[過去ログ] 沖縄の海を台湾に割譲し、河野談話の未来永劫の不変を表明し、移民の大量受け入れを検討している安倍? (1002レス)
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93
(1): 2019/03/16(土) 17:41:27.13 ID:tHOh9cRw(2/3)調 AAS
>>66-67 >>91
月刊正論2019年4月号
特集 移民国家の?危機?
日本の自死
暴走するリベラリズム
文芸批評家  浜崎洋介
外部リンク:seiron-sankei.com

 が、おそらく、より根が深いのは、後者の西洋啓蒙思想の方だろう。つまり、「普遍的人権」、「寛容」、「多様性」を
無際限に拡大しようとしてきた西洋的リベラリズムの無理と、それが欧州に齎した〈実存的な疲れ=ニヒリズム〉の
問題である。
 マレー自身は示唆する程度にとどめているが、リベラリズムの起源の一つに、個人の「信仰の自由」(人権)を守ろうと
するプロテスタンティズム(特に、17世紀に登場する洗礼主義などのピューリタニズム)の伝統があることは間違いない。
事実、「リベラル」(liberal)という言葉が、その政治的意味を帯び始めるのは、「新プロテスタンティズム」(エルンスト・
トレルチ)が登場してくる17世紀以降のことだが、それは基本的に、共同体(カトリック・国家)による「信仰の強制」から、
個人の「信仰の自由」を守ろうとする政治的文脈で語られはじめていたのである。思想家のアイザイア・バーリンの言葉
を借りれば、つまり、初期のリベラリズムは、「〜からの自由(消極的自由)」の擁護者として現れていたのだということだ。
 しかし、それなら、この「リベラリズム」を加速していった先に、一つの「虚無」が待ち受けているのは必然だろう。
はじめ「共同体」からの自由を唱えていたリベラリズムは(17世紀)、次第に「伝統」からの自由を唱え始め(18世紀)、
ついには、「信仰」そのものからの自由を語りはじめるのである(19世紀)。しかし、「信仰のための自由」が「信仰からの
自由」に反転してしまえば、私たちが、その「自由」を使って守るべき価値(信仰)を見失ってしまうことは当然だろう。
後に残るのは、「価値判断は誤りであるという価値判断」、あるいは一切の確信を失った「実存的ニヒリズム」(マレー)
でしかない。

(続く)
94
(1): 2019/03/16(土) 17:42:10.48 ID:tHOh9cRw(3/3)調 AAS
>>93 (続き)

 しかし、だとすれば、自己を見失った欧州が、移民を説得し、彼らを文化的に同化するなどということができるはずも
なかろう。

 けれども、それが本当だとしたら、「歴史的罪悪感」を引きずり、「リベラリズム」に寄り掛かりながら移民に門戸を開いた
日本が、緩慢な「自死」の道を歩いていないという保証はどこにもないと言うべきである。そして、さらに絶望的なことは、
この移民政策を押し留めるどころか、推し進めているのが、ほかならぬ保守派の安倍政権であるという事実である。
 にもかかわらず、この国の「保守論壇」は、未だに〈共産主義へのシンパ=左翼〉対〈資本主義陣営(アメリカ)の理解者
=保守〉とでも言うような時代遅れの「冷戦脳」を引きずったまま、どうでもいいLGBT批判や反朝日キャンペーンにうつつ
を抜かし、その一方で、種子や水道や労働規制といった社会的資本や労働規制といった社会的共通資本やその制度を
「交換」〈カネ〉に晒そうとしている安倍政権の過激なネオ・リベラリズム政策(新自由主義政策)に眼を瞑り続けているの
である。
 とすれば、この国の守るべき価値を見失っているのは、「リベラル」はもちろん(それはもはや敵でさえない)、「保守」も
例外ではないと言うべきだろう。党派性に開き直るならともかく、取り返しのつかない形で、〈この国のあり方=私たちの
生き方〉を変革しようとしている人間を支持する保守派の心性が私には分からない。いずれにしても、「日本の自死」が
決定的になる前に、何としてもこの蛮行を止めなければならない。
 さもなければ、今度こそ本当に、「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、
富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」(三島由紀夫)。ただし、今、私たちの目の前に
ある日本は、もはや「富裕」でも「経済大国」でもなくなっていることは言っておかなくてはならないが。
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