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無差別級

90闇夜の鮟鱇★:2011/08/03(水) 11:10:18 ID:???0
  ●●●血みどろの明日香●●●(2/2)

それから、これはもう大分前になりますが、第11回の時に、
平城京の大通りを歌った旋頭歌を取り上げていましたね。
旋頭歌というのは577・577という形式の和歌で、
短歌に比べると7文字多いことになります。
  うちひさす 宮路に逢ひし 人妻故に
  玉の緒の 思ひ乱れて 寝る夜しぞ多き

気になったのは、これをナンパの歌と解釈し、
大阪の引っかけ橋まで引き合いに出していたことです。
つまり『この歌の作者は、都大路で出会った女性に声を掛け、
話をした結果、彼女が人妻と知った』みたいな解釈ですね。
ならば、平城京の時代に既に自由恋愛があったということになりますが、
いくらなんでも、それは少し無茶な解釈のように思われました。

というのも、次の平安時代になると、女は男の前には、
一切、顔をさらさなくなるわけですからね。
例えば、清少納言などは、自分の部下の不手際により、
男たちに自分の姿を見られた時、ひどく憤慨していますからね。
その意味で、平安時代の恋というのは、実際の姿に恋をするというより、
『どこそこの娘は美人だそうだ』という噂に恋する時代だった分けですね。


源氏物語にしても、男が女の姿を直接目にするのは、
ごくごく稀な偶然に過ぎないわけでしょ!?
例えば、突然の風が吹いたり、飼い猫が紐を引っ張ったりして、
御簾(みす)がめくれあがる場合に過ぎない分けですからね。
そこから逆に考えると、平城京のあの歌が出来た経緯にしても、
決して『人妻に直接、声を掛けた』なんていうことではなくて、
大通りで輿(こし)か何かに乗った人妻を偶然、見かけたんでしょうね。

恐らく当時は、まだ女の側のガードが甘く、平安時代のようには、
男の目から完全に隔離されては、いなかったのではないでしょうか。
色々調べてみると、奈良時代にはまだ牛車は無かったようですから、
その点でも男の目には触れやすかったのかもしれません。
当時の移動手段は、貴人の場合は人が担ぐ輿に乗ったようですが、
後は驢馬に横座りで乗るか、歩くかするしかなかったみたいです。

その場合、その女性が人妻であるかどうかということは多分、
その服装や化粧の様子から、十分に分かったのではないでしょうか。
でも、こうして見初めた人妻に男がちょっかいを出すトラブルが続発し、
そうしたことがひとつの切っ掛けとなって、次の平安時代には、
女が完全に姿を隠すようになったのではないか、という気がします。


何と言っても、いわゆる自由恋愛なんていうものは、
近代日本でも戦後になってからのことですからね。
大昔にそれがあったというのは考えにくいでしょうね。
その場合、ならば以前に私が引用した柿本人麻呂の歌などは、
一体どう解釈するのか、ということになるかもしれません。
  http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1162001315.html#4
  恋するに 死にするものに あらませば
  我が身は千たび 死にかへらまし

一つの問題としては、田舎と都会との落差がありますね。
多分、田舎で泥まみれで働く農民の場合は、まだ直接、
声を掛けるチャンスもあったのではないでしょうか。
でも、都会で洗練された暮らしをするようになると、
そういったチャンスは、どんどん減っていくような気がします。

ただ……田舎には大した美人はいないでしょうし、人麻呂の相手が、
そうした農民たちだったと考えるのは、やはり難しいでしょうね。
実は、彼が活躍した時期は、ほぼ持統朝と重なりますから、
或いは、そうした女帝の時代には、宮廷周辺で女漁りをすることも、
案外、許されていたと考えるべきなのかもしれませんね。(^^;)


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