[過去ログ] 【社会】NHK「放送センター」基本計画発表…18階建ての「制作事務棟」、9階建て「情報棟」、地下4階建て「公開棟」などを建設 ©2ch.net (1002レス)
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705(2): 名無しさん@1周年 2016/08/31(水) 00:36:12.04 ID:Ttoi1zI/0(1/3)調 AAS
放送事件史
「田中角栄」≪前編≫
――大量免許でマスコミ支配
外部リンク[html]:www.maroon.dti.ne.jp
角栄と記者の「軽井沢の約束」
新聞やテレビは、なぜ「田中角栄とマスコミ」の関係を報じないのか。その理由は、無邪気なため問題の存在を知らないことを除けば、
ひとつしかない。マスコミ各社が角栄に世話になりすぎたため、「田中角栄とマスコミ」の関係を掘り起こすことは、
自らと「戦後最大の金権政治家」の癒着を検証することにほかならないからである。
田中角栄のマスコミ支配を象徴する有名な発言がある。首相就任直後の1972年8月に田中が番記者9人に対して語ったもので、
「軽井沢発言」として知られている。番記者だけを集めて、田中はこんなことをいった。
「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣の時から、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、
これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる」
「いま俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは社長も部長も、どうにでもなる」
「つまらんことはやめだ、わかったな。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」
驚くべき発言である。これだけで新聞のトップニュースになる。アメリカで大統領が同じことをいえば、全マスコミがこぞって
弾劾《だんがい》しただろう。しかし、日本の新聞は一切報じなかった。
報じなかったどころではない。巨大新聞や放送局の記者たちは「軽井沢の約束」を守ったのだ。
大量免許を実現した「大臣決定」
田中角栄のテレビに対する最大の贈物は、角栄が郵政大臣になってすぐさま着手した放送局の大量免許交付である。
これに対して、郵政省は電波監理局を中心として一括大量免許に慎重な立場を取った。松田郵政相から寺尾郵政相(田中の次)
まで電波監理局長を務めた浜田成徳は、田中角栄に「テレビ局が全国にできれば家電・電子工業界に大きなプラスとなる」
と吹き込んだ人物だといわれている。しかし当時は「技術的にも経営的にも時期尚早」というのが郵政の立場だった。
その郵政を、田中は34社の大量免許へと動かしたのである。
田中は「歴代郵政大臣回顧録」(逓信研究会)で次のように書いている。
「ある朝、登庁したら大きな大臣用の机の上に部厚い書類がのせられていたので荘電波監理局次長を呼んで『結論はどうなんだ』
とただしたら『たくさん理由は書いてありますが結論はノーです』と答えた。
私は、早速、浅野文書課長を呼んで『事務当局はダメだといってきたが私は許可するつもりだ。手続きについてはどういう手順を
とればよいか』とただしたら同君の答えは簡明直截であった。
『大臣の決定は即ちこれ法律と同じです』
私は浅野文書課長と入れ違いに小野次官を呼んだ。やがて小野次官がやってきたので、『電波の事務当局から一括免許に反対
という書類を持ってきたのだが、あんたはどう思うか、自分は日本の将来の電波に重大な歴史をつくるときだと考えている。
また全国的混乱には終止符をうつチャンスだと思っているのだが……』
小野次官は冷静な人だが『それは大臣のご決心次第です』と明快に答えてくれたので部厚い書類の表紙(係官、課長、局長と
印鑑の朱で赤くなっている)全面に赤いペンで大きな×印を書いてから、この表紙だけ『本件許可しかるべし』と取り換えて欲しい、
と依頼した」
文書課長の「大臣決定これ法律」というアドバイスがふるっている。今なら、国会も法律も無視した、官僚にあるまじき無茶苦茶な
発言と批判されるだろうが、郵政省にあってはその通りという面が強い。
浅野課長とは後のフジテレビ会長・浅野賢澄、小野次官とは後のNHK会長・小野吉郎である。
706(2): >>705 2016/08/31(水) 00:37:17.59 ID:Ttoi1zI/0(2/3)調 AAS
角栄流の一本化調整
大臣の裁量はここまでで、あとは官僚任せというなら、後に番記者に対して「郵政大臣の時から、俺は……」と田中が恫喝する
こともなかっただろう。だが、田中のやり方は違っていた。再び「回顧録」を引こう。
「土曜と日曜の二日間に開局申請者全部を郵政本省大臣室に呼び出すように指示しておいたので、全国各地からえらい人が
いっぱい集まった。全国文化人大会のような観があった。各申請者には一五分か二〇分ずつ折衝に当たった。
『申請者はたくさんおられるが、みなさん一緒になって新会社をつくって欲しい。新会社の代表者は――申請代表の某氏とする。
A申請人の持ち株は―%、B申請人は―%、C申請人は―%とする。AとBからは代表権を持つ取締役各一名、
CとDは取締役各一名、E代表は監査役一名』という形式で懇談というより郵政大臣案の申し渡しである」
放送局の免許が以上のような手続きをへて認可に至るというのは、非常におかしい。
だが、回顧録を読めばわかるように、田中はこれを自分の手柄、自慢話として書いているのである。そして、申請者たちも、
そういうものなのだとありがたく納得して、田中の裁量を受け入れた。
放送事件史
「田中角栄」≪後編≫
――メディア支配構造の完成
外部リンク[html]:www.maroon.dti.ne.jp
いまの代々木放送センター(渋谷区神南)に移る前、NHK本局は長いこと千代田区内幸町にあった。ところが、内幸町の敷地は
1万500平方メートル(約3200坪)、建物床面積が6万7390平方メートル(約2万400坪)。敷地面積は現在の(河田町の)フジテレビの半分
に満たない狭さだった。
そこで、NHKが新放送センター用地として目をつけたのが、旧陸軍練兵場で、占領軍に接収され米軍宿舎(ワシントン・ハイツ)と
なっていた現・代々木公園の一部である。
もともと、この場所は、返還後に国が東京都に払い下げて森林公園にするはずだった。しかし、NHKの熱心な政治工作によって、
一部を「オリンピックの取材、放送実施に必要な各種の条件を満たす放送センターの候補地」としてNHKに払い下げることになる。
この国有地払い下げに、大蔵大臣田中角栄が深く関与するのである。
国有地NHK払い下げの暗部
新しい放送センターの敷地は8万2500平方メートル(約2万5000坪)。そのほとんどが第1期と第2期に分割して払い下げられた。
第1期は63年3月で、約1万8000坪が17億円で国から直接NHKへ払い下げられている。
奇っ怪なのは第2期である。NHKは13億円でわざわざ千葉県稲毛の埋立地を買い、この土地と代々木の国有地を等価交換する
かたちで約5900坪を手に入れたのだ。
しかも、稲毛の埋立地というのがとんでもない素性の代物だった。この土地は、千葉県が「若松築港」なる会社に埋め立てを認可したが、
同社は造成のわずか3日後、6億2340円で「朝日土地興業」という会社に売却している。NHKは、同じ土地を半年後に12億9791万円
で買わされたのである。
朝日土地興業とNHKの間を田中の「刎頸《ふんけい》の友」小佐野賢治の国際興業が仲介した、あるいは稲毛の埋立地は初めから
実質的に小佐野賢治の所有だったというのが定説だ。この国有地払い下げを担当の大蔵大臣として仕切ったのが田中角栄である。
あまりにも露骨なこの払い下げは、さすがに当時でも問題となり、NHK関係者が国会で説明している。
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