[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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(4): 九州王 2020/09/30(水) 15:05:51 AAS
前スレ2chスレ:history
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
2: 九州王 2020/09/30(水) 15:06:58 AAS
世有王

? 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有?損。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

? 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

? 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

? 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

? 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

? は三世(三代)の意味、?は当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
? は代々の意だが、魏代ではある。?も代々の意だが、魏代ではある。?は一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。
3
(1): 九州王 2020/09/30(水) 15:07:32 AAS
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
4: 2020/09/30(水) 15:11:39 AAS
【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測した
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。

【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録したもの
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に更に加わる。

※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。
5: 2020/09/30(水) 15:12:26 AAS
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、
在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
6: 2020/09/30(水) 15:13:04 AAS
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 「細石神社の金印庇保管」はネタであり、歴史学としての価値はない
7: 2020/09/30(水) 15:15:10 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
8: 九州王 2020/09/30(水) 15:16:41 AAS
「南至邪馬壹国女王之所都」
この場合の「都」は「全て」の意味で、和訳すると
「南、邪馬壹国に至る、女王の全領土である。」となる
  都は名詞なら、みやこ。用例)都会、都市、京都
  動詞なら、取り纏める、統率する。用例)都統、都督
  副詞なら、すべて、みな。用例)都合、都度

「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」
この場合も高句麗を全て滅ぼしたとの意味。
9: 2020/09/30(水) 15:18:59 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
10: 九州王 2020/09/30(水) 15:23:35 AAS
魏使は帯方郡の海岸から出発しており
対岸に着くと至るや到と記している
対馬国や一大国では北岸に着くと至るである
そこから島を半周して、次の目的地へ行く
末盧国に着いた場所も末盧国の北端の呼子付近へ上陸している
更に伊都国へ到ったのは末盧国と伊都国境の伊都国GC付近のことで、この先が伊都国
奴国へ至るは、糸島峠付近のことで、この先が奴国
不弥国へ至るは、小笠木峠付近のことで、この先が不弥国
11: 2020/09/30(水) 15:26:21 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
12: 九州王 2020/09/30(水) 15:27:43 AAS
末盧国から伊都国までは500里(40km)で呼子付近から伊都国GC付近までと一致し
伊都国から奴国までは100里(8km)で伊都国GC付近から糸島峠付近までと一致
奴国から不弥国までは100里(8km)で糸島峠付近から小笠木峠付近までと一致する
魏志倭人伝は正しいのである。
13: 2020/09/30(水) 15:32:08 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
14: 2020/09/30(水) 17:04:31 AAS
この板では重複は珍しくも何ともないんだよなあ。
15: 2020/09/30(水) 17:05:57 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
16: 2020/09/30(水) 23:03:41 AAS
自治気取り4ね
17: 2020/09/30(水) 23:28:17 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
18: 2020/10/11(日) 14:29:48 AAS
>>1
>>3
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に統属している「皆」は前節の「今使譯所通三十國」を指している。つまり倭の国々は全て女王国に統属しているの意味となる。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、その諸國を「伊都國」で一大率を使って治めているの意味となる。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
女王国以北に刺史の如き一大率を置き、伊都国で常諸国を治めていた以上、伊都国には女王卑弥呼が居たことに疑いの余地は皆無である。
19
(1): 2020/10/11(日) 15:26:47 AAS
伊都国に女王卑弥呼が居たのだろうけど、
伊都国王もまた居たのだろう。
其國本亦以男子為王住七八十年→世有王→更立男王、の流れだ。

北部九州倭国=伊都国王や奴国王や〇〇国王の集合体
倭国王=各国の王を統属させる皇帝のようなもの
あるいは各国の王が戦国大名のようなもので、倭国王が征夷大将軍
20
(2): 2020/10/11(日) 15:37:07 AAS
一時代前には豪族達が勝手に王を自称していたのだから、
まだまだ有力勢力が北部九州の主導権争いをしていたのだろう。

イザナギ→倭国王男系(其國本亦以男子為王住七八十年→世有王→更立男王)
イザナミ→豊国王女系(宗像三女→トヨ玉→卑弥呼→トヨ)
オオクニヌシ→奴国王男系(奴国王→失脚→狗奴国王)
21
(2): 2020/10/11(日) 15:49:14 AAS
>>20

ただ1人の王として卑弥呼を叙任したという記事が魏志倭人伝
だから代々の王は伊都にいて、当代の王は伊都にいる卑弥呼
22: 2020/10/11(日) 15:51:52 AAS
>>20
卑弥呼の前に豊玉姫を置くなら、その時の男王は筑紫の日向三代の彦火々出見だが、まさに伊都の高祖神社の祭神
23: 2020/10/11(日) 15:53:24 AAS
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。

・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い

女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。

刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。

中国大陸は広いので、報告するに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。
24: 2020/10/11(日) 15:53:56 AAS
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:?帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。

率は帥と同義であり、倭(九州北部)における行政最高官のこと。
最初の帥の記録は「倭王」とされた帥升であるが、なぜか王のはずなのに自ら漢を訪問したことになってしまう。実は王ではなく帥だったのだろうと考えられる。
律令制においてはこの役職は太宰の帥と呼ばれた。
最後の帥は有栖川宮熾仁親王であり、明治2年に帥の役職は廃止された。
25: 2020/10/11(日) 15:55:25 AAS
>>21
卑弥呼は倭王であって、倭国王ではない。
親魏倭王=魏が信任する倭人の王

狗奴国王が熊本など南部を実効支配していたから、
倭国王=九州統一王という存在がいなかった。

伊都国王、邪馬台国女王、狗奴国王、などの同盟候補がいて、
伊都に鎮座する共立女王=伊都の大率で対馬海峡を支配している王
を、特に信任しただけのこと。
伊都国王は統属=卑弥呼共立に参加していた。
これは魏がそう言ってるだけで、実際は対等同盟とかだったかもしれん。
26: 2020/10/11(日) 16:03:28 AAS
三国志では◯国王の意味で◯王と書くよ。
しかも倭とは九州北部と対馬海峡のことだから、九州統一王である必要はない。
27: 2020/10/11(日) 16:06:39 AAS
魏志倭人伝
伊都国に世々王あり
名を曰く卑弥呼と
28: 2020/10/11(日) 16:13:48 AAS
そうか、
その昔、「漢委奴国王」というのがいた、倭国の極南界つまり倭国の一番端っこだな。
だが博多湾岸をちょこっと治めただけで国王の金印をもらったそうだ。三国志とはえらい違いだ。
29: 2020/10/11(日) 16:18:27 AAS
倭の西北界は狗邪韓国だから、博多湾だけではない。
倭は対馬海峡全体だ。
その定義は後漢書と魏志倭人伝では共通だということ。
30: 2020/10/11(日) 16:21:02 AAS
伊都の大率は女王国から北の諸国を検察し、諸国はこれを畏怖した。
対馬海峡を伊都にいた卑弥呼が実効支配し、そのための職が大率。
31: 2020/10/11(日) 16:25:20 AAS
どうぞどうぞ、
海峡国家とは、イカや、タコや、サバを捕り、干物にしては売り捌く漁師の国だよな。
32: 2020/10/11(日) 17:17:09 AAS
大日孁貴神
道主貴
大己貴命
33: 2020/10/11(日) 17:23:52 AAS
おまけに、良田なく(米を求めて)南北に市櫂する

気の毒なことに、メシにもこと欠いてのう、
34
(1): 2020/10/11(日) 17:48:44 AAS
行橋市の下稗田遺跡からも紀元前2世紀(弥生時代中期前半)の硯3点だと。

その頃から倭人か倭種が瀬戸内海にも進出していたんだろうね。
豊国銅剣祭祀の勢力だろうか。
鉄器が豊富な高地性集落群や後の淡路島の鉄工房遺跡にも繋がってくる。

文字があったなら正確な暦も残していた可能性が出てきて、
吉武高木大王の初代即位年も残っていたカモ。
35: 2020/10/11(日) 18:56:18 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
36
(13): 2020/10/11(日) 19:00:56 AAS
>>19
伊都国に女王卑弥呼が居て
その女王卑弥呼が伊都国王であり倭王なんだよ。

>>21
世有王だから魏の世に伊都国に王が居たの意味

>>34
>文字があったなら正確な暦も残していた可能性が出てきて、
九州の記録は記紀編纂時の資料に使われた後に焚書されたんだ。
37: 2020/10/11(日) 19:04:51 AAS
>>36
>世有王だから魏の世に伊都国に王が居たの意味

そして魏が叙任した王は卑弥呼だけ。
38: 2020/10/11(日) 19:08:59 AAS
重複スレにつき、運営に通報しました。

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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
39: 2020/10/11(日) 19:10:48 AAS
 .
 
古代史関連スレの三大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン
 
 
 
"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
2chスレ:history
 
 
"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
2chスレ:sf
 
 
何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ
 
 
 
古代史関連スレの三大迷惑チョンの得意技

こじつけ

思い込み

盲信

猿芝居
 
 .
40
(2): 2020/10/11(日) 19:15:09 AAS
>>36
自分も以前は卑弥呼が伊都国王と思ってたけど、
コピペ魔さんが書いてたように、皆は直前のものを指すだろうから、
やはり伊都国王は別にいて、卑弥呼に統属していた、と思う。
伊都三代の男王が70-80年間で、
倭国乱で出陣して伊都国王は伊都から出たのだろう。
41: 2020/10/11(日) 19:25:19 AAS
>>40
>皆は直前のものを指すだろうから

直前とは限らない、既に書いてるものを指す
魏略では「其国王皆属女王也」であり「其の国(倭国)王はみな女王に属していた」とあるから
魏志倭人伝でも「倭の国々はみな女王国に統属していた」の意味である。
42: 2020/10/11(日) 19:25:31 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
43
(1): 2020/10/11(日) 19:26:22 AAS
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、
在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
44: 2020/10/11(日) 19:26:51 AAS
自分もそのほうが楽だと思っていたけど、
三国志の「皆」を調べてみて。
直前のものを指しているから。
45: 2020/10/11(日) 19:27:35 AAS
>>43
これだな
46
(5): 2020/10/11(日) 19:28:33 AAS
前期伊都国王

七八十年男王=後期伊都国王=倭国王(師升を含む)
↓東征
香椎(または大宰府)

?(母系は下関周辺?)

筑紫野市(阿志岐山城神籠石の麓の荒船神社か)※3

旧三輪町(大倭の利権奪取)

博多住吉神社

旧三輪町〜久留米の手前のどこか

久留米市(高良)

※3

春日市(奴国の高級住宅地)

阿志岐山城神籠石を拠点にして、南の狗奴国と筑後平野を取り合っていた。
戦況の優劣に応じて、南下(進軍)と北上(転進)を繰り返している。
47: 2020/10/11(日) 19:30:26 AAS
また糸チョンの言葉遊びによるこじつけ妄想が始まったか・・・
48: 2020/10/11(日) 19:45:09 AAS
>>46
若〇だから、利権を喪失している。

『其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状』

狗奴国が攻勢をかけてきて、春日市まで北上転進したわけだ。

そして次は旧三輪町に南下進軍して復しているね。
大倭 大和 利権を再奪取。

『邪馬台国七万戸』=戸数調査がされていて、
『収租賦』租税や賦役が課されている。

いくら北部九州のみだからと言っても、
あのお方より先に勝手にやっちゃったらマズイんじゃないのというお話。
49: 2020/10/11(日) 19:48:44 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
50: 2020/10/11(日) 19:51:12 AAS
最近になって糸チョンが急に頑張り出したのって何かきっかけがあったん? 最近は安曇も伊都国だとか言い出しとるやん。
51: 2020/10/11(日) 19:51:31 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
52: 2020/10/11(日) 20:50:47 AAS
>>40
>倭国乱で出陣して伊都国王は伊都から出たのだろう。

日向三代の後、伊都国王族は高祖宮で相談して筑紫を出て、東へ向かったわけだ。
53: 2020/10/11(日) 20:52:20 AAS
>>46
>七八十年男王=後期伊都国王=倭国王(師升を含む)=日向三代
>↓東征
畿内大和
54
(1): 2020/10/11(日) 20:58:11 AAS
>>46
>?(母系は下関周辺?)

志賀島から下関まで豊国王家でしょ。
伊都高祖神社に嫁いだ志賀島の綿津見神社の姫が木花咲耶姫、豊玉姫、玉依姫。
その初代である木花咲耶姫を祭るのが細石神社で、王と王妃の墓が三雲南小路。
記紀の記事とぴったり合うのだけれど。
55: 2020/10/11(日) 21:10:35 AAS
.

中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!

.
56
(1): 2020/10/11(日) 21:27:27 AAS
>>54
木花咲耶姫は大山津見だから瀬戸内利権。
旧祭祀型銅剣勢力。
ニニギ&ニギハヤヒ+大山津見=祭祀型銅戈勢力で大阪湾上陸を果たした。

ニギハヤヒ系統+大山津見系統が瀬戸内〜畿内経営して利潤が増えたのが、
大倭利権。

>志賀島から下関まで豊国王家
豊玉姫、玉依姫が綿津見。
城野遺跡が豊国本国の玉造施設で、
潤地頭給遺跡など。

要するに、倭国乱とは、
ニギハヤヒ系統+大山津見系統 VS ニニギ系統+綿津見。

ニギハヤヒが滋賀県に人件費の安い海外玉造施設を作ったことなどが遠因か。
57: 2020/10/11(日) 21:37:16 AAS
大山積が瀬戸内海に見えるのは、瀬戸内海を東進した三島溝杭耳が父親の大山積を祭ったからですよ。
大山積自身は綿津見と同時に生まれたいわば兄弟で、博多湾の志賀島の海人族です。
後の海幸山幸のように、兄弟で海と山を治めるのは、倭国の伝統だったようですね。
58
(1): 2020/10/11(日) 21:37:22 AAS
>>46
倭国乱で倭国王家がドンパチやってる隙に狗奴国勃興。
九州物部を制圧して久留米・高良入りして一安心したところを襲われたのだろう。
59
(1): 2020/10/11(日) 21:39:57 AAS
>>56
それでは、ニニギ王統の天孫族が筑紫を出て畿内のニギハヤヒを頼って東征した理由がわからなくなり矛盾します。
60: 2020/10/11(日) 21:41:03 AAS
>>58

そもそも筑後はむしろ有明海沿岸の火の国の一部であったはず。
61: 2020/10/11(日) 21:48:30 AAS
大山積神社

大山積(和多志=ワタシの大神)を祭る。
瀬戸内海の大三島にあり、瀬戸内海海運の要所であったと考えられる。
すなわち大山積はれっきとした海人族。
三島の名は、息子である三島溝杭耳に由来する。
三島溝杭耳は京都の上賀茂下鴨神社に祭られる畿内の開拓者。
62: 2020/10/11(日) 21:53:40 AAS
伊都国王家の天孫族が倭国乱で東征して筑紫を去った。その理由は不明。
そこへ肥国女王卑弥呼が倭国女王に共立されたが、肥後狗奴国が従わなかった。
卑弥呼は伊都に入り倭国女王となったが、志賀島の豊国王家も東進し、遠賀川流域に移動した。
だから邪馬台国の領域は福岡県西部と佐賀県、長崎県。
63: 2020/10/11(日) 21:59:10 AAS
だから畿内ではなく九州の大倭。

瀬戸内の大山積を平らげ、畿内まで手を出そうとしたらニギハヤヒ勢に押し返された。
だから九州まで戻って本国決戦=倭国乱。
64
(2): 2020/10/11(日) 22:05:33 AAS
大山積は平らげられてないですよ。
平らげられたら伊予国一宮になんてなってません。
息子の三島溝杭耳は神武東征を助けた立役者として知られ、その孫娘は神武の妃にまでなっています。
65: 2020/10/11(日) 22:10:13 AAS
>>64
イスケヨリヒメは孫娘ではなく曽孫でした。
66
(1): 2020/10/11(日) 22:12:58 AAS
>>59
頼ってません。
美味しく育った瀬戸内畿内利権=大倭利権をよこせと迫り、強奪しただけです。

>>64
それは平らげられた後に従った。
ニギハヤヒに押し返されて困っていたのを助けることで恩を売ったわけでしょう。

ヤマツミとワダツミの外戚争い。
ヤマツミ側の山幸彦が、ワダツミ側に懐柔されたのと同じように、
ワダツミ側の神武にも、ヤマツミは妃を送りこみ、その王子が首尾よく家督を継いだ。
67
(1): 2020/10/11(日) 22:13:40 AAS
賀茂一族

畿内を開拓した古代氏族。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
新撰姓氏録には山城国の神別、天神とある。

天神玉命(天活玉命、伊久魂命)ー天櫛玉命(神櫛玉命、天押立命)ー加茂建角身命(八咫烏、陶津耳命)ー鴨建玉依彦命(玉依彦命)ー五十手美命(生玉兄日子命)
ただし先代旧事本紀には、筑紫から大和に天降った饒速日に随伴した天櫛玉命が鴨県主の祖、天神魂命が葛野鴨県主の祖とあり、それぞれが別の鴨族とされている。

賀茂建角身命はまたの名を八咫烏、八咫烏鴨武角身命、三嶋湟咋、三島溝咋、三島溝橛耳神、陶津耳命、陶津耳、天日方奇日方武茅淳祇という。
賀茂建角身命と大山祇を祭るのは伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島鴨神社、京都の上賀茂神社と下鴨神社、奈良の天理三島神社などである。
神武を助けた八咫烏の正体が賀茂建角身命とされている。
賀茂建角身命は大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まったとされる。

賀茂建角身命の息子である建玉依比古が賀茂県主の祖である。
賀茂建角身命の娘である活玉依姫(玉櫛媛、勢夜陀多良比売)が鴨川で拾った(山城国風土記逸文による)丹塗矢で懐妊して産んだ息子が賀茂別雷命、または天日方奇日方(櫛御方、鴨主)であり、娘が後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)である。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子、イスケヨリ姫の次男が綏靖天皇である。
68: 2020/10/11(日) 22:17:32 AAS
>>67
そうそう。勝てば官軍。
平安京を誘致した勝者なのだから、その先祖は当然一宮となりました。
伊予や土佐ですね。

ちなみに土佐も豊国ワダツミ=広形銅矛が攻撃しています。
69: 2020/10/11(日) 22:17:38 AAS
>>66
根拠のない妄想ばかりですね。
キナイコシの撹乱かな?
70
(2): 2020/10/11(日) 22:18:43 AAS
むしろ瀬戸内海と畿内を平らげたのが三島の賀茂族
71: 2020/10/11(日) 22:23:15 AAS
>>70
そう。そしてその利権を狙われた。
72: 2020/10/11(日) 22:41:38 AAS
むしろ天皇家はその後は8代にわたり大和盆地でくすぶったまま。
瀬戸内海の利権を奪えてはいません。
73
(1): 2020/10/11(日) 22:44:26 AAS
奪われていたら葵祭(賀茂神社の祭り)なんてやってないっての。
74
(1): 2020/10/11(日) 22:52:31 AAS
2代目をヤマツミ系にすることに成功したのだから、
滅びたわけではないし、むしろ逆転した。
75: 2020/10/11(日) 22:53:44 AAS
倭国乱で九州物部と大倭利権を奪い合いして、やっと久留米占領できたと思ったら、
今度は狗奴国が勃興しましたからね。
戦乱で瀬戸内経済がガタガタになったままだったのでしょう。
そう考えると、狗奴国と九州物部は手を結んだのでしょうね。

狗奴国と相対するのに倭国内で戦っている場合ではないから
結束する必要があるが、
伊都国王がヤマツミ系になったから、
ワダツミとしては素直に従い難い。

それで卑弥呼共立したとしたら、やはり豊国女王を担ぎ出したのでしょうかね。
76
(2): 2020/10/11(日) 22:58:32 AAS
ニギハヤヒ系は銅戈ですから、
青谷上寺地遺跡は日本海側にポツンと孤立したニギハヤヒ系集落で、
倭国乱で真っ先に襲われたわけですね。

越後にも信州へ攻め込んだニギハヤヒ系軍隊が駐留していて孤立した。

親邪馬台国の拘奴國=女王国から東に渡海した四隅突出墳丘墓国家と
能登半島を境に戦って、最後は土製銅戈で出陣式をして特攻しています。
77
(1): 2020/10/11(日) 23:19:14 AAS
ニギハヤヒ系軍隊が越後で粘っていたので、
翡翠の供給が途絶え、
邪馬台国女王の平原遺跡1号墓にも
拘奴国女王の赤坂今井墳墓第1埋葬にも
翡翠が無い。

その代わりにガラス装飾品を身に着けていたわけですね。
78: 2020/10/12(月) 01:38:56 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
79: 2020/10/12(月) 08:33:47 AAS
>>77
そもそも北部九州地域では翡翠の装飾品は出ていない
翡翠だと考えられていた物は九州産の青雲母の装飾品だった。
80: 2020/10/12(月) 09:15:49 AAS
そいつは妄想を振りまいているばかりだから相手にしたくない。
81: 2020/10/12(月) 13:32:09 AAS
.

日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》

クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。

◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
82: 2020/10/12(月) 15:55:36 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
83: 2020/10/12(月) 20:23:10 AAS
伊都

伊邪那岐族の首都。
高祖山=高千穂を中心として、
西の糸島平野(筑紫の日向)と東の早良平野(高天が原)から成る。

王家が連綿と続いており、
紀元前は東の早良平野に吉武高木遺跡。
紀元前2世紀の3号木棺墓は日本最古の三種の神器が副葬された王墓である。
紀元後は西の糸島平野に三雲井原遺跡。
三雲南小路王墓は1号甕棺大王と2号甕棺妃が共に葬られており、
細石神社に木花開耶姫が祀られていることから、
1号大王を瓊瓊杵尊に比定する向きもある。

吉武高木遺跡には、大型建物が建て替えられながら維持されていた。
これこそが伊都の王宮であり、
高木神、つまり殿上人が政治を行っていた場所と考えられる。

大量の鉄器、銅鏡など青銅器
楽浪土器
硯、室見川銘板「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五(125年)」
潤地頭給遺跡の準構造船
など、弥生時代一級の出土物を誇っており、同時代の日本列島他地域の追随を許さない、
北部九州倭国=邪馬台(やまと)国の首都である。
84: 2020/10/12(月) 21:27:55 AAS
惜しい。

高天原
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

高天原は海上の聖地、沖ノ島だろう。
85: 2020/10/12(月) 21:34:34 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
86: 2020/10/13(火) 08:24:25 AAS
どう見てもこっちが本スレだろ。
荒らすなよ、キナイコシ
87: 2020/10/13(火) 08:25:13 AAS
吉武高木の高木は高木の神と関係あるのか?
88
(2): 2020/10/13(火) 09:40:14 AAS
高木、高来は、高句麗・高麗から来た種族の意味
89: 2020/10/13(火) 13:41:16 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
90: 2020/10/13(火) 17:26:58 AAS
それだと天皇家の始祖が高句麗由来になってしまう。
ただ、年代的に高句麗はもう少し後だろう?
91: 2020/10/13(火) 18:49:46 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
92: 2020/10/13(火) 21:19:21 AAS
.

日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。

◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット

鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。

稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.
93: 2020/10/14(水) 02:35:29 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
94: 2020/10/14(水) 12:53:59 AAS
こっちが本スレですよ〜
95: 2020/10/14(水) 13:33:30 AAS
.

今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

外部リンク[php]:10mtv.jp

※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません

.
96: 2020/10/14(水) 15:49:09 AAS
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女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
2chスレ:history
97: 2020/10/15(木) 20:45:37 AAS
>>76
>青谷上寺地遺跡は日本海側にポツンと孤立したニギハヤヒ系集落で、

在地系と渡来系の人々が混住していたのも文献と整合性が取れますね。
葦原那珂津国(奴国)に、ニギハヤヒ系の上司(府知事:兕馬觚)と、
奴族の部下ナカスネヒコ(区長:卑狗)がいたのと同じ構図でしょう。
98: 2020/10/15(木) 20:46:18 AAS
奴国中心の中広形銅矛 奴国王 オオクニヌシ(制度上はアマテラス配下の将軍スサノオ)

奴国王失脚して伊都が奴国制圧後
伊都奴国双方から祭祀型銅戈 ニギハヤヒ(制度上はニニギ配下の伊都国直轄軍)

次が広形銅矛ですが、瀬戸内海東征はしていませんね。
ということは、広形銅矛は海幸彦か山幸彦かウガヤフキアエズでしょう。

広形銅矛は豊国ワダツミ領から大量に出陣していますから、
一度失脚した山幸彦が豊国豊玉姫と婚姻して捲土重来し、
海幸彦と対峙した際のもの、ということになりますね。

ニニギはオオヤマツミ側
山幸彦も海幸彦もオオヤマツミ側だったのが、
山幸彦はワダツミ側に取り込まれて、復活した。
99
(2): 2020/10/15(木) 20:49:33 AAS
ということは、
山幸彦+豊国ワダツミ(広形銅矛) vs 海幸彦+ヤマツミ ということですね。

広形銅矛は、日本列島では主に土佐を攻撃している。
朝鮮半島にも出兵していますが、これは鉄を求めてでしょう。
魏志韓伝の『韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接』『國出鐵韓濊倭皆従取之』の前哨ですね。

広形銅矛が土佐を攻撃していて、瀬戸内海や琵琶湖沿岸を攻撃していないということは、
元は豊国が本貫のカモも、この時代に既に一枚岩でなく、
畿内、瀬戸内、土佐、などの各分派が独立しつつあったわけですね。

ということは、広形銅矛の攻略先から、
山幸彦+豊国ワダツミ(広形銅矛) vs 海幸彦+土佐アジスキタカヒコネ
だったことになり、
海幸彦のバックにいて妃を送りこんでいたのはアジスキタカヒコネだったことになります。

また満ち潮と引き潮、土佐を攻略、ということからは、
海幸彦+土佐アジスキタカヒコネが主導権を握っていたところに、
南海トラフのあれがあって、土佐が弱ったところを、
山幸彦+豊国ワダツミが攻撃して逆転した、ということだったのかも知れません。
地質学での年代測定などできたら比較可能でしょうか。
1-
あと 659 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.092s*