[過去ログ] 【第十回】 太平記 part.10 【帝の挙兵】 (994レス)
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95: 2010/05/05(水) 20:39:41 ID:NRMqCp+y(1)調 AAS
兄の家系だからっていう発想自体が後代のものだね
96
(1): 2010/05/05(水) 21:01:32 ID:jpmAA9Cd(1)調 AAS
>>89
大塔宮って、親房との会話で「所詮、東夷(あずまえびす)であろう」とか
言っていたような気が。楠木や赤松は一緒に戦った仲だけど、新田との接点は
あったのかな?
97
(1): 2010/05/06(木) 14:11:17 ID:2bT+dIgF(1)調 AAS
>>90
中国の戦記とか日本でも関ヶ原の直前での秀忠対真田親子でもこういう時間稼ぎって出てくるしなぁ。
むしろ日本の軍記モノによくある漢籍からヒントを得た創作エピソードなんじゃないかって気がする。
98: 2010/05/07(金) 00:08:58 ID:D0Z8iaG1(1)調 AAS
>>97
いやぁさ・・・うん百年後のアーヴも同じ様なことするんだから
何時の時代のどんな場所でも、みんな似たような事考えるんじゃない?
99: 2010/05/07(金) 01:29:49 ID:gNmeH1M/(1)調 AAS

100: 2010/05/07(金) 07:29:47 ID:IfBuLE6C(1)調 AAS
>>94
平家物語前後の、為義-為朝と頼政みたいなもんかな?
>兄の家系
101: 2010/05/07(金) 15:03:39 ID:G23Mr1iz(1)調 AAS
>>96
そういえば、ドラマの中で、大塔宮が幕府滅亡後、新田に上洛を促したり、
恩賞の仲介をしてやるといっている場面があったね。
「東夷には2つの頭があるから、片方だけが大きくなり過ぎないように
操ることが重要」とも言ってた。

個人的な関係において仲が良かったかどうかは別にしても、互いに足利への
対抗勢力として結びつこうとする意識が働いていたことはあるんじゃないかな?
102: 2010/05/07(金) 15:57:14 ID:W4Jh0xKJ(1)調 AAS
自前の兵力は足利が突出していたのかな?
新田は貧乏御家人だったし、千種・北畠はもともと公家
楠・名和・赤松は後醍醐あってこその地方豪族

実は判官殿が武力も政治力も血統も足利に次ぐ?
103
(1): 2010/05/07(金) 17:50:48 ID:EpBcaQJs(1)調 AAS
判官殿、武力・政治力はともかく血統はいかに?
源氏とはいえ清和源氏じゃなかったハズ・・・
104
(2): 2010/05/08(土) 05:19:32 ID:Ty2qIUIO(1)調 AAS
判官殿が京極ではなく六角なら
佐々木源氏の頭領なのでもっと力があった
でも警戒されるかも
105: 2010/05/08(土) 08:38:06 ID:LuoGyym4(1)調 AAS
いや、武力なら桃井直常だね。桃井が90で判官が70くらい。目じゃない。
桃井なら尊氏に最終決戦で勝てた。何でドタキャンするんだ。もったいなかったな…
106
(1): 2010/05/08(土) 10:54:23 ID:6K2CFCii(1)調 AAS
桃井は戦闘は強いが政治力はない、血統も足利一門の末の末
107: 2010/05/08(土) 14:21:08 ID:Rny58TNl(1)調 AAS
すげえな。このスレまだまだ続いてた。
チャンネル銀河の「独眼竜政宗」見られる人少ないのかな?
あっちのスレは閑散
108: 2010/05/08(土) 14:46:01 ID:fioIxsrj(1)調 AAS
太平記も含め、後から色々作品見たけど個人的に大河視聴率1,2位の作品は
期待が大き過ぎたのかあまり面白いと思えん。
109: 2010/05/08(土) 19:33:48 ID:d+bj+BJy(1)調 AAS
チャンネル銀河はCATVに入ってないところも多いんじゃないか
110: 2010/05/09(日) 20:56:44 ID:a1Fq0Uqn(1)調 AAS
ゴダイゴ天皇役の片岡孝夫が、大河史上最高の配役でしょう。
111: 2010/05/10(月) 19:52:29 ID:epkZBJ/n(1)調 AAS
全体を覆う禍々しい狂気が何ともいえず好きだ。
112
(1): 2010/05/10(月) 19:59:43 ID:0IXK9AST(1)調 AAS
>>104
南朝方も村上源氏の北畠卿に開幕させちまえば良かったんだよw
お公家様なのに奥州常陸と奮戦してたし。
113
(1): 2010/05/11(火) 09:08:57 ID:ry2nOXPX(1)調 AAS
天皇親政がゴダイゴの信念だから開幕はあり得ないと思う
114: 2010/05/11(火) 15:31:42 ID:5GGbojpQ(1)調 AAS
後醍醐没後は南朝の最高実力者は北畠卿だったのかな
115: 2010/05/12(水) 00:36:51 ID:TMPLNldk(1/2)調 AAS
>>103
朝廷や公家社会での本来的な血統意識においては、むしろ
宇多源氏>清和源氏だと思う。

宇多源氏には公家として残った家系もあるが、清和源氏は中央にいても
出世の見込みがないから、みんな武士になったわけで。

>>104
京極は初代氏信の母方が得宗家だし、鎌倉期において代々検非違使に任官、
さらに佐々木一族の中で鎌倉幕府の評定衆を最も多く出した家だから、
六角との実質的な力関係は、道誉以前からかなり拮抗していたと思うよ。
116: 2010/05/12(水) 00:42:45 ID:TMPLNldk(2/2)調 AAS
>>106
桃井が政治能力のないタダの筋肉バカだったなら、直義が重用するとは
思えないよ。
直義にあれだけ重用されたってことは、それなりに頭の優秀な
人物だったんじゃないかな?

>>113
確かに全国政権としての開幕はあり得ないが、ただ建武政権期の
陸奥将軍府・鎌倉将軍府は、“事実上の小幕府”という矛盾もあるんだよね。
117
(1): 2010/05/12(水) 17:18:37 ID:8FFydTP4(1)調 AAS
>>112
北畠も、村上源氏の嫡流ではないから・・・。
118: 2010/05/15(土) 19:57:16 ID:pRAXWUey(1)調 AAS
存外非力じゃのぉ
119
(1): 2010/05/17(月) 21:22:21 ID:Kl2k76Cw(1)調 AAS
足利のイナゴはなかなか刈り取れんわ
120: 2010/05/17(月) 23:22:13 ID:FknKXLnn(1)調 AAS
館林のつつじ公園には「勾当内侍 遺愛のつつじ」が。
121: 2010/05/20(木) 09:51:53 ID:Xe5bkH6i(1)調 AAS
>>119
イナゴ×
稲穂○

イナゴ言ってたのは第一話の子供の喧嘩だよ
122: 2010/05/20(木) 19:23:09 ID:GW1sm2mW(1)調 AAS
偶然見つけたんで貼る。こういうの嫌いな人はごめんなさい。
でも個人的には笑って笑って涙出たんで。

429 名前:風と木の名無しさん 投稿日:2009/06/22(月) 23:34:45 ID:MDalWH7lO

騎乗位に禿燃える。
ノリノリで攻め攻めな受が攻を押し倒して騎乗位するんだけどやっぱ物足りなくて
結局攻に押し倒し返される。

受すねる。

体位変える時もガチュンしたまんまでアヒィなら直義。

430 名前:風と木の名無しさん 投稿日:2009/06/23(火) 00:42:30 ID:TcjscyUF0
足利の弟かと思ったぞ>直義

431 名前:風と木の名無しさん 投稿日:2009/06/23(火) 13:04:02 ID:h1GXh6YqO
官能の情乱…か
123
(1): 2010/05/21(金) 02:46:57 ID:TVnvCF7O(1)調 AAS
>>117
村上〜の嫡流って何家だっけ?
124: 2010/05/21(金) 09:31:43 ID:fG/DaEel(1)調 AAS
>>123
久我家
125
(1): 2010/05/21(金) 22:59:10 ID:4HLl//fU(1)調 AAS
尊氏は、おろかじゃのう。
朕は、神でも鬼でもない。人じゃ。
人であるがゆえ、腹も空く、おかしければ笑い
世が思うままにならねば怒りもする。
朕の政を邪魔立てする者は
たとえ誰であろうとも、この手で打ち払うてみしょうぞ。

案ずるな。関東をすておきはせぬ。
すでに奥州の北畠に命じた。
速やかに敵の背後を突き、鎌倉に攻め入るようにと。

北畠顕家は朕の分身のごときものじゃ。
必ずや北条を討伐しよう。
それゆえ、そなたは都にとどまれ。
動くことあいならぬ。
126: 2010/05/22(土) 00:21:20 ID:Jp0MMh9l(1/3)調 AAS
野に放った虎だわえ
127: 2010/05/22(土) 00:52:31 ID:nGvEuBh6(1/2)調 AAS
↓保守系のサイト巡ってたらこんな記事見っけたんだが・・

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外部リンク[html]:www33.tok2.com
光圀は「大日本史」上の編纂の中で摂津湊川に、楠木正成の忠魂の墓碑を建立しました画これは國の成り立ちを無視した足利幕府の批判、
及び徳川幕府の反省に連なる恩想です。そのため永く歴史の中で埋もれていた、楠木正成が真の忠誠の士として脚光を浴びる様に成りました。
その光圀の気風を内包するのが水戸学です。水戸学は光國の烈烈たる精神を受け継ぎ、あの明治の大政奉還を迎える為の、明治維新の呼び水となり、勤王の志士達の志の拠り所となりました。
128
(2): 2010/05/22(土) 00:54:44 ID:nGvEuBh6(2/2)調 AAS
正論 1月号
奉祝 天皇陛下御在位二十年 平成「臣民」論 皇學館大学教授 松浦光修
外部リンク[html]:www.sankei.co.jp

楠木正成、北畠親房、山崎闇斎、吉田松陰…
歴史を紡いできた忠臣の声に今耳を傾ける

(要約)
楠木正成公を代表する日本精神、武士道における「忠」とは?
問題点1.後醍醐天皇は”不徳”であるから、大楠公の「忠」は誤りではないか?
問題点2.親房が「正統」とした南朝の系統は断絶したではないか?
              ↓
解決1.”不徳”は儒教の「徳治主義」における問題であり、易姓革命の根拠。
 山崎闇斎は「拘幽操」にて”徳”という条件を排除し、易姓革命を否定。
  ”不徳”の「君」に「忠」を尽くす大楠公こそ、忠義の精髄である。
解決2.皇朝における「正統」とは神武天皇の血筋であること。
 加えて皇位継承の条件は”三種の神器”。

(まとめ)儒学における「正統」→血筋+徳
 日本精神(崎門の学、水戸学)における「正統」→神武天皇の血筋+神器

参考文献
『神皇正統記』北畠親房
外部リンク:www.amazon.co.jp
動画リンク[YouTube]

『拘幽操』山崎闇斎
動画リンク[YouTube]

『保建大記』栗山潜鋒、『大日本史』水戸光圀、『保建大記打聞』谷秦山、『太平記』
129: 2010/05/22(土) 00:58:17 ID:W+wLycK7(1)調 AAS
嗚呼忠臣楠子之墓ってやつだな
多分ここにお集まりの歴史ヲタク諸兄には特に解説不要なものだと思うが

水戸黄門ってのは弟なのに当主になっちまったってんで
誰が継ぐのが正統かみたいなこと考えすぎちゃったみたいな人なんだね
130: 2010/05/22(土) 02:23:08 ID:4f4RYp0s(1)調 AAS
>>128
まだ大日本帝国が続いてるつもりかこの認知症ジジイw
131: 2010/05/22(土) 08:53:56 ID:TxnmqtcR(1)調 AAS
江戸期でも後醍醐帝は、”不徳”の「君」という認識だったのかー
片岡さんの帝とか、真田の高氏とか当時の人に見せたらどんな反応だろな
132: 2010/05/22(土) 09:57:18 ID:ulAKJ4Un(1)調 AAS
>>125
その時代に、天皇の人間宣言があったとは。。。
133: 2010/05/22(土) 16:59:14 ID:Jp0MMh9l(2/3)調 AAS
朕も肩こりじゃ
134
(1): 2010/05/22(土) 20:30:00 ID:7o5LndyC(1/2)調 AAS
>皇學館大学

この大学ってギャグみたいな名前だけど、
普通にちゃんとした中世研究者もいるんだよ…
135: 2010/05/22(土) 20:57:32 ID:Jp0MMh9l(3/3)調 AAS
バカ田大学
136
(1): 2010/05/22(土) 21:19:35 ID:Fz3ehGfh(1)調 AAS
南北朝正閏論争って1世紀くらい前の日本の歴史学界じゃんw

今時水戸学のイデオロギーどっぷりというのは、マルクス主義史観どっぷり並みに

                恥 ず か し い ww
137: [age] 2010/05/22(土) 22:09:37 ID:Fe/70y2b(1)調 AAS
>>134
そこの大学の中世史研究者っていうと、源氏長者の話とかで有名な人とか?

>>136
つうか南北朝正閏論争って、歴史学界に属する歴史研究者がしていた
議論というよりも、むしろ国会とかで取り上げられたりして、政治家など
国を動かす立場の人達が繰り広げていた問題ってイメージがあるけど。

研究者にとってはどうでもいいことだったし、南北朝正閏論争以降、
教科書的にはこの時代の名称が「吉野時代」に変わったあとも、
東大史料編纂所発行の『大日本史料』など、研究者向けの専門書の類の
ものは、「南北朝時代」の時代名称を普通に用いていたからね。
138: 2010/05/22(土) 23:06:46 ID:7o5LndyC(2/2)調 AAS
昭和天皇が「余も北朝の血筋であるから変なものなり」と漏らしてるのに、、、

逆に言えば、後醍醐は日本に易姓革命的な発想を持ち込む危険があった異端児なんだな。
もし後醍醐がいなければ、大楠公精神なんて幕末から昭和まであんなに過激化しなかったかも
139: 2010/05/23(日) 00:09:27 ID:81bj4kk1(1)調 AAS
幕末以降のイデオロギー的な「大楠公精神」みたいなのはアレだが・・・。

ただ正成が後醍醐に最後まで尽くしたこと自体は、当時の北朝の武士から
見ても、非難の対象にはなっていない。
もっとも、それは
“相手が天皇だから”
というよりも、
“楠木にとって後醍醐は大恩ある人物だから”
その人に殉ずるのもアリ、というような認識だったのだと思うけどね。
140
(1): 2010/05/23(日) 08:43:42 ID:CsUh0AzJ(1)調 AAS
歴史においてはどっちが正統なんてどうでもいいことだよね。
141: 2010/05/23(日) 19:59:47 ID:Mm2bbF0p(1)調 AAS
欲を言えば、正成、あと劇中で亜相どのに死を強いられた形の正行
これに疑問を持つ正儀
そんな群像劇とか見てみたいね。義満時代を作れば可能じゃないの
142: 2010/05/23(日) 20:19:33 ID:IzISxqrs(1)調 AAS
>>140
しかし、つい最近まで、歴史というものは「正統」を主張するための道具だったりする。

もっとも、右翼や中国や北朝鮮、韓国は今もそうだけどね。
143
(1): 2010/05/23(日) 21:37:49 ID:g0IhUiKH(1)調 AAS
今や大河ドラマ空白地帯は義満時代しかないな
144: 2010/05/23(日) 22:32:50 ID:f8CwBEEG(1)調 AAS
不徳でカルトだが後醍醐にはカリスマ性はあったのだろうな
だから彼の狂気に多くの人が殉じた
145
(1): 2010/05/23(日) 22:59:47 ID:QW9Dd2Z1(1)調 AAS
>>143
将門の乱より前や、江戸期の家綱・家斉時代も空白
まぁ基本となる原作があるか否か、そして魅力ある作品に出来るかは別だけど
146
(1): 2010/05/24(月) 11:50:27 ID:+/MQniRD(1)調 AAS
湊川で何の戦果も上げずに尊氏軍を足止めもできず無様に玉砕したのを
「君に尽くした」と言えるのかは甚だ疑問だけどな やはり正成は後世の人間に造られた欺瞞の英雄
というイメージが付きまとう
147: 2010/05/24(月) 14:36:48 ID:yDn7Gobw(1)調 AAS
>>146
和睦はおろか叡山遷座⇒ゲリラ戦の策すら退けた
帝や坊門を糾すための諌死だったからな湊川の玉砕は・・・。
148: 2010/05/24(月) 23:25:02 ID:pEvhRstv(1)調 AAS
南北朝正閏論 - Wikipedia 外部リンク:ja.wikipedia.org

近代以前の南北朝正閏論

・・・その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を
「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、今の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を
受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。
当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、
享保16年(1731年)になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の
坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年(1810年)のことであった。ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、
同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。これは三種の神器の所在で正統性を求めた場合、前述の後鳥羽天皇の即位の経緯の問題が発生する上、北朝でも光厳天皇は即位した時に本物の三種の神器を保有していた可能性が高いという問題が
発生するためである(これは後醍醐天皇が隠岐島を脱出した際に出雲大社に対し、天叢雲剣の代替品として出雲大社の宝剣を借り受ける綸旨が現存していることからも指摘される[2])。・・・
149
(1): 2010/05/25(火) 00:38:08 ID:0uvar8pw(1)調 AAS
このスレで藤木孝のロカビリー歌手時代を教えてもらって以来
坊門様が出るたび12000回のキスが脳内で流れてしょうがないw
150
(1): 2010/05/25(火) 10:16:23 ID:gc6wAqoS(1)調 AAS
結局、今は三種の神器はどこにあるの?本物なの?
151: 2010/05/25(火) 12:52:16 ID:JT+FsaRq(1)調 AAS
>>150
鏡が伊勢神宮
剣は熱田神宮
勾玉のみ皇居

いずれも「本物」

だれかが偽者であることを証明するまではね。
152
(1): 2010/05/25(火) 14:30:31 ID:0IfvbwbY(1)調 AAS
トートロジーっぽくなっちゃうけど、
天皇が所有しているものが本物の神器であって
本物の神器を所有しているのが天皇というわけではないのよ

しかし苔丸ときたらw
153
(1): 2010/05/25(火) 19:02:36 ID:BEYt+muL(1)調 AAS
>>152
政治的にはその通りだが、歴史的にはその現在「本物」の神器はいつから「本物」になったのかは興味あるとこであるな。
大河の時代考証で「本物の三種の神器ってどんなものです?」「私もまだみたことありません」ってやり取りしたエピソードを読んで笑った覚えがあるw
154
(1): 2010/05/25(火) 19:03:25 ID:HBX4UBPJ(1)調 AAS
>帝や坊門を糾すための諌死だったからな湊川の玉砕は

正成自身はそこまで考えていたんだろうかね?何となくイメージ合わないけど
新田次郎の「新田義貞」なんか、そんな従来説は逆に戦略家としての正成に失礼だ、
と言う発想で書いてるよね。出撃なら出撃で、最後まであきらめないと言うか。
赤松円心軍が退路を断ってるのに気づかず包囲されたと言う設定だったかな?
155: 2010/05/25(火) 19:08:14 ID:ZO6kuJkU(1)調 AAS
三種の神器とはそもそも武権・王権・神祇権の概念自体をさすので
そもそも本物は存在しないともいえるし
その象徴として扱う以上は扱われている物体が本物だともいえる
156: 2010/05/25(火) 21:00:48 ID:RIUuoABJ(1)調 AAS
>>153
当時、後醍醐帝が足利方を欺くために
ニセ神器を用意したという逸話にしても
やけに手際が良過ぎだし
元々宮中には古代から多数の勾玉が
安置されていて(逆説の日本史)、逸失・破損時には
古式に則った儀式を以て真正の神器として
継承させていくんじゃないかと。

近年では指定御陵から台風豪雨で出土した副葬品を
宮内庁派遣の従者が収集にあたってる報道もよくある。
157
(1): 2010/05/25(火) 22:57:46 ID:dcSp4Vkg(1)調 AAS
献策ことごとく退けられた上
死んでこいと云われて
素直に死んでみせたとも考えられるぞ。
158: 2010/05/25(火) 23:21:07 ID:WCqUhfw4(1)調 AAS
>>149
お喜びいただけているようで
何よりですω
159: 2010/05/26(水) 00:33:23 ID:gHCqAJew(1)調 AAS
>>154
新田次郎は露骨な義貞贔屓だから、そういうことにして義貞の醜態を少しでも糊塗したかったんだろ。
水軍力で圧倒的に不利な状況であんな所に陣を敷くのは自殺行為もいいとこだ。
それこそ正成に失礼。
160: 2010/05/26(水) 16:03:01 ID:lAv5LAxh(1/2)調 AAS
じゃどう布陣すれば勝てたんですか。宮方は。
161: 2010/05/26(水) 19:11:02 ID:V3lKNJ1z(1/2)調 AAS
平地で無駄な消耗戦をせず
早めに叡山へ同座頂くよりないだろう・・・
勝てるかどうかはともかく。
162: 2010/05/26(水) 20:51:14 ID:V3lKNJ1z(2/2)調 AAS
大楠公の献策のままね。
163
(1): 2010/05/26(水) 21:00:01 ID:lAv5LAxh(2/2)調 AAS
古典太平記だと正成自刃後が本番で、義貞は凄まじい奮戦してるんだが、
ドラマ的には桜井の別れからの流れが繋がらないのか、描かれないな。
164
(1): 2010/05/26(水) 23:06:30 ID:OrCqAx4V(1/2)調 AAS
俺はむしろ>>128を見て、漸くバカウヨも最近は後醍醐帝を「不徳の君」と
断言できるところまで成長したのか、と感心したぞw

この調子でいけば、あと100年くらいすれば、南北朝正閏論争自体が
最早無意味な論争であることに、彼らも気付くんじゃなかろうか?
165: 2010/05/26(水) 23:19:47 ID:OrCqAx4V(2/2)調 AAS
>>145
家綱期は、古い大河だが「樅の木は残った」がある。
江戸時代で、完全な大河空白期は、家重の後半から家治・家斉期。
ただ江戸時代は基本的に戦争がない時代だから、将軍の個性が強烈な
綱吉期なんかを除くと、あまり大河の題材には向かないと思う。

もっとも、一方で江戸時代は、大河以外の一般時代劇で存分に
取り上げられているので、大河で重点的に取り上げるべきなのは、
鎌倉・室町だと、個人的には思うけどね。
166: 2010/05/27(木) 00:50:57 ID:Wv3NvW+E(1)調 AAS
>>163
敵水軍に背後に回り込んでくださいと言ってるような地点に布陣した上に、その通り背後に上陸されたら
そっちの方にかかり切りになって楠木軍の背後をがら空きにして見殺しにした愚将が大勢決した後で
奮戦もへったくれもあるかいw

やっぱり正成の献策通り新田を斬って尊氏と和睦するべきだったんだ。
167
(1): 2010/05/27(木) 01:39:09 ID:KbDS7Dak(1)調 AAS
>>164
寧ろバカウヨとかルーピー以前にノンポリが問題だろw
それに正閏論のアホらしさはウヨサヨ以前に気づけないとw
そもそも端からきな臭い話でしかないワケだし。
まあ去年のような投票行動する日本人じゃ仕方ねぇがww
168: 2010/05/27(木) 01:43:05 ID:MGNGPxDC(1)調 AAS
あり得ませんよ。官軍総大将を切るなんて献策してたら、坊門と同レベルですよw
169: 2010/05/27(木) 05:30:52 ID:9xFKBmlf(1)調 AAS
>>157
正成決死の提言→帝、断固拒否のシーンは泣けるなあ。
170: 2010/05/27(木) 09:18:52 ID:W9sr6xFa(1/3)調 AAS
つまり足利を敵に回した時点で八方ふさがりってことじゃないか><
171
(2): 2010/05/27(木) 10:20:04 ID:SLifKQXk(1/2)調 AAS
天皇が親政をしようとしたこと時点で終わっていた
北条を倒す大義名分として後醍醐を担いだだけ
護良征夷大将軍、足利・新田・楠・名和・赤松・千種などで
公武合体の評定衆つくればもうすこしは長続きしたかも
172
(1): 2010/05/27(木) 10:57:49 ID:0dOjjbgw(1)調 AAS
>>167
去年のような無茶苦茶な投票行動は、結局のところ政治を劇場型にした
小泉の郵政解散が原点なんだよな。

まあそれ以前に、政治音痴と言われた清和会(森派→町村派)の政権が
森・小泉・安倍・福田と8年間も続いたことで、すべてがおかしくなった
感じもあるが。
今から思うと、経世会(田中派→竹下派)が主流だった頃の自民党政権は
いろいろ言われつつも、今の与野党よりも遥かにまともだったように思える。
173
(1): 2010/05/27(木) 10:58:06 ID:AZpQRJGM(1)調 AAS
楠木正成って日本史の授業だと
悪党の象徴って感じで名前が出てきて、あとは湊川の戦で死んだと
語られるくらい。
悪党が今でいう悪党の意味とはもちろん違うけど、それにしても
戦前は英雄視されてたと初めて聞いた時は
「え?なんでwwww?」って感じだったなあ。
174: 2010/05/27(木) 11:07:00 ID:W9sr6xFa(2/3)調 AAS
そうなのか
子供の頃は、戦上手の悲運の武将っていう判官贔屓的な印象でかっこいいなーと思ってた
おかげで太平記で武田鉄矢がキャスティングされたときは「えー違うだろー」という感想だった
175
(1): 2010/05/27(木) 15:11:24 ID:SLifKQXk(2/2)調 AAS
>>172
劇場型政治よりは派閥順送り・利益誘導・多数派工作政治の方がマシだったのだろうな

後醍醐よりも長崎円喜の方が政治力ありそうだ
176
(1): 2010/05/27(木) 15:41:58 ID:wWPEsvT6(1/2)調 AAS
>>171
こんな卒論も明治国家ではご法度だったろうな。

―――――
律令法 - 『律令法』
外部リンク:wwwhou1.meijo-u.ac.jp
258D%2597%25E5%258C%2597%25E6%2599%2582%25E4%25BB%25A3%25E3%2581%25AE%25E8%25AB%25B8%25E7%259B%25B8.doc

・・・やや余談になってしまったが、これから、決して忘れてはならない人物、足利尊氏とその弟直義にも注目して見ていきたい。中先代の乱から四ヵ月後の一三三五年(建武2)十一月、後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じた。
長らく尊氏の下風に立ち、軽視されてきた義貞が公然と尊氏を討つ機会を与えられた瞬間である。この時、尊氏は出陣せず、代わって弟の直義が相手になり、直義は惨敗した。なぜ、戦い上手である尊氏が出陣しなかったのであろうか。
この時代に書かれたとされる『太平記』には、尊氏が「主上の御恩を忘れ逆らうことはできない。弓を引くことはできない」と言ったとある。

・・・(井沢元彦『逆説の日本史』小学館 65頁)のだ。これが、最大の原因であると考えられるのだが、もう1つは後醍醐天皇の人間的な甘さからきたことも考えられる。つまり、中国などの諸外国では、対抗勢力の人間を投獄あるいは処刑し、内乱を防いでいる。
張学良が彼の衛兵長である孫銘九大尉を派遣し、蒋介石を逮捕させた時がそうであった。このように中国ならば、少なくとも光厳上皇に対し何らかの処置を施していたはずである。まさしく、後醍醐の甘さ故に、光厳上皇が「院宣」を出し、
尊氏が”官軍”になれたともいえよう。それまでは、ただ単に後醍醐天皇に逆らって軍事行動をしているのであるから、”賊軍”ともいうべき存在だったであろうか。
177: 2010/05/27(木) 15:49:30 ID:wWPEsvT6(2/2)調 AAS
【 天武天皇以降天皇家は、後醍醐天皇にしてもあまり武力を保持していないように思え___ 】
外部リンク[html]:japan.21xa.com

天武天皇以降天皇家は、後醍醐天皇にしてもあまり武力を保持していないように思えますがなぜですか?

―――
ベストアンサーに選ばれた回答

日本の天皇は古来、「祭り事」を主務としていたので、武力を誇る諸外国のキングや皇帝とは違って、
問題解決を武政や武力でする事を恥として常備軍さえ持とうとはしませんでした。
その背景には今でいう「治国平天下」の思想が有ったからです。其れは正しい祭り事をすれば、
世の中は自然に治まるとする考えでした。従って将軍職さえ臨時で任命して来ました。
天皇が武力解決を図ったり、将軍の存在に頼り、更に天下に武人による幕府が出来るようになったのは、財政問題ではなくて、天皇の治世が乱れ、
天皇や人民の資質のレベルが低下した程度を表す事になります。
    −−
逆説の日本史に出てましたが、血を穢れたものとして嫌ったためです。
平安時代は、ほとんど死刑も無かったとのことです。
178: 2010/05/27(木) 20:55:18 ID:W9sr6xFa(3/3)調 AAS
逆説の日本史信者が多いのはなんなんだろうか
179: 2010/05/27(木) 20:57:35 ID:GWawUzCk(1)調 AAS
ってかこのスレでやらんでも
180
(1): 2010/05/28(金) 15:13:47 ID:virpUaA9(1)調 AAS
>>175
高資って、派閥順送り的な政治家だったのかな?
劇中では円喜(高綱)に比べて小物&過激派扱いされてるけど、
永井晋は子の高資こそバランス重視の高時政権を変える中堅ホープと見てる
181: 2010/05/28(金) 23:53:29 ID:e1hPdTC1(1)調 AAS
長崎高資 - 外部リンク:ja.wikipedia.org

文保元年(1317年)頃、父・高綱から内管領の地位を受け継ぎ幕府の実権を握った。『保暦間記』によれば、元亨2年(1322年)頃におきた奥州安東氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争の激化(蝦夷大乱)を招き、幕府の権威を低下させたという。

嘉暦元年(1326年)には、出家した執権北条高時の後継をめぐり得宗家外戚の安達氏と対立し、高資は高時の子邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族庶流の金沢貞顕を執権としたが、
高時の弟泰家らの反対により貞顕はまもなく辞任して剃髪、赤橋守時を執権とした(嘉暦の騒動)。因みに、嘉暦元年時点で、幕府評定衆と見える。(金沢文庫古文書(神奈川県立金沢文庫刊の「金沢文庫古文書」文書番号374)

元弘元年(1331年)には高資の専横を憎む高時はその排除を図ろうとしているという風説が広まり、高時側近が処罰される。高時は自らの関与を否定し処分を免れた。専横を極めた高資に対しては得宗家であっても無力であった。

元弘3年/正慶2年(1333年)新田義貞に鎌倉を攻められた際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害して果てた。
182: 2010/05/29(土) 09:58:44 ID:gjW3HSRT(1)調 AAS
wikipediaなんてネットじゃすぐ見られるんだからそんなの貼られても
歴史の本ではこう書いてあったみたいな紹介だったらおもしろいけどさ
183
(2): 2010/05/29(土) 12:15:51 ID:w/8qfSas(1)調 AAS
>>180
正直、高資がそんなに力量のある政治家だったら、鎌倉幕府は滅んでいないと思う。

末期には組織が崩壊していた室町幕府と違って滅ぶ直前まで強大な軍事力と権威を保っていた
鎌倉幕府の実質的権力者だったわけだからね。
184: 2010/05/29(土) 18:24:05 ID:5A1IFmHM(1)調 AAS
従来は「専横」とされていたんだけど、永井氏は
「高時政権は高時の病弱に起因するのか、妥協的性質があり、
それが命取りになった」と見てるんだよね。
185
(1): 2010/06/01(火) 03:13:58 ID:z+c8jiEd(1/3)調 AAS
>>171
>天皇が親政をしようとしたこと時点で終わっていた

それはどうかな?
当時の人々にとって、よい政治をしてくれるのなら、正直いって
合議政体でも、専制政治でも、何でもよかったと思う。
後醍醐が専制的な親政を始めたからといって、その体制を世間が最初から
否定的に見ていたわけではないと思うよ(除、持明院統およびその周辺)。

少なくとも最初の段階では、公家も、倒幕に参加した武家も、
お手並み拝見みたいな感じで見ていたように思える。
ただあまりに朝令暮改的なことが多すぎたりして政治が混迷を深め、
社会も混乱していくようななかで、政権への求心力が急速にしぼんでいった
感じかな?
186: 2010/06/01(火) 03:18:33 ID:z+c8jiEd(2/3)調 AAS
>>173
悪党の「悪」は、悪僧(僧兵)の「悪」なんかと同じで、
「アウトロー」かつ「武に秀でた」みたいな意味なんだよな。

>>176
つうか、いくら卒論とはいえ日本史の論文に井沢元彦の本を引用するのは
まずいだろう。
指導教授はそういうところを注意しないのだろうか?
187
(1): 2010/06/01(火) 03:28:48 ID:LUHYnUcu(1)調 AAS
>>183
鎌倉幕府の場合、軍事力はともかく、権威はどうかと思うぞ。
幕府を牛耳っていた得宗家周辺が、そもそも権威の源泉となるには
やや困難な生い立ちだからなあ。

逆に室町幕府の足利将軍家なんて、権威だけはしっかりあるから、
組織が腐ってグズグズになっても、将軍家自体はかなり長く残るわけだし。
188: 家電com家電.com 2010/06/01(火) 03:52:56 ID:yftsU8J9(1)調 AAS
家電.com
HP
外部リンク:Kadencom.chochouo.com
189
(1): 2010/06/01(火) 04:51:20 ID:z+c8jiEd(3/3)調 AAS
>>185
それはどうかな?
現代の人々にとって、よい政治をしてくれるのなら、正直いって
友愛政治でも、小沢傀儡でも、何でもよかったと思う。
鳩山が小沢傀儡的な内閣を始めたからといって、その体制を世間が最初から
否定的に見ていたわけではないと思うよ(除、自民党およびその周辺)。

少なくとも最初の段階では、官僚も、連立に参加した社民党も、
お手並み拝見みたいな感じで見ていたように思える。
ただあまりに朝令暮改的なことが多すぎたりして政治が混迷を深め、
社会も混乱していくようななかで、政権への求心力が急速にしぼんでいった
感じかな?
190: 2010/06/01(火) 15:42:07 ID:GqEem9VU(1)調 AAS
この板にはすぐ今の政治を持ち出すやつがいるがやめていただきたいものだ
ただでさえ太平記ものは天皇制の議論に直結してて燃えやすいのに
191
(1): 2010/06/01(火) 22:12:09 ID:jXPPnrIv(1)調 AAS
>>189はただのジョークだろw
192: 2010/06/01(火) 22:38:50 ID:ocYaLDtE(1)調 AAS
朕は許そうと思う。
193: 2010/06/01(火) 23:31:23 ID:+Vr8EfXn(1)調 AAS
佐々木道誉偽造の綸旨
「足利尊氏・直義、武威を誇り、朝威を軽んずること・・・
・・・かの者、たとえ隠遁の身たりといえども刑罰許すべからず。
深くその在所を尋ね追討いたすべし」
194: 2010/06/01(火) 23:38:31 ID:xJBpSom4(1)調 AAS
朕は神でも鬼でもない、人じゃ。
195: 2010/06/02(水) 02:25:34 ID:LiqI0iuG(1)調 AAS
>>191
そのジョークが野暮なの
196: 2010/06/02(水) 05:28:18 ID:21SZhIMs(1)調 AAS
参議院選挙で自民党が勝利すれば中先代の乱
その後に民主党が混乱し、分裂
197: 2010/06/02(水) 18:42:52 ID:r1foMqDv(1)調 AAS
坊門を道連れにすることに成功した正成
198: 2010/06/02(水) 23:56:59 ID:nj/5EsHT(1)調 AAS
冠者は女もけに来んけるやぁ〜♪
199
(1): 2010/06/03(木) 09:15:19 ID:dHPcVX5Q(1)調 AAS
小学生でやたら
おっぱいがデカいと興奮するよね?
200: 2010/06/03(木) 11:02:27 ID:tGVYi8eV(1)調 AAS
別に
201: 2010/06/03(木) 21:38:45 ID:FLLI4jT7(1)調 AAS
藤夜叉、残念だったね。
202
(2): 2010/06/04(金) 01:06:20 ID:T8WG4aS7(1)調 AAS
高氏→尊氏に改名したように
後醍醐と袂を別った時に名を改める話はなかったのかな
持明院統からの要請とか
203: 2010/06/04(金) 11:12:08 ID:mWAwRjgi(1)調 AAS
足利量氏に改めた。
204: 2010/06/04(金) 21:59:32 ID:7UlDf41w(1)調 AAS
足利禿氏
205: 2010/06/05(土) 19:00:26 ID:HFWxuVZQ(1)調 AAS
佐々木判官はなぜいつもでかい声でわらっているのか。
それを考えればわかるはず。
206
(2): 2010/06/06(日) 22:44:39 ID:jXQa2KjQ(1)調 AAS
>>199
顕子のことか???

>>202
「尊」は、いくら決別したとはいえ天皇から貰った字だし、その後の
正平の一統のときの尊氏の行動を見てもわかるとおり、南朝方との
妥協の余地を残しておきたい意図も考えれば、大して重要でないことにまで
わざわざ南朝方を挑発することになりかねない対応はとらないだろ。

また南朝との妥協の余地を残しておきたい事情は、室町幕府だけでなく
北朝の朝廷も同様だろう。
それに、後醍醐が尊氏に与えた偏諱を北朝の意思として撤回させた場合、
さらには後醍醐政権が行った叙位任官などの全否定にも繋がりかねないが、
南北分裂後に北朝側についた公家・武家のなかにも、後醍醐政権から官位を
貰った経歴のある人はいくらもいるわけで、やればやるほど、もの凄く
面倒なことになるからね。
207: 2010/06/07(月) 01:00:53 ID:9Dmb816C(1)調 AAS
>>183>>187
北条得宗家が政権を握る根拠は、前近代の日本史上の他の政権と比べても、
権威的にはかなり弱いと思う。
だからこそ軍事力に依存して有力御家人の粛清を繰り返さなければならず、
最終的に貞時期には得宗専制といえる体制になってしまった。
ただ矛盾を力で押さえつけても、いつかは綻びが出るものだからな。

もっとも、跡継ぎである高時が幼いうちに貞時が死んでしまったことで、
長崎等御内人の専横が常態化し、矛盾をさらに大きくしてしまったことも、
幕府の寿命を縮めた感はある。

確かに、明確な衰退期がある後世の室町幕府や江戸幕府なんかとは違って、
鎌倉幕府の場合、滅亡の直前まで(本当にほんの数ヶ月前まで)、
表面的には絶大な権力を保持している。
しかし逆にいえば、内部に蓄積されていた矛盾が一挙に噴出した結果、
急激に瓦解したともいえるだろう。
208: 2010/06/07(月) 07:46:57 ID:6AT4HiG6(1)調 AAS
本に書いてあること丸ごと書き写したような書き込みだね
209
(1): 2010/06/07(月) 21:34:23 ID:yNIywLOa(1)調 AAS
石高でゆってくれないと得宗家の強大さがいまいち分からん
210: 2010/06/07(月) 22:16:06 ID:2GaWb9xr(1)調 AAS
得宗家の動員可能兵力って事実はどのくらいなのかね?
有力御家人の足利が一族総動員で一万位とかいってたよね
ついでに三浦・安達の最盛期の動員兵力も知りたいわ
211
(1): 202 2010/06/08(火) 02:25:18 ID:IU9yDlr8(1)調 AAS
>>206
詳しい解説ありがとうございます
天竜寺造営以上に
尊氏が後醍醐天皇をいかに敬愛していたかの表れと思っていたのですが
政治的なしがらみも多いのですね

少しセンチメンタルすぎたようです
212
(2): 2010/06/08(火) 05:46:39 ID:qSU7L2bw(1)調 AAS
>>206
尊氏と持明院一同のそうした努力も最後は
義満一人の皇統簒奪計画で水泡に帰してしまうんだよな・・・
213: 2010/06/08(火) 13:28:49 ID:IiqtPzD6(1/3)調 AAS
皇統簒奪ってなんだ?
214
(2): 2010/06/08(火) 14:16:06 ID:2Epuc7Bn(1)調 AAS
>>212
井沢の読み過ぎw
215: 2010/06/08(火) 14:51:41 ID:qlKGwIoh(1)調 AAS
w
216
(1): 2010/06/08(火) 16:24:42 ID:AWJuJWNh(1/2)調 AAS
>>209
当時は石高制じゃないし、当たり前だけど、日本全体の総生産力も時代に
よって変化するから、豊臣政権以降の石高制を太平記の時代に当てはめても
ナンセンスだと思うよ。

>>211
政治的な思惑とは別に、個人対個人の関係でも後醍醐と完全には
決別したくないという思いが尊氏にあった可能性は、否定できないとは
思うけどね。

>>214
おそらく>>212は井沢愛読者だと思うけど、義満に簒奪の意図が・・・っていう
ネタ自体は、元々某研究者の説を井沢がパクっただけなんだよな。
まあどっちにしろ、この説が現在の歴史学界に広く受容されているとは
思わないが。
217
(1): 2010/06/08(火) 16:27:07 ID:/MzenJMM(1/2)調 AAS
皇統散奪の真偽はともかく、天皇家と同格意識は抱いていそうだな
義満

鎌倉末期以降は、武士も公家に遠慮しないからなあ
(もっと前からか?)
218
(1): 2010/06/08(火) 16:37:03 ID:/MzenJMM(2/2)調 AAS
佐々木判官
才覚があって風流人で、反骨精神が旺盛で政界風見鶏でもあるけど
尊氏が好きで、No.2的な位置で好き勝手できるから足利(宗家)側にいたのかなあ

太平記とか歴史本では
畠山とか仁木とか細川清氏とか斯波とかと
協力したり陥れたりしてるようだが
(最後まで?)幕府側なんだなあ
219
(3): 2010/06/08(火) 16:43:37 ID:IiqtPzD6(2/3)調 AAS
>>217
徳川幕府初期では将軍は天皇にたいして差し向かいで座り
勅使に対しては上座をとったらしいけど
義満はさすがに下座なのかな
義満って武士という意識があったのかな? 生まれてからずっと公卿として成長してるよね
220
(1): 2010/06/08(火) 17:01:28 ID:AWJuJWNh(2/2)調 AAS
>>219
近世には詳しくないのであえて聞くのだが、近世に将軍が天皇と向かいで
座ることなんてあったの?
輪王寺宮とか喜連川家当主と江戸城で対面するときは、向かいだったという
話を聞くけど。

あと義満は、幼少期に幕府が不安定なことでかなり苦渋をなめているから、
自分が武家の棟梁としてなんとかしなければという意識は強かったんじゃ
ないかな。
221: 2010/06/08(火) 17:08:33 ID:IiqtPzD6(3/3)調 AAS
>>220
いや、wikipediaの征夷大将軍の項に秀忠・家康は差し向かいで対面したと書いてあったのを
読んだだけなんで別に詳しいわけではないです
1-
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