[過去ログ] 明清帝国 第三 (1002レス)
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1: 2019/05/03(金)20:05 ID:0(1/970) AAS
(前スレ)

明清帝国
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明清帝国 二
2chスレ:whis
2
(1): 2019/05/05(日)23:23 ID:0(2/970) AAS
明清帝国の再来か

わたしは、中国が従来の20世紀型帝国主義的政策に加えて、近年ますます前近代の明清帝国的ふるまいが露骨になってきたと感じる。
2017年第19回中国共産党大会で、習近平総書記は「新時代の中国の特色ある社会主義の偉大な勝利」「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」を強調し、
しまいに「中国は世界舞台の中心に近づきつつある」と宣言した。舞台の中心で中国は何をしようというのか。

2013年習総書記が提唱した「一帯一路(大陸と海洋のシルクロード)」構想は、中国主導のアジア共同体を企図したものである。
中国は潤沢な財政を背景に東南アジアに多額の投資を行っているが、スリランカが借款の返済不能に陥ると、中国は港湾施設の99年にわたる管理・運営権を手中にした。
パキスタン、モルディブなども中国からの多額の借款返済に苦しんでいる。これを見ると「一帯一路」は明清帝国の冊封体制の再来かと疑う。
3: 2019/05/14(火)09:09 ID:0(3/970) AAS
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        / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′||    やはり朕が登場せぬと、ここは活性化せぬな。
省5
4: 2019/05/14(火)09:23 ID:0(4/970) AAS
        ,r'´               `ヽ
          /                  !
       /    ,.'"´  ̄ ̄  ̄ ̄ ̄``ヽ、 i!
       /l   ,r'´              ゙, ,|
     /:/  ,イ                 ! !  大元ウルスこそ至高。
     l/  /:;;   ,f三''≡=、   ,r=≡ミ、 jリ  朱元璋め、時代を後戻りさせおって。
    /  / ト、      ⌒ヽ   r'⌒    |
   ,/  / /゙i |   ーゝtェァ )  j;,.tェァ‐  .|    フビライ大ハーン
   /  /;;i (,ソ       ̄`    ´ ̄    !
  ,/  /;;;;;ヽ ^ヽ        i    ト、     ト、
省8
5: 2019/05/14(火)09:36 ID:0(5/970) AAS
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 |---.、   ,、-――    ゙;;;r'"ー 、',  余がもう少し長生きじゃったら、
 ',,,,,,,,_ ',  ,' ._,,,,,,,,,,__,、 -  リ r ノ.ノ l   日の本の足台にしてくれたものを。
. l┴'‐' i  ; '┴'‐''", ' "´ ;  ^r'ノ                  秀吉
. |、, ,ノ.l  ' - ,.,.,.、- "  / ' -' j 
  ゙、ゝ、l   、     /   't‐"
省7
6: 2019/05/14(火)12:32 ID:0(6/970) AAS
>>2
どうせなら借款じゃなくて中国が自腹切って
出来上がったインフラ設備はプレゼントするぐらいすればいいのに
借金漬けにするから恨まれる
7: 2019/05/17(金)15:21 ID:0(7/970) AAS
最初のスレってこれじゃないの?

明清帝国
2chスレ:whis
8: 2019/06/12(水)12:53 ID:0(8/970) AAS
日本と明の貿易(日明貿易)は、「勘合」という割符(ビザのようなもの)を持っていないと明の港に入ることはできませんでした。
「日本国王」は、この勘合を明の皇帝から独占的にもらうことができます。
つまり、事実上この明銭の輸入については室町幕府が統制していたわけです。

ちなみに、勘合は一度に100枚くらいもらえます。
それを誰に配るかは、将軍が決めていました。
西日本の大名や商人は、将軍から勘合をもらえれば明に貿易船を派遣して莫大な利益を得られるので、
あのレームダック状態の中でも将軍に対しては比較的好意的だったのです。
義満が得てくれた「日本国王」の称号が、首の皮一枚で幕府の命脈を繋いでいた…とも言えますね。
9: 2019/06/13(木)06:49 ID:0(9/970) AAS
明代は社会変動の激しい時代であった。

経済の急速な発展に伴い、さまざまな問題も出てきた。その中で、最も著しい問題は「奢侈」という問題である。

明代中期の1436年(正統年間)、江南地域でこの問題が浮かび上がり、明中後期の嘉靖(嘉靖元年1522年)年間以降、奢侈の風気が強まった。
万暦(万暦元年1573)以後徐々に他の地域にも広まった。つまり、江南地域は他の地域より60、70年ほど早かったのである。
10: 2019/06/13(木)06:51 ID:0(10/970) AAS
「衣」は明初期に素朴だったが、明中後期になると、経済の飛躍的な発展にともない、江南地域の人々は高級な衣料品を求め始めた。
夏は薄絹、紗、絽など高級的な絹織物を愛用し、冬は狐、貂などの高価な毛皮を着ていた。綿、麻などは全く眼中になかった。
材料の上品さだけではなく、衣服のスタイルもよくなった。「時世装」、つまり流行ファションという言葉も出現した。

「食」の奢侈傾向は宴会に現れた。明初期には食材にこだわらず、種類も量も少なかった。しかし、明中後期になると、ツバメの巣、フカヒレなどもよく食卓に上った。
主人や客は演劇を見ながら、珍味をあじわい、美食を乗せる器にもこだわった。

「住」では庭園の例をあげたい。明朝は私人庭園が非常に盛んであった。今日、景勝地となっている蘇州の拙政園、上海の豫園などは明朝の傑作である。
拙政園は明嘉靖年間に王献臣という役人が造り、豫園は同じ嘉靖年間に潘允端という役人が父親のために18年を費やして造営した。
明初期には、役人が庭園を造営することは禁止されていたが、明中期になって、社会経済の発展によって生活が豊かになり、個人造園ブームが沸き起こったのである。

「行」、つまり交通では、明朝の高級な交通手段は「轎」と「画舫」であった。もともと、轎に乗れたのは高級官吏だけであったが、明中期以降、轎の使用は一般にも普及した。
下級官吏だけではなく、一般庶民も使った。「画舫」は華麗な装飾がある屋形船である。当時の役人は通勤・旅行の手段として購入した。
11: 2019/06/13(木)06:53 ID:0(11/970) AAS
明中後期の奢侈の特徴は三点にまとめられる。

まず、奢侈の範囲は以前の時代より広かった。以前には高級官吏、貴族、大金持ちなどの上層社会の人々に限られていたが、明中期以降は中下層の市民にも浸透した。
奢侈の風気は町から郊外に侵入し、身分がある家庭から一般的な市民へ、そして農民にまで広まった。

次に、明中期以降、奢侈品は一般的な日常生活用品になった。例えば、明初期にぜいたく品であった綿ネル、葛布、眼鏡、磁器などは明後期に至って誰でも買える商品になった。
理由はいうまでもなく、価格が安くなったからである。商品経済の発展により、手工業製品、贅沢品などの需用が急増し、手工業者が増える一方で、工房も多くなった。

最後に、奢侈は身分の格差を縮めた。庶民は官僚、命婦、士大夫の服飾をまね、娼妓までも轎と画舫に乗るようになった。
12: 2019/06/14(金)07:47 ID:0(12/970) AAS
明朝はその後期に大きな社会変化があった。商業経済は大幅に発展し、階級社会は崩れはじめ、資本主義の萌芽が現れた。
人々の生活への追求は物質面での満足から精神面に移っていった。それにともない、様々な問題も出てきた。
奢侈の風気がますます激しくなり、人間関係は金銭が中心となった。しかも、詐欺やごまかしは社会潮流になったといえる。

もし、清朝に敗北しなかったら、明朝はその後どうなっただろうかとよく言われる。しかし、歴史は仮定できないことである。
明朝は滅亡の運命から逃れられなかったのである。明のたどった運命は現代の社会風気を戒めていると言えよう。
13: 2019/06/14(金)07:50 ID:0(13/970) AAS
現代の中国は「拝金思想」とよく言われる。
金銭に対する中国人の執着ぶりにはビックリさせられる。
超エコノミック・アニマルだ。

これが、改革解放以降の高度経済成長によるものと思っている人が多いのだが、そうではない。

これは、明の後期の経済発展から始まった傾向だ。
14: 2019/06/14(金)08:00 ID:0(14/970) AAS
中国にとって、ここ30年間は、2度目の高度経済成長だ

1度目を、明の後期に経験している
15: 2019/06/14(金)08:27 ID:0(15/970) AAS
清になると、人口が爆発的に増加して貧民が増える
それ以上に、西欧列強の急発展により、相対的に影が薄くなる

政治や軍事はともかく、経済については、明の後期が中国史上の最盛期
16: 2019/06/15(土)12:37 ID:0(16/970) AAS
1644年、李自成は40万の兵で北京を陥落させました。明王朝の崇禎帝は宮殿の裏山に逃げ、そこで死んでしまいます。明王朝の滅亡です。

ここに呉三桂(ご・さんけい)という男がいます。
明の将軍で、祖国防衛のため山海関で清軍と対峙していました。
そこへ北京陥落と皇帝の死が伝えられます。

おそらくほぼ同時であったでしょう。呉三桂は李自成からの書状を受取るのです。
新王朝の将軍に任命するから引き続き山海関を守り、清の侵入を防げ、と。
そして目の前の敵である清軍からも書状が届き、『明は滅びたから、今後は清に仕えよ』 といわれるのです。

呉三桂は迷います。
主君を殺した李自成の家臣になるか、昨日までの敵であった清に味方するか、それとも、あくまで明の忠臣であるべきか・・・・
結局呉三桂は清に味方し、清軍の先頭に立って北京に進撃を開始するのです。
省5
17: 2019/06/30(日)12:31 ID:0(17/970) AAS
明の時代には、満州族・モンゴル族に向き合う漢族駐留軍への商品需要が高かったのですが、満州が版図に入ったことで駐在兵が大幅に減り、対中国北部貿易はシュリンク。

その代わり、清朝の領土拡大政策に伴って満州・チベット・新疆ウイグル・ロシアとの市場が拡大。

これら北方新市場は主に、内陸の山西商人と陝西商人がリードしていくことになります。
18: 2019/06/30(日)12:32 ID:0(18/970) AAS
最大のお客さまだった北中国の駐屯軍との交易は衰退しましたが、

長江流域の内需が拡大した影響で、徽州商人はさらなる飛躍を遂げることになります。

大きな影響を与えたのが新大陸からもたらされたサツマイモとトウモロコシ。

コメやムギの栽培が難しい山間部や貧しい土壌でもたくましく成長するため、これまで人があまり住むことができなかった四川盆地などの長江上流域にも人が大量に移り住むようになります。

それは塩や綿、茶など、生活必需品のマーケットが長江上流域にまで拡大したことになり、さらには奥地の林産品を長江下流域に運んで売りさばくことにもつながったのでした。
19: 2019/06/30(日)12:33 ID:0(19/970) AAS
徽州商人の中でも有力な商人は、清朝政府と結びつき特権商人として権勢を振るいました。
その中でも有力な商人は「総商」と称され、政府への専売税を一括で請負い、その上前をはねて莫大な利益を上げました。準国営企業みたいなもんですね。
彼らは塩の値段を自由に操作して転売して「利ざや」を稼いだり、商人団の初期資金を投資したりと、現在の銀行や証券会社のような存在となっていきます。

揚州はそのような大資本家となった商人たちの豪華な住宅街が連なり、またオフィス街や歓楽街も作られ大変な賑わいとなりました。

乾隆年間(1736〜1795年)は清朝の文化の最盛期と言われており、この時期には塩商人たちはこぞって文化事業にカネを費やしました。
豪華絢爛な庭園、派手で綺羅びやかな劇団、美食の限りを尽くした揚州料理。
さらに、清朝を代表する学者たちのパトロンも大抵は揚州の塩商人でした。
20: 2019/06/30(日)12:35 ID:0(20/970) AAS
18世紀末に徽州商人は繁栄のピークを迎えます。
内需は引き続き拡大し続けたのに加え、欧米で茶のブームが起き輸出量が急拡大。
広州での欧米との貿易は莫大な銀の流入をもたらし、中国は好景気に沸きました。

一方イギリスでは産業革命により、安価な綿布の製造が可能になっていました。
安価なイギリス産綿布に押されてインドの綿織物産業は壊滅。
次にイギリスは対中国貿易赤字を解消すべく、インドでアヘンを製造し中国に輸出し始めます。
アヘンの毒にはまった中国人の懐から次々と銀が流出。 深刻なデフレに陥ってしまいます。

インド産の安い綿花の流入や、イギリス製の機械を導入した近代的な紡績・綿布工場が各地に作られ、伝統的な江南デルタの綿布工業は衰退。
さらに塩の独占販売が禁止されたことで、国内物流は一気にシュリンクします。

さらに1851年から発生した太平天国の乱は、主に長江下流域を舞台にしたため、財産や人命に多大な被害が出ます。
省1
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