[過去ログ] 〜長屋王 Part1〜 (886レス)
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864: 2007/02/26(月) 00:27:45 AAS
>>836
雄略の子孫は次の清寧で絶えている
865(1): [ds] 2007/02/26(月) 02:12:30 AAS
雄略の婿に仁賢がなり、仁賢の婿に継体がなった。その子が欽明。
866(1): 2007/02/27(火) 07:47:35 AAS
>>865
安閑と宣化は男性天皇なのに中継ぎかよ
女帝なら中継ぎ論も成り立つけど
男帝を中継ぎと規定するのは無理あり杉
867(1): 2007/02/27(火) 13:29:46 AAS
>>866
いまは安閑・宣化と欽明は二朝並立説が有力じゃないのけ?
まあ兄弟相続が普通であったであろう時代に豪族を巻き込んだ
皇位継承争いがあるのは不思議でもなんでもないな。
しかし865の言うように雄略─女婿仁賢─女婿継体─欽明というのは
日本書紀の帝紀の凄いところだ。継体が応神五世孫でなくとも皇統に問題なくなるからねえ。
まあ顕宗・仁賢は実在性もさることながら雄略を「父の仇」という書紀の記事もあるくらいだし
なんだかなあ、な系譜記事だな。雄略─女婿仁賢がないと問題があるのかなと疑いたくなるねえ。
ただでさえこの兄弟大王の書紀の記述は飯豊青皇女即位の件や播磨逃亡、長幼の序騒動など
問題点が多く含まれているからなあ。
仁賢が実在の大王として雄略王権との血縁が薄かったのだろうか(つまり履中王孫ではない、と)。
雄略以降継体までの皇統系譜はまだ議論の余地が多いなあ。
てか何で長屋王スレで…まあ他の記紀関連スレがアレなのは知っているけど。
868: 2007/02/27(火) 23:32:16 AAS
>>867
宣化皇女の石姫が欽明妃・敏達母だし、大伴金村や蘇我稲目はそのまま朝廷に居座っているから、二朝並立論は無理があるのではないかと思いますが。ただ、日本書紀自体が混乱しているから皇位継承がスムーズではなかった可能性が高いのでしょうけど。
それから、履中系と允恭系って、本当に血がつながっているのでしょうかね。
欠史八代でも律儀に皇太子を立てていることになっているのに、允恭天皇だけ群臣に推されて即位しているのが不思議でして。
連続して、スレ違いですみません。。。
869(1): 2007/03/12(月) 00:07:19 AAS
そもそも皇太子自体が天智以後の産物
870: 2007/03/12(月) 00:25:51 AAS
>>869
大友王子が最初でいいのかな?
その後は草壁→文武で、文武が15歳で譲位されたため元服が20歳からもっと若くていいことになったと。
安閑・宣化ってやっぱり暗殺?
871(1): 2007/03/14(水) 23:55:42 AAS
交代sk
皇太子制が本当に確立したのは聖武天皇からだろう。
井上光貞と荒木敏男の研究を読め。
872(1): 2007/03/16(金) 23:21:21 AAS
皇太子と言う称号も天皇や皇后と同じく天武朝からだろう
最初の天皇は大海人
最初の皇后は讃良
最初の皇太子は草壁
最初の皇太子妃は阿閇
873: 2007/03/26(月) 00:25:11 AAS
没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg は元気かしら?
874(1): 2007/03/26(月) 11:26:41 AAS
天武朝に出来た称号が、法的根拠を持つ制度となったのは、大宝律令からってことでよかですか?
875(1): 2007/03/28(水) 20:58:42 AAS
草壁だって後世でいう皇太子かどうかは疑問。
草壁が皇太子なら、草壁没後の高市皇子も皇太子だろう。
876: 2007/03/29(木) 06:51:58 AAS
>>874
その認識でよかと思います
877: 2007/05/07(月) 11:47:51 AAS
>>875
高市皇子の子孫は帝位についておらず、草壁皇子とは明確に違う。
高市皇子は、継母持統天皇の在位中に亡くなっており、
孫の軽皇子(のちの文武天皇)を溺愛する持統天皇の前で、即位の可能性はなかったはず。
878: 2007/06/04(月) 21:02:16 AAS
>>871
井上光貞とは随分古い人を持ち出すなあ
879: 2007/06/04(月) 22:39:44 AAS
古い人だろうが基本学説が王道なのは歴史学の基本
特に古代史はこの10年ぐらい天地が逆転するような学説出てないし(つ_`;)
880: 2007/06/11(月) 21:45:35 AAS
一体、不常改典とは何ぞや?
881: 2007/06/13(水) 18:05:30 AAS
續日本紀讀めば?
882(1): 2007/06/13(水) 18:52:54 AAS
>>872
それじゃあ、聖徳「皇太子」は当時、どう呼ばれていたんだろうか?
883: 2007/06/13(水) 19:49:42 AAS
>>882
「ワカミタフリ」
884: 2007/06/13(水) 20:32:09 AAS
「ひつぎのみこ」ではないの?
885: 2007/06/14(木) 09:50:49 AAS
厩戸皇子が有力な後継者であったことは確かだろうけれど、
この時代、「皇太子」という地位があったかどうかは疑問だろうなあ。
厩戸皇子は推古天皇の在位中に結局亡くなってしまったけれど、
推古天皇が先になくなっていたら果たして本当に即位できたのか?
というのは疑問だと思う。
この時代、天皇がなくなると、すぐ皇位継承問題に発展するのは、
「皇太子」という地位が、そもそも確立されていなかったからと思われるため。
「大兄」なんて呼ばれる有力な皇位継承者が複数いたり。
「皇太子」の和訳「ひつぎのみこ」は、もっと後の時代の言葉だと思うよ。
886: 2007/06/14(木) 17:12:07 AAS
確かに「ひつぎのみこ」の成立は聖徳太子の時代じゃないだろうなあ。
同世代には有力な皇位(大王位?)継承者はいなかったけれど
他の例と比べれば太子も実は「大兄皇子」だったんじゃあないか、と。
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