[過去ログ] 【政治】 民主党政権、“日中・国辱的密約”発覚か…「尖閣には触れません」「前原に反省させます」を条件に胡錦濤APEC出席★4 (1001レス)
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(1): 名無しさん@十一周年 2010/11/09(火) 22:33:22 ID:ICcYuPmW0(1/4)調 AAS
 
尖閣問題資料 | 四トロ同窓会二次会: 外部リンク:6305.teacup.com

投稿者:まっぺん 投稿日:2010年11月 3日(水)13時37分23秒 返信・引用
半月城さんがなかなかいいレポートをCMLに投稿していたので、ご本人の許可を得て転載します。この論文は転載自由です。
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尖閣(釣魚)諸島の先占は一時凍結か

半月城です。
 ある日、突然起きた中国漁船と日本巡視船の衝突事件はあれから2か月になろうとしますが、両国の関係はぎくしゃくするばかりで、日中友好の修復にはほど遠いようです。
 このように両国に緊張を強いる尖閣(釣魚)諸島問題は、両国の間の抜くに抜けないトゲであり、ちくりちくりと両国に痛みを与えているようです。
 かくも重大な影響をもたらした尖閣(釣魚)諸島問題について、改めてその歴史的な原点を見直したいと思います。中でも、日本による尖閣(釣魚)諸島の編入手続きや「無主地先占」にはどのような問題があるのかなどを中心に検証したいと思います。

1.内務省の内命
 1885(明治18)年、日本政府は沖縄近海にある無人島の日本領編入を積極的に進めました。内務省は在京の沖縄県大書記官 森長義に沖縄近海の無人島を調査し、国標を建てるよう内命をくだしました。その詳しい内容は指令文書が残っていないので不明です。
 しかし、だいたいの指令内容は、森が内命事項を確認するために内務省へ提出した伺書「大東島巡視取調要項の義に付伺(注1)」などから知ることができます。
 大東島では伺書の中に「同島を沖縄県管下と定め 名称は従来称呼に拠り大東島と唱へ 国標を建設すること」という一項があるように、内務省は大東島を沖縄県に組み込んで国標を建てるための調査を森に命じたのでした。
 内務省の内命は、沖縄県と清国の福州間に散在する無人島、すなわち尖閣(釣魚)諸島に対してもくだされました。沖縄県は久米赤島(大正島=赤尾嶼)他二島、すなわち尖閣(釣魚)諸島に関する資料や、清国の冊封使が航海した航路図などを詳細に調べ、
次のような内容の伺書「久米島 赤島 他二島取調之儀ニ付上申」を同年9月22日に内務省へ提出しました。
       ―――――――――――――――――――― ・・・
407
(1): 名無しさん@十一周年 2010/11/09(火) 22:37:14 ID:ICcYuPmW0(2/4)調 AAS
>>391 の続き 外部リンク:6305.teacup.com

・・・それらの島は清国の史書『中山伝信録』に記載された釣魚台や黄尾嶼、赤尾嶼かも知れない。もし同一なら清国が琉球王を冊封する使節が詳細に記述しているのみか、それぞれ名前を付けて琉球への航海の目標にしていることは明らかである。
 とりあえず10月に島の実地調査をするが、その後、大東島のようにただちに国標を建てるわけにはいかないと思われるので、国標の件はどのようにすればいいのか、ご指揮を受けたい。
       ――――――――――――――――――――

 この伺書に対して内務省は、久米赤島 他二島は『中山伝信録』に記載された島嶼のようだが、清国は船の針路を取ったに過ぎず、清国に所属するという証拠がないので国標の建設は差しつかえないと判断し、太政官の承認を得るべく内申案を作成しました。
 その内申案を念のために外務省へ送って外務卿の意見を求めました。ところが外務省は、当時は宮古・八重山諸島を清国の所属にする方向で清国と交渉中であったためか、内務省へブレーキをかけました。
 井上馨外務卿は10月21日付の回答書にて「近時、清国新聞にも我政府に於て台湾近傍 清国所属の島嶼を占拠せし等 風説を掲載し我国に対し猜疑を抱き しきりに清政府の注意を促し候」と清国の実状を紹介し、
内務省へ「実地を踏査せしめ港湾の形状ならびに土地・物産・開拓見込み有無詳細報告せしむるに止め 国標を建て開拓に着手するは他日の機会に譲る」よう提案しました。
 これら一連の史料はアジア歴史資料センターのサイトで簡単に見ることができます(注2)。・・・
 
438
(1): 名無しさん@十一周年 2010/11/09(火) 22:45:16 ID:ICcYuPmW0(3/4)調 AAS
>>407 の続き 外部リンク:6305.teacup.com

・・・外務省がふれた清国の新聞とは『申報』と思われますが、その記事(1885.9.6)は台湾警信として台湾の東北の海島に最近日本人が日本の旗をかかげ、島を占拠する勢いであると伝えました(注3)。
 このころ、清国が日本の動向に神経を使っていたのにはわけがあります。当時は大国であった清国は日本政府の「琉球処分」に対して不満をもち、その件で日本と交渉中であったので、とくに琉球の動向を注視していたのでした。
 ここでひとまず、このように尖閣(釣魚)諸島問題に大きな影響を与えた日清関係について、その概要を簡単に見ることにします。・・・

146 :日出づる処の名無し:2010/11/09(火) 22:01:27 ID:jRKydclS
外部リンク:6305.teacup.com

・・・2.「琉球処分」と清国の反発

 1871年、日本では廃藩置県が実施されましたが、これとは逆に沖縄では「琉球藩」が設置され、明治政府により尚泰が「藩王」に任じられて華族に列せられました。これは日本政府による琉球王国解体の序章でした。
 1879(明治12)年、日本政府は琉球処分官 松田と共に450人の軍隊、160人の警官隊を首里城へ送りこみ、尚泰王代理の今帰仁王子に琉球藩を廃して沖縄県を設置する廃藩置県を通告しました。これがいわゆる「琉球処分」ですが、武力占領に等しいやり方でした。
 そうした武力を背景にした日本の沖縄県設置に対して現地では根強い反対がありましたが、中でも清国の影響力の強かった八重山や宮古島では特に反対が激しく、日本政府への協力者が制裁を受けて殺される事件まで起きました(注4)。
 こうした事態に清国が動き出し、アメリカの仲介で日清会談が開かれました(1880)。会談において日本は清国の「琉球三分割案」に対して次の「分島・増約案」を提案しました(注4)。

 1.沖縄諸島以北を日本領土する。
 2.中国に近い、宮古・八重山を中国領土とする。
 3.上記を認める代わり、日清修好条規(1871)に、日本商人が中国内部において欧米諸国なみの通商ができるよう条文を追加(増約)する。・・・
 
461
(1): 名無しさん@十一周年 2010/11/09(火) 22:48:49 ID:ICcYuPmW0(4/4)調 AAS
>>438 の続き

・・・交渉の末、清国は日本案をのんで調印することになりましたが、いざ調印の直前になるや、清国は増約による国内市場の混乱や、日本への帰属反対運動などを再考し、調印を保留しました(1881)。
 ここで特記すべきは、この時点では尖閣(釣魚)諸島どころか宮古・八重山諸島の帰属すら流動的だったことです。両島は、清国が日本に妥協さえすれば清国領になる予定でした。また現地でも、特に宮古島では多くの島民が日本領になるのを嫌ったようです。
 こうした宮古や八重山諸島は日本の固有領土といえるのかどうか、少し疑問が残るところです。それは固有領土をどのように定義するのか、用語の問題になるものと思われます。
 それはさておき、その後も日清間で分島・増約案や条約改定をめぐって交渉がおこなわれましたが、結局は決着せずに交渉は打ち切られました(1888)。
 このような日清関係だったので、清国が琉球問題に格別の関心を持つのは当然でした。ましてや1874年には琉球漁民の台湾遭難事件を口実に日本が清国の台湾へ出兵を強行しただけに、
琉球問題は清国のかねてからの特別な関心事でした。当然、日本が「台湾近傍清国所属の島嶼を占拠」する事態を憂慮したのでした。

 このような清国の情勢を熟知する外務省のアドバイスを受けた内務省は、尖閣(釣魚)諸島の編入は清国との協議が必要であると判断し、
太政官へ当初の案とは正反対に「国標建設の儀は清国に交渉し かれこれ都合もこれ有り候に付目下見合せ候方しかるべく(注5)」と内申し、沖縄県へもそのように指令しました。
 ここで注目されるのは内務省の判断変更です。同省は、尖閣(釣魚)諸島は清国にとって琉球への使節の単なる航路の目印に過ぎず、清国に所属する証拠がないが、と言っても、
それだけの理由で一方的な領土編入はできず、清国との交渉が必要であると最終的に判断したのでした。その判断は太政官も承認しました。・・・
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