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邪馬台国畿内説 Part702 (1002レス)
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2021/04/30(金) 15:50:20.67
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68: 1 ◆n7jxAxKCBhb6 [sage] 2021/04/30(金) 15:50:20.67 ◆FAQ 90 Q:倭人伝は短里で解釈するしかない! 短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ! A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。 敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。 以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。 「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔) 「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具) 「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀) ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫) 「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」 「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注) ※晋元康年間:291〜299 「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』) ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289 (始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽) 「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽) ※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91 Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ! 10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ! A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1619763207/68
倭人伝は短里で解釈するしかない! 短里でかかれた報告を晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ! 中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない 敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり叛逆に類する行為であろう 以下のとおりの皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである 高祖光武陵四面百歩不得使民耕牧樵採書載明帝戊子詔 光武原陵 山方三百二十三高六丈六尺古今注具 在臨平亭之南西望平陰東南去陽十五里 明帝顕節陵山方三百高八丈帝王世紀 古今注具晋豹撰 豹は晋恵帝時の太 帝王世紀晋皇甫編黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫 帝王世紀洛陽城東西六里十一歩南北九里一百歩 晋元康地道記城内南北九里七十歩東西六里十歩後漢書劉昭注 晋元康年間 洛陽十二門南北九里太平宇記所引陸機洛陽記 陸機呉陸遜孫晋入朝 始皇帝墳高五十余丈周五里余集解引皇 漢家之葬方中百歩穿築為方城及埋車馬虎豹禽皇 皇文勅撰 南至邪馬の水行十日陸行一月は起点が帯方郡なのだ! 10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ! 大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで海保水路部距離表に基づけばを数える想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば物理的に不可能な日程である 実例に即して言えば年に来日した朝鮮通信使一行は申維翰の記録によれば釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している
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