[過去ログ] 〜長屋王 Part1〜 (886レス)
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640: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/03/31(木) 20:43:14 AAS
孝謙天皇(715〜770)56才(聖武長女)×
孝謙天皇(718〜770)53才(聖武長女)○
641: 慶長410/04/02(土) 13:11:57 AAS
>>629
当時の参議・中納言から人選すると政治バランスに影響があったとか?
642: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 慶長410年,2005/04/02(土) 17:25:44 AAS
中納言の阿倍宿奈麻呂が長屋王が大納言に任じられた時
同じく大納言に昇進してるからそれはないでしょう

長屋王の参議・中納言を経ずの大納言任官は
義母である元明上皇の恩恵を受けたためと思われ

それに不比等も自分の娘を長屋王の妻にしていて
王に対して身内意識を持っていたと思われるから
この人事に不満はなかったと思われ

不比等の娘婿

文武天皇(宮子の夫)
左大臣長屋王(長娥子の夫)
聖武天皇(光明子の夫)
左大臣橘諸兄(多比能の夫)
従三位大伴古慈斐(名前不詳の夫)

古慈斐以外は天皇か台閣の首班だから、不比等の婚姻策は大成功
643: 慶長410年,2005/04/02(土) 18:50:07 AAS
むしろ、大伴古慈斐との婚姻の意義が知りたい(笑)。

そういえば、某小学館の少年漫画日本の歴史で長屋王が内心で不比等を「この成り上がり者めが」と呟くシーンがあるが今思うと違和感があるな。
644
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 慶長410年,2005/04/02(土) 21:22:07 AAS
古慈斐は大伴氏でも傍流だから、その点では不比等の判断ミスか?
大伴氏の本流は、長徳(右大臣)−安麻呂(大納言)−旅人(大納言)−家持(中納言)
645: 2005/04/03(日) 14:54:14 AAS
長屋王の台詞としては『この俗物めが』の方がいいな。
何にしても長屋王と不比等は互いに牽制し合ってはいたと思う。
邪魔者の不比等が死んでくれて内心ほっとしてたんじゃないのか、長屋王。
個人的には長屋王は、俗物の権化たる藤原家とは別の意味で俗物だったと思う。
だって皇室が政治を牛耳るようにしたかった人でしょ?
不比等も長屋王も結局はどっちも俗物だったと思う。似た者同士というか。
646: 2005/04/03(日) 19:16:32 AAS
え〜と、
宇宙皇子に出てた人?
647
(1): 2005/04/04(月) 12:56:02 AAS
>>644
古麻呂とか善男の方は傍流なんだ。
648
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/04(月) 14:06:51 AA×
>>647

649: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/04(月) 14:09:22 AAS
>>648
宿奈麻呂と子供×
宿奈麻呂の子供○
650: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/04(月) 14:13:09 AA×

651
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/04(月) 14:14:52 AAS
右大臣
大伴長徳

大納言
大伴馬来田
大伴御行
大伴安麻呂
大伴旅人

中納言
大伴牛養
大伴家持

参議
大伴道足
大伴兄麻呂
大伴駿河麻呂
大伴伯麻呂
大伴潔足

従三位
大伴古慈斐
大伴弟麻呂
652: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/04(月) 14:17:54 AAS
>>651
官位は公卿補任を参照
653
(2): 2005/04/04(月) 15:48:39 AAS
最終官位を列べたところで意味はないだろう。
古麻呂は、大納言・安麻呂の子孫であることは間違いなく、
時系的に旅人と家持の間で失脚する以前には、大弁官兼兵部卿として
文武両官僚のトップに立っていた彼は、大伴氏の長者的な位置にあり、
その時点では、まぎれもない本流。
654: 653 2005/04/04(月) 15:56:39 AAS
兵部卿は勘違い。鎮守将軍でした。
奈良麻呂とごっちゃになった...
655: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/04(月) 16:50:31 AAS
>>653
古麻呂が宿奈麻呂の子供という決定的な証拠が…
まあ宿奈麻呂の子供だと俺も思うけどね

それと最終官位の問題ではなく、佐保大納言家が大伴氏の本流
そして佐保大納言家の嫡流は、安麻呂の嫡男旅人、旅人の嫡男の家持
656: 2005/04/05(火) 01:22:25 AAS
氏長者は氏中の最高官位者がなるから、嫡流云々はあまり意味がない。
咋、長徳、御行、安麻呂、旅人、道足、牛養、兄麻呂、駿河麻呂、
古慈斐、伯麻呂、家持、潔足、乙麻呂、国道、善男、保平、みんな氏長者。
657: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/05(火) 02:27:36 AAS
家持の「族(やから)に喩(さと)す歌」には
佐保大納言家嫡流の義務と責任において
激発しようとする一族を抑えようとした苦悩が伺える

しかし家持の思いは通じずに、古麻呂は奈良麻呂と共謀し
仲麻呂の殺害と新天皇擁立を目指して失敗

失敗の結果として古麻呂は激しい拷問の末に死亡…
658: 2005/04/08(金) 18:02:18 AAS
長屋王と大伴氏との繋がりはやはり壬申の乱における高市皇子との縁なのかな?
659: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/08(金) 18:42:56 AAS
その通りだと思うけど、なぜ大伴氏が長屋王と姻戚関係を
結ばなかったのかが分からない

長屋王の妻は、吉備内親王、藤原長娥子、石川夫人、阿倍夫人

藤原不比等が自分の次女を長屋王の妻にしてること
石川氏(蘇我氏)や阿倍氏といった有力氏族が
長屋王と姻戚関係を結んでいるのと比較すると
大伴安麻呂は迂闊に思える

安麻呂には坂上郎女という有名な娘がいたのに
660: 2005/04/08(金) 18:58:09 AAS
稚い時点で、”高市皇子の嫁を寝取った男”穂積皇子とイイ仲で、
後には藤原麻呂とも関係をもったようだから、
長屋王の側に含むものがあったんだろうよ。
661: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/08(金) 19:51:34 AAS
確かに坂上郎女の最初の恋人は穂積親王だった
ご指摘の通り、穂積は高市皇子の妻だった但馬皇女と恋仲に
その穂積と恋仲だった坂上郎女では長屋王側が遠慮しそうw

坂上郎女の男性遍歴、穂積親王、藤原麻呂、そして結婚相手は
異母兄の大伴宿奈麻呂
662: 2005/04/12(火) 21:00:34 AAS
やはり壬申の乱の功臣の家系統の人たちの支持があったのかな?
663: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/12(火) 22:04:39 AAS
長屋王の父、高市皇子は壬申戦争の時、全軍の最高司令官を父から任された
大海人軍の若きカリスマ

壬申戦争の功臣たちにとって、高市皇子は特別な存在だろうから
その子である長屋王にも、大伴氏等の氏族は親近感を抱いていたと思われ

また壬申戦争の時、大海人軍に協力した美努王の孫である橘奈良麻呂が
高市皇子の孫の黄文王を、天皇に即位させようと三度に渡って画策したのも
壬申以来の、高市皇子系統と美努王系統の親密さを示していると思われます
664
(3): 2005/04/18(月) 21:24:42 AAS
長屋王って死後に具体的な名誉回復策が取られたんだっけ?
鈴鹿王の重用以外に…。
665: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 01:47:43 AAS
密告者の密告内容が誣告であったと、正史である続日本紀に記述された
これで歴史学的には長屋王は無実であった事が確定

また子孫の高階氏は藤原氏全盛の中で、中流貴族としてそれなりの
官位を授けられ続けた

面白いところでは、内大臣平重盛の母親が高階基章の娘
高市皇子&長屋王の血は平氏(小松家)にも伝わった
666: 2005/04/19(火) 12:23:49 AAS
続日本紀そのもの自体の編纂は桓武朝だろうw
667: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 18:14:06 AAS
>>664
長屋王の娘である円方女王の最終位階は正三位
768年1月に称徳天皇(聖武の娘)に授かられている

正三位は官位相当表によると大納言に相当するから
娘の栄達によって長屋王の名誉は充分に回復されている
668: 2005/04/19(火) 18:20:09 AAS
奈良そごう最強
669
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 19:02:32 AAS
>>664
長屋王の姉妹である竹野女王(高市皇子の娘)の最終位階は従二位
751年1月に孝謙天皇(聖武の娘)に授けられている

従二位は官位相当表によると右大臣に相当する
670
(2): 2005/04/19(火) 19:17:57 AAS
>>669
竹野女王は籐氏の誰かの嫁さんじゃなかったか?

それに、(贖罪ではなく)名誉回復とは当人になされたものを言うんじゃないのか?
しかも同時代には武智麻呂や房前には、バンバン贈位増官されてるんだぞ。
寡聞にして知りえないのだが、長屋王当人には何かあったか?
671: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 19:19:44 AAS
>>664
長屋王の姉である河内女王(高市皇子の娘)の最終位階は正三位
760年5月に淳仁天皇(舎人親王の子)に授けられる

正三位は官位相当表によると大納言に相当する
672: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 19:22:09 AAS
>>670
竹野女王は藤原武智麻呂の妻という説がある(角田文衛氏の説)
673
(1): 2005/04/19(火) 19:39:43 AAS
そもそも散位の三位(語呂が良い!)ってそんなに誉められたもんか?
674: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 19:48:51 AAS
>>670
長屋王の場合は、尋問中の自殺という事で(実際は殺害か?)
正式に罪が確定してない為に、官位(左大臣・正二位)が剥奪されてない

聖武天皇の729年2月13日の勅、同15日の詔でも、王の官位剥奪は
記されていない

その為に復官復位という形での、名誉回復は行なわれていない

因みに藤原仲麻呂の場合は、764年9月11日の孝謙上皇の勅によって
官位(大師正一位)と藤原の姓が剥奪されている
675
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 19:55:39 AAS
>>673
散位でも三位ならば公卿(公は大臣、卿は参議〜大納言)
四位でも参議なら同じく公卿
従って諸王・諸臣の中でも上流層
そして三位や参議になれない諸王・諸臣は幾らでも居た
676
(1): 2005/04/19(火) 20:01:46 AAS
贈一位太政大臣の籐氏兄弟と較べたら、特に死後に名を上げてはいないんだな。
677
(1): 2005/04/19(火) 20:06:22 AAS
>>675
官職は別の話だろ。
三位になれない諸王は幾らでもいたが、三位になれた諸王はそれほど少なかったのか?
678
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 20:12:41 AAS
>>677
三位に昇れた諸王は少なかった
続日本紀を読めば、その事が良く分かる
それどころか、諸王の中には成年に達しても
位階を授けられない無位の者まで居たくらいだ
679
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 20:17:26 AAS
>>676
確かに長屋王は、死後の贈位・贈官を受けてないから
正二位・左大臣が最終経歴

因みに藤原仲麻呂の最終経歴は無位・無官
680
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 21:05:59 AAS
三位以上の諸王(文武朝〜称徳朝)

長屋王 正二位(高市皇子の子)
葛城王(橘諸兄) 正一位(美努王の子)
鈴鹿王 従二位(高市皇子の子)
智努王(文室浄三) 従二位(長親王の子)
御原王 正三位(舎人親王の子)
栗栖王 従三位(長親王の子)
船王 従三位(舎人親王の子)
塩焼王(氷上塩焼) 従三位(新田部親王の子)
池王 従三位(舎人親王の子)
白壁王(光仁天皇) 正三位(志貴親王の子)
大市王(文室大市) 正ニ位(長親王の子)
山背王(藤原弟貞) 従三位(長屋王の子)
山村王 従三位(用明天皇の子孫)
和気王 従三位(御原王の子) 
河内女王 正三位(高市皇子の娘)
竹野女王 従二位(高市皇子の娘)
円方女王 正三位(長屋王の娘)
牟漏女王 正ニ位(美努王の娘)
粟田女王 正三位
681: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 21:18:29 AA×

682
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 21:19:24 AAS
諸王(文武朝〜聖武朝743年まで)(2)

酒部王 従四位下 ?才 磯城皇子の子(次男)
境部王 従四位下 ?才 穂積親王の子(次男)従四位上で没 25才
智努王 従四位下 25才 後の文室浄三 長親王の子(三男)従二位で没 78才
御原王 従四位下 ?才 舎人親王の子(長男)正三位で没
栗栖王  従四位下 42才 長親王の子(長男)従三位で没 77才
三嶋王  従四位下 ?才 舎人親王の子(次男)
春日王  従四位下 ?才 志貴親王の子(長男)正四位下で没
高田王 従四位下 ?才(出自不詳)
膳夫王 従四位下 ?才 長屋王の子(元明天皇の孫)
石川王 従四位下 ?才 長親王の子(四男)
船王  従四位下 ?才 舎人親王の子(三男)親王となりニ品で没
池辺王 従五位下 ?才 葛野王の子(大友皇子の孫)
塩焼王 従四位下 19才 後の氷上塩焼 新田部親王の子(長男)従三位で没 50才
長田王 従四位下 ?才 長親王の子(五男)
池王  従四位下 ?才 舎人親王の子(四男)親王となり三品で没
白壁王 従四位下 29才 志貴親王の子(六男)後の光仁天皇 没 73才
道祖王 従四位下 ?才 新田部親王の子(次男)後に皇太子→廃太子
安宿王 従五位下 ?才 長屋王の子(藤原不比等の孫)正四位下で没
黄文王 従五位下 ?才 長屋王の子(藤原不比等の孫)従四位上で没
大市王 従四位下 35才 後の文室大市 長親王の子(七男)正ニ位で没 77才
山背王 従四位下 ?才 後の藤原弟貞 長屋王の子(藤原不比等孫)従三位で没
奈良王 従四位下 ?才 長親王の子(六男)
守部王 従四位下 ?才 舎人親王の子(五男)
安都王 従四位下 ?才 長親王の子(八男)
御室王 従四位下 ?才(出自不詳)
683: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/19(火) 21:26:15 AAS
>>680
>>682
池王×
池田王○
684: 2005/04/20(水) 12:46:44 AAS
>>678
その代表格が大炊王ということでいいですか?
685
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/20(水) 15:36:01 AAS
大炊王は無位からいきなり皇太子になってそのまま即位だったね

位を授けられなかった二世王がいきなり皇太子
しかも大炊王と仲麻呂とは擬似的な親子関係にあった

これでは諸王・諸臣から不平・不満が出るのは当然です
藤原仲麻呂のやり方は強引すぎたし、その強引すぎる政治手法が
後ろ盾だった光明皇后の没後、仲麻呂とその一家が滅んだ原因でしょう
686
(1): 2005/04/20(水) 16:49:03 AAS
長屋門のスレかと思いおじゃましたが...
失礼する
687
(1): 2005/04/20(水) 17:43:29 AAS
>>686
つ ★★★門★★★ 2chスレ:history
688: 2005/04/20(水) 23:38:03 AAS
>687
かたじけない
689: 2005/04/23(土) 20:03:28 AAS
>>685
淳仁も孝謙とガチじゃなければ、島流しにならずにすんだのに…。
690
(2): 2005/04/25(月) 13:08:25 AAS
吉備内親王にも即位の目はあったんではないかと。
691
(1): 2005/04/25(月) 13:28:52 AAS
>>690
それはどうかな
692
(1): 2005/04/25(月) 15:59:15 AAS
聖武と安積が急死すればあり得たかもな…息子への中継ぎ役として。
693
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/25(月) 21:00:21 AAS
吉備内親王やその子の膳夫王は即位の可能性があったからこそ
長屋王と共に滅ぼされたと思われ

阿倍内親王即位の邪魔になる、安積親王、吉備内親王、膳夫王は
表向きは自殺・病死となっているけど、実際には殺害された可能性あり
694
(1): 2005/04/26(火) 00:07:28 AAS
天皇没後に皇后が践祚する場合を除くと、既婚者は無理だろう。
天皇の嫁には、皇后,妃,夫人等の肩書きがあるが、
天皇のダンナ(この場合、長屋)の場合は、その扱いが相当難儀なことになってしまう。

・・・敬宮さんどぉすんだろ...
695: 2005/04/26(火) 00:26:44 AAS
>>690-694
後世の例になりますが光仁天皇の場合が参考になるかと考えます。
光仁天皇と井上内親王(聖武天皇娘)の間の子・他戸親王は皇太子となっていますが
実際に即位したのは他戸親王の父である光仁天皇(天智天皇の孫・聖武との血縁関係は全くなし)でした。

長屋王の変が起こった神亀5年で
聖武があぼーん、安積親王も生まれなかったと仮定して
その時点で即位の可能性があるのは長屋王じゃなかったのでは無かろうかと。
その時点で長屋王があぼーんしてたら次に即位する可能性があるのは息子の膳夫王かと。

>>694
天皇家に婿養子に入ろうという怖いもの知らずの香具師がいるかどうかそれが問題だ
696
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/26(火) 01:28:02 AAS
北家の藤原永手が、右大臣吉備真備と対立しても白壁王の即位を
主張したのは、他戸親王(聖武天皇の孫)を皇位に就けたかったから

(吉備真備は、天武天皇の孫の文室浄三か大市を皇位に就けたかった)

式家の藤原百川も白壁王の即位を主張したけど、北家の永手と違って
こちらは山部親王(桓武天皇)を皇位に就けたかったから

そして左大臣藤原永手没後、井上皇后は廃后、他戸皇太子を廃太子で
百川の狙い通りに山部親王が立太子
697: 2005/04/26(火) 12:29:30 AAS
>>696
永手は他戸を付けたかったというより、天武―(中略)―聖武の血を受け継いだ最後の男系皇族である他戸を皇太子にしなければ、天武系天皇の統治という原則に支配された現在の朝廷の他のメンバーに対して白壁王即位の正統性を説得出来ないと思ったのでは?
698
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/26(火) 22:14:38 AAS
井上皇后の廃后と他戸皇太子の廃太子が、左大臣永手の没後で
あることを考えてみると、白壁王即位の正統性を台閣において
主張する為だけではなく、実際に他戸皇太子の即位を永手は
目指していたと思われます

そして左大臣永手が健在の内は、式家の百川は廃后や廃太子を画策できず
永手の死を待ってそれを実行したのだと思います
699: 2005/04/27(水) 20:08:26 AAS
>>698
では、永手がそこまでして他戸擁立に拘った理由は?
700: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/27(水) 22:55:17 AAS
草壁皇子と藤原不比等以来の信頼関係の継続
その点では永手は伝統派だと思われ

逆に山部親王の器量に賭けた百川は革新派だと思われ
701: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/27(水) 23:57:22 AAS
>長屋王の変が起こった神亀5年で
>聖武があぼーん、安積親王も生まれなかったと仮定して
>その時点で即位の可能性があるのは長屋王じゃなかったのでは無かろうかと。
>その時点で長屋王があぼーんしてたら次に即位する可能性があるのは息子の膳夫王かと。

安積親王が生まれていても、長屋王と吉備内親王そして吉備所生の
子供達が潰されましたから、長屋王家はよっぽどの脅威だったのでしょう

問題は、聖武天皇にとって脅威だったのか、藤原氏にとって脅威だったのか
天皇と藤原氏の両方にとって脅威だったのか?
702
(1): 2005/04/29(金) 17:26:01 AAS
>>679
今、「続日本紀と奈良朝の政変」(中西康裕、2002年、吉川弘文館)という本を読んでいるが、
763(天平宝字7)年の藤原弟貞(山背王)死去の記事の欄には「左大臣正二位長屋王子也」とあるのに対し、
その11年後の円方王女死去の記事の欄には「左大臣従一位長屋王之女也」という記載がある。
中西氏は円方王女死去記事に関しては諸本とも一致した記載がされている事から、この円方王女の記事自体は編纂当時からのもので、
単なる執筆者の誤りの可能性も完全には否定は出来ないが、光仁天皇が即位した宝亀年間前半に行われていた聖武以後の諸政変下で罪とされた人々の復位策の一環として長屋王の贈位が行われた可能性もあるとしている。
703: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 19:09:06 AAS
確かに「続日本紀」は、宝亀十年十二月二十三日条で
円方女王の父長屋王を、従一位左大臣と記述してますね

筆写された諸本が全て従一位左大臣で記述が統一されているのなら
編纂当時から従一位左大臣と記述された可能性は高いですね

そしてご指摘の通り、執筆者の誤りでなければ、光仁朝において
長屋王に対し、贈従一位という形で名誉回復が行なわれたのかも
704: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 19:16:52 AAS
密告は誣告と記述された上で
長屋王に贈従一位が為されていたとしたら
国史たる「続日本紀」において、長屋王の名誉は
完全に回復された事になります
705
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 19:53:43 AAS
>>702
質問です
中西康祐氏は長屋王の生年に関しては、676年説でしょうか?
それとも684年説でしょうか?
706
(1): 2005/04/29(金) 20:47:27 AAS
>>705
中西氏の著書はタイトル通り、あくまでも奈良時代に起こった諸事件に対する正史上の記述に関する研究なので、
あくまで「長屋王の変」なり「恵美押勝の乱」といった個々の事件における続日本紀の著作・編纂態度がメインであって長屋王個人の研究ではないので享年問題には触れられておりません。
(他の著作については分かりませんが…)
707: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/04/29(金) 22:12:05 AAS
>>706
お答え、ありがとうございました
708: 702=706 2005/05/03(火) 11:15:27 AAS
中西氏の本を完読しましたが、やはり長屋王の享年には触れていなかったですね。
ただ、初期の編者間でも長屋王に好意的(冤罪派)な淡海三船(「懐風藻」三船編者説を取るとして)と否定的(謀反派)な石川年足(祖父が長屋王の変シフトで昇進)の「長屋王」観のズレが事件に関するちぐはぐな表記を生んだのでは? と推測されています。

王と関係ないところで面白かったのは、
・和気清麻呂の事件で最初に出てきた宇佐八幡のお告げは実は「新都(由義宮)創設」の事が主で皇位継承(道鏡への)については触れられていなかった。
 逆に清麻呂と前後して藤原楓麻呂が左遷となったいることから、むしろ清麻呂が藤原氏の意を受けて聖武の血を引く唯一の皇族籍男子となった「他戸王立太子」のお告げを持ってきたというのが事件の真相ではないかと推測。
(清麻呂は光仁天皇即位後に復帰はしたものの藤原永手の死、他戸廃太子とともに再び地方国司に任命されている。逆に道鏡一派に皇位を狙う気があるとすれば光仁即位後に流罪では済まされないのではないか?)
・「不改常典」を前天皇の遺詔に基づく皇位継承とし、その原点を死の床の天智が大海人に皇位継承を要請した事を拡大解釈したことに由来するとするとしている。
 ただし、天智の本音は当時の皇室のには不文律の慣習(中西氏はこれを皇族は20歳以上で初めて政治に参加可能となり、30歳以上で初めて即位の資格を得るとするものだとする)があり、事実上の皇太子である大友にはまだ即位の資格がなかったための緊急措置だとしている。
 (逆にこの不文律に配慮して、草壁皇太子の即位を30歳まで延期しようとしたところ早世してしまった)
 後に道祖王廃太子によって聖武の遺詔が無視されたことによって、「不改常典」の権威が失墜して後に死語化した。
709: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 11:58:12 AAS
淡海三船が長屋王冤罪派で、石川年足が謀反派ですか

・三船の曽祖父である、大友皇子殺した大海人軍の
最高司令官高市皇子は長屋王の父であること

・長屋王は石川氏から妻を娶り桑田王(長屋王の変で自殺)が
生まれたこと

上記の理由から、私などは三船が長屋王謀反派で、石川氏が
冤罪派だと思っていました
710: 702=706(年齢問題は無視するとしても) 2005/05/03(火) 13:28:57 AAS
中西氏も「懐風藻」を淡海三船を編者とする通説が本当ならばという条件をつけています。
「懐風藻」には長屋王の詩が3首、同王の主催した宴席で詠まれた詩が計20首含まれているなど、長屋王とその文学集団に好意的な編纂がされているのではないかとされています。
711: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 15:21:07 AAS
三船冤罪派を否定した訳ではありません
そういう見方もあるのかと思っただけです
712: 2005/05/03(火) 17:08:44 AAS
そういう見方もあるのかっていうか、『懐風藻』は長屋王寄りだというのが通説だと思うんだが
だから上の方での『懐風藻』の信憑性議論が噛み合ってなかったのでは
713
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 18:06:01 AAS
「懐風藻」が大友皇子、大津皇子、葛野王よりだとは思うけど
長屋王よりだとは思えませんが・・・

その理由は、大友皇子、大津皇子、葛野王には伝記が付されて
いるけれど、長屋王の伝記が記載されてないためです

それに長屋王の詩は三首だけど、藤原不比等五首、房前三首
宇合六首、麻呂は五首、藤原親子・兄弟で合計十九首

しかも不比等は贈正一位太政大臣、房前は贈正一位左大臣と
記載されているところを見ると、むしろ藤原氏よりにさえ思えます
714: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 18:17:04 AAS
>『懐風藻』の信憑性議論

私は同一の事柄に関する記述では、単一史料の記述より
複数史料の記述の方に、より信憑性があると認識しております
715: 2005/05/03(火) 19:12:08 AAS
>>713
上の議論の堂々巡りになるとは言え、「54歳」とする例の享年が書かれていること自体は長屋王も「懐風藻」ではかなり厚遇されているのでは?
(54歳があっているかどうかという議論とは全く別の次元で)
716: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 19:23:56 AAS
懐風藻に享年が記述されている人

大友皇子(25才)

大津皇子(24才)

川嶋皇子(35才)

葛野王(37才)

紀麻呂(47才)

大神高市麻呂(50才)

石川石足(63才)

藤原不比等(63才)

大伴旅人(67才)

長屋王(54才)

阿倍広庭(74才)

藤原房前(57才)

藤原宇合(44才)
717: 2005/05/03(火) 19:39:39 AAS
64人中13人の中に入っているなら十分厚遇されてない?
718: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 20:10:51 AAS
でも長屋王より藤原氏の方が厚遇されていると思われ
特に贈位が記述されている、不比等と房前の二人は優遇されている
719: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 20:19:07 AAS
ただ「懐風藻」の編纂者が、藤原武智麻呂だけ無視している点は興味深い
藤原不比等、房前、宇合、麻呂の詩が記載されているのに
武智麻呂の詩だけは「懐風藻」に記載されていない

「藤原武智麻呂伝」『藤氏家伝』によると、武智麻呂は漢詩に長けている
らしいから、懐風藻の編纂者が、何ゆえ武智麻呂の詩を記載しなかったのか
その理由には関心があります
720: 2005/05/03(火) 20:30:15 AAS
些細な疑問なのだが、「没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg」さんって個人? それともユニット?
721: 2005/05/03(火) 20:43:32 AAS
「藤原氏」と「長屋王」の双方に親しいものがいても問題あるまい
どちらか一方にしか属してはいけないという法はないし
そんなに政情は単純なもんじゃないでしょ
722: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/03(火) 20:58:03 AAS
長屋王の姉妹(高市皇子の娘)、竹野女王は藤原武智麻呂の妻(角田文衛説)
藤原武智麻呂の妹(不比等の娘)、長娥子は長屋王の妻

長屋王家と藤原氏自体姻戚関係にあるから
その両者と親しい者が居ても不自然ではないわな
723: 2005/05/10(火) 21:50:39 AAS
一説には長屋王の出世の影に不比等がいたとも言うし…。
724: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/11(水) 14:26:10 AAS
長屋王と藤原長娥子
藤原武智麻呂と竹野女王

二重に婚姻関係にあった高市系統と藤原氏だから
不比等生存中の両者は良好な関係にあったと思われ

だから大山誠一氏が主張する、元正天皇の即位は長屋王が
聖武天皇の即位(不比等の外戚化)を遅らせるために行なった
という仮説には同意出来ません
永井路子氏もほぼ同意見の持ち主だけど、こちらは長屋王ではなく
元明天皇主導説

文武天皇は15才で即位したのに、聖武が15才で即位しなかった事から
生まれた仮説だろうけど、肝心の藤原不比等と長屋王の対立が
史料から見出せない点が、この説の最大の弱点
725: 2005/05/13(金) 16:46:05 AAS
個人的な考えだが、現役の議政官(不比等)を外祖父に持つ天皇の即位が好ましくなかったからじゃないの?
726
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/13(金) 22:08:56 AAS
藤原氏が外戚となる事に反発した、氏族の存在を否定は出来ないけど
具体的にそれを証明することは難しいなぁ
727: 2005/05/13(金) 22:33:30 AAS
長屋王はヤギを飼い、チーズを食していた。

光村図書版 小学生の国語の教科書(上)
728
(2): 2005/05/14(土) 08:49:08 AAS
元明と元正は親子じゃないの?
729: 2005/05/14(土) 12:00:39 AAS
>>728
何をそんな当たり前のことを

なにかあったん?
730
(1): 2005/05/14(土) 18:56:59 AAS
>>728
元明の皇太子は孫の首皇子(後の聖武天皇)

>>726
律令制以後で即位時に外祖父が健在のまま天皇に即位したのって清和天皇が最初だろう。
清和天皇の時代にはもう外祖父の良房が頂点まで極めていたから反対のしようがないけど、不比等の時はまだ藤原氏そのものが3代目(中継ぎとしての意美麻呂を含めて)なのだから、
元明退位時点で聖武が即位したら、諸豪族は黙っていないだろう。
(現に太政官の最上位を占める議政官は本来一氏一名なのに不比等は既にそれをぶっ壊しているわけなのだから…)
731: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/14(土) 22:32:23 AAS
>>730
首皇太子ではなく、氷高内親王が即位したことに対する
解釈としては、それが一番説得力を持つ解釈だと思われます
732: 2005/05/18(水) 18:54:31 AAS
age
733: 2005/05/22(日) 23:58:27 AAS
保守
734: 2005/05/23(月) 12:46:04 AAS
平和になったな
735
(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/24(火) 00:36:23 AAS
長屋王の没年齢問題は、突き詰めれば史料批判の問題

同時代性の優位を重んじて、単一史料の記述を信用するか?
(懐風藻)

一つの事象に関して、複数の史料の同一記述の方を
信用するか?の問題
(公卿補任、扶桑略記、尊卑分脈、帝王編年記、一代要記)

俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に
信用を置いている
736: 2005/05/28(土) 22:24:59 AAS
なんとなく、長屋王と源高明って似てないか?
737: 2005/05/28(土) 22:38:29 AAS
いや、顔見たことないからわからんけど。
長屋王って高明の娘婿だっけ?
同じ左大臣の娘でも父親が謀反起こしたのと起こしてないのでは随分差が出るんだね。
娘がかわいそう。ってか親父の政敵の息子の妾にされちゃうなんて。
738
(1): 2005/05/28(土) 23:14:07 AAS
釣りにしてもエライ大胆だなぁオイ
長屋王の変:729年(まだ源氏なんていないよぅ)
安和の変:969年

長屋王は草壁皇子と元明女帝の娘婿。
高明の娘婿は道長じゃないか?
739: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/29(日) 14:37:03 AAS
>>738
ご指摘とおり高明の娘、明子は道長の妻だね
そして高明の外孫の頼宗は右大臣にまで昇進した
740
(1): 2005/05/30(月) 12:50:33 AAS
最大の共通点
長屋王…藤原不比等の娘婿
源高明…藤原師輔の娘婿
そして、義父の死後にその息子たちと対立して失脚したわけだが…。
741: 2005/05/30(月) 12:52:01 AAS
ついでに言えば、長屋王は天武天皇の孫で高明は醍醐天皇の皇子。
742: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/30(月) 13:31:21 AAS
源高明の息子俊賢と、藤原兼家の息子道長は懇意な関係
源高明の孫隆国と、藤原兼家の孫頼通は懇意な関係

親同士は政敵、子や孫同士は友好
743
(1): 2005/05/30(月) 13:46:27 AAS
>>740
義父の死というよりも、
元正女帝の影響力低下や村上帝崩御の影響の方が大きいのでは?
744: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/30(月) 20:15:45 AAS
>>743
源高明にとっては、村上天皇の死ともう一つ、皇后藤原安子の死も
打撃だった

安子皇后は高明の娘婿である、為平(安子皇后の子でもある)親王を
寵愛していたから、安子皇后が存命だったら、冷泉(為平親王の同母兄)
の皇太弟には、守平(為平親王の同母弟)親王じゃなくて、為平親王に
なったと思われ
745: 2005/06/05(日) 23:20:40 AAS
age
746: 2005/06/20(月) 06:45:47 AAS
すると、藤原氏は、ある時期までは、長屋王を親藤原系として優遇ってことかな?

いつごろ、どういう理由で、排斥することに方針転換したのでしょう?
747: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/06/20(月) 10:54:53 AAS
光明子所生の基親王の死亡と安積親王の誕生が、長屋王と藤原四子との
対立の原因と思われます
聖武天皇に安積親王がいる以上、光明子所生の阿部内親王の立太子を
台閣の首班、左大臣長屋王が反対する可能性が極めて高いでしょうから
748: 2005/07/03(日) 14:47:36 AAS
ふうん
749
(1): 2005/07/12(火) 23:30:07 AAS
>>735
>俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に信用
継体系譜に関して言えば、複数史料の同一記述(愚管抄・神皇正統記)は無視、
ほぼ同時代と思われる単一史料の記述(上宮記逸文)の方のみ信用されてるけど。
後代の史料は、当時の歴史観や社会観に基いていくらでも改変があり得るんで。
750: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/13(水) 13:14:16 AAS
父、高市皇子の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに43才
子、長屋王の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに46才

父である、高市皇子の没年齢43才に異論を挟む学者は殆どいない
高市皇子(654〜696)は、古代史学会の定説
つまり高市皇子に関しては、公卿補任、尊父分脈、扶桑略記の
史料価値は非常に高いことになる

それが一転して、高市皇子の子である長屋王の没年齢に関しては
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いから信用できないと
言われても、正直言って困ります

同一史料群に対して、親に関しては史料価値が高く、子に関しては
史料価値が低いと言い出す方は、まともなテキストクリティークを
学んだとは到底思えません
751: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/13(水) 13:30:11 AAS
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いと
断定されている方なら、当然高市皇子の没年齢は不詳ですよね

まあ大山や寺崎氏などは、高市皇子の没年齢に関しては
無批判に公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の記述を
信用してるようですが(笑い)

また青木氏は、舎人親王の没年齢に関しては、これまた
無批判に公卿補任の没年齢記述を信用しています

長屋王の没年齢54才派の学者達は、同一史料に対する
ダブルスタンダート(二重基準)を、確たる根拠を示さずに
平気で行なっている点に特徴があると言えます
752: 2005/07/15(金) 01:09:15 AAS
「異論を挟む学者は殆どいない」から「史料価値は非常に高い」? 
これぞ史料の妄信。「異論を挟まない」のは、43歳説が書紀の兄弟順序と
照合して無理なく説明できる上、これ以外に妥当な説が見出されないから、
議論はお預け状態。(654?〜696)としている辞典も見かけるが、これは
良心的な立場と評価出来る。「正直言って困ります」、これはお前の勝手w

同時代史料と異なり、中世に入ってから複数の文献に基づいて編纂された史料を
全く均質な同一史料と見なすこと自体、まともなテキストクリティークではない。
実証的な史料分析の上で、信用すべき箇所も、信用できない箇所もあると考える。
無批判な態度にも問題はあるが、補任が一説として36歳説を掲げていることからも
分かる通り、この類の史料においてダブルスタンダードはむしろ肯定されるべき。
753: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:03:03 AAS
公卿補任は中世の史料ではありません、その編纂は平安時代初期から
始まっています

土田直鎮氏が「公卿補任の成立」(国史学65号)において公卿補任は
弘仁ニ年に撰述された歴運記を元にして編纂されたと立証されています
(歴運記自体は、今日ほとんど散逸している)

つまり公卿補任は平安時代初期に歴運記を元に編纂された以上
歴運記に、高市皇子の没年齢は43才と記述されており、長屋王の
没年齢は46才と記述されていた蓋然性が著しく高い

大体「懐風藻」の記述を金科玉条のように信用し
公卿補任を中世の史料だと誤認している“お前に”
テキストクリティークを語る資格なぞないw
754: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:21:22 AAS
だいたい長屋王の没年齢に関して「懐風藻」の記述が正しいのなら
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」が
「懐風藻」の没年齢を採用しないこと自体不自然極まりない

今日残っている史料で、長屋王の没年齢を54才と記述している
史料は「懐風藻」以外に存在しないことから見ても
懐風藻の間違いは明白
755: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:41:20 AAS
序に言えば、天武・持統朝の位階制度において
成人に達した有力皇族が無位のまま置かれる事はあり得ない

懐風藻の没年齢記述だと、長屋王は29才まで無位であった事になるが
そんな事を本気で信じている学者は、天武・持統朝における
位階制度を、まるでご存知ないのかと疑ってしまいますよw
756: 2005/07/15(金) 20:08:32 AAS
>中世の史料
確かにこれは私の注意不足であった。しかし、話の趣旨からして、それほど
こだわる問題ではなかろう? ダブルスタンダードの立場に変わりは無い。

>懐風藻の間違いは明白
明白といえる根拠を提示せよ。これが説明できないと話にならない。
私は懐風藻を「金科玉条のように信用し」ているつもりはない。
ただ、46歳説よりはいくぶんの信拠がおけるだろうと考えている。

>「懐風藻」の没年齢を採用しない
公卿補任や分脈はしばしば複数説をあげて、ダブルスタンダードの立場を
取っていながら、54歳説を採用していないのはなぜか。それは、懐風藻を
見ていなかったからに他ならない。>>749の場合、釈日本紀に系譜が引用
されていながら、宣長が指摘するまで世にほとんど知られていなかった。

>成人に達した有力皇族
文武しか頭に無い持統の目が黒いうちは、高市皇子ならともかく、
長屋王は有力皇族の範囲になかったのだ。しかも、大宝令施行後
初めての叙位で、21歳の長屋王(文武より年下)に正四位上直叙と
いう例外が許されたかどうか。父母の血統のみでは説明しにくい。
757: 2005/07/15(金) 20:26:03 AAS
何度同じ話くり返してんだ過去ログ嫁
758: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 21:10:34 AAS
俺も同じ事を言いたい、まずは過去ログを読めと

君の問いは既に何度も、このスレで話題になっているモノだから
過去ログを読めは俺自身の回答も載っている

あと敢えて答えるが、天武・持統朝においては皇太子である草壁皇子も
位階を帯びている
つまり天皇と皇后以外は、例え皇子であっても、位階を天皇から与えられ
宮中序列の中に組み入れられる存在

したがって長屋王も成人に達していたら、持統天皇から位階を与えられ
宮中序列の中に組み入れられたはず

しかし長屋王は正四位上を、初叙されるまで無位であった以上
持統朝において既に成人に達していたはずがない
759: 2005/07/31(日) 16:52:02 AAS
しかし考謙(称徳)で天武系が切れてしまった事は皮肉な事ですよね・・・
あんなに天武系の血を守るために努力した、持統と元明の事を
考えるとなお更。天上の虹と長屋王残照記を見て感情移入して
しまいました。
760: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/01(月) 08:35:02 AAS
正直に言って持統と元明は、天武というより草壁の血統を
皇統に残したかったと思われます

本命は草壁―文武―聖武のラインでしょうが、スペアとして
草壁―吉備―膳夫ラインに、特に元明は期待していたようです

律令の原則は男系主義ですから、膳夫王は三世王ですが
元明は自分の孫だからと言う理由で、わざわざ勅を発して
膳夫王を含む吉備所生の王を、皇孫(二世王)に格上げしています
ですから膳夫王の初叙は皇孫として従四位下を授けられています
(本来なら膳夫王は三世王だから、初叙は従五位下なので、位階を
四階も超越した高待遇を受けている)

皇孫なら文武天皇と同じ立場ですから、天皇へ即位する可能性も
あります

長屋王は自身が天智・天武の二世王でありながら、息子の膳夫王も
二世王になったので、事実上の親王待遇となり、木簡にも長屋親王と
記述されるようになったと推測されます

なお、長屋王が21才で初叙された時に、令に規定では従四位下を
授けられるはずが、規定を三階超越して正四位上を授けられたのは
父である高市皇子が太政大臣で、位階は文武の父である草壁皇太子と
同格であったこと、母である御名部皇女が元明の同母姉であったこと
妻の吉備内親王が、草壁皇太子&元明の皇女だったこと等
当時において、最も恵まれた血縁関係のおかげであったと思われます
761
(1): 2005/08/01(月) 08:51:42 AAS
では吉備は天皇の娘扱いだったのでしょうか?本来天武の皇孫扱いの元正が、天皇の娘(内親王)扱いされたのも、元正の妹である吉備と同じ理由でしょうか?
762: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/01(月) 09:09:23 AAS
>>761
元正にとっては弟、吉備にとっては兄の珂瑠王が即位して天皇になった時に
氷高女王と吉備女王はそれぞれ皇女(内親王)に格上げされたのです

自分の兄弟・姉妹が天皇に即位すれば、他の兄弟・姉妹も親王や
内親王になれるのです

そういう事は他には、淳仁天皇の兄弟や、光仁天皇の兄弟・姉妹が
親王、内親王になった例を上げることが出来ます
763: 2005/08/21(日) 16:05:17 AAS
そもそも文武が即位された時点でで草壁に天皇号が追贈されていませんでしたか?
764: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/21(日) 17:23:03 AAS
草壁皇太子は、天平宝字二年(758)8月9日の、淳仁天皇の勅によって
「岡宮御宇天皇」という尊号が追贈されました

(「続日本紀」天平宝字二年八月九日条)参照
765: 2005/09/05(月) 14:01:46 AA×

766
(1): 2005/09/05(月) 21:26:23 AAS
長屋王殿下の大河化キボンヌ。
末裔はいるの?
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スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.271s*