[過去ログ] 創価広宣部の嫌がらせ・ストーカー実働は婦人部2 (1002レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) 自ID レス栞 あぼーん
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
122: 2018/09/12(水) 03:40:40 ID:dHxOFRwn(1/3)調 AAS
■安土宗論
外部リンク:ja.wikipedia.org
安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と日蓮宗の宗論。
安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、日蓮僧(日?・日諦・日淵)等の間で行われた。
頂妙寺の日?は「妙」の一字に答えられず、群集に打擲され、法華八巻は破り捨てられた。
日蓮宗の僧や宗徒達は逃げ散ったが、これを津田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。
織田信長は大脇伝介を召しだして
「一国一郡を支配する身分でもすべき事ではないのに、お前は俗人の塩売りの町人ではないか。
この度は霊誉長老の宿を引き受けたにも係わらず、長老の応援もせず、人に唆されて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」
と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。
信長は、普伝を召しだして普伝の業績を問い質した。
「今度の宗論に勝ったら、一生不自由しない様にしてやろうと日蓮宗から堅い約束をされ、金品を受け取って、役所にも届を出さずに安土に来た事は、日頃の言い分に反し、不届きである」と述べた。
更に信長は追及して「宗論の場では己は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出様と待ち構えていた。卑劣な企みで、真にけしからぬ」と、 普伝の首も斬った。
残った日蓮宗の歴々の僧達へは、次の様に言い渡した。
「大体、兵達は軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者達は寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。
それにも関わらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許し難い。
ただし日蓮宗は口が達者である。 後日、宗論に負けたとは多分言うまい。
宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい 」
と申し渡した。詫び証文の概要は以下の通り。
123: 2018/09/12(水) 03:44:37 ID:dHxOFRwn(2/3)調 AAS
■日蓮宗が出した詫び証文の概要は以下の通り。
敬白 起請文(きしょうもん)の事
今度(このたび)近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論を致し、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。
向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事(今後は、他宗に対し決して非難は致しません)。
法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候(日蓮宗に寛大な御処置を賜りまして、誠に有り難い想いです)、
法花上人衆、一先牢人仕り、重ねて召し置かるゝの事(私共日蓮宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせて戴きます)。
天正七年五月二十七日 法花宗
上様、浄土宗様
この様な証文を出した[7] 上に「宗論に負けました」と書いてしまったからには、日蓮宗が負けた事を女子供迄もが後の代まで聞き知る事になった。
別の文句が幾らでもあったのに失敗した、と歴々の僧たちが後悔していると伝え聞いて、またまた世人はこれを笑い者にした。
建部紹智は堺の港まで逃げたが捕縛された。この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。
以上、信長公記の記述による。
安土宗論は、日蓮宗側にしてみればそのまま安土法難であり、同様の事態は、のちに徳川家康と浄土宗によって、慶長法難として引き起こされている。
ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで日蓮宗側が回答に詰まって決着がついている。
宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては日蓮宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。
つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言え、信憑性が高い。
124: 2018/09/12(水) 03:51:55 ID:dHxOFRwn(3/3)調 AAS
■ 慶長宗論
外部リンク:ja.wikipedia.org
慶長宗論(けいちょうしゅうろん)とは、浄土宗の増上寺・廓山と法華宗( 日蓮宗 )の妙満寺・日経との宗論で、徳川家康が両者を江戸城で対決させた論争をいう[1]。
概要
折伏布教で他宗を改宗して名を轟かしていた日経は尾張国熱田に入り、浄土宗の正覚寺・沢道と宗論することになった。日経が論破したため、増上寺を経て徳川家康に上訴され、1608年12月22日(慶長13年11月15日)江戸城にて廓山と宗論することになった。
宗論が開始されたが廊山の問いに答えられなかったので、判者・頼慶は浄土宗の勝利を宣言した。
不受不施義を説いてきた日経らは袈裟を剥ぎ取られた。
その後、日経らは宗論に勝ったと主張し、1609年2月11日(慶長14年1月7日)捕らえられ、1609年3月25日(慶長14年2月20日)京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ
ぬこの手 ぬこTOP 1.566s*