、死者の中から復活され、神の右に上げられました。
そして生きている者と死んだ者との審判者として再臨する日を待ち続けておられます。
使徒たちはこのことの証人であり、聖霊もこのことを証ししてくださいます(使 5:32)。
私たちの祈りの古典的手本である "主の祈り" が、神の国待望、日常生活における神からの助け (日毎の糧)、罪の赦しと防御を主題としているように、祈りは神と神の国への信仰に基づいてささげられるものなのです。
私たち現代のキリスト者の中にこの信仰は生きているでしょうか。
21世紀の教会は厳しくこの問いの下に立たされています。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
516: 老クリスチャン 2016/10/14(金) 15:34:53.01 ID:zvfnR4x/(1)調 AAS
2007年(主日C年) 10月21日 年間第29主日
出 17:8~13 IIテモ 3:14~4:2 ルカ 18:1~8
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスのみ前で、その出現と御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。」(IIテモ 4:1-2)
新約聖書の使信は、古い昔の世界観に基づいて語られていて、それは現代人の世界観と相容れないから、そのまま受け入れることが出来ないのだという議論が、20世紀の中頃から盛んに論じられて来ました。
それは真面目な神学界の論争でありましたが、実際には、一般のキリスト教信者たちが抱いている "自分の信仰への不安感" や "聖書への不信感" を、弁護する口実を提供する結果になったように見えます。
難しい神学論争は専門家たちに任せるとして、普通の信者は "使徒たちが信じたように信じる" という姿勢で聖書に向かうのが、いちばん確かな福音理解への早道なのです。
疑ったり、理屈を付けて反論していては、"使徒たちが伝えたこと" を理解出来るわけがありません。
使徒たち自身も、キリストの再臨や神の国の到来について、科学的学問的に説明したり証明したり出来はしませんでした。
しかし、彼らは聖霊の働きと、復活の主に導かれて、"受けた福音"(ガラ 1:11-12) を宣教したのです。
ですから、それは神からの福音であって、この世の知恵や学問の産物ではありませんでした。
どんなに時代が隔たっても、私たちが "使徒たちが信じたように信じる" という姿勢で聖書に向かうことは可能であり、それがいちばん確かな福音理解への早道です。
私たち教会が使徒たちから受け継いだ福音は、イエス・キリストの出現とその御国とを思いつつ、語られまた聞かれねばならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
517(1): 老クリスチャン 2016/10/15(土) 13:12:11.78 ID:TZHgytAD(1)調 AAS
2013年(主日C年) 10月20日 年間第29主日
出 17:8~13 IIテモ 3:14~4:2 ルカ 18:1~8
「相手を裁いて、わたしを守ってください。」(ルカ v.3)
"裁く" という言葉は、旧約聖書以来 "弁護する" "守る" "救う" という意味で使われ、神による終末的救いへのイスラエルの待望を表明するのに用いられて来ました(詩 7:9, 98:9 他)。
主イエスの受難と復活が、新約聖書でこのような "裁き" の線上で理解され、新約の神の民である教会を贖い取られた御業として説明されている (使 20:28) ことを、先ず指摘しておかなければなりません。
ルカ v.7 の 「選ばれた人たち」 という表現が、新約の神の民を指していることは、先週の学びで取り上げたとおりです(IIテモ 2:10)。
つまり、この譬え話は、そのような選ばれた信者たちが 「気を落とさずに絶えず祈る」 ようにと、励ましているのです。
信仰とは、人の子が来る終末の完成の日まで(ルカ v.8)、「目標を目指してひたすら」(フィリ 3:14) 祈り続けることなのです。
果たして現代の教会には、そのような信仰が本当に生きているでしょうか。
大いに考えさせられる問題ではないでしょうか。
現代のキリスト教活動家たちによる社会的発言が、終末の日には "神は正しいことを行われます。 神はこの報いを実現なさいます"(IIテサ 1:6-8) という、"神の裁き" の警告、"神に対する悔い改め"(使 20:21) の宣教ではなくて、
大衆運動による反体制的な攻撃、つまり権力者や富者の側に打撃を与えるという復讐的性格を強く持っているように見えるのは、私の偏見でしょうか。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
518(1): 老クリスチャン 2016/10/17(月) 10:52:29.75 ID:cK58CexT(1)調 AAS
「わたしは主に求め、主は答えてくださった。
主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。」(詩 34:5-6)
「神と共に我らは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩 60:14)
519: 老クリスチャン 2016/10/20(木) 09:23:02.89 ID:tjW3MxlY(1)調 AAS
2004年(主日C年) 10月24日 年間第30主日
シラ 35:15b-17,20-22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9~14
私たちは福音書において、神の国の到来の日に人はどうなるのかを教えられています。
イエスの福音が私たちに要求する第一のことは、近づきつつある神の国への備えをすることであり、それこそが使徒たちの伝えたイエスの姿でありました。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカ v.9)
この譬え話の中でファリサイ派の人は、自分が神の前にいかに敬虔な生活をしているかを感謝して語っています。
彼は偽ってはいませんでした。
彼は本当に敬虔な人でありました。
しかし彼は祈りの中でその自らの敬虔による特権を主張したのでした。
「神様、わたしは ・・・・・ この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(ルカ v.11)
近い将来神の国が到来する日に、聖なる神の御前に彼はどのようにして立つことが出来るのか。
その日にはだれでも高ぶる者は低くされるのだと、イエスは語りました。
徴税人は罪人であるが謙遜であり、彼は自らの将来を神のあわれみに託しました。
神の国への備えとはこのようなものなのだとイエスは教えたのです。
イエスの教えをキリスト教的道徳の目録のように考えて、この世の争いをすべて調停し、あるいは社会的不正を取り除くすべての指針を聖書に求めるという間違いが、歴史の教会において繰り返されて来ました。
しかしイエスの説教は神の国への備えをすること、その日に私たちはどうなるのかを教えるものであったと、聖書は伝えてい.るのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
520: 老クリスチャン 2016/10/21(金) 14:34:13.81 ID:n0B5Ha9g(1/2)調 AAS
「エキュメニズムに関する教令」 を、皆さんご存じですか ?
521: 老クリスチャン 2016/10/21(金) 14:34:46.38 ID:n0B5Ha9g(2/2)調 AAS
2013年(主日C年) 10月27日 年間第30主日
シラ 35:15b~22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9~14
「今や、義の冠を受けるばかりです。 正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。 しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(IIテモ v.8)
「主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」(IIテモ v.18)
公会議公文書の五番目に置かれている 「エキュメニズムに関する教令」 は、別れた兄弟 (プロテスタント他) とカトリック教会の両者を "主における兄弟" として認め、次のように説明しています。
"この民は、その地上の旅の間に、その成員が罪にさらされたままであるとしても、キリストにおいて成長し、神の深遠な計らいに従って、優しく導かれ、天上のエルサレムにおいて永遠の栄光が完全に満たされて喜びに達するのである。"(3)
そして、現状の課題を分析して以下のように解説しています。
"事実、カトリック教会は神から啓示されたあらゆる真理と恵みのすべての手段を豊かに備えているとはいえ、その成員はそれらに応じた十分な熱意をもって生きているわけではない。
その結果、別れた兄弟にとっても、また全世界にとっても教会の顔は十分に輝いておらず、・・・・・"(4)
"御国の福音"(マタ 4:23) が信者一人一人の希望であり(ロマ 8:24)、"御国を受け継ぐ秘められた計画"(エフェ 1:8-14) がすべての信者の心に明らかにされる(コロ 1:26-27) ことは、キリスト教信仰の土台でありますから、
私たちは "預けられたタラントンを地の中に隠しておいた怠け者の悪い僕"(マタ 25:14-30) とならないように、
自ら聖書を熱心に学び、使徒パウロと共に 「主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(IIテモ v.18) と心から言えるように成長しようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
522: 老クリスチャン 2016/10/22(土) 11:15:24.36 ID:FUdtvo+I(1)調 AAS
2013年(主日C年) 10月27日 年間第30主日
シラ 35:15b~22a IIテモ 4:6-8,16-18 ルカ 18:9~14
"主が祈りを聞き入れられる" ことは、虐げられた者、みなしご、やもめ等の貧しく弱い者たちだけの特権ではありません。
「主はえこひいきされない」(シラ v.16) のです。
キリスト者である私たちは、自らの罪を懺悔し、主の憐れみを乞い、御国が来ますようにと祈るためには、先ず 「御旨に従って主に仕える人」(シラ v.20) にならなければならないことを理解しましょう。
ただの善意の人になるためではなくて、キリスト・イエスに結ばれた信仰の人となるために、神が聖書を通して一人一人に、
「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださいますように。」(エフェ 1:18)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
523: 老クリスチャン 2016/10/24(月) 11:03:27.77 ID:5JBqJypE(1)調 AAS
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩 46:2)
「イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに。
豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを、すべての罪から贖ってくださる。」(詩 130:7-8)
524: 2016/10/24(月) 21:04:14.11 ID:yk3ztPiB(1)調 AAS
しかしそれは情けない文章だなw
まあ、日本人向きの宗教じゃねーよな
しっかりしろ、おい、て感じだwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
525: 2016/10/26(水) 18:55:05.99 ID:ItzgNE/6(1)調 AAS
サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
外部リンク:blog.goo.ne.jp
526: 老クリスチャン 2016/10/27(木) 16:07:11.17 ID:aopkgMls(1)調 AAS
2001年(主日C年) 11月4日 年間第31主日
知 11:23~12:2 IIテサ 1:11~2:2 ルカ 19:1~10
「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカ v.9)
ルカ福音書が特に強調しているのは、"主イエス・キリストの救い" は恵みとして "訪れ" て来たのであって、私たちの悔い改めも信仰もすべては "救いの訪れの結果" なのだということです。
ザアカイという人物についての興味ではなくて、この登場人物によって私たちに与えられた主イエス・キリストの救いの恵みを描くことが、ルカ福音書の目的でありました。
「アブラハムの子」 とは元来はユダヤ人のことを指していて、約束による神の国の相続人である神の民イスラエルを異邦人から区別するための呼称であります。
ところが主イエス・キリストの福音は異邦人をも訪れて彼らに救いを与え、ユダヤ人と 「同じ約束にあずかる者」(エフェ 3:6) としてくださったというのが、ルカおよび彼がその伝道のために共に歩んだ使徒パウロの主張でした。
「アブラハムは神を信じた。 それが、彼の義と認められた。」(ロマ 4:3/創 15:6)
「しかし、"それが彼の義と認められた" という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:23-25)
「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」(ガラ 3:7)
「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラ 3:29)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
527: 老クリスチャン 2016/10/28(金) 13:50:26.93 ID:6XPsZczy(1)調 AAS
2010年(主日C年) 10月31日 年間第31主日
知 11:22~12:2 IIテサ 1:11~2:2 ルカ 19:1~10
もしこの徴税人ザアカイの物語りを、単独の話としてそれだけ聞いて、聖書の他の部分から切り離してしまうと、それはただの美談になってしまって、私たちは福音を理解することが出来ません。
先週の学びの最後で引用した ロマ 1:17 が、私たちが今朝の朗読配分から神のことばを聞くためのいわば決定的な前提であることを、先ず最初に述べておきましょう。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」
神の義は、その罪によって失われ空しくなっている "虫けらのようなイスラエル"(イザ 41:14) を、御自身の贖いによって救う終末的な御業として (イザ 44:6)、第二イザヤにおいて語られていました。
この終末的な神の義が、イエス・キリストの死と復活によって今や実現したと、使徒パウロは宣教したのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)
この "神の義が現された (示された)" ということの見事な描写を、ルカ福音書はザアカイの物語りによって描きました。
「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカ v.9)
それは "大宴会のたとえ"(ルカ 14:15-24)、"放蕩息子のたとえ"(ルカ 15:11-32) などとも共通する主題です。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
528: 2016/10/29(土) 07:16:57.56 ID:CbhJ5jsE(1)調 AAS
サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
外部リンク:blog.goo.ne.jp
529: 老クリスチャン 2016/10/29(土) 12:14:44.98 ID:rhwNAnRu(1)調 AAS
2013年(主日C年) 11月3日 年間第31主日
知 11:22~12:2 IIテサ 1:11~2:2 ルカ 19:1~10
「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、 ・・・・・ 」(IIテサ v.11)
"招きにふさわしいもの" とは、私たちがやがて受け継ぐ "神の国にふさわしい者"(IIテサ 1:5) のことであって、それは "主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき"(IIテサ 1:7) に実現します。
"聖なる者たち"(IIテサ 1:10/= キリスト者) とは、神の国の相続人のことであって (ロマ 8:17 参照)、"聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証"(エフェ 1:14) でありますから、
歴史の教会は今日に至るまで "地上の典礼において、天上の典礼を前もって味わってこれに参加" して来ました(典礼憲章 8)。
現代の教会だけではなくて、すでに初代教会の時代にも、"神の秘められた計画" を信じることの出来ない人たちがいました。
"主の日は既に来てしまったかのように言う者"(IIテサ v.2)、"死者の復活など無いと言っている者"(Iコリ 15:12)、"主が来るという約束は、いったいどうなったのだと言う者"(IIペト 3:4) がいる原因を、
歴史におけるその実現が遅れたからであると説明するのは正しくありません。
使徒たちの宣教を通して神のことばに耳を傾けるということの出来ない人たちは、初めからいたのです(ルカ 16:31 参照)。
しかし、「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。」(IIテサ 1:10)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
530: 老クリスチャン 2016/10/31(月) 16:05:26.53 ID:RjTZIKUh(1)調 AAS
「全地よ、神に向かって喜びの声を上げよ。
御名の栄光をほめ歌え。 栄光に賛美を添えよ。」(詩66:1-2)
「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」(詩 147:10-11)
531(1): 老クリスチャン 2016/11/02(水) 12:01:07.61 ID:8c2JfDhM(1)調 AAS
「神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩 1:6)
「主を愛する人は主に守られ、
主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
わたしの口は主を賛美します。」(詩 145:20-21)
532: 2016/11/03(木) 10:29:32.73 ID:0sp4hVs3(1/2)調 AAS
まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルト
外部リンク[html]:ameblo.jp
30年、信仰して
布施し尽くして、経済破綻。
それが、活動信者たちの実像。
そして、教祖一家と愛人たちは
極度の贅沢三昧。
これをもって、幸福の科学は
邪教であり、カルトであることは
確定したも同然。
30年、真摯に信じ続け、
教えを実践し続けた結果、
貧乏のどん底。
ORは、仏陀に非ず。
信者を不幸にする仏陀など、
絶対に有り得ない。
533: 2016/11/03(木) 10:29:47.65 ID:0sp4hVs3(2/2)調 AAS
まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルト
外部リンク[html]:ameblo.jp
とうとう某信者は、繁栄型エルを個人拝受した。
前回の降魔エルに続けて。
しかし、某は、前回で夫の退職金を使い果たしている。
住宅ローンもまだしっかり残っているのに、一体??
どうやら、借金した模様だ。
完全な、経済破綻だ。
緩慢な家庭崩壊であり、人間崩壊だ。
ここまで信者を狂わせる宗教。
絶対、邪教だ。
流石に、常軌を逸しているので、
教団、支部長、支部女性部長にメールで抗議した。
周囲の者たち、本人の家族、
皆、狂っている。
これは、信仰でも、宗教でも、何でもない。
ただの「狂気」だ。
まさに、幸福の科学は、金に狂ったカルトでしかない。
534: 老クリスチャン 2016/11/03(木) 13:49:20.36 ID:teQ6SU4M(1)調 AAS
2007年(主日C年) 11月11日 年間第32主日
IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16~3:5 ルカ 20:27~38
第二バチカン公会議の大きな貢献は、教会の "根元的な本質が、神のことばと主の食卓を囲み、地上を旅する神の民であることを再発見した"(アルベリーゴ) ことでありした。
教会憲章は、神の国と教会を区別して次のように述べています。
「教会は、神の国の地上における芽生えと開始となっている。」(5)
「その国は神自身によって地上に始められたが、・・・・・ ついには世の終わりに、我々の命であるキリストが現れるとき、神によって完成される。」(9)
教会は典礼暦の最後の三主日の朗読配分によって、この世には終わりがあるということを、そして教会は来るべき新しい天と新しい地とを待つ信仰によって歩んでいるということを、再確認するのです。
テサロニケの教会の人々は "福音" によって、神の国でイエス・キリストの栄光にあずかるようにと選ばれ、招かれたのであり(IIテサ 2:13-14)、
彼らには 「永遠の (来るべき世の) 慰めと確かな希望」(IIテサ 2:16) が与えられたと、使徒パウロは書いています。
しかしそれは、聖霊の力と信仰とによってのみ理解出来るものでした。
コリントでもテサロニケでも、「すべての人に、信仰があるわけではない」(IIテサ 3:2) というのが事実でした。
教会の外の世界では当然のことであっても、新しく誕生した初代教会の中では決してあってはならないことでした。
「道に外れた悪人ども」(IIテサ 3:2)、「悪い者」(IIテサ 3:3) という強い表現の意図を、私たちは理解しなければなりません。
同様にコリントの教会の人々に宛てた手紙の中でも、使徒パウロは書いています。
「外部の人々は神がお裁きになります。 あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(IIコリ 5:13)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
535: 老クリスチャン 2016/11/04(金) 12:37:43.76 ID:9kdkeh9W(1)調 AAS
2013年(主日C年) 11月10日 年間第32主日
IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16~3:5 ルカ 20:27~38
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。 すべての人は、神によって生きるからである。」(ルカ v.38)
イエスの時代のサドカイ派は、当時の議会における多数派でありました。
福音書にしばしば登場するファリサイ派は、実際には AD.73年にユダヤの国が滅亡して後のユダヤ教において初めて有力になったのであって、イエスの時代には少数派でありました。
つまり "復活があることを否定する人々" が多数派であるという状況の中で、イエスは神の国と終わりの日の復活、永遠の命に至る福音を宣教されたのでした。
神は、やがて神の国に復活した人々にとっての神となり、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙 21:4) という希望を与えてくださったのは、十字架のキリスト、復活のキリストであります(ロマ 4:25~5:11 参照)。
先週の学びの中で私は現代の教会を評して、"救い" という言葉が使徒たちが宣教したようには理解されず、
"義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って受け継ぐ ・・・・・ 神の秘められた計画" とは何の関係もない別のことのように思われている ・・・・・ と書きました。
キリスト教的な道徳、政治、経済、それもほとんど実現などしそうにない理想や夢を語る説教を、私たちはこれまでどれほど聞かされて来たことでしょう。
しかし、神の国の約束や終わりの日の復活、永遠の命の希望についてのメッセージを、会衆が司祭の説教から聞くことは極めて稀でありました。
それでも神は、"主日のミサの朗読配分" を通して、自らの教会に "神のことば" を語っておられることを信じることが出来、そしてそれを聞き取ることの出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
536: 2016/11/05(土) 08:27:54.36 ID:SxfD7tTb(1)調 AAS
サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
外部リンク:blog.goo.ne.jp
537: 老クリスチャン 2016/11/05(土) 11:46:05.19 ID:thaoMYrK(1)調 AAS
2013年(主日C年) 11月10日 年間第32主日
IIマカ 7:1-2,9-14 IIテサ 2:16~3:5 ルカ 20:27~38
「永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神 ・・・・・ が」(IIテサ v.16)
新約聖書で "永遠" と翻訳されているのは アイオーン であって、"世" と訳される場合には "この世" と "後の世" の両方に使われる言葉です(マコ 10:30)。
"永遠の慰め、希望" というのは "永遠の命" の場合と同じく、後の世すなわち来るべき神の国の慰め、希望、命のことを言っているのです。
近代人の多くは、聖書の語る復活も来るべき神の国も本気で信じなくなったために、新約聖書で使われている "永遠" の意味が理解出来なくなってしまいました。
実際、主の祈りの副文を締めくくる "国と力と栄光は、限りなくあなたのもの" や、ニケア・コンスタンチノープル信条の中の "その国は終わることがありません" が何を意味しているのかを理解している信者は稀少なのです。
しかし、この神の国を待ち望む "希望と慰め" という前提を抜きにした "善い働き、善い言葉"(IIテサ v.17) がいくら語られても、
それは福音の宣教にはならならないし、そのような説教から人々が "神のことば" を聞くことは、決して起こり得ません。
このように、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタ 22:14) のです。
しかしそれにもかかわらず、カトリック教会には "委ねられた信仰の遺産"(カテキズム/使徒憲章) があることに信頼し、
"わたしたちの罪ではなく教会の信仰を"(教会に平和を願う祈り) 主が顧みてくださることを願って、私たちは 「静かにささやく声」(王上 19:12) に耳を傾けようではありませんか。
なぜなら、私たちに与えられている神の国の約束は、「主イエス・キリストの栄光にあずからせる」(IIテサ 2:14) 救いであり、希望の光だからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
538(1): 老クリスチャン 2016/11/07(月) 11:01:12.61 ID:ggKs3iIv(1)調 AAS
「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、
闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」(詩 11:2)
「主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、
逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。
主は正しくいまし、恵みの業を愛し、
御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」(詩 11:5-7)
539(1): 2016/11/07(月) 20:48:12.36 ID:bxDhdpJ5(1)調 AAS
>>490>>531
「神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びる。」(詩 1:6)
>>504
「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。
わたしに災いを謀る者は、辱めを受けて退きますように。」(詩 35:4)
>>518
「神と共に我らは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。」(詩 60:14)
>>538
「主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、
逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。」(詩 11:5-7)
神もキリストも信じないものは、このような目にあう。
540: 老クリスチャン 2016/11/09(水) 13:57:53.40 ID:X4/WIYfj(1)調 AAS
Am Anfang schuf Gott Himmel und Erde.(I.Mose 1:1)
Im Anfang war das Wort, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.(Joh 1:1)
541: 2016/11/10(木) 05:24:08.36 ID:+5UHA6aC(1)調 AAS
>>539
なぜ、日本人が、
ユダヤの神を信じないとこのような目にあうと、
脅迫され続けなければいけないのか。
信じなければ、生涯、脅迫され続ける。
542: 老クリスチャン 2016/11/10(木) 09:33:35.60 ID:KZvlnkC9(1)調 AAS
2004年(主日C/A年) 11月14日 年間第33主日
マラ 3:19~20a IIテサ 3:7~12 ルカ 21:5~19
「そこで、彼らはイエスに尋ねた。 "先生、では、そのことはいつ起こるのですか。 また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。"」(ルカ v.7)
キリストの福音は "世の終わり"(ルカ v.9) に関わる "神の国の福音"(ルカ 4:43) であって、教会は代々にわたって "私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んで" 来ました(ルカ 21:27)。
使徒たちはこの福音の証人となった人々でありました。
彼らはこの福音のためにあるいは迫害を受け、あるいは殉教の死を遂げました。
そしてそれはキリストとその福音を証しする最高の機会となったのでした。
ルカ vv.8-11 はいわゆる黙示文学的表現であって、これを無理に一世紀の特定の出来事に結びつけて説明しようとするのは適当でありません。
まして後の時代の歴史を予告する "お告げ" などではありません。
「しかし、これらのことがすべて起こる前に」(ルカ v.12)、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(マコ 13:10) ことが、今朝の福音の日課の主題であります。
使徒たちを通して語るのは復活されたキリスト御自身でありました(ルカ v.15)。
「遣わされた者」(ヨハ 9:7) の口に神は言葉を授け (エレ 1:9)、「この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(出 4:12) と言われます。
聖霊が語らせるとは、そういうことです。
彼らは 「忍耐によって、命を勝ち取り」(ルカ v.19) ました。
ですから使徒パウロも自分の後継者テモテに書き送って言いました。
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」(Iテモ 6:12)
・・・・・ 以下、本文参照。
外部リンク:www.kuwaei2000.com●Archives● より
543: 2016/11/10(木) 10:37:29.51 ID:RLSOl1nN(1)調 AAS
。。。。
† ルカによる福音書11.43-46
わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、
自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
原発は日本を不幸にするだけです。地震大国なのです。次はないのです。
† マタイ23.13
しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
。。。。
544: 老クリスチャン 2016/11/11(金) 10:49:54.22 ID:fxKX4mzn(1)調 AAS
Und alsdann werden sie sehen des Menschen Sohn kommen
in einer Wolke mit großer Kraft und Herrlichkeit.(Luk.21:27)
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 106 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ
ぬこの手 ぬこTOP 4.369s*