[過去ログ] 【第十回】 太平記 part.10 【帝の挙兵】 (994レス)
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176
(1): 2010/05/27(木) 15:41:58 ID:wWPEsvT6(1/2)調 AAS
>>171
こんな卒論も明治国家ではご法度だったろうな。

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律令法 - 『律令法』
外部リンク:wwwhou1.meijo-u.ac.jp
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・・・やや余談になってしまったが、これから、決して忘れてはならない人物、足利尊氏とその弟直義にも注目して見ていきたい。中先代の乱から四ヵ月後の一三三五年(建武2)十一月、後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じた。
長らく尊氏の下風に立ち、軽視されてきた義貞が公然と尊氏を討つ機会を与えられた瞬間である。この時、尊氏は出陣せず、代わって弟の直義が相手になり、直義は惨敗した。なぜ、戦い上手である尊氏が出陣しなかったのであろうか。
この時代に書かれたとされる『太平記』には、尊氏が「主上の御恩を忘れ逆らうことはできない。弓を引くことはできない」と言ったとある。

・・・(井沢元彦『逆説の日本史』小学館 65頁)のだ。これが、最大の原因であると考えられるのだが、もう1つは後醍醐天皇の人間的な甘さからきたことも考えられる。つまり、中国などの諸外国では、対抗勢力の人間を投獄あるいは処刑し、内乱を防いでいる。
張学良が彼の衛兵長である孫銘九大尉を派遣し、蒋介石を逮捕させた時がそうであった。このように中国ならば、少なくとも光厳上皇に対し何らかの処置を施していたはずである。まさしく、後醍醐の甘さ故に、光厳上皇が「院宣」を出し、
尊氏が”官軍”になれたともいえよう。それまでは、ただ単に後醍醐天皇に逆らって軍事行動をしているのであるから、”賊軍”ともいうべき存在だったであろうか。
186: 2010/06/01(火) 03:18:33 ID:z+c8jiEd(2/3)調 AAS
>>173
悪党の「悪」は、悪僧(僧兵)の「悪」なんかと同じで、
「アウトロー」かつ「武に秀でた」みたいな意味なんだよな。

>>176
つうか、いくら卒論とはいえ日本史の論文に井沢元彦の本を引用するのは
まずいだろう。
指導教授はそういうところを注意しないのだろうか?
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