[過去ログ] 〜長屋王 Part1〜 (886レス)
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704: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 19:16:52 AAS
密告は誣告と記述された上で
長屋王に贈従一位が為されていたとしたら
国史たる「続日本紀」において、長屋王の名誉は
完全に回復された事になります
705(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 19:53:43 AAS
>>702
質問です
中西康祐氏は長屋王の生年に関しては、676年説でしょうか?
それとも684年説でしょうか?
706(1): 2005/04/29(金) 20:47:27 AAS
>>705
中西氏の著書はタイトル通り、あくまでも奈良時代に起こった諸事件に対する正史上の記述に関する研究なので、
あくまで「長屋王の変」なり「恵美押勝の乱」といった個々の事件における続日本紀の著作・編纂態度がメインであって長屋王個人の研究ではないので享年問題には触れられておりません。
(他の著作については分かりませんが…)
707: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 22:12:05 AAS
>>706
お答え、ありがとうございました
708: 702=706 2005/05/03(火) 11:15:27 AAS
中西氏の本を完読しましたが、やはり長屋王の享年には触れていなかったですね。
ただ、初期の編者間でも長屋王に好意的(冤罪派)な淡海三船(「懐風藻」三船編者説を取るとして)と否定的(謀反派)な石川年足(祖父が長屋王の変シフトで昇進)の「長屋王」観のズレが事件に関するちぐはぐな表記を生んだのでは? と推測されています。
王と関係ないところで面白かったのは、
・和気清麻呂の事件で最初に出てきた宇佐八幡のお告げは実は「新都(由義宮)創設」の事が主で皇位継承(道鏡への)については触れられていなかった。
逆に清麻呂と前後して藤原楓麻呂が左遷となったいることから、むしろ清麻呂が藤原氏の意を受けて聖武の血を引く唯一の皇族籍男子となった「他戸王立太子」のお告げを持ってきたというのが事件の真相ではないかと推測。
(清麻呂は光仁天皇即位後に復帰はしたものの藤原永手の死、他戸廃太子とともに再び地方国司に任命されている。逆に道鏡一派に皇位を狙う気があるとすれば光仁即位後に流罪では済まされないのではないか?)
・「不改常典」を前天皇の遺詔に基づく皇位継承とし、その原点を死の床の天智が大海人に皇位継承を要請した事を拡大解釈したことに由来するとするとしている。
ただし、天智の本音は当時の皇室のには不文律の慣習(中西氏はこれを皇族は20歳以上で初めて政治に参加可能となり、30歳以上で初めて即位の資格を得るとするものだとする)があり、事実上の皇太子である大友にはまだ即位の資格がなかったための緊急措置だとしている。
(逆にこの不文律に配慮して、草壁皇太子の即位を30歳まで延期しようとしたところ早世してしまった)
後に道祖王廃太子によって聖武の遺詔が無視されたことによって、「不改常典」の権威が失墜して後に死語化した。
709: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 11:58:12 AAS
淡海三船が長屋王冤罪派で、石川年足が謀反派ですか
・三船の曽祖父である、大友皇子殺した大海人軍の
最高司令官高市皇子は長屋王の父であること
・長屋王は石川氏から妻を娶り桑田王(長屋王の変で自殺)が
生まれたこと
上記の理由から、私などは三船が長屋王謀反派で、石川氏が
冤罪派だと思っていました
710: 702=706(年齢問題は無視するとしても) 2005/05/03(火) 13:28:57 AAS
中西氏も「懐風藻」を淡海三船を編者とする通説が本当ならばという条件をつけています。
「懐風藻」には長屋王の詩が3首、同王の主催した宴席で詠まれた詩が計20首含まれているなど、長屋王とその文学集団に好意的な編纂がされているのではないかとされています。
711: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 15:21:07 AAS
三船冤罪派を否定した訳ではありません
そういう見方もあるのかと思っただけです
712: 2005/05/03(火) 17:08:44 AAS
そういう見方もあるのかっていうか、『懐風藻』は長屋王寄りだというのが通説だと思うんだが
だから上の方での『懐風藻』の信憑性議論が噛み合ってなかったのでは
713(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 18:06:01 AAS
「懐風藻」が大友皇子、大津皇子、葛野王よりだとは思うけど
長屋王よりだとは思えませんが・・・
その理由は、大友皇子、大津皇子、葛野王には伝記が付されて
いるけれど、長屋王の伝記が記載されてないためです
それに長屋王の詩は三首だけど、藤原不比等五首、房前三首
宇合六首、麻呂は五首、藤原親子・兄弟で合計十九首
しかも不比等は贈正一位太政大臣、房前は贈正一位左大臣と
記載されているところを見ると、むしろ藤原氏よりにさえ思えます
714: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 18:17:04 AAS
>『懐風藻』の信憑性議論
私は同一の事柄に関する記述では、単一史料の記述より
複数史料の記述の方に、より信憑性があると認識しております
715: 2005/05/03(火) 19:12:08 AAS
>>713
上の議論の堂々巡りになるとは言え、「54歳」とする例の享年が書かれていること自体は長屋王も「懐風藻」ではかなり厚遇されているのでは?
(54歳があっているかどうかという議論とは全く別の次元で)
716: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 19:23:56 AAS
懐風藻に享年が記述されている人
大友皇子(25才)
大津皇子(24才)
川嶋皇子(35才)
葛野王(37才)
紀麻呂(47才)
大神高市麻呂(50才)
石川石足(63才)
藤原不比等(63才)
大伴旅人(67才)
長屋王(54才)
阿倍広庭(74才)
藤原房前(57才)
藤原宇合(44才)
717: 2005/05/03(火) 19:39:39 AAS
64人中13人の中に入っているなら十分厚遇されてない?
718: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 20:10:51 AAS
でも長屋王より藤原氏の方が厚遇されていると思われ
特に贈位が記述されている、不比等と房前の二人は優遇されている
719: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 20:19:07 AAS
ただ「懐風藻」の編纂者が、藤原武智麻呂だけ無視している点は興味深い
藤原不比等、房前、宇合、麻呂の詩が記載されているのに
武智麻呂の詩だけは「懐風藻」に記載されていない
「藤原武智麻呂伝」『藤氏家伝』によると、武智麻呂は漢詩に長けている
らしいから、懐風藻の編纂者が、何ゆえ武智麻呂の詩を記載しなかったのか
その理由には関心があります
720: 2005/05/03(火) 20:30:15 AAS
些細な疑問なのだが、「没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg」さんって個人? それともユニット?
721: 2005/05/03(火) 20:43:32 AAS
「藤原氏」と「長屋王」の双方に親しいものがいても問題あるまい
どちらか一方にしか属してはいけないという法はないし
そんなに政情は単純なもんじゃないでしょ
722: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 20:58:03 AAS
長屋王の姉妹(高市皇子の娘)、竹野女王は藤原武智麻呂の妻(角田文衛説)
藤原武智麻呂の妹(不比等の娘)、長娥子は長屋王の妻
長屋王家と藤原氏自体姻戚関係にあるから
その両者と親しい者が居ても不自然ではないわな
723: 2005/05/10(火) 21:50:39 AAS
一説には長屋王の出世の影に不比等がいたとも言うし…。
724: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/11(水) 14:26:10 AAS
長屋王と藤原長娥子
藤原武智麻呂と竹野女王
二重に婚姻関係にあった高市系統と藤原氏だから
不比等生存中の両者は良好な関係にあったと思われ
だから大山誠一氏が主張する、元正天皇の即位は長屋王が
聖武天皇の即位(不比等の外戚化)を遅らせるために行なった
という仮説には同意出来ません
永井路子氏もほぼ同意見の持ち主だけど、こちらは長屋王ではなく
元明天皇主導説
文武天皇は15才で即位したのに、聖武が15才で即位しなかった事から
生まれた仮説だろうけど、肝心の藤原不比等と長屋王の対立が
史料から見出せない点が、この説の最大の弱点
725: 2005/05/13(金) 16:46:05 AAS
個人的な考えだが、現役の議政官(不比等)を外祖父に持つ天皇の即位が好ましくなかったからじゃないの?
726(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/13(金) 22:08:56 AAS
藤原氏が外戚となる事に反発した、氏族の存在を否定は出来ないけど
具体的にそれを証明することは難しいなぁ
727: 2005/05/13(金) 22:33:30 AAS
長屋王はヤギを飼い、チーズを食していた。
光村図書版 小学生の国語の教科書(上)
728(2): 2005/05/14(土) 08:49:08 AAS
元明と元正は親子じゃないの?
729: 2005/05/14(土) 12:00:39 AAS
>>728
何をそんな当たり前のことを
なにかあったん?
730(1): 2005/05/14(土) 18:56:59 AAS
>>728
元明の皇太子は孫の首皇子(後の聖武天皇)
>>726
律令制以後で即位時に外祖父が健在のまま天皇に即位したのって清和天皇が最初だろう。
清和天皇の時代にはもう外祖父の良房が頂点まで極めていたから反対のしようがないけど、不比等の時はまだ藤原氏そのものが3代目(中継ぎとしての意美麻呂を含めて)なのだから、
元明退位時点で聖武が即位したら、諸豪族は黙っていないだろう。
(現に太政官の最上位を占める議政官は本来一氏一名なのに不比等は既にそれをぶっ壊しているわけなのだから…)
731: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/14(土) 22:32:23 AAS
>>730
首皇太子ではなく、氷高内親王が即位したことに対する
解釈としては、それが一番説得力を持つ解釈だと思われます
732: 2005/05/18(水) 18:54:31 AAS
age
733: 2005/05/22(日) 23:58:27 AAS
保守
734: 2005/05/23(月) 12:46:04 AAS
平和になったな
735(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/24(火) 00:36:23 AAS
長屋王の没年齢問題は、突き詰めれば史料批判の問題
同時代性の優位を重んじて、単一史料の記述を信用するか?
(懐風藻)
一つの事象に関して、複数の史料の同一記述の方を
信用するか?の問題
(公卿補任、扶桑略記、尊卑分脈、帝王編年記、一代要記)
俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に
信用を置いている
736: 2005/05/28(土) 22:24:59 AAS
なんとなく、長屋王と源高明って似てないか?
737: 2005/05/28(土) 22:38:29 AAS
いや、顔見たことないからわからんけど。
長屋王って高明の娘婿だっけ?
同じ左大臣の娘でも父親が謀反起こしたのと起こしてないのでは随分差が出るんだね。
娘がかわいそう。ってか親父の政敵の息子の妾にされちゃうなんて。
738(1): 2005/05/28(土) 23:14:07 AAS
釣りにしてもエライ大胆だなぁオイ
長屋王の変:729年(まだ源氏なんていないよぅ)
安和の変:969年
長屋王は草壁皇子と元明女帝の娘婿。
高明の娘婿は道長じゃないか?
739: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/29(日) 14:37:03 AAS
>>738
ご指摘とおり高明の娘、明子は道長の妻だね
そして高明の外孫の頼宗は右大臣にまで昇進した
740(1): 2005/05/30(月) 12:50:33 AAS
最大の共通点
長屋王…藤原不比等の娘婿
源高明…藤原師輔の娘婿
そして、義父の死後にその息子たちと対立して失脚したわけだが…。
741: 2005/05/30(月) 12:52:01 AAS
ついでに言えば、長屋王は天武天皇の孫で高明は醍醐天皇の皇子。
742: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/30(月) 13:31:21 AAS
源高明の息子俊賢と、藤原兼家の息子道長は懇意な関係
源高明の孫隆国と、藤原兼家の孫頼通は懇意な関係
親同士は政敵、子や孫同士は友好
743(1): 2005/05/30(月) 13:46:27 AAS
>>740
義父の死というよりも、
元正女帝の影響力低下や村上帝崩御の影響の方が大きいのでは?
744: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/30(月) 20:15:45 AAS
>>743
源高明にとっては、村上天皇の死ともう一つ、皇后藤原安子の死も
打撃だった
安子皇后は高明の娘婿である、為平(安子皇后の子でもある)親王を
寵愛していたから、安子皇后が存命だったら、冷泉(為平親王の同母兄)
の皇太弟には、守平(為平親王の同母弟)親王じゃなくて、為平親王に
なったと思われ
745: 2005/06/05(日) 23:20:40 AAS
age
746: 2005/06/20(月) 06:45:47 AAS
すると、藤原氏は、ある時期までは、長屋王を親藤原系として優遇ってことかな?
いつごろ、どういう理由で、排斥することに方針転換したのでしょう?
747: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/06/20(月) 10:54:53 AAS
光明子所生の基親王の死亡と安積親王の誕生が、長屋王と藤原四子との
対立の原因と思われます
聖武天皇に安積親王がいる以上、光明子所生の阿部内親王の立太子を
台閣の首班、左大臣長屋王が反対する可能性が極めて高いでしょうから
748: 2005/07/03(日) 14:47:36 AAS
ふうん
749(1): 2005/07/12(火) 23:30:07 AAS
>>735
>俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に信用
継体系譜に関して言えば、複数史料の同一記述(愚管抄・神皇正統記)は無視、
ほぼ同時代と思われる単一史料の記述(上宮記逸文)の方のみ信用されてるけど。
後代の史料は、当時の歴史観や社会観に基いていくらでも改変があり得るんで。
750: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/13(水) 13:14:16 AAS
父、高市皇子の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに43才
子、長屋王の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに46才
父である、高市皇子の没年齢43才に異論を挟む学者は殆どいない
高市皇子(654〜696)は、古代史学会の定説
つまり高市皇子に関しては、公卿補任、尊父分脈、扶桑略記の
史料価値は非常に高いことになる
それが一転して、高市皇子の子である長屋王の没年齢に関しては
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いから信用できないと
言われても、正直言って困ります
同一史料群に対して、親に関しては史料価値が高く、子に関しては
史料価値が低いと言い出す方は、まともなテキストクリティークを
学んだとは到底思えません
751: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/13(水) 13:30:11 AAS
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いと
断定されている方なら、当然高市皇子の没年齢は不詳ですよね
まあ大山や寺崎氏などは、高市皇子の没年齢に関しては
無批判に公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の記述を
信用してるようですが(笑い)
また青木氏は、舎人親王の没年齢に関しては、これまた
無批判に公卿補任の没年齢記述を信用しています
長屋王の没年齢54才派の学者達は、同一史料に対する
ダブルスタンダート(二重基準)を、確たる根拠を示さずに
平気で行なっている点に特徴があると言えます
752: 2005/07/15(金) 01:09:15 AAS
「異論を挟む学者は殆どいない」から「史料価値は非常に高い」?
これぞ史料の妄信。「異論を挟まない」のは、43歳説が書紀の兄弟順序と
照合して無理なく説明できる上、これ以外に妥当な説が見出されないから、
議論はお預け状態。(654?〜696)としている辞典も見かけるが、これは
良心的な立場と評価出来る。「正直言って困ります」、これはお前の勝手w
同時代史料と異なり、中世に入ってから複数の文献に基づいて編纂された史料を
全く均質な同一史料と見なすこと自体、まともなテキストクリティークではない。
実証的な史料分析の上で、信用すべき箇所も、信用できない箇所もあると考える。
無批判な態度にも問題はあるが、補任が一説として36歳説を掲げていることからも
分かる通り、この類の史料においてダブルスタンダードはむしろ肯定されるべき。
753: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:03:03 AAS
公卿補任は中世の史料ではありません、その編纂は平安時代初期から
始まっています
土田直鎮氏が「公卿補任の成立」(国史学65号)において公卿補任は
弘仁ニ年に撰述された歴運記を元にして編纂されたと立証されています
(歴運記自体は、今日ほとんど散逸している)
つまり公卿補任は平安時代初期に歴運記を元に編纂された以上
歴運記に、高市皇子の没年齢は43才と記述されており、長屋王の
没年齢は46才と記述されていた蓋然性が著しく高い
大体「懐風藻」の記述を金科玉条のように信用し
公卿補任を中世の史料だと誤認している“お前に”
テキストクリティークを語る資格なぞないw
754: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:21:22 AAS
だいたい長屋王の没年齢に関して「懐風藻」の記述が正しいのなら
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」が
「懐風藻」の没年齢を採用しないこと自体不自然極まりない
今日残っている史料で、長屋王の没年齢を54才と記述している
史料は「懐風藻」以外に存在しないことから見ても
懐風藻の間違いは明白
755: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:41:20 AAS
序に言えば、天武・持統朝の位階制度において
成人に達した有力皇族が無位のまま置かれる事はあり得ない
懐風藻の没年齢記述だと、長屋王は29才まで無位であった事になるが
そんな事を本気で信じている学者は、天武・持統朝における
位階制度を、まるでご存知ないのかと疑ってしまいますよw
756: 2005/07/15(金) 20:08:32 AAS
>中世の史料
確かにこれは私の注意不足であった。しかし、話の趣旨からして、それほど
こだわる問題ではなかろう? ダブルスタンダードの立場に変わりは無い。
>懐風藻の間違いは明白
明白といえる根拠を提示せよ。これが説明できないと話にならない。
私は懐風藻を「金科玉条のように信用し」ているつもりはない。
ただ、46歳説よりはいくぶんの信拠がおけるだろうと考えている。
>「懐風藻」の没年齢を採用しない
公卿補任や分脈はしばしば複数説をあげて、ダブルスタンダードの立場を
取っていながら、54歳説を採用していないのはなぜか。それは、懐風藻を
見ていなかったからに他ならない。>>749の場合、釈日本紀に系譜が引用
されていながら、宣長が指摘するまで世にほとんど知られていなかった。
>成人に達した有力皇族
文武しか頭に無い持統の目が黒いうちは、高市皇子ならともかく、
長屋王は有力皇族の範囲になかったのだ。しかも、大宝令施行後
初めての叙位で、21歳の長屋王(文武より年下)に正四位上直叙と
いう例外が許されたかどうか。父母の血統のみでは説明しにくい。
757: 2005/07/15(金) 20:26:03 AAS
何度同じ話くり返してんだ過去ログ嫁
758: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 21:10:34 AAS
俺も同じ事を言いたい、まずは過去ログを読めと
君の問いは既に何度も、このスレで話題になっているモノだから
過去ログを読めは俺自身の回答も載っている
あと敢えて答えるが、天武・持統朝においては皇太子である草壁皇子も
位階を帯びている
つまり天皇と皇后以外は、例え皇子であっても、位階を天皇から与えられ
宮中序列の中に組み入れられる存在
したがって長屋王も成人に達していたら、持統天皇から位階を与えられ
宮中序列の中に組み入れられたはず
しかし長屋王は正四位上を、初叙されるまで無位であった以上
持統朝において既に成人に達していたはずがない
759: 2005/07/31(日) 16:52:02 AAS
しかし考謙(称徳)で天武系が切れてしまった事は皮肉な事ですよね・・・
あんなに天武系の血を守るために努力した、持統と元明の事を
考えるとなお更。天上の虹と長屋王残照記を見て感情移入して
しまいました。
760: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/01(月) 08:35:02 AAS
正直に言って持統と元明は、天武というより草壁の血統を
皇統に残したかったと思われます
本命は草壁―文武―聖武のラインでしょうが、スペアとして
草壁―吉備―膳夫ラインに、特に元明は期待していたようです
律令の原則は男系主義ですから、膳夫王は三世王ですが
元明は自分の孫だからと言う理由で、わざわざ勅を発して
膳夫王を含む吉備所生の王を、皇孫(二世王)に格上げしています
ですから膳夫王の初叙は皇孫として従四位下を授けられています
(本来なら膳夫王は三世王だから、初叙は従五位下なので、位階を
四階も超越した高待遇を受けている)
皇孫なら文武天皇と同じ立場ですから、天皇へ即位する可能性も
あります
長屋王は自身が天智・天武の二世王でありながら、息子の膳夫王も
二世王になったので、事実上の親王待遇となり、木簡にも長屋親王と
記述されるようになったと推測されます
なお、長屋王が21才で初叙された時に、令に規定では従四位下を
授けられるはずが、規定を三階超越して正四位上を授けられたのは
父である高市皇子が太政大臣で、位階は文武の父である草壁皇太子と
同格であったこと、母である御名部皇女が元明の同母姉であったこと
妻の吉備内親王が、草壁皇太子&元明の皇女だったこと等
当時において、最も恵まれた血縁関係のおかげであったと思われます
761(1): 2005/08/01(月) 08:51:42 AAS
では吉備は天皇の娘扱いだったのでしょうか?本来天武の皇孫扱いの元正が、天皇の娘(内親王)扱いされたのも、元正の妹である吉備と同じ理由でしょうか?
762: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/01(月) 09:09:23 AAS
>>761
元正にとっては弟、吉備にとっては兄の珂瑠王が即位して天皇になった時に
氷高女王と吉備女王はそれぞれ皇女(内親王)に格上げされたのです
自分の兄弟・姉妹が天皇に即位すれば、他の兄弟・姉妹も親王や
内親王になれるのです
そういう事は他には、淳仁天皇の兄弟や、光仁天皇の兄弟・姉妹が
親王、内親王になった例を上げることが出来ます
763: 2005/08/21(日) 16:05:17 AAS
そもそも文武が即位された時点でで草壁に天皇号が追贈されていませんでしたか?
764: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/21(日) 17:23:03 AAS
草壁皇太子は、天平宝字二年(758)8月9日の、淳仁天皇の勅によって
「岡宮御宇天皇」という尊号が追贈されました
(「続日本紀」天平宝字二年八月九日条)参照
765: 2005/09/05(月) 14:01:46 AA×
![](/aas/history_1090338190_765_EFEFEF_000000_240.gif)
766(1): 2005/09/05(月) 21:26:23 AAS
長屋王殿下の大河化キボンヌ。
末裔はいるの?
767(1): 2005/09/05(月) 23:44:51 AAS
長屋王の息子の一人・安宿王の子孫は「高階真人」を名乗っていた。
更にその子孫の一部は「高」氏を名乗り、足利尊氏の元で活躍した高師直もこの後裔。
しかし、高氏も室町幕府の権力闘争で滅亡したし、今はどうなったのかなあ。>子孫
768(1): 2005/09/06(火) 00:28:39 AAS
漏れは長屋源氏
769: 2005/09/12(月) 09:06:36 AAS
>>768
源氏の定義って知ってる?
770: 2005/09/12(月) 11:43:38 AAS
漏れは長屋平氏
771: 2005/09/13(火) 11:58:46 AAS
>>766-767
こんなのめっけ
外部リンク[html]:www2.harimaya.com
しかし断絶・゚・(ノД`)・゚・
772: 2005/10/03(月) 01:35:53 AAS
ほほー
773(1): 2005/10/05(水) 22:35:20 AAS
>>45
株式会社イトーヨーカ堂に通報しますた
774: 2005/10/05(水) 23:55:22 AAS
>>773
1年後ってテラ遅すぎス
775: 2005/10/06(木) 10:55:27 AAS
でも長屋王邸後は国が買い取って国指定史跡にすべきだったと思う
776: 2005/10/24(月) 23:51:20 AAS
そうやね
777(2): 2005/10/27(木) 07:16:22 AAS
里中満智子さん以外代表する作品はありますか?
778(1): 2005/10/27(木) 17:47:53 AAS
>>777
長屋王が主人公の漫画は、里中氏の作品以外には無いと思われます
重要な脇役としてなら、小説ですが永井氏の「美貌の女帝」があります
779: 2005/10/30(日) 12:20:27 AAS
>778
ありがとうございます。さがしてみます!
780: 2005/11/19(土) 02:36:51 AAS
保守
781: 2005/11/20(日) 01:11:11 AAS
浮上
782: 2005/12/10(土) 01:23:03 AAS
783: 2005/12/20(火) 19:32:31 AAS
age
784: 2006/01/08(日) 18:49:58 AAS
785: 2006/02/17(金) 22:59:07 AAS
保守
786: 2006/02/24(金) 17:10:47 AAS
保守
787: 2006/03/09(木) 00:30:01 AAS
age
788: 2006/03/14(火) 12:41:47 AAS
生年684年、没年齢46歳派の完全勝利
789: 2006/03/32(土) 00:39:10 AAS
2006/03/32(土)
790: 2006/04/22(土) 14:19:18 AAS
791: 2006/05/13(土) 01:23:06 AAS
長屋王
684年
46歳
792: 2006/05/13(土) 02:31:04 AAS
元正上皇は、長屋王を見捨てたのか?
それとも、聖武・光明子ー藤原ラインを止める力がもうない??
793: 2006/05/13(土) 03:41:18 AAS
逢いたいな
794: 2006/05/14(日) 00:01:08 AAS
橘奈良麻呂の乱が成功していれば、長屋王の息子の
黄文王が天皇に即位していた。
奈良麻呂(橘諸兄の嫡男)は、既に天平十七年段階で
黄文王を天皇にしようと企てていた。
高市皇子(太政大臣)→長屋王(左大臣)の血統は
天皇になるべき血統だと橘氏に認識されていた
因みに、奈良麻呂の母である多比能は、縣犬養三千代の娘
奈良麻呂の父である諸兄は縣犬養三千代の息子
奈良麻呂は異父同母兄妹の間に生まれた子供
美努王+縣犬養三千代→橘諸兄
藤原不比等+縣犬養三千代→藤原多比能
橘諸兄+藤原多比能→橘奈良麻呂
*長屋王+藤原長娥子(不比等の次女)→黄文王
795: 2006/05/14(日) 03:17:05 AAS
長屋王ではなく、本当は「長屋親王」だったことが、明らかになった。
796: 2006/05/23(火) 22:57:40 AAS
>>777
里中さんの「長屋王残照記」はいいね。
何がいいって、長屋王を主人公にしておきながら、
不比等や藤原四兄弟を単なる悪玉にしないところが。
不比等や房前は結構魅力的な人物に思えたよ。
797(1): 2006/05/24(水) 17:47:37 AAS
里中さんは、藤原北家信仰に惑わされている
あの漫画だと長屋王の変の首謀者は房前にされているが
実際の首謀者は、長男である藤原武智麻呂の可能性が非常に高い
奈良時代は基本的に藤原南家が主流で、藤原北家が
藤原氏の主流になったのは平安時代になってから
798: 2006/05/24(水) 23:57:49 AAS
うーん「
799(1): 2006/05/25(木) 01:00:12 AAS
長屋王の変に関しては、岸俊男氏が詳細な研究があるけれど
それによると藤原氏の光明立后の目的は、光明子を皇后にする事で
縣犬養広刀自が産んだ安積親王を。皇太子にする事を
防ぐ狙いがあったからだと結論づけている
確かに縣犬養広刀自の子である安積親王が立太子し、その後
天皇に即位すれば、藤原氏が天皇の側近としての地位を失う
可能性は高い
ところが、藤原四子の中で、安積親王が立太子しても、天皇に
即位しても、側近としての地位を失わないのが藤原房前である
何故なら房前の正室は縣犬養三千代の娘である牟漏女王
つまり房前は縣犬養氏にとっては婿であるから、安積親王が
即位しても、他の3兄弟とは違って側近の地位を失わないのである
したがって、房前には他の兄弟たちと違って、光明子を皇后にする動機が
なく、光明子を皇后にする動機がなければ、長屋王を自害に追い込む
動機もない事になる
800(1): 2006/05/25(木) 01:04:03 AAS
その傍証として、房前の子である藤原八束は、橘奈良麻呂や大伴家持と
共に、安積親王と深い交友関係がったことが、万葉集に記述されている
安積親王の死後(藤原仲麻呂による暗殺という説が有力)、橘奈良麻呂は
黄文王(長屋王と藤原長娥子の子)擁立へとひた走り、一方の藤原八束は
真楯と改名し、仲麻呂政権下では、病と称し、ろくに出仕せずに、自宅で読書三昧の
日々を過ごしたと続日本紀に記述されている
八束としては、安積親王暗殺の疑いがある仲麻呂の元で、議政官として
働く気が起こらなかったのであろう
以上の考察から、藤原房前には長屋王を滅ぼす動機がなかったと
結論づけられる
したがって、長屋王を自害に追いこんだ主犯は、長男の藤原武智麻呂であり
共犯者が三男の藤原宇合であろう
四男の藤原麻呂も謀議に加担したかどうか微妙な存在
801(2): 2006/05/25(木) 01:20:10 AAS
>>797
> 奈良時代は基本的に藤原南家が主流で、藤原北家が 藤原氏の主流になったのは平安時代になってから
え、主流だったのって式家じゃないの?仲麻呂が失脚してからは特にさ。北家の台頭は式家の仲成、薬子が、平城太上天皇とともに、嵯峨天皇と争った時に、蔵人頭として冬つぐ(字でねー)が使えたときから。
802: 2006/05/25(木) 01:37:49 AAS
>>799-800
瀧波説の受け売り乙
その説では八束以外の藤原北家の他の兄弟は安積親王と親しくしてない
のが説明できんのだが、その辺はどうクリアされるのかね。
>>801
見事にやおい番をゲットした君にプレゼントしよう
つ 冬嗣
803: 2006/05/25(木) 01:44:24 AAS
>>801
藤原北家の台頭は藤原内麻呂(冬嗣の父)が
南家の藤原雄友を超越して、右大臣に任じられた時から
その後、南家は伊予親王の変で、大納言雄友と中納言乙叡が
失脚して衰退
因みに式家は、百川の早死にや種継の暗殺なので、なかなか勢力を
維持するのが困難だった上に、薬子の変で大打撃を受けた
しして百川の長男の緒嗣は、左大臣まで昇進したものの、同じ式家である
薬子や仲成の謀叛を恥じたのか、左大臣として権力を行使する事はなかった
つまり北家の一人勝ち状態になったと言う訳です
804: 2006/05/25(木) 01:52:58 AAS
藤原八束は和歌の長けていた
この点で八束は大伴家持とも親交があり
同じく和歌に関心が高かった安積親王とも
交際があった事が万葉集から分かる
他の兄弟は、和歌に長けてなかった
また藤原清河は、牟漏女王の子では無いから
安積親王との交友関係がなかったのであろう
それに藤原房前の後継者は藤原八束
805(1): 2006/05/25(木) 02:02:56 AAS
藤原房前が、美努王と縣犬養三千代の娘である牟漏女王を
正室にしている事は、房前が縣犬養氏一員である事を示している
したがって、聖武天皇と縣犬養広刀自の皇子である、安積親王が
立太子しても、天皇に即位しても房前にとってはマイナス要因には
ならず、むしろ他の兄弟より有利な地位を占める事になったであろう
806(6): 2006/05/25(木) 14:34:54 AAS
確か寺崎氏の書いた「人物叢書 長屋王」では
「房前が長屋王の変に加わらなかったとは考えがたい」と
言ってるね。「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」といってる。
永井路子も「美貌の女帝」の中で、房前は元正上皇と聖武天皇
との間の連絡・折衝を勤めている。
それに確か房前は中衛府の大将じゃなかったっけ?
だけど、中衛府の兵も長屋王邸を囲んでたよね。
大将である房前が長屋王の変に加わってないのに、
中衛府の兵を勝手に動かすことってできるの?
あと、いくら妻が県犬養氏の出でも、妻の一族の娘が生んだ子が
皇位につくよりやっぱ妹が皇后に就いたほうが有利なんじゃない?
807: 806 2006/05/25(木) 15:00:48 AAS
それと房前の後継者は八束じゃなくて、永手じゃない?
位も兄弟中では一番高い正一位左大臣だし。
808: 2006/05/25(木) 17:22:39 AAS
永手は八束より年上だけど議政官になったのは遅い
八束は748年で、永手は757年
それと八束(真楯)が大納言で大臣になれなかったのは
766年に52才で死亡したからです
809(1): 2006/05/25(木) 17:42:58 AAS
>「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
>おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」
単なる憶測で史料的な裏付けがありません
>中衛府の兵も長屋王邸を囲んでたよね
中衛府の兵は長屋王邸の包囲軍には参加していません
衛門府および左右衛士府の兵が長屋王邸を包囲したのです
(「続日本紀」『神亀六年二月十日条』参照)
つまり史料上、藤原房前が長屋王の変に関与していると言う
記述は一切ありません
したがって藤原房前を、長屋王の変の首謀者とするのは
史料に基づかない単なる憶測に過ぎない
小説家なら史料に基づかない見解を述べても自由だけど
歴史学者が史料に基づかない見解を述べるのは・・・
810(1): 2006/05/25(木) 17:57:00 AAS
史料から言えることは、長屋王の変に関与したのは
藤原4子の中では、藤原武智麻呂(長男)および
藤原宇合(三男)の二人だけである
そして史料上、藤原房前(次男)および藤原麻呂(四男)の
長屋王の変への関与はなかった事になる
811(1): 2006/05/25(木) 18:18:42 AAS
>いくら妻が県犬養氏の出でも、妻の一族の娘が生んだ子が
>皇位につくよりやっぱ妹が皇后に就いたほうが有利なんじゃない
光明子の兄は藤原房前だけではない
しかし藤原4子の中で、縣犬養広刀自と姻戚関係にあるのは
縣犬養三千代の娘である、牟漏女王を妻にしている房前だけ
それと四子の中で房前だけが皇族を妻とし、その妻である牟漏女王は
橘諸兄(縣犬養三千代の子)の妹で、橘奈良麻呂(縣犬養三千代の孫)の叔母
*橘奈良麻呂は長屋王の子である黄文王を天皇にしようと策動した人物
つまり皇族、縣犬養氏、橘氏と縁戚関係にあった房前は、藤原氏だけの
利害を追及出来る立場には居なかったと言える
これが南家の武智麻呂や仲麻呂と、北家の房前や八束との最大の
違いである
812: 2006/05/25(木) 18:37:15 AAS
>>811は読み直してみたら、かなり自分の憶測が入っているから撤回します
813(1): 806 2006/05/25(木) 18:44:52 AAS
>>809
>中衛府の兵は長屋王邸の包囲軍には参加していません
>衛門府および左右衛士府の兵が長屋王邸を包囲したのです
(「続日本紀」『神亀六年二月十日条』参照)
???「続紀」の該当箇所を読んでみたけど、長屋王邸を
囲んでたのは「六衛府」の兵士だと書いてありますよ。
あなたの言い分を聞いてると、長屋王邸を囲んでたのは
衛門府と左右衛士府だけで、これだと「三衛府」になりますね。
残りの三衛府はどこにいったんですか?
>>「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
>>おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」
>単なる憶測で史料的な裏付けがありません
>つまり史料上、藤原房前が長屋王の変に関与していると言う
>記述は一切ありません
>小説家なら史料に基づかない見解を述べても自由だけど
>歴史学者が史料に基づかない見解を述べるのは・・・
でも、上のほうで青木氏が「史料に基づかない憶測」で
「長屋は太政大臣に就任するつもりだった」とか言ってるんですから
寺崎氏が「房前は長屋王の変に何らかの形で関与してた」と
いう説を提唱してもよろしいのでは?
それに寺崎氏は何も「長屋王の変の首謀者が房前」だと
言ってるのではないと思うんですが・・・。
「関与しただろう」といってるだけで。
814(1): 2006/05/25(木) 19:50:15 AAS
>>805
>藤原房前が、美努王と縣犬養三千代の娘である牟漏女王を
>正室にしている事は、房前が縣犬養氏一員である事を示している
嫁が県犬養=その一員というのは言い過ぎ何じゃ
じゃなんだ、
武智麻呂の嫁は阿部氏だから武智麻呂は阿部氏の一員ともいえてしまうぞ。
宇合の嫁は石上氏だから(ry
麻呂の嫁は武智麻呂の娘だから(ry
815: 2006/05/25(木) 21:15:26 AAS
>>813
確かにその部分は私の読み間違えでした
六衛府に中衛府も入りますね
>でも、上のほうで青木氏が「史料に基づかない憶測」で
>「長屋は太政大臣に就任するつもりだった」とか言ってるんですから
>寺崎氏が「房前は長屋王の変に何らかの形で関与してた」と
>いう説を提唱してもよろしいのでは?
青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
日本霊異記と言う史料の「“太政大臣”長屋“親王”」という記述に
基づいての見解だと思われます
つまり青木氏の見解は、日本霊異記という史料に基づいていますから
寺崎氏の史料に基づかない見解とは質的に違います
そして長屋親王という呼称は、長屋王邸後から出土した木簡にも
記述されていましたから、長屋王は事実上は親王待遇だったのでしょう
したがって、太政大臣の方も、その官に任官する可能性があった事は
否定できません
816: 2006/05/25(木) 21:22:15 AAS
>>814
しかし、安積親王、藤原八束、橘諸兄・奈良麻呂、大伴家持が
親密な関係だった事は万葉集の記述で証明されております
このうち、安積親王、藤原八束、橘諸兄・奈良麻呂親子を結ぶ糸は
和歌と縣犬養氏の血脈だと言えます
817: 2006/05/25(木) 21:35:45 AAS
それと寺崎氏は長屋王の没年54歳説の人ですから
長屋王の即位の可能性を年齢的に否定していますが
私は長屋王没年46歳説ですから、まだ40代の長屋王には
即位の可能性があったと考えております
そして寺崎氏は長屋王の子の膳夫王には、即位の可能性があったと
考えているようですが、父である長屋王を差し置いて膳夫王が即位する
可能性は、長屋王が即位するより可能性が低いと考えております
818: 2006/05/25(木) 21:51:18 AAS
藤原房前が長屋王の変に関与していたとしたら
聖武天皇の命によって中衛府の兵を出動させた事でしょう
(天皇の命がなければ、兵の出動は出来ない)
*六衛府の兵の指揮を取ったのは式部卿の宇合
それ以外の房前の長屋王の変に対する関与は
史料上どこにも見出すことは出来ません
819: 806 2006/05/25(木) 21:56:52 AAS
>青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
>日本霊異記と言う史料の「“太政大臣”長屋“親王”」という記述に
>基づいての見解だと思われます
>つまり青木氏の見解は、日本霊異記という史料に基づいていますから
>寺崎氏の史料に基づかない見解とは質的に違います
そうでしょうか?あなたも認めたじゃないですか、
「長屋王邸を囲んだ衛府の中には中衛府もある」
と。前述のとおり、中衛府の大将は房前なんですから、
中衛府の兵士の出動は彼が許可したものと思っても
よいでしょう。となると、房前は長屋王に謀反の罪を擦り付けて
殺すことに賛同したものと思われます。
それが、自発的なものだったのか、武智麻呂に説得されてなのかは
知りませんが(おそらく後者だと思いますけど)。
「続日本紀」はれっきとした正史なんですから、説話集である
「日本霊異記」より信憑性が高いのでは?
故に、あなたの「青木氏の見解は寺崎氏の見解とは質的に違う」
という意見には賛成できません。
また、あなたの「房前は縣犬養氏の姻戚だからわざわざ長屋王を
追い込まなくてもよい立場だ」という意見には欠陥があるように思います。
つまり、「房前が縣犬養氏の姻戚であるのがほかの兄弟より有利である」って
いうのはあくまで安積が皇位を継ぐことが確 実 な 場合でしょ?
房前が「安積が皇位を継いでも自分にとっては同じだから、
長屋王を謀殺することには賛成でなかった」といってますが、
もし長屋王を生かしておけば、安積よりも血筋がいい
長屋の息子膳夫王か、それとも長屋本人が皇位を継ぐ可能性も
あるのではないでしょうか。
となると、房前が縣犬養氏と姻戚であることには何の意味も
なくなります。
820: 806 2006/05/25(木) 22:01:05 AAS
と思ったんですが、私の疑問に上のほうで答えてくださって
ますね。
すみません、書き込みが前後したようです。
>それ以外の房前の長屋王の変に対する関与は
>史料上どこにも見出すことは出来ません
それで十分なんじゃないんですか?
全く書かれてないわけじゃなし。
821(1): 806 2006/05/25(木) 22:05:43 AAS
だって、長屋王の「太政大臣就任」だって「日本霊異記」以外の
どこにも見出すことはできないんでしょう?
822(1): 2006/05/25(木) 22:26:12 AAS
>>821
そんな事を言い出したら、長屋王の没年齢54歳は
「懐風藻」以外の史料には全くありませんがw
だから、懐風藻だろうが日本霊異記だろうが、史料に基づいての
見解なら、議論の対象になりうるが、史料に基づかない見解は
良く言えば単なる憶測、悪く言えば電波
823: 2006/05/25(木) 22:32:37 AAS
>中衛府の大将は房前なんですから、
>中衛府の兵士の出動は彼が許可したものと思っても
>よいでしょう。となると、房前は長屋王に謀反の罪を擦り付けて
>殺すことに賛同したものと思われます。
中衛府の兵に出動を命じられるのは聖武天皇ですよ
勅命に逆らえる訳ないですから、中衛大将である房前の
内心を判断し得る史料とはなり得ません
824: 2006/05/25(木) 22:44:28 AAS
その「日本霊異記」の記述である長屋親王が
長屋王邸の出土木簡にも記述されていたのだから
長屋王は令の形式上は王だけど、事実上は親王扱い
だった訳で、日本霊異記の記述を否定する事は出来なくなった
それならば、もう一方の太政大臣という記述も、長屋王が
任官する可能性があったから、そう記述されたとの解釈が出来ます
825: 2006/05/25(木) 22:54:00 AAS
だいたい長屋王は初叙の時から、令の規定である従四位下ではなく
勅命によって、正四位上という破格の位階を授かられているのだから
彼を令の形式規定で考えるのは無理なのです
長屋王の子である膳夫王も、初叙は令の規定では従五位下に
なるところを、2世王扱いを受けて従四位下という、これまた
破格な位階を授けられていますから、長屋王家自体が令の規定に
縛られない存在だったと解釈する他ありません
826: 2006/05/26(金) 02:00:25 AAS
ワケワカランから
おまいらトリップつけろや
827(1): 2006/05/26(金) 21:01:52 AAS
舎人親王や新田部親王は、内親王を妻にしてないし
藤原不比等の娘も妻にしていない
ところが長屋王は元明天皇の皇女である吉備内親を正室に迎え
藤原不比等の娘である長娥子を側室にしている
つまり令の規定では、舎人や新田部の方が親王だから皇族内での
地位は長屋より上だけど、実質上は長屋王の方が舎人親王や
新田部親王より上だったと言える訳です
令の規定に縛られない特別の地位を保持していた事が
結局は仇となって長屋王家の悲劇に繋がったのかも知れません
828: 806 2006/05/27(土) 17:16:02 AAS
>>822
え?私は一度も没年齢が五十四歳だといってませんがw
あ、ひょっとして、私が寺崎氏の説を引用してるから
私も五十四歳説賛成派だと思ったんですかww
別に、その人の学説をすべて支持してるわけではありませんよ。
あなただって、青木氏の五十四歳説を否定しつつ、
長屋太政大臣就任説は肯定なさってるじゃありませんか。
私は上のほうで散々議論されている問題ですし、要するに
この時点で結論が出ない問題のようですから、その点は
言及しないでないでおきました。
>だから、懐風藻だろうが日本霊異記だろうが、史料に基づいての
>見解なら、議論の対象になりうるが、史料に基づかない見解は
>良く言えば単なる憶測、悪く言えば電波
だから、ちゃんと房前が関わってることが「続日本紀」に
書いてあるじゃないですか。
まあ、そういうと、
>中衛府の兵に出動を命じられるのは聖武天皇ですよ
>勅命に逆らえる訳ないですから、中衛大将である房前の
>内心を判断し得る史料とはなり得ません
と反論なさるんでしょうけど、「内心を判断できない」ん
だったら、房前が「勅命に逆らえず仕方なく」中衛府
出動を許可した、という証拠もありませんよね。
つまり、この時点で、あなたも私も同じく証明することが
不可能ってことになりますよね。
つまり、この問題に関しては結論が出ない、でよろしいでしょうか。
>>827
その考えには全面的に賛成です。
長屋は舎人や新田部親王から反感を
かってたと思う。
829: 2006/05/27(土) 19:10:33 AAS
>「内心を判断できない」んだったら、房前が「勅命に逆らえず仕方なく」
>中衛府出動を許可した、という証拠もありませんよね。
>つまり、この時点で、あなたも私も同じく証明することが
>不可能ってことになりますよね。
>つまり、この問題に関しては結論が出ない、でよろしいでしょうか。
上記の見解に同意致します
830: 2006/05/28(日) 01:53:56 AAS
>この時点で結論が出ない問題のようですから、その点は
>言及しないでないでおきました。
54歳説の最大の弱点は、676年生まれだと長屋王は29歳まで
無位でいたことになるが、それに対する合理的説明が出来ないこと
54歳説論者の中で、木本氏だけがその事を説明しようとしたけれど
木本説の最大の弱点は、天武朝や持統朝においても、皇族に対して
位階が授けられていた史実を見逃している点
皇族に対して位階を授ける制度が、大宝律令制定以降であったならば
木本説でも問題はないが、天武朝(685年)の位階制度改革で
天皇と皇后を除く成年皇族(皇太子も含む)は、位階を授かられる
対象者になったと言う史実がある
したがって、676年(54歳)説だと、持統朝で既に成年に達した長屋王が
位階を授からず無位でいた事の説明は不可能と言える
何故なら位階を持たなければ、宮中や太政官で活動する事が不可能であり
父である高市皇子が没した後、その後継者である長屋王が、宮中でも
太政官でも活動できない立場に置かれたまま、29歳まで歳を重ねた
と言うのは余りにも不合理であり、到底納得出来るモノではない
これが684年(46歳)説だと、704年に21歳(成年)に達した長屋王に
位階が授けられたと言う、非常に合理的な説明が可能になるのである
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