[過去ログ] 【ネタバレ】ラーゼフォン多元変奏曲 第2楽章 (831レス)
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(1): 映画冒頭 03/06/12 21:51 ID:??? AAS
「不思議なる国を彷徨い、長き日を夢見て暮らすつかの間の夏は果てるまで。 金色の夕
映えの中どこまでもたゆたい行かん。人の世は夢にあらずや」
 二学期の終業式の後。
 夕日に紅く染まった教室の窓際で、寄り添う二つの影があった。
 美嶋遙は、そっと『鏡の国のアリス』の表紙を閉じた。
 ため息をつくように囁く。
「来年には、この校舎も取り壊されちゃうんだね」
「うん」
 隣の少年、神名綾人は静かに頷いた。
「ちょっと寂しいかな」
 遙は、少年の横顔をそっと窺う。
 彼と一緒に過ごした日々が、数々の思い出が蘇った。
「でもね、あたし思うんだ。後輩クン達には悪いけど、神名君との思い出の場所が、二度
と誰の目にも触れないようになっちゃうのも、ちょっとイイかな、なんて……」
 最後のあたりでは、さすがに気恥ずかしくなってしまって、言葉が途切れて消えてゆく。
 また馬鹿なことを言ってしまった。
 呆れられてしまったかもしれない……。
 と、左手が暖かくなったのを感じる。
 綾人が右手を重ねていた。
「美嶋……」
 ゆっくりと綾人の顔が近づいてくる。
 吐息が感じられるほど近くに。
 胸が、高鳴った。
「神名……くん……」
 囁き返しながら、遙はそっと目を閉じた。
619: 映画冒頭 03/06/12 21:52 ID:??? AAS
 二人の唇が触れ合おうとした瞬間。
 急に遥が顔をそむけ、綾人の胸を押しやった。
『え? な、なんだ?』
 いい雰囲気だったのに、どうして。
 混乱し動揺する綾人をちらりと見ると、
『もう、鈍感なんだから!』
 遙はまた顔を背けて、教室の入り口を指差した。拗ねているような表情。
 不審げに綾人が後ろを振り返り、教室の戸口で凍り付いている人影に気付いた。暗がり
の中だったが、ほっそりした体と外にハネた髪型で、それが誰だか分かった。
 綾人の幼馴染の、朝比奈浩子だった。
「朝比奈……?」
 その声で、凍っていた浩子の時間が動き始めた。
「あ、あたし、なんにも見て無いから!」
 震える声で、慌てて取り繕う。
 傷つき絶望したその表情を。
 思わず綾人は一歩踏み出し……わずかな抵抗を感じた。
 相変わらずむこうを向いたままの遙の左手が、綾人の右手の袖口を摘んでいた。
 あたしの傍にいて。
 滅多に我儘を言わない遙の、無言のメッセージだった。
620: 映画冒頭 03/06/12 21:52 ID:??? AAS
「美嶋……」
 綾人はそのほんの少しの抵抗を振り払うことができない。
 黙って、俯いたままで、それでも綾人の右腕を繋ぎとめる遙の手。
 浩子の手の中で、小さな封筒が握り締められた。
『神名綾人くんへ』
 そう宛名の書かれた封筒だったが、もう渡せなかった。
 彼には好きなひとがいる。自分ではない、誰かが。
 その予感は思い過ごしにすぎない、そう信じ続けて、今日ようやく手紙を渡す決心をし
てきたのに。毎日鞄に入れて歩き、けれど決して渡すことができなかった手紙を。
 これ以上、自分を騙し続けることは出来なかった。
 少女の思いのたけを綴られたその便箋は、二度と人目に触れることは無いだろう。
「あたし、誰にも言わないから」
 浩子の顔がくしゃりと歪んだ。
「……ごめん」
 逃げるように駆けてゆく浩子の足音は、すぐに夕闇に溶けて消えてしまった。
 綾人は影を縫いとめられたように、その場を動けない。
「朝比奈……」
 遙は、まだ綾人の袖をつなぎとめたままだった。
621: 映画冒頭 03/06/12 21:53 ID:??? AAS
 夕焼けの中、線路沿いをとぼとぼと歩く。
 寒かったが、遙はコートから右手を出して歩いた。
 綾人と手を繋いで歩きたかったが、勇気が無くて出来なかった。誰かに見られてしまう
かもしれなかったし、こんなに寒いのに手のひらが汗ばんでしまったりしたら、恥ずかし
い。ほんのちょっとの、勇気が出ない。
 だから、綾人の左手と、小指だけを触れ合って歩いた。
 そのほんの少しの面積が、綾人と遙を繋いでいる全てだった。
 とうとう遙は、沈黙に耐え切れなくなった。
「……怒ってる?」
 綾人はとぼけた。
「何を?」
「……さっきのこと……」
「怒ってない」
「やっぱり、怒ってる」
「怒ってないってば」
 嘘だと思った。
 絶対怒っている。朝比奈さんを傷つけたことを。
 神名くんを止めたあたしのことを。
 朝比奈さんを追いかけられなかった自分のことを。
 当たり前だ。神名くんは、あたしと知り合うずっと前から朝比奈さんと知り合いなんだ
から。
 大事な友達なんだから。
 ひょっとしたら、友達よりも大切な……。
 嫌だった。そんなことを考えたくはない。
 遙は一人落ち込んだ。
622: 映画冒頭 03/06/12 21:53 ID:??? AAS
 綾人は、右手をコートのポケットから取り出すと、息を吹きかけた。
「寒い?」
「……寒くない」
 ほら、また嘘ついた。寒くないはずないのに。
 なんだか泣きたくなった。
「ごめんね。プレゼント、間に合わなくって……。あたし、どんくさくって」
「いいよ」
 本当は、クリスマスプレゼントにするはずだった、編みかけの手袋を思う。
 何度も失敗して、ほぐしては編み直し、ほぐしては編み直し……。
 まるで、いつまで経ってもなかなか縮まらない、綾人と遙の間の距離みたいだ。そんな
ことを考える。と、突然綾人が立ち止まって振り返った。
 小指が離れて、不安になる。
 遙も立ち止まる。
「み、美嶋、あのさ……」
 綾人の表情が強張っていた。
「今日、これからっ、俺の家、こ、来ないか……。その、母さん遅くなるって、言ってた、
し……」
 びっくりした。
 遥が綾人の家に誘われるのは初めてだった。
 なんとなく、人を家に呼びたがらない様子を感じ取って、自分から遊びに行きたいとは
言い出せなかったのだ。綾人が男友達の誰も家に連れて行ったことが無いのを、遙は知っ
ている。家を、あるいは家庭を見せるのを躊躇っているのだと思っていた。
 その綾人が遙を誘ってくれた。舞い上がるほどに嬉しかった。
 轟音を上げて西武線の車輌が通り過ぎるのを背景に、遙はぶんぶん頭を振って、一生懸
命頷いた。
623: 映画冒頭 03/06/12 21:54 ID:??? AAS
「そう、年末は名古屋に行かれるの……」
 綾人の母親、神名麻弥と遥の間で話が(一見)弾んでいた。
 その横で、綾人は思い切り仏頂面をしてむくれている。
 まかさ、先に母親が帰宅しているとは思わなかった。いつも仕事で遅いくせに、どうし
て今日に限って、と天を呪った。
「そう。それがいいわ」
 微笑む麻弥に合わせて、遙もにっこり微笑み、相槌を打った。
 噛み合うようで、微妙に噛み合わない会話だった。
 遙は、正直言って苦手な人物だと思ったが、なにせ相手は神名綾人の母親である。失礼
な真似をするわけにはいかなかった。
 時計を見た綾人が、不機嫌そうな表情のまま立ち上がった。
「それじゃあ母さん、俺、美嶋のこと送ってくるから」
 その声に、慌てて遙も立ち上がる。
「あ、いけない。すいません、こんな遅くまでお邪魔しちゃって」
 椅子の背から鞄とコートを取り上げながら、ぺこりと頭を下げる。
 綾人の後を追って部屋を出てゆく遙を、麻弥が呼び止めた。
「……遙ちゃん?」
「は、はい?」
 びくりと身を震わせて立ち止まる。
624: 映画冒頭 03/06/12 21:55 ID:??? AAS
 麻弥には手に取るように分かる。鈍い綾人は気付いていないが、遙はまるで小鳥のよう
に怯え、緊張しきっていた。その証拠に、用意した紅茶もケーキも、一口も口をつけてい
ない。
 別に、萎縮させようとしたわけではないのだ。息子が初めて連れて来たガールフレンド
をいびって喜ぶような、心の狭い母親では無いつもりだった。
 だから言った。
「遙ちゃん、これからも綾人のことよろしくね」
 みるみる遙の顔がほころんだ。
「は……はい! はい!」
 何度も何度も頭を下げる遙を、麻弥は小さく手を振って見送った。
 それは別れの挨拶だった。遙も、綾人も気付きはしないだろうが。
 遙の姿が消えると、右手は力なく垂れ、テーブルの上に落ちた。
 麻弥の表情が翳る。
 残酷なことを言ってしまったという自覚があった。
 目の前の少女が不憫で、つい心にも無いことを言ってしまった。
 またひとつ、罪を重ねた。
 希望など与えないほうが良かったのだ。
 二人の未来には、小さな、しかし確実な悲劇が待っているのだから。
 その引き金を引くのは、他でも無いこの自分なのだから……。
625: 劇場版導入部 03/06/12 21:55 ID:??? AAS
「ここでいいよ。ありがとう、送ってくれて」
「今日はごめんな、まさかあんなに早く帰ってくると思わなくてさ」
 綾人はそう言って遙に詫びた。下心が無かったわけではない。
 抱き合って、キスをして……その先を求めていないわけではない。
 でも、今日は。あと少しだけ、二人きりで過ごしたかった。
 他愛無い世間話ができるだけで良かったのだ。
 明日からはもう、年が明けるまで会うことはできない。
 その空白を埋めておきたかっただけだったのだ。それなのに。
「……うちの母さん。変な人だったろう」
 遙は、大慌てで否定した。
「そんなことない。お母さんは関係ないよ」
 また言い方を間違えた。つくづく、自分は馬鹿だと思う。
 これでは、神名くんの母親を変な人だと認めているようなものだ。
 確かに少し変わっているかもしれない。
 でも、ちゃんと話せば、もっともっと理解できる。
 仲良くなれる。そう思った。
 それに、たとえお母さんがどんな人であろうと、あたしの神名くんに対する思いは変わ
らない。だから神名くんは、お母さんのことでも、他のどんなことでも、あたしに引け目
を感じたりする必要は無いのだ。大事なもの、あたしが好きなものは、神名くんの心の内
側にあるのだから。
626: 劇場版導入部 03/06/12 21:56 ID:??? AAS
 なのに、いつも自分は、本当に言いたいことが上手く伝えられない。
「お母さんは関係ない」
 違う違う、そうじゃなくて。
「神名くんは……神名くんだよ」
 最後は尻つぼみになってしまう。
 こんなんじゃ、伝えられない。わたしの気持ちが伝わらない。
 本当に言いたいことは、こんなことじゃない。
 伝えたい気持ちは他にあるのだ。どうして自分は、こんなに不器用なのだろう。
 でも。
 神名くんは……笑っていた。
 たぶん、言いたいことは100分の1も伝わっていない。
 でも、伝わるとか、理解するとかは、そんなに大事なことではないのかもしれない。
 そう遙は思った。
 綾人の笑顔を見れば、それで安心できた。
 どちらからともなく手を差し出して、指先同士が絡まった。
 冷え切った体の中で、そこだけが暖かかった。
 言葉が無くとも、こうして微笑みあっていることができれば、それだけで良いと感じら
れた。
「いつ帰ってくるんだ?」
 綾人が言った。
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(1): 劇場版導入部 03/06/12 21:56 ID:??? AAS
「え?」
「お正月」
「ああ……三日」
「じゃあ、四日に行こうぜ」
 どこへ? 何だか思考が止まっている。
「初詣。二人で」
 二人で初詣。
 じわじわと喜びがこみ上げてきた。
 東京に戻ってきたら、二人っきりで、一日ゆっくり過ごすのだ。
「うん。……うん!」
 こくこくと、遙は熱心に頷いた。
 たとえ今日、二人で過ごした時間がほんのわずかしか無かったとしても、悔やむ必要は
無いのだ。まだ中学生でしかない二人の未来には無限の時間があるのだから。
 来年は受験を控えて忙しくなるだろう。その前に、うんとたくさん思い出を作るのだ。
 誰だって、好き合う二人を邪魔することなんて出来ない。
 と、眼前をひらりと白いものが舞い降りた。
 二人で空を見上げる。
「わぁ……」
 しんしんと音も無く。
 無数の氷のかけらが夜の東京を舞い降りる。
 この冬最初の雪が降り始めたのだった。

 そして遙は東京を後にし、東京がジュピター現象に覆われるのを目撃した。
 二人の世界は、未来は。
 その瞬間、分かたれたのだ。
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